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七月七日 早朝
梅雨明けも終わり、いよいよ本格的な夏が迫ってくるそんな時候。
夏を代表するあの虫もまだ目覚めてはいないようで、鳥の囀りや風の吹く音がほんの少し部屋に入り込む程度の静かな朝。
布団で眠る珠紀の寝顔は穏やかで、枕元で丸まっているオサキ狐もすうすうと寝息を立てている。
その尻尾がパタンと動いた拍子に珠紀の瞼が動いた。
「……んん」
しかし朝のまどろみには勝てず、寝返りを打って珠紀は再び眠りについた。
先程までの深い睡眠ではなく楽しむような浅い睡眠の中、珠紀は木々のざわめきを聞く。
柔らかいこの音に何度寝坊したことか。
(あさ……そうだ、天気!)
覚醒してからは早かった。布団から跳ね起きた珠紀は飛びつくように窓辺に向かった。
「ニーーー!!」
珠紀の勢いで枕から落ちたオサキ狐が不満の声を漏らす。
「ごめん、おーちゃん」
謝りながらも窓を開け放つと、外の音がより鮮明に室内に注ぎ込んできた。
生き物の活動する音はどれも不規則なのに調和が取れていて、むっとするような酸素の匂いはわずかに残っていた眠気を爽やかに掻き消してくれる。
「よかった、いいお天気」
見上げた空の青さに、珠紀は静かに微笑んだ。
――話は昨日の夕方にまで遡る。
七月六日の帰り道、いつも通りみんなで帰ったときのことだ。
「ったく、買い出しに行くならもっと早くに言えよな」
拓磨のぼやきが聞こえ、珠紀はくるりと振り返った。
「仕方ないでしょ!祐一先輩、急に帰ってこれることになったんだもん」
久し振りに守護者全員が揃う。そう思うと嬉しくて仕方なくてさっきから頬が緩みっぱなしだ。
いつも通りの帰り道、というのは語弊があったかもしれない。正確にいえば家に帰って、また外に出てからの帰り道なのだから。
家に帰った珠紀がただいまの挨拶をすると、美鶴が待ち構えていたかのような表情で祐一がこの村に帰ってくると知らせてくれたのだ。しかも明日。七月七日七夕に。
「ですから宴会を開きたいのですが、食材がそこまで揃ってなくて……。
恐れ入りますが食材の買い出しをお願いしてもよろしいでしょうか?」
だから急遽、夕飯の準備をしていた美鶴に替わって、珠紀は食材調達をすることになったのだ。すでに自宅に帰ろうとしていた拓磨たちも巻き添えにして。
「後ろから思いっきり引っ張りやがって……」
まだ痛むのか拓磨は喉を押さえている。
帰っていくみんなを引き留めようと、珠紀が制服の襟を思いっきり掴んで引き留めたため、身長の関係上、拓磨は首を思いっきり下に引っ張られたのだ。
咳込みながらもすかさず珠紀の頭に拳骨を落としたのは言うまでもない。
「ごめんってば。拓磨だって殴ったんだからおあいこでしょ?」
「俺は手加減した。お前はお構いなしだっただろうが」
「っはん、情けないこと言ってねえでさっさと運んだらどうだ。その筋肉は張りぼてか赤頭」
遼が挑発すると拓磨は即座に臨戦態勢に入り、
「なんだと? お前のほうが持ってる数が少ねえじゃねえか。俺より多く持ってから言えよ、灰色頭」
「お前の目は節穴か。こっちには飲み物が入ってんだよ重さは倍だ」
「そんなにあるかよ!」
いつもの二人の口喧嘩。珠紀は前に向き直すと隣を歩く慎司に話しかけた。
「豆腐や水菜も買ったし、明日は鍋かな」
「でしょうね。真弘先輩がまた張り切っちゃいそうです」
後ろでは二人がまだ言い争っているけれど、割りこんでいいことは一つもない。
巻き込まれないように放っておいて、周囲に実害が芽生えそうならその時止めればいいのだ。
「じゃあ白黒つけようじゃねえか。どちらのほうが力があるか」
「ほう、俺に喧嘩売る気か? 頭にカビが生えたか筋肉馬鹿」
バチバチと火花を飛び散らしながら睨み合う二人。一瞬の沈黙の後――
「珠紀、荷物を寄越せ。俺が持つ」
「慎司、荷物を渡せ。俺が持つ」
ほぼ同時に二人は珠紀たちの荷物を取り上げ、そして全速力で走り出した。
「ちょっと! 遼、拓磨!」
「先についたほうが勝ちでいいな!」
「上等だ、赤頭!」
「吠え面掻くなよ、灰色頭あああ!!」
珠紀の叫び声は二人の怒号に掻き消され、二人ともあっという間に姿が見えなくなった。さながら竜巻のような勢いで、あっけに取られながら珠紀は伸ばしていた腕を下ろす。
「もう、あの二人はいつもああなんだから」
「大丈夫ですよ、珠紀先輩」
慎司は小さな袋を掲げ、
「卵とか割れやすいものはすべてこの袋に入れてますから」
「……アハハ」
慎司もこの半年足らずで随分と強くなったものだ。珠紀は笑いながらも感心した。
拓磨と遼が駆け抜けていった道を、今度は慎司と珠紀がゆっくりと歩いていく。
やっと商店街の入り口まで戻ってくると、そこに飾られていた大きな笹が目に入った。
「わあ大きい!見て、もう願い事が吊るされてる」
来た時には急いでいて気付かなかったそれに近づき、珠紀は感嘆の声を漏らす。
七夕は明日だというのに、笹には短冊がいくつも吊るされていた。願い事は誰が書いてもいいようで、近くには短冊が置かれたテーブルがある。
「懐かしいな。小学生の頃とかよく短冊に願い事書いてたんだ」
クレヨンでぐりぐりと願い事を書いていたことを思い出し珠紀は微笑むが、慎司の表情は硬い。笹を見上げる寂しげな表情に珠紀は戸惑う。
「慎司君……?」
風が吹く。立ち止まった二人の間に、穏やかな風が吹き込んだ。
「僕、一回だけ―― 一回だけこの村で七夕をしたことがあるんです」
再び歩き出した慎司がぽつぽつと言葉を紡ぎ始める。まるで風に誘われたように。
「その時は真弘先輩に教わって短冊を書いて。願い事がぜんぜん思い浮かばなくて困ったことも覚えています」
幼少期の慎司を珠紀は知らない。大人しくて泣き虫で、いつも美鶴の後ろに隠れていたという人伝の言葉でしか。
「それで、なんて書いたの?」
「……“大きくなりたい”でした」
慎司は照れたように笑い、
「願い事が書けなくなってからも、ずっと。大きくなりたいって思ってました。
大きくなって、いつかここに帰れることを願って」
――慎司は少年期を狗神の社で過ごしている。
守護者としての能力が芽生えるまでの修業、そんな終わりの見えない日々で慎司はひたすら願ったのだ。
“大きくなりたい”
それは体だけでなく、慎司そのもの、人としての大きさのことで。そうすればこの村に戻れると信じて。
幼い慎司が願っていたのは、今こうして他愛なく過ごしている時間そのものだった。
「……願い事は叶ったよね?」
「え?」
「だって慎司君がそんなに願ったんだもん。絶対叶ってるよね?」
そう言って珠紀は慎司に笑いかける。
――そうであって欲しい。
出会ったころと比べても慎司の成長は著しいものがあった。だから、その成長に見合うだけの日々を過ごしていると信じたい。
そんな珠紀の気持ちが伝わったのか慎司も優しく微笑み返す。
「……はい、叶いました。やっと」
「そうだ!」
余韻を壊すように声を張った珠紀に慎司はびくっと体を揺らす。
「どうしたんですか?」
「明日、七夕しようよ。先輩も帰ってくるんだし、みんなで一緒に! きっとすっごく楽しいよ」
珠紀の提案に慎司はぱちくりと目を瞬かせていたが、目の色が見る間に明るくなっていく。
「いいですね、やりましょう!」
「じゃあ、卓さんの家に寄ってこう、明日のこと考えなくちゃ!」
言うや否や珠紀はすぐに走り出した。この素晴らしい思いつきが消えてしまう前に伝えなくてはと。
そして立ち止まり――
「慎司君、置いてくよー!」
「待ってください先輩!」
子供のように大声を上げる珠紀に目を細め慎司も走り出す。二人の去った後を涼やかな風が駆け抜けていき、幾多の笹の葉をさらさらと揺らした。