その日、衛宮士郎はかなり遅くまで学校に残っていた。校舎の簡易修繕から備品の修理まで、頼まれたモノを際限なく請け負っている内に気付けばこんな時間である。夕日はとうの昔に沈み込み、星の瞬く静かな夜となっていた。校舎には既に誰もおらず、身内に教師がいる彼だからこそこの時間まで居残ることが可能であった。と言っても、何処か教師と言い様に無い義姉が学校の鍵を預けて行ったと言うのが真相であるのだが。あと少し、もうちょっと、そう思うのは人間の常である、しかしその思考が無償奉仕に近い備品の修理に発揮される人間は希少だろう。その結果がこの有様である。よくよく考えてみれば、抜けてるところが多い割に変な処で鋭い義姉はこの結末を予期していたのかもしれない。そう考えると、気を使われたなと多少申し訳なくなる。詰まるところ衛宮士郎とはそういう少年であった。流石に星が見えるまで居残る事はそう無い、放送室のAV機器のチェックに最近はお馴染みになりつつある陸上部の備品の修理と点検、生徒会の雑務手伝い、これだけの内容を一人で一日で終えるだけでもかなりの重労働である。むしろ一日で終わるだけ御の字だろう。労働を終えた後特有の開放感と気怠さを覚えながら、帰宅するだけの筈であった。ああ、そうだ。
そこにイレギュラーが無ければ。
そして彼は、ただその日に帰宅が遅くなったという理由だけで非現実に巻き込まれることと相成ったのである。
★
「っ……少しは配慮して走り、なさいよっ」
「最初に言っただろうが、知らねえぞってな」
夜の冬木に影二つ、双方黒尽くめで黒い弾丸の如く街を屋根を疾走する。先行する影は追走する影より身軽と見えて、既に追走する側の視界には捉えられなかった。何しろ追走者の肩には人間が担がれている、離されるのも当然であろう。だが追走する側もさるもの、見えぬ相手をほぼ正確に追い掛けていく。担がれた影は担いでいる影に文句を垂れるが、聞き入れられそうにも無い。そも己が急がせている以上はそこまで役体のない事を言える訳でも無かった為、結局口を閉じる事となる。無論言う迄も無く追走者は凛達である。荷物宜しく担いでいるのはガッツ、荷物宜しく担がれているのは凛であった。
「見失うんじゃないわよ」
「問題無え、これだけ痛めばな」
「痛む?」
せめてもの意趣返しに嫌味でも、と放った言葉に対する返答にリンは首を傾げた。真逆自分が重くて体が痛むとでも言いたいのか、人外の膂力の持ち主の癖に。それ以前に痛みと追跡に対する関連性がよく分からない。揺れる視界でガッツを見れば、我関せずと言ういつもの表情である。取り敢えず取り逃がさないのであれば良いか、と考え直す。痛みを覚えようとなんだろうと戦闘に支障がなければ良い、それに慣れているかのような言動からは焦りは感じられない。ならば、問題は無いのだろう。無論、後で問い質すが。
「建物か、デカイな」
「やっぱり……一体何の用だって言うのかしら──あ、痛っ!?」
視界に入るのは予想通りの建物、穂群原学園。先程のサーヴァントらしき存在はここに入って行った事は、まず間違いないだろう。追うべきか否か、と言う意を込めてガッツに目をやる。それに対してガッツが鼻を鳴らして行った行動は、まず凛を地面に放り投げると言う人としてあるまじき、ガッツとしては実に自然な行動であった。
「寝転がってる場合じゃねえぞ、どうすんだ此処から」
「人を叩き落としといて言う台詞じゃないわよ。……そうね、一応確認。中にいるの?」
「ああ……いけ好かねぇ気配だ」
ゾッとする殺意を背に、敢えて互いに顔を合わせずに会話を続ける。凛の背後の気配はさながら牙を研いでいる魔獣の様だ、何にせよ心臓を大事にしたかったら見ないに限る。確かに敵とは言え、他のサーヴァントに対して此処まで敵意を滴らせるのは何なのだろうか。思考は脳に氷水を流し込んだが如く明瞭に保つ事を心掛け、凛は校舎敷地内へと踏み込んだ。
「姿が見えないわ、一体何処に──」
(リン!)
「
宵闇の奥に目を凝らした矢先、脳内にパックの声が響き渡る。その危機的な響きに、凛は本能に近い動作で防御魔術を構築した。
「セイバー!」
「黙って見てろ」
凛が指示を飛ばす瞬間には、もう黒い外套が視界の前に閃いていた。流れる様な動作で義手を振り上げたガッツ、その義手の上には何時の間にか小型の弩弓が据え付けられていた。間髪いれずに連続発射される短矢は、吸い込まれる様に闇へと飛んで行く。それを避けたかの如く、闇が揺らめいた。そこに合わせる様に、火花を散らす小さな物が数個投げ込まれ、爆発。強化した視界でようやく捉えられる攻防の中、闇の中の姿を刹那の間だが明瞭に照らし出した。
門に程近い校庭の端に、何かが立っていた。黒革であろうコートに、目の様な銀刺繍の
「【止まれ】」
「な……に?」
背の大剣に手を延ばしつつ、追撃に走り出そうとしていたガッツが急停止する。声から漏れ出たのは理解出来ぬと言う驚愕の声、足を止めたのは己の意思ではないと言わんばかりの響きであった。理解出来ぬ事象を古来から人は魔法や魔術と呼称して恐れてきた。そして、ここにいるのはその恐怖をこそ専門に扱う存在──魔術師である。その中でも優秀と自他共に認める存在である凛は、目の前の黒い男が何をしたのか朧げに理解した。
「
「キャスター、のサーヴァント……なの?」
全く肉体的に虚弱になど見えないが、本当に予想通りであるならばセイバーのカモとも言える。何しろキャスターを評して曰く、最弱のサーヴァントという異名がある。クラススキルで高い対魔力を持つセイバーには生中な魔術では太刀打ち出来ず、他のクラスに比べて身体能力では格段に劣る為に近付かれることはそのまま敗北を意味する事と同義に近い。だが、そう思えるほど甘い相手ではなさそうに見える。
「ここは公安当局により作戦区域に指定されている、侵入者は速やかに排除する」
無個性な機械が口を開いたかの様な無機質な声と共に、黒いサーヴァントの右腕の物体が微かな唸りと共に動き出した。砲口のように見えた部分から細身の黒い棒の様な物が突き出し、手首に近い辺りから握りが飛び出す。
そんな中。
ぎり、と微かに歯が軋む音が聞こえた。
「排除だ?──やって、みろよ」
瞬間、黒い風を捲いてガッツが掻き消えた。まるで、限界まで引き絞られた弓から放たれた矢の如き速度である。それに対し、黒いサーヴァントもキャスターとは思えぬ身のこなしで跳ねる様に横へ飛ぶ。遅れて重々しい衝撃音と風圧、慌てて目をやるとキャスターの立っていた地面を抉り取り、あの鉄塊剣を振り下ろした状態のガッツを確認した。そのまま驚いたことに、片手で大剣を操りキャスターの移動位置を薙ぎ払う。先程の強化視力でも終えぬ速度とは違い辛うじて追う事の出来る速度だが、何にせよ常軌を逸する速度である。同時にキャスター程度であれば両断されてもおかしくない。だが、凛のサーヴァントが規格外なのと同じく、相手も規格外だった。
「受け止めた?!本当にキャスターなの、コイツ?!」
思わず凛が叫ぶ。ガッツの横薙ぎは、キャスターの左腕によって受け止められていたのだ。その腕には先程とは違う印形が蠢き光っている。見たのは初めてであるが、何か見覚えがある様な気がする。自分の腕を見て、ふと気づいた。魔術刻印、魔術の系譜たる生きている刻印──それに似ている。恐らくは、用途によってあの刻印を変更して使用するのだろう、差し詰め自在護符とでも言うのだろうか。幾らなんでもパラメータA+のガッツと、キャスターが腕力合戦が出来るとは思えない。であるならば、自ずと其れを為している源は推測出来る──そして弱点も。
「
呪文と共に、二つの
「……!」
キャスターが言葉にならぬ声と共に凛の宝石の魔弾に対して行った行動に、凛は己の確証を深めた。キャスターは、凛の魔弾を受ける為にわざわざガッツから距離を取ったのだ──これはつまり。
「キャスター、アンタの弱点は見えたわ。確かに強力だけど、その印形……同時に二つの効果は発動出来ないわね?」
キャスターは凛の攻撃を避ける為に、わざわざ接敵していたガッツから離れた。近接型とわかりやすいガッツの間合いから離れたとも取れる行動だが、凛一人を落ちない様に抱えて尚そこまで離される事のない距離で追いかける事が可能だった事実を鑑みるとそれは下策である。離れた瞬間に距離を詰められて喰いつかれる事は確実であり、無理な逃亡による体勢の崩れは反撃はおろか防御すら危うくなる。障壁の様な防御であるならば問題は無いが、左腕の印形で発動する魔術は発動体である左腕を中心として発動する。それはガッツの大剣を、わざわざ腕で受けた事からも理解できる。
「さあ、観念なさい?そうね……目的と、ついでにマスターの名前でも吐いてもらおうかしらね?」
油断無く新しい宝石を指の間に構えながら、凛はそう宣告した。事実上の勝利宣言でもある。ガッツも大剣を下げているが、恐らくは相手が何かしようと動こうとした瞬間に逆袈裟に斬って捨てるだろう。隻眼に、未だ鬼火が灯っている。このまま事態は沈静化する、そう思っていた矢先だった。
「あれ、まだ人が……って、遠坂?」
「【呪弾】、
「セイバー!!」
「……ち、面倒臭えな」
誰何する声、詠唱、叫びと応答は、散る赤、空を切る大剣と言う結果を齎した。誰もいない筈の校舎から出てきたのは赤い髪の少年、彼の誰何の声が事態を動かした──極めて悪い方向に。
「……衛宮、君。アンタ、タイミング悪過ぎるのよ」
ポツリと漏らした凛の視線の先には、胸に紅い華を咲かせた少年が倒れていた。呼吸は浅く、目も濁っている──長くは持たないことは明白であった。少年──衛宮士郎が何故か校舎から現れた瞬間、まずキャスターが動いた。最初に凛達に放ってきた魔力弾らしい呪弾なる魔力射撃を、敵対していた筈の凛相手では無く現れた士郎に対して行使した。為す術無く胸を直撃され、血の華を咲かせて倒れ伏す士郎。ガッツは此方をちらりと見た後、無言でキャスターを追って行った為に今はいない。
分かってはいた、目撃者に対しては何らかの処置はせねばならない。記憶を消すか本人ごと消すかの違いである事は凛としては理解しているが、それでも知り合いの命がこう言った形で消えていくのは堪えた。
「リン……助けてやらないの……?」
「この馬鹿が、悪いのよ」
「じゃあ、何でそんな顔してるんだよ」
パックの顔は泣きそうであった。何故か自分の視界も少し歪んでいる様な気がした。反射的に手を当てようとして、自制する。何故かは分からない、分からないがそうした。自分の中で色々な物が鬩ぎ合っているが、何も表には出さなかった。それが矜恃と言うものだろう。
「リンが迷うなら、俺がやる」
その逡巡は、パックの言葉で断ち切られた。