高速戦艦は冥界においても遺憾無くその性能を発揮した。
薄暗く、冷たい死者の世界を、その船は轟音と共に駆け抜けていく。地上から仰ぎ見れば、或いは流星のように映ったかもしれない。
空を駆けるその船に、ハイドースからの妨害の手が及ぶような事はなかった。地上に現れた亡者のような冥界兵達もそうだが、ただ徒に被害を広げていくだけで、此方を足止めするという明確な意思は見受けられない。
それ故に、このままいけば何事もなくカルペムの案内のもとタルタロスまで辿り着くだろう。
だからこそ——
「貴方はもう少し自分がどういう立場なのかを意識してください。私達がどんな気持ちで——」
——褪せ人はただただアスバール達の説教に耐えるしかなかった。
ハイドースには少しばかり文句を言いたいところだった。適当に邪魔者をけしかけてくれた方が幾分はマシだったろうに。
高速戦艦の艦橋にて、褪せ人が冥界の外を見ながら小さく嘆息する。無論、そんな褪せ人の態度を見て、彼女達の説教が一層熱を帯びるのは言うまでもなかった。
「あれは駄目だな」
「怒られ方がなっちゃいねぇ。こういう時は嘘でも反省してるって顔しとかねぇと長引くだけだぜ」
「貴方達ね……」
王子とアトナテスが不器用な褪せ人を見ながら訳知り顔でそう言うのを、トラムは呆れたように嘆息する。
「そもそも、どうしてヘリューズ様だけ連れて行ったんです?」
「彼女が必要だったからだ」
問い掛けたフーロンに褪せ人が端的に答える。あまりに端的に過ぎたその言葉は、諸々の誤解を招きかねないものではあったが。
ヘリューズは、その言葉の意味を正しく理解しながらも、しかし喜びを隠そうとせずに褪せ人を庇い立てる。
「そ、そうですよ。彼には私が必要で……」
「ヘリューズ様?」
「え、えへぇ……」
無論、そんなヘリューズが許される訳ではないのだが。冥界よりも尚冷たいフーロンの視線に、ヘリューズはすごすごと引き下がる。
亜神すら怯ませる眼光をフーロンが習得した瞬間であった。
「……緊張感、ないわね」
高速戦艦の上で繰り広げられている光景に、カルペムはどこか呆れたように呟いた。
タルタロスの魔力に、今まさに飲み込まれんとしている物質界を前にしてどこか気の抜けるやり取りをしているのは褪せ人達だけではない。
興味深げに戦艦の内部を見て回る者。面識のない者同士で和やかに談笑に興じる者。覚悟を決めて物質界まで助力を乞うたカルペムも、思わず気が抜けてしまうというものだった。
「良くも悪くも、慣れてしまっているからな」
そんなカルペムに声をかけたのは皇帝だった。当の皇帝本人も流石に目前の者達程ではないが、自然体だ。
それも当然だろう。此処に居る者達は、これまで幾度となく世界の危機に立ち向かってきた英傑達。魔物が溢れ、魔王の魔の手が迫ろうとも、そして神々の身勝手すら跳ね除けんとする者達だ。今更この程度で悲観する程に惰弱ではない。
そして、彼らは別に慢心している訳でも油断している訳でもないのだから。
「……信じましょう。貴方達は瓦礫の王を退け、ペルセフォネ様すらも滅ぼしたのだから」
カルペムも、そんな彼らを疑っている訳ではない。何せ、彼等は既に結果を残しているのだから。ならば、狂えるハイドースが齎したタルタロスの呪いにもきっと打ち勝つのだろう。
英傑達を乗せた戦艦は、深く、冥界の深部へと辿り着きつつあった。
生者にとって冥界とは冷たく、暗く、恐ろしいものである。
それを差し引いても、目の前に広がる光景は異常としか言えなかった。
「何だ……これは……」
高速戦艦から降り立ち、目前に広がる光景に王子が思わず声をあげる。
広がるのは、無数の骸から成る道であった。人間、エルフ、或いは竜人に魔物。この世に生きるありとあらゆる生き物の白骨がそこに敷き詰められている。
白骨の道から外れれば、そこは奈落の底である。今、自分達が居る場所こそが冥界の底、最奥だというのに、それより下がどうなっているのかなど誰にも分かりはしない。
そんな奈落の底を覗き見れば、そこから伸びるのは無数の手だ。落ちてくる者達を引き摺り込もうと、或いは奈落の底から這い上がらんとするその手は真っ直ぐに天を——冥界の上にある生者の世界を目指している。
それぞれの手が絡み合い、或いは振り解き、我先にと天を目指すその様は、冥界の死とは別種の悍ましさを感じさせた。
「タルタロスの咎人、溢れる彼等が物質界に登り、泥濘となって生者の世界を穢していく……」
カルペムが無数の手を見下ろして、呟く。あれこそが、タルタロスの門より出でし罪人達なのだろう。永遠の牢獄を解き放たれ、終わらぬ苦痛から逃れんとする成れの果て。最早己の形すら忘れようとも、浅ましく、解放を渇望する者達。
そんな罪人達を解き放ったのは、無数の骸の道の、その先に佇む巨大な扉だ。長らく封印されていた扉は、ほんの僅かに開かれており、しかし見る者が見れば吐き気がする程の魔力がそこから流れ出ているのが分かる。
そんな扉の足元にハイドースは居た。
「————」
ハイドースは、以前見た時よりも遥かに弱々しく見えた。衰弱しているとすら言っていいだろう。冥界の王としての威厳はまるでなく、枯れ木の如く痩せ細り、口から漏れる言葉はまるで意味を成していないように思えた。
扉の前をハイドースはただ往復し、時折何かを呟いては再び歩き出す。
「ハイドース……」
ヘカティエはその有様に声を漏らす。止める為に、殺す為に彼女達はここに来た。だというのに、かつての主人、その哀れな末路に憐れみを抱いてしまった。
復讐に焦がれ、愛を求めた亜神は最早居ない。そこに居たのは、禁忌に手を出し、抜け殻と化した哀れな老爺ただ一人。
そんな老爺はヘカティエの声に立ち止まると、顔をあげる。そして、ヘカティエの方へと向き直ると声をあげた。
「おぉ……! ヘカティエよ、戻ってきてくれたか!」
心の底から喜ばしいとヘカティエに呼び掛けるハイドース。しかし、彼は依然として正気を失っていた。現に、彼はヘカティエを見ていながら、何も見えていない。
「冥界の魂達が怯えておるのだ……王として、彼等を守らねば……ヘカティエよ、どうか力を貸して欲しい。ヘリューズも、どうか怯える魂に声を掛けてやってはくれぬか?」
壊れ、正気を失くし、抜け殻となって尚王として振る舞わんとするそれは酷く痛々しく、哀れであった。
長く繰り広げた因縁の終端。その幕引きは酷くやるせないものであった。
「……ふざけた終焉だ。記憶も、自我すらも失くすとは」
皇帝が吐き捨てるようにして言う。この結末に納得がいかないのは、他ならぬこの男だろう。帝国を乱し、永きに渡る因縁に決着を付けたくとも、最早その男は最早届かぬところに行ってしまったのだから。
皇帝が神器を構え、壊れたハイドースへと歩いていく。慈悲であった。せめて、これ以上無様を晒す前に冥界の王として此処で屠ってやる事こそが、仇敵への手向けであると。
皇帝が近寄ろうとも、ハイドースに抵抗はない。あれ程に憎んでいた白の帝国の皇帝すらも、その視界に入っていない。その事を皇帝は腹立たしく思いながらも、しかし神器をゆっくりと振り上げ——
「——離れなさい! 皇帝!」
——ヘカティエの声に、皇帝はその場から飛び退いた。
その直後、ハイドースの身を黒い泥濘が包み込む。タルタロスから漏れた魔力が、壊れた亜神に何かを注ぎ込む。それは、誰かが明確にハイドースへと力を与えていた。
「——あぁ……ペルセフォネよ、まだ立ち止まる事を許してはくれぬか……」
脈動する泥は形を変え、ハイドースを守る鎧と化した。金に縁取られた黒い鎧。三つ首の獣を模した兜。それは遥か昔、女神アダマスが相対した原初の神の一人、そのあるべき姿。
「…………」
鎧を纏い、冥界の王はただ静かに佇んでいた。
静寂の中、しかし誰もが目前の存在に息を呑む。誰もが理解した。今目の前に居る者こそが、真に抗わなくてはならない神であると。
「——随分と、遠回りをしてしまった」
ハイドースが静かに口を開く。最早、その声音に弱々しさも、そして今まで感じていた身を焦がすような憎悪すらもありはしない。ただただ、覚悟を決めた神としての姿だけがそこにはあった。
「復讐に焦がれ、再会を望み、狂気に身を任せ……そこまで堕ちて、漸く己の為すべき事を思い出した」
静かに、穏やかで、だからこそ、今のハイドースは恐ろしかった。
感情に身を任せ、激怒していればどれ程良かったか。あれは、決して目の前の神の本来の姿ではなかったのだろう。
「——愛しているからこそ、我は殺すのだ」
憎くはある。アダマスを、それを信じる帝国の者達を許せはしない。だが、原点ではないのだ。
泥濘に身を包まれ、その中で微かに聞こえた妻の声で、ハイドースは漸く思い出した。
「——決着を付けようか」
ハイドースが槍を構える。その槍もまた、かつての姿を取り戻していた。黒金の、禍々しい翼を模したそれは、槍というよりも斧槍のようでもあった。
「あぁ、終わらせよう。俺達は止まらない。この世界を、殺させはしない……!」
皇帝の言葉に、アダマスの神器が光を放つ。
此処に、冥界の王との最後の神話が始まろうとしていた。
「——さて、お前達にこの武装を見せるのは初めてだったか」
武器を抜き、相対する英傑達を前にしても尚ハイドースの声は凪いでいた。静かに、そして悠然とハイドースは語る。
「見せてやろう、原初の神——大神と呼ばれしその力を」
その宣言と共に、ハイドースの身体は闇へと溶けた。
「消えた……!?」
フーロンが声をあげる。ハイドースの姿が消えた。あれ程に存在感を放っていた神が、気配も、魔力も、或いは音すらも残さずにその場から消える。
タルタロスの魔力が渦巻く闇の中、夢現だったのかとすら思わせる程に。
「気を付けなさい! ハイドースの神器は姿隠しの兜! 一度見失えば見つけるのは不可能よ!」
「そんなの気を付けようが——」
ヘカティエの警告に、トラムが思わず反論しようとした時——
「ガフッ——」
——褪せ人の胸を巨大な槍が貫いた。
「なっ……!?」
突然の出来事に王子が思わず目を見開く。
心臓を貫かれ、息絶えた褪せ人をハイドースは何の感慨もなく槍を振るって投げ捨てる。
骸の山へと投げ捨てられた褪せ人が、白骨を血で濡らし、ぴくりとも動かない。
「いつの時代も、英雄の幕引きというのはつまらないものだ」
「————」
つまらなそうに吐き捨てるハイドースに、フーロンが氷雷刀を手に肉薄する。
その表情は怒りと殺意が振り切れ、能面のような無表情。青く輝く刀身を、ハイドースの首元目掛け振るい——容易く受け止められる。
「怒る事も、嘆く事もない。離別の苦しみは、我が世界にはありはしないのだから」
「ぐぁ……!」
槍で刀を受け止めたまま、ハイドースはフーロンを殴り飛ばす。大神と化したハイドースの膂力はこれまでと比して尚強まっている。身体が千切れる事が無かったのは、ひとえにフーロンの身体が頑丈であるが故だろう。
そして、ハイドースを捕らえる者は居らず、再びその身体は闇へと消える。
「真正面からやり合っても厄介だってのに、反則だろ!」
アトナテスの言葉は、この場に居る者達の総意であった。かつての力を取り戻したハイドースは、ペルセフォネと同じ領域に居る。それ程の超越者が、隠密に徹して此方を殺しにくるのだ。
音もなく、気配を感じさせず、抗う事すら出来ずにその刃は己の臓腑を抉り取る。
今のハイドースは冥府の神でなく、正しく死の神であった。
「次は、一体どこから……!」
警戒しようにも、打てる手立てはない。姿なき死神に、ただ振り下ろされる刃を待つ事しか出来ない。
そして、その時は直ぐに訪れた。王子の背後、音もなくハイドースが姿を現す。既に構えたバイデントは、ただ王子を刺し貫くのみ。
静かな殺意と共に放たれたその一撃は——しかし王子へと届く事はなかった。
「神の一撃も、大した事ないですね!」
「何……」
ハイドースの槍を受け止めたのは、白亜の壁。それを成したのは当然、カゴメであった。
「我が神器を破ったというのか?」
「アタシにはそんな力ありませんよ? だから、頑張って考えたんです! アタシが貴方なら、誰を狙うのかを」
存在を消す神器に対し、カゴメが対抗出来る能力などありはしない。だが、それは彼女が頑張らない理由にはならない。
故に、考えたのだ。この英雄達と戦うにあたって、自分ならどうするのかを。褪せ人を殺し、次に誰を狙おうとするのかを。
「褪せ人を最初に狙ったのは、強いという事以上に、私達の士気を折ろうとした……違いますか?」
「……侮ったつもりは無かったのだが」
ハイドースの返答は、カゴメの言葉を肯定するものだった。
精神的支柱を折り、人を試す。そういった行為を神々が好むのを彼女は亜神ディアスを通してよく知っていた。
ならば、次に狙われる相手も絞られていく。皇帝か、王子か、或いはアスバールやヘカティエだろう。
故に、カゴメは己の分身を彼らの傍に忍ばせた。此方の狙いを悟られる事なく、姿なき神が現れるのを待ち——果たしてそれは功を成した。
「見事だ、妖怪よ。まさか我がこうして手玉に取られるとは」
ハイドースは素直に賞賛の言葉を投げかけた。まさか妖怪一人に、己の神器が破られるとは。
とはいえ、それは彼女にとっても薄氷の勝利には変わりない。そんな奇跡が何度も起きるはずがないのだから。
「分からず屋の貴方に、教えてあげましょう!」
だが、それでも目の前の妖怪は笑ってみせた。不敵に、或いは悪戯好きな子供のように。
ハイドースはそれに疑問を持ち、そして背後から迫る死に気が付いた。
「——人間は頑張れば生き返るんですよ?」
「馬鹿な……!」
背後に迫るのは、キメリエスの槍を構えた褪せ人の姿であった。紅の魔力が漆黒の槍を覆い、その権能をもってハイドースを穿たんとする。
「ぬぅ……!」
防ぐのは不可能。瞬時にそれを読み取ったハイドースは自身のバイデントを振るい、褪せ人の振るう槍の腹を叩く。
逸らされた一撃はハイドースの身を削る事なく、僅かにその黒金の鎧を掠めた。
「貴様……! 何故……!」
「頑張ったんですよ!」
「カゴメはちょっと静かにしてましょうね……」
五体満足の褪せ人に、さしものハイドースも狼狽える。
褪せ人はそれに応じる様子もなく槍を仕舞うと、鋭く尖った、古い隕鉄の大剣を取り出した。
「そうか……貴様、外なる神をその身に……!」
「……」
褪せ人がそれに答える事はない。
古隕鉄の大剣が、その輝きを放つ。白光をたなびかせ、ハイドースに向けて突撃する。
「ぐっ……!」
恐れを知らぬ突撃。ハイドースはそれを真正面から受け止める。大剣の切先をバイデントが受け止め、しかしそれは褪せ人の狙い通り。
隕鉄の裂け目から、白光が爆ぜる。その光は、ハイドースの巨体を飲み込んだ。
「ぐおぉ……!?」
白光はハイドースの鎧を越え、その身を焼いた。堪らずハイドースはその場を飛び退く。褪せ人も、それ以上の追撃を選択する事はなかった。
「……不遜なものだ。冥界の王を前に、死の理を捻じ曲げるとは」
白光に焼かれたハイドースだが、それは決定打にはならなかった。褪せ人の復活に狼狽えはしたが、その程度で神たる根幹は揺るがない。
「
「知った事ではない」
冥界の王を前にして、しかし褪せ人は斬って捨てる。まだ終わる訳にはいかない。この世界では、まだ己は戦えるのだから。
ハイドースもまた、褪せ人の静かな覚悟に目を細めた。そして、褪せ人へと告げる。
「死んでもらう、今度こそ」
ハイドースが宙に浮かぶ。バイデントを構え、その莫大な魔力を込める。
「黒き炎よ、冥界の焔よ……。我が刃に宿りて戦場に降り注げ……」
バイデントに、冥界の炎が集まっていく。以前、ペルセフォネとの戦いで行ったそれとは比べ物にならない程の魔力の奔流を、大神ハイドースは制御してみせる。
「何て魔力量……!」
ヘカティエも、ヘリューズも目を見張る。魔術神であるが故に、それを振るう規格外さを、正確に理解する。
尚も膨らみ続ける炎を前に、ハイドースは厳かに宣言した。
「——死して学ぶがいい。これこそが大神の一撃である」
冥界の天蓋を覆い尽くすようにして、無数の黒炎の槍が降り注いだ。