其処は、彼女が知る天井裏の物置ではなかった。屋根には月が見える程の穴が空き、天頂から月光が差し込む部屋は常に暗いはずの部屋を薄明るく照らしていた。更に年月による埃が衝撃により立ち昇り、なんとも言いようのない天然の迷彩効果が発生している。埃と月光の中、ぼんやりと見える人影は体格からして確実に男であると凛は即座に見て取った。大凡の彼我の距離を測定し、即座に魔術を練り上げる。一足で詰められる距離ではないが、油断はできない。先ず以って、一人暮らしの年頃の少女の家に突如現れた見知らぬ男である、警戒するのが一般的にも当たり前の行動であろう。それが己で招き入れたかもしれぬものであっても例外ではない。但し、一般的な年頃の少女は魔術を練り上げなどしないし、ましてや一撃で相手を葬る算段を組み立てる事も無いだろうが。
穴から射し込む光と埃による光の反射は、瓦礫や雑多なガラクタとそこに埋まる男をある種の宗教的絵画の様に見せていた。時が違えば、場所が違えば、凛もそれを破滅の美と称する余裕も有っただろう。簡単に言えば、代々の遠坂の屋敷の屋根に穴が開いておらず、序でに一世一代の儀式が滞り無く行われた場合の話であればと言いかえてもいいだろう。だからと言って、普段以上に無駄に強力な
ともあれ、未だ埋まったままの男を凛は油断無く観察する。最も目に付くのは──大きな、大きな体躯だ。今でこそガラクタに埋まった状態だが、立てば190cmはあるだろう。黒いマントの下に隠れてはいるが、そこから一部覗く筋肉の隆起は、そのうねりと内包する密度だけで嫌と言うほどの存在感を発揮している。正しく歴戦の勇士と言う言葉を体現している、と断言出来てしまう程に言葉以上に雄弁な説得力があったのだ。大蛇のような太い首に、荒野の様な広い肩幅は戦士と言う存在の有るべき姿の結晶を此処に体現している。
だが、何故だろうか。力強いという印象と同時に、朽ち果てたイメージも重なって見える気がしてならない。遠目には豪壮な軍艦だが近場でよく見れば、座礁して長い年月が経過し、竜骨も痛み切っている──そんな致命的な深さにダメージが蓄積され、疲労困憊の様にも見える。
「……!」
半歩、それが凛が部屋へと踏み込んだ歩数である。ざわりと風が蠢いたと感じた瞬間、気付いた時には既に首元に短剣が当てられていた。タイミングを計り、行使の瞬間を今かと待ち続けていた魔術を嘲笑うかのような速度。詠唱の簡略さと、内に含む威力の大きさには一家言持っていると密かに自負していた彼女の自信を、僅かにでも揺るがすには充分な『挨拶』だったと言える。何しろ相手が本気なら、とっくの昔に首は身体と永久に離別していたのだ。これが挨拶と言わず、何なのだろうか。魔術を行使しようとする彼女の速度を超えた、発声も行使する意思の速度をすらも超えた一撃──つまりはそれだけの多様な解釈と意味を含んだ貴重な学習機会だったと言えようか。その事実を確りと胸中に抱き、首元に刃を置かれていようとそれでも彼女は慌てない。まだ
もし、埋れている男が紅い外套を纏った男であれば。
もし、埋れている男が捻じれた性格の皮肉屋であれば。
もし、埋れている男が彼女を貶しつつも何処かで彼女を尊重するような言動を取る存在であれば。
彼女も何か己でも判らぬ安心感を得て、
この状況は、かなり凛にとって予定外且つ問題外だった。向こうから距離を詰めてきた分、曖昧だったラインははっきりと己とこの男の存在に同期しているのを嫌でも確認出来た。予定外なのは儀式の一部失敗から今に至るまで、問題外もまた然りである。魔法円内に召喚されていればさっさと契約を終えていたであろうし、こんな初期段階で命を天秤に掛ける事も無かっただろう。これから行う事が最終的には殺し合いだとは言え、参加表明するためだけに死んでいては本末転倒甚だしい。
「く……は……っ?!」
せめて背後の男の表情を見て取るだけでも、何しないよりはマシか。刹那の思考が脳内を過ぎり、ちらり、と目を向けただけの筈だった。吹き抜ける凶風の如き殺気に当てられた凛の口から圧し殺した吐息が押し出される。瞳孔が拡いた殺意に満ち満ちた左眼に、隻眼であろうか開かない右眼。あ、私いま死んだ──胸中に浮いたのはこの一言のみ。その事実が、凛にとっての真実を最も正確に表していたのに違いない。そうして見ると、漏れでる声を最小限に抑え得たのは彼女ならではの功績と言える。即ち魔術師としての基礎項目であり最重要でもある、自己の精神制御という所業を相当の次元で修めているという事に他ならない。並みの魔術師ならば、発狂
しかし、幾ら何でも初対面の人間に対する態度ではないし、凡そ英霊と呼ばれる英雄が取る所業では無いだろう。聖杯からある程度の知識は鋳型式で魂に刷り込まれる仕様になっている以上、状況に混乱した結果とも考えられない。其処まで考えて、ふと脳裏に過ぎった最悪の結論に凛は内心青くなった。まさか自分こそ引いてはいけない物を引き当ててしまったのか。思考すら捨てて闘争本能にのみ特化した考えられる限り最も手の施しようの無い最悪のクラス、狂戦士を。
「此処は何処だ、奴は──何処に行った」
王者の纏う威風の様に殺気を纏う男の第一声は、差し詰め一言一言が致死の呪いに匹敵しそうな怨嗟の塊だった。膨れ上がり過ぎて飽和しているかの様な殺意の前に辛うじて意識できたのは、彼女に向けて放たれたものでは無いからだろうか。短刀を突きつけられているのは凛であるが、その殺気は全く別のモノへ向けられているのが分かる。凛に向かって叩きつけられているのは、其処から漏れ出たほんの余剰に過ぎないのだろう。だからこそ声を出す事も出来たのだ、辛うじてだが。
「──貴方が、探している相手が誰だかは知らない。でも此処が何処かならば、答えられるわ」
「……」
辛うじて搾り出した凛の声に対する返答は無言。だが、凛は交渉の余地を感じ取った。まず先程考えた可能性の内、相手が狂戦士である可能性を即座に排除。狂戦士は他の全てを犠牲にして殴り合いにのみ特化したクラスと聞く。知能も己の求むるものも、何もかもを絞り尽くして唯殲滅の為にのみ存在する。つまり狂戦士は言葉を発する知力など残っていないのだ。万に一つ何らかの要因で言葉を発するとしても、意思の疎通など不可能と聞く。曲がりなりにも会話が成立しているであろ今を見るにつけ、確実にそれだけはなさそうである。そして背後からは、何かを探る空気が感じられる。であるのならば、適切な会話を選択し条件を提示できれば鬼札を切らずに穏便に済ませる事も可能となる。そう、令呪と言う鬼札を。
「取りあえず、敵意が無いのはわかってもらえる?判ってもらえたのならば、この物騒なものを下げてくれると助かるのだけど」
凛の言葉に、首筋に迫るプレッシャーが消える。まずは一手成功、と凛は胸を撫で下ろす。今の凛の脳内は宛ら詰将棋の気分である。将棋と違うのは、王手が掛かった瞬間に獲られるのは王将駒ではなく命であると言う部分か。理性的とは言いがたいが、話が通じないわけでは無いらしい。
「此処は冬木市、聖杯戦争の地──貴方は此処でサーヴァントとして召喚されたの」
「……召喚、だと」
「ええ、そうよ。だから私は貴方に問うわ──汝、我に召喚されし者也哉?」
刹那の無言の後、返ってきた反応。その声からは先程の殺意は薄れ、変わりに困惑がその場を占め始めている。其処に、敢えて彼女は男の眼を見て問う。若干薄らいだとは言え、未だ人間とは思えぬ程の眼光を宿すその眼を凝視するのは正直生きた心地はしなかった。だが、本人への確認は儀式的な意味でも行わねばならない最低限の所作である。明らかに格上の霊格を、聖杯からの補助があるとは言え使役するのは本来無理な話である。それを可能とする為の方法が、面倒だが穏便な方法と簡単だが不穏当な方法の二種類が存在する。凛としてはなるべくであれば穏便に事を進めたい。不穏当な方法は確実ではあるが、令呪と言う貴重且つ最重要なリソースを消費してしまう。穏便な方法ならば場合によって根気も必要になるが、令呪を消費せずに済む。やる事と言えば単に互いの同意の元に対等な契約を結ぶ、と言うだけの話ではあるが……実際に行うにはかなり難しい。
兎に角、間違いなく目の前の男とのラインは繋がっている。その点から見ても、男は凛の喚び出したサーヴァントであろう事は間違いは無い。ならば、後はそれこそ己の才覚次第では無いか。遠坂凛と言う少女が、一個の魔術師として英霊と言う規格外の存在の力を差配し振るうに値する存在であると認めさせるのだ。遠坂凛は、どうして聖杯戦争に参加したのか?始まりの三家の意地か、それとも父の遺志を継ぐ為か?それもある、だがそれだけでは弱い。
「聖杯戦争……七つの器……?この知識は、何だ」
凛の緊張とは裏腹に、男は眼を瞠りながら何かを呟いている。断片的に漏れる単語からして、漸く聖杯からの情報補助が機能し始めた様だ。長かったが、どうにか話が進みそうだ。まあ……最悪徹夜程度で済むだろう。明日は平日だが、どうせ学校など休む気でいたのだし。
「あー、お嬢さんー。相方は話上手じゃないので、ここはオレが話を進めよーじゃないかー」
凛のそんな思考を薄紙の如く破き去り、突如この場に相応しいとは言い切れない軽い声が響いた。幼い少年の様な、跳ねる様な脈動感に溢れる声だ。平素であれば好ましげに聞こえるとは思うが、今は平素には程遠い状況である。端的に言えば、怪しい事この上ない。声はすれども姿が見えぬ事も不信感に拍車を掛けている。不信げな目になる凛と、心なしかうんざりした様な空気を出す男、そんな空気を物ともせず、男が腰から下げていた鞄から光球が飛び出して軽やかに彼女の目の前に静止する。
「えー、私は彼のぷろでゅーさーというかなんというか」
「え、何、もしかして……
光の球から、少年のような声が聞こえる。その光に目が馴れた凛は、軽く驚愕の声を上げた。その光は羽根の生えた小さな少年の姿をしていたのである。
「おー。やっぱり見えるんだねー。見た目より純粋なのかなぁ?ま、いいや。とにかく、アンタに俺たちが召喚されたのは多分間違いないみたい。んでオレ、パック。見た目のまんまの
そう言いながら黒い男を指した瞬間、男の手に攫われるように妖精──パックが握り潰される。後には泡を吹いて痙攣する妖精が一人。死して屍拾う者無し、そんなフレーズが凛の脳裏に湧き上がった。ともあれ、先程の狼狽と緊張感がが嘘のように台無しになった事だけは確かだろう。
「あ、いてて……もう、乱暴なんだからなあっ!ええと、こいつは黒い剣士って言ったほうが通りが良いのかな?わかんないけど、ガッツっていうんだ」
おっかなそうだけど意外とそうでもないから、そんなに怖がらなくても大丈夫だぜ。オレはよく掴まれたり叩かれたり、放り投げられたり……あれ、何だか涙が──などと、相変わらず軽い口調でパックはそう言う。所謂デコボココンビなのか、とすんなり腑に落ちた凛を誰が責めようか。妖精は妖精でも、シルフと言うからには単なるフェアリーでは無いだろう。風でも司るのかも知れない、寡聞にして聞いた事は無いが。
「てかさ、ガッツもなんか喋れよー」
「お前に任せた」
左眼を半眼にし、視線を茫洋と漂わせながら明らかに面倒臭いという空気を隠そうともしない黒い男、ガッツの態度に凛の米神に青筋が出そうになるが自制する。何時の間にかその辺の瓦礫に座り込んだ挙句、寄り掛かって早くも寝ようとしている始末である。本当に戦士と形容して良いのか判らなくなる無防備さだ。その時点で、既にガッツから話を聞く事を凛は諦める。幸い、パックという別口の情報源がいるお陰で話が早く進みそうなのだ。ここでわざわざ、会話の気が無い相手に強要して状況を拗らせるのは得策ではあるまい。ただ、ここで一つ問題が生じた、それもかなり重要な。
「ええと、パック?申し訳ないのだけど、私、貴方達を知らないのよ。貴方達の原典を、教えてくれるかしら」
問題とは、英霊として召喚されたであろう彼らについて──凛は何も判らないと言う点に尽きる。彼女とて、有名どころの英雄譚や神話は一通り知っていると言う自負があるが、妖精を連れた隻眼の剣士など聞いたことも無い。その点から鑑みた結果、彼らの英霊としての知名度が低い、と現状そう判断せざるを得ない。
例えば、かの有名なアーサー王ことアルトリウス=ペンドラゴン公は誰もが知る英雄だが、無名に近いどこかの少数部族に伝わる英雄もまた等しく同じ英雄なのだ。要は、少なくとも英霊と言う座に魂が列聖されている以上、それらは等しく英霊というカテゴリに存在するものなのである。その知名度が低いという事は、それぞれにメリットとデメリットの双方を生じさせる。デメリットとは知名度という信仰を持てば持つほどに、幻想が募れば募るほどに、彼らはそれを糧として現世に強力な影響を与える事が出来る。例え元々の素の状態がどうあれ、人々の幻想に引き摺られる形で存在が固定化されていくのだ。つまりは知名度が低い英霊は、相対的に現世に対する影響が小さい。転じて、影響力の高い英霊に比べて弱体化せざるを得ないという事実を指す。
逆にメリットとしては、対する相手にとって全ての情報が伏せ札になる言う事に繋がる。なまじ知名度が高い英霊は放つ攻撃から嗜好を含め、相手にとって伏せる手札が少ない事に繋がる。強力であることの代わりに、正体を見破ってしまえば手の内をある程度知れてしまう事に繋がる訳である。更には英霊となった存在は、大概の場合肉体の死が英霊になる 直接的要因になる。それは、英霊になって尚も解脱出来ぬ因果となって引き摺られる事も多々ある。飛び道具で死んだものは飛び道具に対し、因果のレベルで弱体化してしまうのが常なのだ。だが知名度の低い英霊であれば、巷で調べる事の出来る情報が少ない。それは力の弱さを補って余りある情報戦略レベルでの優位性を保つ事に繋がるのだ。何しろ万が一彼らを示す真の名である真名を知られても、負うリスクは無いとは言えないが有名どころと比べて圧倒的に少ない。それらを踏まえた上の彼女はマスターとして彼らの戦力を把握する為にも重要な質問だったが。
「俺たちの原典ってなんだろ?」
「さあな。いきなり頭の中にぶち込まれた情報だと、存在しないそうだが」
いきなり頭の中にぶち込まれた情報とは、要は聖杯の補助機能が漸く働き出した証左だろう。英霊は皆、召喚され偽りの肉体を得た際に戦争に必要である基礎的な知識を自動的に上書きされるシステムになっている。だが、そんなことは今はどうでも良かった。何しろ、途轍も無く聞き捨てならぬ言葉を聞いたのだ。凛は彼女にしては信じられぬ程、恐る恐る口を開く。
「存在しないって……散逸して消えた原典の英霊って事、かしら?」
正直そんなことは無いと思いつつも尋ねるしか無いが、真逆散逸するほどに過去の英霊とでも言うのだろうか。現存する最古の図書館といわれるアレキサンドリアの大図書館は、過去の侵攻や事故などで文献が散逸している。其処から鑑みるに、戦乱に消えていった散逸した伝説が無いとは言えない。であるならば、かなりの儲け物だとも言える。
神代の英雄であれば例え知名度が低い存在であっても英霊である以上、積み重ねた年月による神秘だけでも相当の潜在能力を持つ。確かにあの触媒の鉄板から感じた神秘を宿しながらも、情報としては皆無であるならば手札は全てが伏せ札。相手のカードの切り方次第では、圧倒的に翻弄することも不可能では無い。何しろ、敵はこちらの手札の枚数すら見えない無明の闇にいるのだから。だが、その予想には致命的な矛盾を孕んでいる。凛の否定的思考も其処に起因している。何故ならば、ガッツはどう見ても中世期の格好をしている。つまりは、確実に神代の英雄では無いだろう。
「……こいつもこの頭にぶち込まれた知識って奴だ、意味が判らんが──」
苦々しい顔をしながらガッツが言葉を切る。その表情に宿るのは何の感情か。静寂が満ちる中、ガッツは現実を見据えたかの様に口を開いた。
「──よくわからんが、ここの世界のモンじゃないらしいぜ。俺たちは」
「え?」
何を言ったのかしら、今クソたわけた事を耳にしたのだけど。凛は我が耳を盛大に疑った。耳掃除は欠かさなかった筈であるが、酷い幻聴だ。その内容に笑うしか無い程の。
「何を恍けた顔をしてやがるんだ?」
何といったものかと言わんばかりに、表情を歪ませるガッツ。聖杯の知識は、あくまで知識でしかない。その知識に基づく情報は、彼自身としてもよく意味が判っていないのかもしれない。そんな混迷の場に、手榴弾をダース単位で放り込む妖精がいた。言わずと知れた、パックである。
「んー。簡単に言うと、なんか別の世界から俺たち紛れ込んじゃったみたいだよ?」
「別、世界って……えええええええ?!」
パックのあっけらかんとした答えに、彼女は今度こそ己を律する事が出来なかった。