甘い香の匂いが鼻腔をくすぐる。
朱塗りの柱が並ぶ回廊を抜け、褪せ人は案内されるままに部屋へと通される。
「此方の部屋でしばらくお寛ぎください。何かご入用でしたら外の侍女に何なりとお申し付けください」
侍女が柔らかな声でそう言うとゆっくりと部屋の扉を閉める。
褪せ人は周囲を見回す。王国の城内は見慣れたものだが、国が変われば王宮というのも随分と違うらしい。
精微な彫刻を施された木の衝立。水墨画の掛け軸。丁度最近屋敷に飾られたものと似たような意匠の机。
美術品というものにはまるで知識は無いが、壊せば相応に面倒な事になるのだろうという程度の事は褪せ人にも分かる。
気軽に壺や机を破壊していたのが随分と昔に感じる。
「あぁ、意外と似合っているではないか」
先にこの部屋に通されたであろう金光聖菩が褪せ人の姿を見るなり微笑んだ。まるで自分の部屋のようにゆったりと椅子にもたれ掛かる様は流石華の国の邪仙と言うべきか、酷く様になっていた。
今の褪せ人は常の装いとは異なり、華の国の伝統的な衣に身を通している。
何も考えず鎧姿の完全武装で宮廷に入るつもりだったが、どうやら此処は王国とは違うらしい。武器を持ち歩いている事も、鎧を着ている事も見咎められてしまった。
「それに関しては王国が異常という他あるまい」
金光聖菩が苦笑いを浮かべる。いつになく柔らかい態度に、褪せ人は違和感を覚えながら彼女の向かい側に座る。
「今回の招待。穏やかに終わるとは思っていまい」
しばらくの沈黙の後、褪せ人は話を切り出した。
単に褪せ人だけならば問題は無かった。だが、華の国は元十天君である金光聖菩まで名指しで招待しているのだ。国を混乱に陥れた邪仙の一人。いくら早々に裏切り、最終局面で通天教主を討つのに手を貸したといえど、態々招待するのには別の狙いがある事など見え透いていた。
「無論、分かっておる。私とて、何も考えずに此処に来た訳ではない」
金光聖菩は笑みを崩す事なく褪せ人にそう言う。
今回、王国とは別行動である。殆ど形骸化しているものの、褪せ人は傭兵である。故に、その功績は個人のものとして扱われる。
王国もまた似たような内容で招待されているが、別室なのを見れば明確に区別されていると考えて良いだろう。
「お前が心配するような事は起きぬよ。お前はただ、手に入る褒賞の事だけ考えていれば良い」
「……ならば、良い」
金光聖菩本人がそう言うのであれば、褪せ人の方からこれ以上何かを言うつもりは無かった。
部屋で待つ事暫く。扉が開かれ、同じ意匠の衣を着た侍女達が入ってくる。
「お待たせ致しました、褪せ人様、金光聖菩様。謁見の間へとご案内致します」
——華王、誅子
褪せ人が彼女について知る事は少ない。
華の国の当代の王であり、十天君が国を荒らし、混乱の渦中にあるにも関わらず民を見捨てて逃げ出した愚王。世間でそう言われている程度にしか知らない。
「——ふむ、お前が褪せ人か」
謁見の間、褪せ人達を玉座の上で見下ろすのは一人の女。この女こそが、この華の国の頂点に立つ王なのだろう。
成程確かに、纏う覇気は王子や皇帝にも引けを取らない。威風堂々とした立ち振る舞いであった。
「…………」
褪せ人は誅子の言葉に何も返す事なくただ視線を向けるのみ。頭を下げる事もなく、ただ沈黙を貫く偉丈夫の姿に、周囲の家臣達の視線が厳しくなる。
そんな視線に、誅子が鋭い声を飛ばす。
「よせ。我が国を救ってくれた大恩人だぞ。感謝こそすれそのような視線を向けるものではない」
誅子の一言に、家臣達は頭を深く下げ、褪せ人から視線を外した。誅子が小さく嘆息し、気を取り直したように褪せ人へと視線を向ける。
不意に、褪せ人は誅子へと口を開いた。
「何処かで会ったか」
「……さて、どうだったかな。生憎と、余は初めてだと思うが」
褪せ人の問いに、誅子は口角を上げながら答える。
褪せ人もそこまで気になる事では無かったのだろう。誅子の言葉に、それ以上食い下がる事はなかった。
そして、再び誅子が口を開いた。
「此度の件、華王として感謝を申し上げる。ついては褒賞として——」
「——それはどうでもいい」
誅子の言葉を、褪せ人が遮った。
流石にこの対応は目に余ったのだろう。誅子のそばに控えていた、青龍刀を持った女が明確に褪せ人へと殺意を飛ばす。
だが、当の誅子は愉快とばかりに笑っていた。
「くく……王子から聞いていた通りの男よ。良かろう。褒賞がどうでもいいと言うならば、申してみよ」
「お前達の本題は別にあるのだろう。それを話せ」
褒賞など、建前に過ぎないのだろう。謁見の場で、武装した衛兵達が見ているのは褪せ人ではなく、先程から一言も言葉を発さない金光聖菩なのだから。
誅子は褪せ人の言葉に、ゆっくりと頷いた。
「ふむ……では単刀直入に言おう。元十天君、金光聖菩の身柄を引き渡してもらいたい」
大方の予想通りの言葉を、誅子は褪せ人へと告げた。
「元々は王国に要請する事だったのだがな。しかし彼奴……王子がお前に伝えろと言って聞かんのだ。一介の傭兵、されど我が国の大恩人たるお前に何も言わない訳にはいくまい?」
誅子はつい先程まで会談していた王子の様子を思い出して疲れたように言う。
王国領内に逃げ出した金光聖菩の身柄を引き渡せ。そんな要請に対して、王子は否を突き付けた。それに応じるのは己ではないと。多少強めの言葉を使っても、その答えは変わらなかった。
「見返りとして、王子達には神の決戦に際して我が国の全軍を提供すると約束してある。そちらにとっても、悪い話ではないと思うが?」
一国の軍を全て預ける。そんな破格の条件をただ一人の邪仙の為に提示する。それは誅子が、ひいては華の国が本気で金光聖菩の命を欲しているという証左でもあった。
断ればただでは済まない——言葉にせずとも、そう言っているのは明らかである。
「さて、返答は如何に?」
断られるとは微塵も考えていない。謁見の場で褪せ人が沈黙を貫く中、金光聖菩が一歩前に出る。
「もう、良い」
それまで言葉を発さなかった金光聖菩が口を開く。覚悟を決めた表情で、誅子へと視線を向ける。
「……約定、違えるでないぞ」
「無論。華王、誅子の名において、必ずや決戦の日に約束を果たす事を誓おう」
誅子の誓いの言葉と共に、衛兵の一人が金光聖菩へと歩き出す。金光聖菩もまた、其方へと一歩踏み出そうとして——
「——まだ答えた覚えはない」
——褪せ人が金光聖菩の腕を掴んだ。
「なっ……!? 何のつもりだ!?」
腕を掴まれ、金光聖菩が動揺を露わにする。全て丸く収まろうとしていたというのに、何故この男はそれを乱す。
誅子もまた、これまでとは違い、冷たい目を褪せ人へと向ける。
「ほう……断るつもりか? その邪仙が、この国で何をしたか知らぬ訳ではあるまい」
「無論。だが、気に入らない」
誅子の問いを、褪せ人は斬って捨てた。
この女は己を人質に使ったのだ。断れば、この男の身の安全は保証しないと、金光聖菩の動きを縛る為に。
「馬鹿……! 華の国と事を構えるつもりか!?」
「少し黙っていろ」
「……っ!?」
金光聖菩が鼻白む。
一方的に襲いかかってきて、今更しおらしくされても困るというものだ。今更、この程度の脅しに動じると思われているのも癪ではある。
「その女を庇ったとて、お前達に何の得もありはしまい。一体、何が気に食わぬ?」
一気に緊迫し始めた空気の中、褪せ人は誅子へと視線を向ける。
誅子もまた、無言で褪せ人を見下ろしていた。返答を間違えればただでは置かない。そんな言葉なき重圧を前にして、褪せ人は
「——逃げ出した王の思い通りになるのが気に入らない」
直後、謁見の間の空気は一変した。
抑えきれないばかりの殺意。己の王を馬鹿にされた事に、家臣達は怒りすら生温いとばかりに褪せ人を睨め付ける。
「……取り消せ。傭兵風情が少しばかりの功績で舞い上がったようだな」
誅子の側に控えている武人が唸るような声で告げる。今にも褪せ人の首を刎ねようと飛び掛からんばかりであった。
だが、何よりもこの謁見の間を重苦しくしているのは、揶揄された誅子本人だ。
「…………」
能面のような無表情。怒りなのか、或いは別の何かなのかすら伺う事は出来ない。先程までの自信と余裕ある王の姿は消え失せ、しかし彼女の持ち得る全てを総動員して己が感情を殺していた。
長い沈黙の後、誅子が重々しく口を開く。
「……交渉は決裂、という事で良いな?」
「この女が欲しければ——」
褪せ人は固まってしまった金光聖菩の腕を引き、己のもとへと引き寄せる。
肩書きも、血統も己を従わせるには足らない。それでも尚、我を通さんと言うのであれば——
「——押し通れ」
——力こそ王の故である。
褪せ人の手に武器が握られる。竜姿を象ったハルバード。鈍く輝くそれが、謁見の間で妖しく光る。
「なっ……!? そんなもの、一体どこに……!?」
身の丈程もある長柄の武具が突然握られている事に家臣達が瞠目する。武器については、この宮廷に来た時点で全て預けさせた筈なのだから。
気が付けば、その装いも変わっている。この国の伝統的な法衣から、鈍い鉄の輝く重厚な鎧へと。
誅子が冷たく嗤う。
「面白い。大道芸でも食っていけそうだな」
「太公望」
誅子の冷笑を無視して、褪せ人は仙人の名を呼んだ。
あらかじめ待機していたのだろう。どこからともなく現れた太公望に、金光聖菩を押し付ける。
「
「お見事です。予定よりも、見事な煽りでした」
自身の霊獣に金光聖菩を乗せながら太公望は笑みを浮かべる。敵を煽り、その本音を引き出す。彼女の得意とするところであるが、褪せ人は見事に役目を果たしてくれた。未だ姿を現していないが、釣れるのは後少しだろう。
霊獣に跨り、謁見の間を後にしようとする太公望に金光聖菩が困惑の表情を浮かべる。
「待て、予定通りとはどういうことだ。まさかお前達最初から——」
「はい。自己犠牲に走るであろう貴方を救い出すつもりでした。まぁ、そこに別の思惑がある事も否定しませんが」
「……っ!!」
己の覚悟も、太公望達の手のひらの上。その事に屈辱を覚えながら、しかし褪せ人に救われたという事に言いようのない感情を覚え、金光聖菩は声にならない叫びを上げた。
「くっ……! 覚えておけよお前達……! 褪せ人よ、必ず生きて戻れ! それだけ格好を付けたのだ! 私以外に負けたら承知しないからな!」
「無論」
開け放たれた窓から太公望達が逃げる。慌てて家臣の一人が衛兵に叫ぶ。
「逃すな! 十天君を逃がせば華国の未来が……!」
弾かれたように動き出す衛兵達の前に、褪せ人が立ちはだかる。
扉の前にただ一人。味方は居らず、敵陣の中だと言うのにその揺るぎなき姿は堅牢な壁を思わせた。
「押し通れと、そう言った筈だ」
叫んだ訳ではない。だが、その声に衛兵は扉の前まで進めなかった。
彼らとて華王誅子の近衛を任された歴戦の兵。或いは、だからこそだろうか。これより先は死地であると、言葉にされずとも理解出来てしまった。
「ふん、見かけ倒しではないみたいだ」
だが、死地とわかっていても尚、踏み入れる者は居る。
誅子の側に控えていた青龍刀の女。恐らくは、側近中の側近だろう。
「我が王への無礼。我が祖国を害した罪人の逃亡幇助。華国を敵に回す事がどういう事か分かっているのかい?」
他の近衛とも格が違う。涼しげな顔で、しかし青龍刀を握る手は怒りからかギチギチと音が鳴っている。
それを見て尚、褪せ人の表情は崩れない。
「三度は言わない」
「なら押し通らせて貰おうか!!」
青龍刀を構え、女が褪せ人へと駆ける。
「我が名はフェイロン!! とくとその身に刻むがいい、お前の首を刎ねる武人の名だ!!」
名乗りと共に青龍刀を振りかぶる。
武成豪侠、華の国でそう称される武将が彼女の一撃はその細腕からは想像もつかない程の力で振るわれた。
鋼を砕くその一撃。しかしそれは褪せ人のハルバードによって容易く弾かれる。鍔迫り合いにすらなりはしない。
「——っ!?」
フェイロンは仰け反りながら目を見開く。
格上なのは理解していた。そして、その上で見誤ったのだ。目の前の相手は、決死の覚悟で殿を務めたわけではない。
本気でこの場を制圧するつもりなのだ。
「……!」
褪せ人が腰だめに構えたハルバードを振るう。長大なハルバードが音を置き去りにして風を裂く。その規格外の一撃はフェイロンを薙ぎ払った。
「カハッ……!?」
身体をくの字に曲げ、フェイロンは謁見の間の吹き飛ばされる。音を立てて床を転がり、玉座に近い柱に激突して漸く止まった。
「ぶ、武成豪侠が……一撃で……!?」
「こ、これが通天教主を討ち果たした男の実力……!」
フェイロンの力量を知っているが故にその動揺は大きい。数多の武侠がひしめく華の国で、伊達や酔狂で王の側近として立てるわけではないのだ。
そして、だからこそ証明されてしまった。目の前の男が通天教主を屠った、疑う余地のない英雄であるという事を。
褪せ人はゆっくりと構えを解くと、周囲の衛兵達を睥睨する。言葉なくとも、次は誰かと問うているのは明らかだった。
しかし、死地に踏み入れようとする者は居ない。褪せ人は小さく息を吐きながら、それはそれで都合が良いと思い直す。
時間は稼げれば稼げる程良い。今頃太公望達は王国と合流し、都から離れる算段を立てているだろう。
二の足を踏む兵士達に、誅子が息を吐き、玉座から立ちあがろうとして——
「——待て……勝負はまだ、終わっていないぞ……!」
フェイロンが立ち上がる。褪せ人の一撃を受け、一瞬意識が飛んでいた。肋骨は折れ、内臓にも傷を負ったのだろう。込み上げる血を吐き捨てながら、それでも褪せ人を睨み立ち上がる。
そんな忠臣の姿に、誅子は心底から労わるように声を掛ける。
「よせ、お前も分かっているだろう。死ななかったのではない、殺されなかっただけなのだ」
玉座の上で見ていたからこそ分かる。あの男は情けを掛けていた。本来ならば、吹き飛ぶ事すらなくフェイロンの胴は泣き別れて足元に転がっていただろう。
油断した、怒りに常の全力が出せなかった。どう言い繕おうとも、あの場で彼女は死んでいた。
「誅子様……! ですが……!」
「お前の実力は疑っていない。ただ、あれが強過ぎるというだけの話だ」
言いながら、誅子は今度こそ玉座から立ち上がると、側に立て掛けていた大刀を握る。途端、誅子の闘気が膨れ上がった。
「力こそ王の故……だったか?」
一歩、また一歩と階段を降りていく。大華の頂点、彼女もまた風評はどうあれ希代の傑物に他ならない。
そして、華王は降りてきた。褪せ人と同じ場所まで、その力を示す為に。
「ならば見せてやろう。我こそが華王、誅子である——」
「——何をやっているのです、誅子?」
今まさに、開戦の名乗りを上げんとしたところで、女の声が響いた。
この場に居る誰のものでもありはしない。だが、名を呼ばれた誅子は、どこかうんざりとした調子でその声に応える。
「これからだというのに、間の悪い奴め」
「そのような。私としては、目を離した隙にこんな事になっているとは思っていませんでしたが」
玉座の影から、音もなく一人の女が現れる。
恐らくは、あの女こそが太公望が釣ろうとしていた邪仙だろう。代々の華王に仕え続け、影より大華を守り続けてきたこの国の機構。
女が漸く褪せ人の方へと向き直る。笑みを張り付けてはいるが、その目はどこまでも冷たく、敵意すら滲んでいる。
「聞忠と申します。覚えずともよろしいですが」
そう言い放ち、聞忠もまたふわりと誅子の側に降り立った。
「貴方が逃がした金光聖菩ですが、今は私の追手に追われている最中です。遠からず、捕まる事でしょう」
微かな嘲笑と共に聞忠が言う。既に時間稼ぎは無意味であると、お前の思惑などとうに看破しているのだと。
しかし、それを聞いて尚、褪せ人が動じる事は無い。
「ふむ……随分と信頼しているのですね。いや、信頼しているのは王国、と言ったところでしょうか?」
挑発に乗らない事に不服そうな顔を浮かべ、聞忠が言う。
太公望からは、再三に渡って注意されていた。この邪仙を相手に気を緩めてはならない。
大華を陰より支えてきたその手腕。磨き上げられた仙術。それらは邪仙の中でも抜きん出ている。或いは金光聖菩に勝るとも劣らない。なまじ絡め手を好むが故に厄介であると。
しかしそれ以上に恐ろしいのは、彼女は忠義に篤く、過保護で、視野が狭く、故にこそ何をしてきてもおかしくはないという事であると。
「さて……随分と誅子を虐めてくれたようです。傭兵というのは、無礼なのが売りなのでしょうか?」
周囲を見回し、聞忠が呟く。
満身創痍のフェイロン、慄いたまま動けない近衛、そして今まさに大刀を振るわんとする誅子。
大華の敵。そう判断するには十分な状況である。聞忠はその手に宝貝を握る。幾多の棒を、輪で一つに繋いだ、多節鞭と呼ばれるものだ。
聞忠が徐に腕を振るえば、鋭い音を響かせて足元の床が裂けた。
「身の程を弁えない駄犬には教育が必要です」
静かに、張り詰めたような殺意を湛えて邪仙は相対する。
褪せ人も、その殺意に応じるように武器を構えるのであった。
次回、鞭打ちプレイ