——冥界第三層、玉座の間
侵入者を阻む秩序の迷宮、ここはその中心だ。本来女王ラビリスが座して待ち構える迷宮の心臓部に、褪せ人達は居た。
「……人の玉座を無茶苦茶にしやがって」
ラビリスが吐き捨てるように言う。
「そう思うなら、別の場所に落とせば良かったんじゃない?」
「ここが一番広かったんだよ」
ヘカティエの言葉に、ラビリスは不機嫌そうに応じた。視界に広がるそれは、最早彼女の知る玉座の間からはかけ離れていた。
血と肉に石畳は埋もれ、むせ返るような腐臭が玉座の間を満たしている。玉座の周りにはどこの誰とも知れない骸が覆い重なり、山となっていた。
「…………」
そんな腐肉の山の頂上で瓦礫の王が睥睨する。その視線の先に居るのは、英傑に亜神。瓦礫の王という脅威を前に、誰一人として退く様子はない。
その姿が、瓦礫の王を一層苛立たせた。
「グウゥゥ……!」
腐肉を纏いながら、怨嗟の呻きが漏れ出る。神も、人も、英雄も、王も、その全てが瓦礫の王にとって憎悪の対象だった。何故憎み、何の為にその怨みを吐き散らしているのか等、最早自身ですら分かっていない。
ただ、この衝動に突き動かされるままに、この世界を壊すのみ。
「ゴアァァァ!!」
腐肉の山より、瓦礫の王の咆哮が響き渡る。地を震わせ、腐敗を広げながら瓦礫の王が跳躍する。空中で左手を翳し、腐肉を吸い上げ、怨嗟の塊を作り上げる。
「来るぞ! 散れッ!」
王子の叫びに、全員が瓦礫の王の着地地点から離れる。直後、瓦礫の王が叩き付けた腐肉の球が爆ぜた。腐臭と腐汁を撒き散らし、更に至る所から間欠泉の如く腐液の柱が噴き上がる。
「前衛は前に出ろ! アイツを好き勝手に動き回らせるな!」
自身も瓦礫の王へと駆けながら、王子が叫ぶ。ここに落ちる前に見た瓦礫の王の機動力と破壊力。此方が主導権を握らなければ防戦一方になる。
「……」
そんな戦場において、瓦礫の王へと先んじて肉薄したのは褪せ人だ。大盾を片手に、もう一方の手に握るのは赤熱した鉄鎚。よく見れば、その鎚頭が鍛冶床なのが分かるだろう。
褪せ人は瓦礫の王へとその巨大な鉄鎚を振り上げる。その意思に呼応して、鍛冶床は更に熱を増した。
「……!」
灼熱とも言えるその鉄鎚を、渾身の力を込めて瓦礫の王へと叩き付けた。圧倒的な膂力から放たれるそれが、瓦礫の王の腐肉の鎧を弾き飛ばす。
「ゴアァァァ!?」
瓦礫の王が苦悶の声を上げる。身に纏う腐肉に火が付き、瓦礫の王を燃やす。ある程度予想はついていたが、炎は有効らしい。
褪せ人が冷静に分析する中、瓦礫の王が褪せ人を薙ぎ払わんと左手を振るう。それを目前に、褪せ人は叩き付けた鍛冶床ハンマーを引き抜いた。
鍛冶床ハンマー。それは鍛冶遺跡の秘蔵物であり、単なる儀礼用の飾りなどではない。引き抜きと同時に、秘められた力を解放する。
地面より噴き出るようにして現れたのは無数の槍。鍛冶術によって生成された無数の槍が、瓦礫の王を襲う。
「オォォォ!!」
されど、瓦礫の王は止まらなかった。その身を槍に貫かれながらも、振るう左手は止まらない。己の身がどうなろうとも、ただこの溢れる怨嗟を晴らす事こそが、瓦礫の王の唯一の使命であるが故に。
「ハッ! 中々ガッツあるじゃねぇか人間!!」
褪せ人へと左手が到達する直前、横合いから強烈な一撃を受け、瓦礫の王が吹き飛ばされる。
それを成したのは、褪せ人のそれに負けず劣らず巨大な鉄鎚を持つ亜神ラビリス。
吹き飛ばした先、身を起こそうとする瓦礫の王へと更に二柱の冥界の亜神が立ちはだかる。
「合わせなさい、ヘリューズ」
「任せてください、ヘカティエ」
ヘリューズとヘカティエの魔力が膨れ上がる。冥界の亜神である彼女達は、魔術の神でもある。膨大な魔力が彼女達の杖に込められ、それを放つ。
「砕け散りなさい」
二人の杖から放たれたのは極大の火球。竜のブレスにも勝るとも劣らないそれが、瓦礫の王へと着弾する。爆発。瓦礫の王が居た場所に迷宮の天蓋を焦がさんばかりの火柱が上がる。
「追撃です!」
そう言って、アスバールがタクトを振るう。放たれるのは、魔力の雨だ。火柱の中、無数の魔力の雨が瓦礫の王を叩き、爆ぜていく。
燃え盛る火柱を前に、ラビリスがハンマーを肩に担ぐ。
「んだよ、大した事ねぇじゃねぇか」
「……気を抜くな」
あまりに呆気ない終わりに期待外れだと呟くラビリス。それを咎めたのは白の皇帝だ。あのしぶとい怨嗟の鬼が、この程度で終わる筈がない。
火柱の中から咆哮が響き渡る。この世全てを呪わんとするそれは、間違いなく瓦礫の王のもの。
「チッ!」
燃え盛る炎の中、瓦礫の王が飛び出してくる。大槌を振りかぶり、獣のような速さで駆ける。全身を焼かれ、身に纏う腐肉も零れ落ちている。だが、眼窩で煌々と灯る怨嗟の炎だけは揺らぎない。
未だ身体を叩く魔力の雨すら目もくれず、ただラビリスに向けて大槌を振るう。
「クソッ!」
ラビリスが大盾を構える。彼女の巨体すら覆い隠すそれに、瓦礫の王が大槌を叩き付けた。強烈な衝突音が迷宮に響き渡る。
「ガッ……!?」
ラビリスは一瞬の拮抗の後、大盾ごと吹き飛ばされる。腐肉の上を転がり、体勢を立て直すラビリスに瓦礫の王の拳が迫る。
「危ない!」
殴り付けられる直前、イリスの結界がラビリスを包む。加護の受けたラビリスが瓦礫の王によって殴り飛ばされる。
「グァッ……クソッ!」
「大丈夫ですか!?」
「チッ、助けられちまったな」
本来敵対する侵入者に助けられた事に舌打ちしながら、ラビリスがハンマーを構え直す。
その視線の先、瓦礫の王が再び腐肉の山で鎧を纏い直すのが見えた。
「ゴアァァァ!!」
再びの咆哮。それに呼応して迷宮が震え、その形を変える。より広く、そして、より醜悪なそれへと迷宮そのものを書き換える。
「コイツ……オレの迷宮を……!?」
ラビリスが瞠目する。迷宮の支配者たる己から、瓦礫の王が迷宮の支配権を奪い取った。瓦礫の王が、この迷宮を己の領地として作り変えているのだ。
迷宮の床から何かが突き出る。それは塔だ。腐った肉と骨で出来た不浄の塔。幾本ものそれが、瓦礫の王と褪せ人達を取り囲むようにしてせり上がる。
「ゴオォォォ……!」
瓦礫の王はその一本へと飛ぶと、次々と他の塔へと飛び移っていく。変化した迷宮に戸惑う暇もなく、頭上を飛び回る瓦礫の王を目で追い掛ける。
「撹乱のつもりか!」
此方を翻弄し、隙を晒せば襲い掛かる。木々を飛び移る獣のように、瓦礫の王は獲物を探し続ける。
「……!」
そして、瓦礫の王は一人の女に狙いを定めた。並いる英雄達の中、明らかに瓦礫の王を追えていない桃髪の少女。彼女に向けて凄まじい勢いで飛び掛かる。
「イリス!」
「え……!?」
王子が叫び、戸惑うイリスの前に褪せ人が飛び出す。イリスを隠し、大盾を構えた直後、強烈な衝突音が響き渡る。
「……!」
瓦礫の王の膂力に褪せ人は跳ね上がりそうになる大盾を必死に耐える。痺れる腕の感触を感じながら、褪せ人が瓦礫の王を目で追うと、既に瓦礫の王は別の柱に飛び移っていた。
「背に回れ」
「は、はい……!」
褪せ人の言葉に弾かれたようにイリスが走る。
直後、再び瓦礫の王が飛んだ。すれ違い様に、褪せ人の大盾に向けて大槌を叩き付ける。そして、再び瓦礫の王は塔に移り、また飛び掛かる。この繰り返しだ。
「ぐっ……」
「褪せ人様……!」
繰り返す衝突に褪せ人の兜の下の顔が歪む。次々と盾に叩き付けられる猛攻に、褪せ人のスタミナが削られる。腕の感覚はなく、気力だけで持ち堪えているが、最早限界に近い。
瓦礫の王も、それは分かっているのだろう。その狙いはイリスから既に褪せ人へと移っていた。
「グウゥゥ……!」
再び褪せ人に飛び掛かる。褪せ人もまた、先と同じように大盾を構える。
「——これで、借りは返すぜ!」
そんな褪せ人の前に、ラビリスが大盾を構えて立った。
「ぐっ……さっきと同じと思うなよ!」
もう飛び移らせはしない。瓦礫の王を正面で受け止め、ラビリスは苦悶の表情を浮かべる。
「いいぞ、そのまま捕まえていろ」
ラビリスへとそう告げたのはアルコゥだ。瓦礫の王を一点に見据え、猛然と駆ける。
「オレに指図してんじゃねぇぞ、竜人!」
「ふん、我をただの竜人と思うな」
アルコゥの身体が光に包まれる。人だった身体が巨大化し、次の瞬間には巨大な白い竜となる。
「喰らえ……!」
アルコゥが翼を広げ飛翔する。そして、瓦礫の王へとその巨体のまま体当たりした。
「グッ……!」
瓦礫の王が吹き飛ばされる。吹き飛ばされた巨体を見据え、アルコゥが口を開いた。口腔が赤く照らされ、炎が漏れる。
「受けてみよ、我が竜の息吹……!」
「ガァァァァ……!」
瓦礫の王がそれを見て、ブレスを阻止せんとアルコゥへと飛び掛かる。大槌を振り上げた瓦礫の王の前に、立ちはだかったのは褪せ人だ。
「やらせん……!」
聖印を片手に祈祷を発動する。赤雷が迸り、褪せ人を中心に衝撃波が放たれる。
瓦礫の王が吹き飛ばされ、すぐさま身を起こす。そんな瓦礫の王が見たのは、白き竜に加え、竜王の姿に変じた褪せ人の姿だ。竜王の口から金色の炎が漏れる。それは、滅びゆく断末魔。
「ハハッ、良いぞ! 貴様のそういうところは嫌いではない」
アルコゥが笑う。二体の竜、放たれるのは黄金と灼熱のブレス。極大のエネルギー、異なる世界のそれらが混じり合い、あらゆるものを滅ぼす光となる。
「ゴオォォォ!!」
瓦礫の王が光を正面から受け止めようとするも、拮抗すらしない。滅びの光が、瓦礫の王を飲み込んでいく。
「ガッ……ガアァァァァ!!」
光に飲まれた瓦礫の王。腐肉が消し飛び、骨が砕かれる。怒りに満ちた咆哮すらも、その光の中では届くことはない。
「オォ……!」
そんな光の中、瓦礫の王は大槌を振り上げた。崩れかけた大槌に、怨嗟の光が迸る。そして、その武器をがむしゃらに振り下ろした。地面を衝撃波が走り、無差別な軌道で英傑達に襲い掛かる。
「コイツ……!?」
ラビリスが瞠目する。この光の中、まだ動けるのか。滅茶苦茶な軌道で走る衝撃波。それらがヘカティエ達を襲う。
「アイギスの神器よ……!」
ヘカティエ達を背に隠し、王子が神器を発動させる。女神の盾、あらゆるものを防ぐ英雄の神器が衝撃波を受け止める。
「ぐっ、おぉぉぉ!!」
王子の顔が苦悶に歪む。女神の盾をもってしても、辛うじて受け止められるもの。衝撃波を受け止め、そして王子は抉られた地面の裂け目が赤く光っているのに気付く。
「皆、避けろ!!」
直後、爆発。地面の裂け目に蓄積した光が、噴き上がる。抉られた地面を砕き、腐肉と石畳を飛び散らせる。
降り注ぐ腐肉の雨。そんな中、瓦礫の王を飲み込んだ光が収まる。
肉は焦げ、左腕は骨まで砕けている。大槌も、先程の足掻きで砕け散ってしまった。最早見る影もない瓦礫の王だが、それでも眼窩の炎は消えていない。
「オォ……」
瓦礫の王が、言葉なき呻きを上げる。
まだ足りない。まだ復讐は果たせていない。
壊さなければならない。それが何なのかなど分かりはしない。それでもこの身に渦巻く無数の無念と怒りが、ただ衝動のままに己を突き動かす。
そんな瓦礫の王に、王子と皇帝が立ちはだかる。
「まだ、生きているだろうと思ったよ」
王子がアイギスの神器を構え、皇帝もまた、アダマスの神器を構える。
「ゴアァァァ……!」
瓦礫の王も彼らに応じて砕けた大槌を振り上げる。どれ程に壊れようとも、どれ程に砕けようとも、諦めるわけにはいかない。止まるわけにはいかない。
瓦礫の王が大槌を振り下ろす。砕けていようとも、その膂力は健在。瓦礫の王に、王子は解放したアイギスの神器を振り翳す。
「ハアァァァ!!」
瓦礫の王の大槌を、王子の盾が弾いた。弾かれた大槌が瓦礫の王の手を離れ、宙を舞う。
大きく体勢を崩した瓦礫の王の懐に潜り込み、皇帝はアダマスの神器を振り上げた。
一度は砕けた神器。されどそれは、仲間達と、人々を想う女神の献身によって再び形を成した。
「……この剣はもう二度と折れない、砕けない」
大上段に構えた大剣に光が灯る。魔力の光が人型を成し、皇帝の隣に立つ。それは女神アダマスだ。皇帝の神器を直す為にその身を捧げ、魂だけとなった女神の姿。
瓦礫の王を見つめ、アダマスはただ祈る。
——眠りなさい、瓦礫の王よ。無念も怨嗟も、晴らすべき相手はもう居ないのです。
神故に、分かるのだ。人々の無念、怨嗟。それは永き戦いの果てに溜まった澱みだ。
哀れではある。救ってやりたいとも思う。だが、それは決して今を生きる者達に振るっていいものではない。
アダマスの神器を振り下ろす。光り輝く大剣から放たれる斬撃。一度砕け、女神の魔力によって形を成した。最早神剣とも呼ばれるその剣は、以前の神器とは比べ物にならない。
斬撃が瓦礫の王を斬る。焼けた肉の鎧を裂き、骨を断つ。
「グッ……!!」
瓦礫の王の身体が二つに分かれる。半身が分かたれ、瓦礫の王は地面に崩れ落ちる。
それでも尚、目前に立つ英雄へと這いずり、手を伸ばす。
怨嗟が溢れ、無念が剥がれる。己が衝動を突き動かす力が弱まっていくのを感じる。だが、弱まったから何だというのか。ただ一つでもこの身に執念が宿るならば、それを晴らすべく止まるわけにはいかない。
「…………」
最早死に体ながらも這って前に進まんとする瓦礫の王を見て、褪せ人は聖印を握り締めた。
この感情を言葉にするならば、共感かもしれない。最早王の威風などありはしないが、きっと己が死ぬ時もこうなるだろう。使命を果たせぬまま、潔い死などあり得ないのだから。
故に、褪せ人は瓦礫の王へと祈祷を発動する。その怨嗟を一片たりとも残さぬように。
瓦礫の王の身体を光が包む。それは滅びの光。されど、救いの光でもあった。
迷宮を眩い光が包む。瓦礫の王の身体があった場所に、光の柱が突き立った。それは墓標だ。無数の怨嗟に塗れた、無垢なる祈りへの墓標。
「…………」
光が収まった先、瓦礫の王の姿はない。ただ迷宮を貫いた破壊の痕が残るばかり。
「終わったか……?」
王子の呟きに答えは返ってこない。その沈黙こそが何よりの証明だった。
一行が息を吐く。瓦礫の王という規格外を相手に、張り詰めていた糸が緩んだのだ。
「じゃ、じゃあ……怪我をした人は回復を——」
「——おい」
イリスが杖を持って駆け寄ろうとしたところで、声が掛かる。
「何か忘れてねぇか?」
ラビリスだ。瓦礫の王の拳によって鎧はひしゃげ、自慢の大盾も欠けてしまっている。しかし、纏う覇気は未だ健在だ。大槌を担ぎ、鋭い眼で此方を睨みつける。
「……やるつもりか?」
そんなラビリスに、皇帝が問う。互いに睨み合い、緩んだ空気が再び剣呑なものに変わる。
暫し沈黙が続き、やがてラビリスは大きく溜息をついた。
「はぁ……やめだ。どう考えても他に優先しないといけないことがある」
そう言って、ラビリスは玉座の間を見回す。
最早己の居城は見る影もない。砕け、穢れ、冥界第三層という領地を侵している。何より、それを良しとしたのは他ならぬ冥界の王であるという。
「……オレも連れて行け。こんな無秩序を許容したハイドースには、色々と聞かなきゃいけないからな」
ラビリスがそう言って迷宮の壁にもたれ掛かる。それを見て、皇帝が周りの者達に向かって口を開いた。
「他の者達の合流を待つ。その間に、負傷者は王国の癒術士に傷を癒して貰っておけ」
皇帝の言葉に、今度こそ一行は息を吐く。冥界の奥、ハイドースの待つ領域までの、最後の安息の時だった。
褪せ人達が冥界を歩く。はぐれた者達との合流を終えた一行は、再び冥界の深部を目指す。
迷宮を抜けた先、その景色は一変していた。
整備された道。青く灯る街灯。明らかに人の手の入ったそこは、しかし生者の気配などどこにもありはしない。
そんな場所を先導するのは初代皇帝ヴィラヘルムと、同じく初代帝国騎士団長であるヘイズルの二人。
「……アダマス様は予見されていました。やがてハイドースが狂い、生者の世界を侵すことを」
歩きながら、ヴィラヘルムが語る。自分達の魂を現世に留めたのは、女神アダマスの契約によるものであると。
女神アダマスの魂か肉体。そのいずれかが消滅した時、ヴィラヘルムとヘイズルは再び肉体を得て、再び帝国へと助力するように、と。
そして、その時は来た。彼女達はアダマスと結んだ契約に従い、ある場所へと皇帝達を導いている。
「……この先にあるのは庭園です」
「庭園?」
疑問符を浮かべたカゴメに、ヴィラヘルムが頷く。
「アダマス様がその身を賭して封じた神——ペルセフォネの庭園」
女神ペルセフォネ。かつて、ハイドースと共に物質界を混乱に陥れた元凶。それは女神アダマスとの戦いに敗れ、しかし滅ぼすには至らなかった。彼女はまだ、魂だけを残して冥界の最奥、彼女の庭園に封じられている。
「ハイドースは、彼女を蘇らせるつもりでしょう。そうなれば、彼らは自分達の理想を叶えるべく、再び世界を危機に陥れる。何としても、止めなければ」
女神達の居ない世界で、ペルセフォネを甦らせるわけにはいかない。
そう決意を決めて前を行くヴィラヘルムの視界に、あるものが目に留まる。
それは人影だ。暗い衣を纏った、黒と白の混ざった髪の女。
「…………」
杖を片手に立ち尽くす女を前に、ヴィラヘルム達が立ち止まる。声を発する事のない女に、ラビリスが口を開いた。
「お前、スイゼだな。ハイドースの下で庭師をやってる、この庭園の巫女だ」
ラビリスの言葉に、しかしスイゼと呼ばれた女が答える事はない。俯き、何も発する事なく石畳を見つめる。
「まさか、庭師のお前が足止めでも任されたか? 大した忠義だよ」
皮肉を交えながら、ラビリスが大槌をこれ見よがしに担ぐ。そんなラビリスの言葉に、スイゼが漸く口を開いた。
「……あの方は狂ってしまわれた」
「あぁ?」
「妄執に駆られ、あの方にはもう何も見えていない」
スイゼが呟く。ハイドースの苦悩を、スイゼはずっと知っていた。庭園を訪れ、眠る妻に愛を囁き続け、それでも尚苦しみ続けた男の姿を。
永遠を生きる神にとって、愛する者と言葉を交わせぬ時間がどれほど残酷なのか。
永遠とも言える時間が経ち、己の妻への愛が揺らいだ時に、あの神は狂ったのだ。
「私の忠義では、あの方の哀しみは拭えなかった」
どれ程に手を入れても、庭園はかつての姿を取り戻す事はなかった。眠るペルセフォネの力が弱まり、その自我が砕け散った。ただ朽ちて、冷たくなっていく庭園を見て、ハイドースの焦りはどれほどだったか。
「私では、止められなかった。お前達に、あの方の哀しみと狂気を受け止める覚悟はあるか」
スイゼが顔を上げる。悔恨、悲哀、諦観。様々な感情を滲ませる女へと褪せ人が歩いていく。
「……哀しみも狂気も、知った事ではない」
「…………」
スイゼが目を細めるが、褪せ人は己の言葉を曲げるつもりはない。足を止める事も、その視線を逸らす事もない。覚悟など、とうの昔に決まっている。
「生者の足を引くのはもう終わりだ」
過去に縋り、未来を生きる生者の足を引く神を殺す。それこそが、己に出来る唯一であった。
その言葉に、スイゼが一瞬目を伏せ、再び顔を上げる。何処か覚悟を決めた彼女は、褪せ人へと口を開く。
「……行くがいい。狂気に堕ちようとも、あの方は冥界の王。生半可な覚悟で挑めば、無駄死にするだけだ」
「知っているわよ、そんなことは」
スイゼの言葉にヘカティエが答える。ヘカティエとて、冥界の王の補佐としてずっと近くに在り続けていたのだ。ハイドースがどれ程に規格外なのかなど、承知の上だった。
「…………」
道を開けたスイゼの前を、褪せ人達が通り過ぎていく。遠ざかる背中を見て、スイゼは静かに呟いた。
「私は……どうすれば良かったのだろうな」
最も近くでハイドースの苦悩を見ていながら、しかしどうする事も出来なかった女は、ただペルセフォネの眠る庭園へと消えていく英雄達を見つめるだけであった。
そこは酷く静かだった。
元は美しい庭園だっただろうそこは、最早朽ちて荒れてしまっていた。
芝は枯れ、花は萎れている。整備されていたであろう石畳も風化し、ひび割れてしまっている。
まさに、忘れられた庭園と呼ぶのが相応しい場所であった。
そんな庭園の奥に、ハイドースは居た。ただ一人、供も連れずにただ静かに佇んでいる。
「ハイドース」
白の皇帝がハイドースへと呼び掛ける。庭園の広場、ゆっくりとハイドースが振り返る。
「——後悔も憂いも、全ては今日の為にあった」
ハイドースが静かに語り出した。英雄達を前に、どこまでも静かで落ち着いている。
そんなハイドースに、ヘカティエが口を開く。
「もう終わりよ、ハイドース。貴方の復讐は、此処で終わり」
「終わりだと? 違うな、これから始まるのだ」
ハイドースが徐に手を掲げる。何もない虚空が、突如として輝きを放ち始めた。ハイドースの手に握られたのは、黄金に輝く光。実体はなく、形も定まらないそれからは、途方もない力を感じる。
「それは……」
「——神の器。我が妻を甦らせる為、我が求め続けたものだ」
ヘカティエの問いに、ハイドースは神の器を眺めながら答える。空っぽの、まだ何者にも染まらぬ無垢な器。
ヘリューズがハイドースの言葉に目を見開いて問うた。
「そんなものを一体どうして……」
「瓦礫の王。あれの中にある神の器を、我が抜き取ったのだ」
ハイドースは語る。この神の器とは、瓦礫の王の成れの果てであると。
瓦礫の王、数多の怨嗟と無念より生まれた悪鬼。だが、たとえそれが憎しみであったとしても、人の無数の感情が寄り集まったそれは、まごう事なき一つの信仰だった。
創造神の理から外れ、それは神となったのだ。
ハイドースは瓦礫の王に光を見出した。愛する妻を、この新たな神を依代に甦らせる事は出来ないかと。
それは狂気の発想だった。
「だが、神の器を抜き取るにはあれの纏う怨嗟は強過ぎた。へばりついた怨嗟を取り除かねば、無垢な器を得る事は叶わない」
「だから、俺達に瓦礫の王を仕向けた」
「如何にも」
白の皇帝の言葉に、ハイドースが頷いた。復讐として瓦礫の王を仕向け、褪せ人達に殺させた。全ては、己の妻を取り戻す為に。
ヘリューズが目を伏せる。
「もう……貴方は誰も信じていないのですね」
かつてのハイドースはもう居ない。死者を慈しみ、いずれ死にゆく生者の苦しみを憂いた慈悲深き神の姿は、最早どこにも在りはしない。
「…………」
静かにハイドースの語りを聞き、褪せ人はどこか既視感を覚えた。
強き器を依代に己が王を甦らせた、無垢なる黄金。ハイドースがやろうとしている事はまさにそれだった。
褪せ人が武器を抜く。ハイドースへと、一歩前へ出た。
「始めよう——儀式は既に成った」
ハイドースの言葉に、神の器が輝きを増す。庭園全てを眩い光が包み込む。何も見えぬ白光の中、感じるのは圧倒的なまでの力の気配。無垢なる器に、神の魂が注がれる。
「——異界の英雄、そして女神の信徒達よ。貴様達が罪を知り、世界を憂うならば、我らに道を譲り給え」
光の中、ただハイドースの言葉が響き渡る。
「——ハイドースと、我が愛する妻、ペルセフォネに」
次回VS超迷惑ラブラブ夫婦