「オリュンポス第三層、それは幾つもの世界を内包し、やがて滅びる運命を創造神より与えられた場所でした」
濃い霧が立ち込める森の中、ヘリューズは青い炎で照らしながら前を歩く。
今、彼女達が足を踏み入れているのはオリュンポス第二層の崑崙より続く第三層の世界。
「滅びる運命……ですか?」
「えぇ、遥かなる未来で、それぞれの世界はぶつかり合い、最終戦争を引き起こす。第三層の神々は、その来たる日を待ち続けているのです」
まぁ、創造神がどうしてそう定めたのかは分かりませんが。
イリスの疑問にそう答えながら、ヘリューズは森の中を迷いなく先導する。
最終戦争。来たるべき滅び。それを当然のように語るヘリューズに、やはり亜神と人では価値観が違うのだと思い知らされる。
終わりなき神々の、最期の戦い。それはある種の寿命のようなものなのだろうか。
「…………」
「どうかしたのかい?」
どことなく、褪せ人の雰囲気が違う事に気付いたタラニアが問い掛ける。
先の見えない霧の彼方が、狭間の地を訪れた頃を思い出させた。随分と昔の筈だが、思い出したのは久しく見ていなかった夢を見たからだろうか。
「……昔の事を思い出しただけだ」
「…………」
らしくもない感傷を切り上げ、褪せ人は何事もなかったかのようにいつもの調子を取り戻した。
夢で過去を覗き見た者達は、どこか居心地悪そうに目を逸らした。
「そういえば、呼び名どうこうの話はどうなったの?」
「あー……結局まとまらなかったよ。本人も別に気にしてないしね」
アブグルントの問いに、タラニアが苦笑い気味に答える。
夢の件があった後、珍しくイリスが褪せ人の呼び名を変えてみないかという提案があったのだ。
騎士様、英雄様といった平凡なものから殿、ご主人、継承者、果ては灰の人、私の貴方、其処許などの訳の分からないものまで。
夢を見た者、そうでない者も含め、王国の者達から広く候補を募ったそれは、案の定収拾がつかなくなって流れてしまった。
当の本人はそもそも気にしておらず、結果今まで通りが収まりが良いという結論になった。
「本人が名前覚えていたら良かったんだけどね」
タラニアがそう言うも、それは望み薄だった。彼女達の常識では、己の名前を忘れるなど早々あり得るものではない。だが、壊れ、正気を失った者達が跋扈するあの世界を見た後では、何も言えなかった。
しばらく歩き続け、王子が不意に口を開く。
「目指している場所はまだなのか?」
「そうですね……記憶が確かならそろそろなのですが……」
そうヘリューズが返した直後だった。
霧の立ち込める森の先で、微かに聞こえてきた。それは、楽器の音色だ。何者かが奏でるそれは、美しく、どこか悲哀を帯びた旋律だった。
「音楽……?」
「……向かいましょう」
訝しげな一行をヘリューズは促し、旋律の響く先へと進む。
楽器の音が近付くにつれ、霧は徐々に晴れ、次第に視界が開けていく。
森を抜けた先、そこには荒れ果てた街があった。
「街……いえ、これは廃墟でしょうか」
元始天尊が辺りを見渡す。
石造の建物は崩れ落ち、石畳は焼け焦げている。城壁と思しき石壁には見上げる程に巨大な剣が突き刺さり、さながら墓標のようであった。
「——此処は貴方達が穢して良い場所ではありません。今すぐに立ち去りなさい」
戦場跡を見渡していた一行の頭上へと、警告の声が響き渡る。
見上げれば、城壁の上に一人の女。金の髪に、赤目青目の女であった。その手に抱えるのは巨大な白金の角笛。恐らくは、この女こそが旋律を奏でていた本人。
敵意を向ける女に対して、ヘリューズが一歩前に出る。
「待ってください。私達はアスガルドに敵意はありません」
「貴方は……!」
「ヘリューズ。追放された身ではありますが、故あって戻って来ました」
ヘリューズの名に目を見開き、驚きを示した女であったが、やがてその目に憎悪と敵意を滲ませ始める。
「反逆者ヘリューズ、亜神イコルの妹……!!」
女は城壁の上で角笛を構える。そして、勢いよく吹き鳴らした。
響き渡る角笛の号砲。吐き出されるのは、不可視の音の砲弾。
「なっ……!?」
問答無用とばかりに放たれた攻撃に、褪せ人が前に出て大盾で受け止める。強烈な衝撃に僅かに眉を顰めながら、しかしその一撃を受け切って見せる。
「ごめんなさい。思った以上に嫌われていたようです」
「それだけではなさそうですが……」
困ったように眉を下げるヘリューズ。ヘリューズの事情についてはある程度聞いている。しかし、元始天尊はそれ以上の何かがあるように感じた。
アスガルドを追放された魔女であったとしても、少しばかり尋常な様子ではない。
「いずれにせよ、問答無用で攻撃というのは穏便ではありませんね——はっ倒しましょう」
「あの、穏便に……」
フーロンの遠慮がちな呟きは風に消える。知性派きっての武闘派、今のところ武闘派要素しか出てきていない。
元始天尊が褪せ人へと目を向ける。
「彼女には少し悪いですが、修行の成果を見せる良い機会です」
元始天尊の言葉に、褪せ人は大盾を仕舞うと武器を取り出した。それは、赤い刀身の刀であった。
「その武器は……!?」
女は目を見開く。一目見て、それが尋常な武器ではない事を悟ったからだ。
度重なる戦いを経て刃毀れした刀身。刀身が赤いのは、斬り殺した者達の血を啜り、拭えぬ色として染み付いているからだ。
おおよそまともな刀ならば使い物にならないような代物。だが、この刀はそんな常識の外にある。
あんな刀を持った人間がまともなはずがない。女の敵意が一層膨れ上がり、角笛を吹き鳴らす。
「来たれ、獣達よ!!」
角笛の音に、獣達が現れる。鹿のような光り輝く角を持つ獣、エイクシュニル。
エイクシュニルもまた、褪せ人に対し敵意を露わに低く唸る。女の敵意と獣達の様子を見て、タラニアは口を開く。
「武器のチョイス絶対間違えたよねこれ」
「間違えていない」
元始天尊の修行下において、王子達が基礎的な能力の底上げを行う中、褪せ人はただ武器の扱いにのみ専念した。
その成果を確かめる手段として、相応の技量を必要とする刀を選ぶ事に何らおかしいところなどない。
「他にも普通の刀持ってましたよね?」
「…………」
胡乱な目を向けるフーロンを無視して、褪せ人は大地を蹴り、飛び出した。
屍山血河、数多の人を斬り捨てた呪刀。断じて技量が身についたら振り回したかったなどという安直な理由で選んだわけではない。
飛び出した褪せ人の背に、ヘリューズの声が掛かる。
「気をつけてください。彼女は号砲の亜神、ハリンヘイム。オリュンポス第三層の門番です」
警告を聞きながら、褪せ人は不可視の砲弾をローリングで躱す。
「この……!」
砲弾を外し、ハリンヘイムは歯噛みする。
見えずとも、ハリンヘイムの動きを見れば砲撃の着弾位置は自ずと分かる。その威力には目を見張るものがあるが、恐らく目の前の亜神はそれ程戦いを得手とはしていない。
「グウゥゥ!!」
駆ける褪せ人に、エイクシュニルもまた駆け出してくる。巨体と共に輝ける角を褪せ人へと向け、猛然と肉薄する。
「……」
エイクシュニルを正面から見据え、褪せ人は屍山血河を構える。
呪われた血が、刀身を覆い新たな刃を作り出す。
「……!」
放つは2連撃。交差するようにして振るわれた刀は今まさに刺し貫かんとしていたエイクシュニルの角を斬り落とした。
「ヴッ!?」
岩の如き硬さを誇る角を容易く斬られ、エイクシュニルが動揺を露わにするよりも速く、褪せ人が再び屍山血河を振るう。
再びの2連撃は、エイクシュニルの胴を斬り裂いた。遅れて、斬られた断面から夥しい程の血が噴き出す。斬られたからではない。その刀身に宿る血の呪いがエイクシュニルに出血を強いたのだ。
茶色の毛皮が鮮血に染まる。最早声すら上げられないエイクシュニルに、褪せ人は屍山血河を振り上げると、その首を一瞬にして斬り落とした。
「……ッ!?」
崩れ落ちるエイクシュニル。鮮血を被り、身体を赤く染めた鎧の男にハリンヘイムは狼狽する。
あまりにも機械的な、研ぎ澄まされた剣撃。感情すら感じさせないそれは、果たしてワルキューレ達とて同じ事が出来ただろうか。
ハリンヘイムは地上の事など知る由もない。何故物質界の人が亜神を連れてアスガルドにやって来たのかも。だが、今のアスガルドに足を踏み入れるのは誰であっても許すつもりはない。
「不確定な要素は排除します……!」
角笛を構え、ハリンヘイムが褪せ人へと砲撃を放つ。
しかし、既に見切っている褪せ人には通用しない。進軍を阻まんとする獣達を一刀の下に斬り捨て迫る。
「コイツ……!」
まるで通用しない攻撃にハリンヘイムが苛立ちを露わにする。
褪せ人は城壁を登り、既に目前まで迫っていた。
「だけど、ここなら……!」
ハリンヘイムが再び角笛を構える。城壁の狭い足場、先程までのように横に飛んで避けるような真似は出来ない。
「……!」
無論、褪せ人もそれは承知の上。褪せ人は手に持つ屍山血河を仕舞うと、別の武器へと持ち替える。それは円刃の逆手剣だった。
持ち替えたその円刃を、褪せ人は躊躇なくハリンヘイムへと投擲する。迂回するように曲がった軌道で飛んだそれは、今まさに吹き鳴らさんとしていたハリンヘイムの角笛を弾いてみせた。
「くぁっ!?」
明後日の方向を向き、不可視の砲弾は何もない宙に向けて放たれる。再び角笛を構えようとしたハリンヘイムの喉元に、冷たい刃の感触が添えられた。
「修行の成果はあったようですね」
円刃を突きつけられ身動きの取れないハリンヘイムを見て元始天尊は勝負が決したのを悟る。
彼に施した武器の手解きは、想定以上の成果を上げていた。もとより不足していたのは技量。その伸び代は思いの外大きかった。
そして彼の場合、使える武器が増えるという事はその分手札が増えるという事。未だ元始天尊をして底知れなさを感じさせる褪せ人に、笑みを浮かべる。
「鍛え甲斐がありますね」
「武闘派が漏れていますよ」
呆れたようにヘリューズが呟く。
ハリンヘイムは角笛をその場に落とすと、諦めたように口を開く。
「雷神のようにはいきませんでしたか……殺しなさい」
「殺しません。先も言ったように、私達はアスガルドの神々と敵対しにきたのではありませんから」
ヘリューズの言葉に、褪せ人が添えていた刃がハリンヘイムの喉元から離れる。
解放されたハリンヘイムは抵抗する様子なく、自嘲するように力無く笑った。
「アスガルドの神々なんて、私以外にもう居ませんよ」
「……どういう事ですか?」
崩れ落ちた廃墟の街、ハリンヘイムを除いて神々の気配はしない。半ば予想していながらも、問い掛けたヘリューズに対してハリンヘイムは答えた。
「アスガルドは既に滅んでいます。亜神ディアスとそして……亜神イコルの謀略によって」
アスガルドには定められた滅びがあった。だが、神々の運命は、異教の神によって歪められた。
亜神ディアスがアスガルドを攻めにきた時、ハリンヘイムはその役目を——ギャラルホルンを鳴らすべきであった。
だが、その役目は果たされない。イコルがギャラルホルンを隠し、今まさに訪れようとする滅びに対し、神々が気付く事が出来ないようにしたからだ。
そして、アスガルドは滅びた。門番は役目を果たせず、誇りある戦士として死ぬ運命にあった神々は不意を打たれて殺された。
「私の過ちは二つ。オリュンポスに君臨したディアスを信じた事。そして、裏切りと謀略の神たるイコルを殺しておかなかった事です」
ハリンヘイムの胸中にはただ後悔があった。
ディアスを信じなければ、イコルを殺しておけば。何もかも手遅れである事を悟り、彼女はただ神々の墓前で旋律を奏でる事しか出来なかった。
「イコル……貴方は……」
ヘリューズは静かに瞳を閉じる。ハリンヘイムがイコルを憎む理由は分かる。妹である自分に向けられた怒りもまた、仕方ないだろう。
だからこそ、疑問に思う。何故彼女はそんな事をしたのだろうか。ディアスを手助けするようにアスガルドを滅びに導いたイコル。そして、ヘリューズの前でディアスを殺すのだと告げたイコル。果たして、どちらが彼女の本当の姿なのか。
「……私達はイコルに導かれて此処に来ました」
「……! アイツ、また何か企んで——」
ハリンヘイムが顔を上げたその時、アスガルドの空が赤く染まった。
褪せ人達が見上げた先、遥か空の彼方に、炎の柱が突き立っている。天を突く炎柱は雲を焼き尽くし、燃え広がるようにして世界を覆う。
「ムスペルヘイム……!? まさか……!」
「何が起こっている」
空を覆う異常な光景に、一人だけ何かを知っているハリンヘイムへと褪せ人が問う。
先程まで喉元に剣を突きつけていた男の問いに、ハリンヘイムは一瞬だけ躊躇い、しかし答えた。
「ムスペルヘイム……燃え盛る炎の剣の眠る、アスガルドのもう一つの姿。その果てには、本来の最終戦争で世界を燃やし尽くす筈だった炎が封印されています」
「ムスペルヘイムへの道が開いた、という事ですか……」
今、そんな事をする者など一人しか居ない。
今煌々と燃える炎の柱はただアスガルドとムスペルヘイムが繋がっただけ。だが、その先に眠る炎が解き放たれれば——。
褪せ人が炎の柱に向けて足を進める。
「待ってください。ムスペルヘイムは炎の世界。常人ならば、ただそこに居るだけでも耐えられない焦熱の世界です」
「それがどうした」
ハリンヘイムの警告を、褪せ人は一顧だにしない。どれ程に過酷であろうとも、それが足を止める理由にはなり得ないからだ。
無論、此処に来た者達とて同じだ。誰一人として、世界を燃やす炎に恐れを抱く者は居ない。
世界を滅ぼさんとする何かなど、今更の話だ。
ハリンヘイムはそんな褪せ人の言葉に一度大きく深呼吸をして、口を開いた。
「私も連れて行ってください。彼女を止めるのは——最後に残された私の役目ですから」
「…………」
褪せ人は何も言わない。だが、そんなハリンヘイムの肩に王子が手を置くと力強く頷いた。
向かうは灼熱の世界、ムスペルヘイム。その先に待つイコルの下へと、一行は歩みを進めるのであった。
そこは炎の世界であった。
空は炎によって赤く染まり、溶岩がさながら河のように流れ、残された大地も炎が埋め尽くす。
灼熱の世界、やがて滅びの来たる場所。そこに、イコルは居た。
「——久しいな、スルト」
イコルが話し掛けているのは、一本の剣だ。墓標のように突き立てられた、天にも届かんばかりの巨大な剣。
イコルの声に、剣は言葉こそ返さないが、周囲の炎は一層燃え上がった。それはまるで、剣がイコルに対して怒りを露わにしているかのようであった。
「望み通り、その戒めを解き放とう。世界を、オリュンポスの全てを燃やし尽くさんとしたその力を」
最早スルトは向けるべき力の矛先を失った。滅ぼす筈だった地は既に滅び、ただ無為にその力を振るうしかない。
だから、その哀れな力に意味を与えてやろう。
「お前が勝つならば、そのまま世界を燃やし、ディアス諸共に滅びてしまえばいい。だがもし、彼らが勝つようならば——」
——それもまた構わない。
これは試練だ。イコルという神からの、英雄への試練。どちらに転んだとしてもイコルにとっては問題ない。勝ち残った方が、ディアスを殺す剣となるのだ。
「人のままではディアスには勝てない。だが、この試練を勝ち残ったならば、神々は君達を放ってはおかないだろう」
或いはそれは、ディアス本人なのかも知れない。いずれにせよ、イコルの計画にはスルトの解放が必要不可欠であった。
「ただ——少し釣り合いが取れないな」
試練は一つ、候補者は二人——それでは少し簡単過ぎる。
世界を燃やす炎ですら不足。亜神イコルは、その程度には今の王国と褪せ人を評価していた。
ならばどうするか。簡単だ、試練をもう一つ増やせばいい。
「その為の玩具も此処にあるしね」
イコルが徐に片手を上げると、あるものが宙へと浮かび上がった。
それは幾つもの青い宝石が嵌められた黄金の杯であった。ただそこに在るだけで光を放ち、杯の周りだけが赤い世界を黄金の光に染め上げる。スルトの怒りの炎ですら、この杯を侵す事は許されない。
それは当然であった。
これこそが、創造神がかつて人に賜った聖遺物。
神による作為にして救済処置、天秤を傾ける死者の書、狂王に仕える道化師、理不尽に抗うウルティマ・ラティオ。
——聖杯
人類にありとあらゆる奇蹟と破滅を齎したそれが、裏切りと謀略の神の手にあった。
聖杯ちゃんどうやって出そうかと捏ねくり回してたらボスになってしまった…