魔界の門、それが崩れ去り、初めからそこには何もなかったかのように露と消える。それは、己の脱出が叶わなかったことを意味した。
「グッ…クハハ、王子は…逃したが、それでも、君を道連れに出来ただけ良しとしようか…」
己の脱出を阻止した下手人、グレーターデーモンが肉体を崩壊させながら、それでもなお勝ち誇ったかのように言う。
脱出の直前、崩壊した身体で王子に向かって飛んでいくデーモンに気付く事が出来たのは幸運であった。大した執念だと、この時ばかりは感心したものだ。気づかなければ、この場に居たのは間違いなくあの男。王国において、あの男を失う損失は計り知れない。その事を考えれば、この場に残ったのが己なのは随分安く済んだものだと、そう思った。
「君を失った王子達の絶望…それが見れないのだけは、些か残念だがね…」
「…高々一人の、それも雇われの生き死にだ。その程度で絶望するなどとあの連中を安く見ない方がいい。それに、生憎と死ぬつもりは毛頭ありはしない」
己の戦力を失うことがそれなりに痛手であろうことは承知している。だが、所詮は個人の武勇。あの男の周りには既に多くの英雄、ないしはその見込みのある者達が集まっている。穴埋めはそう難しくはないはずだ。…女性に偏っているのだけが疑問と言えば疑問ではあったが、女神の加護とはそういうものなのだろう。少なくとも現状に支障は無い。
「そうかね?果たして、人間とは、君のように揺るがず前へ進むことが出来る生き物ばかりだったかね?ワシが思うに王国の連中は――」
なおも言い募るデーモンの頭を踏み潰す。これ以上くだらない戯言に付き合うつもりは無かった。踏み潰されたのが、とどめの一撃になったのだろう。デーモンの身体は、遂に乾いた砂となり、魔界の底へと風で流されていった。
それを確認すると、褪せ人は歩みを進める。ひと先ずは、腰を落ち着けるところを探すべきだ。体力が既に限界に達している。この魔界の瘴気は力こそ奪うものの、体力の回復に大きな支障が無いのは幸いだった。しばらくすれば祈祷の再使用も可能だろう。
「…間に合わなかったのか、貴様」
歩みを進める褪せ人に、そう声を掛けるものが居た。暗黒騎士が、肉体を崩壊させながら、それでも褪せ人を見つめていた。随分としぶとい、等と聞くものが居れば血も涙もないと謗られるような事を思いながらも、褪せ人はそれに応える。
「問題ない。別の手を探す」
「当てがある、という事か…?」
「当てというほどでは無い。だが、居るのだろう?他にも上級のデーモンが。それに門を開けさせる」
当てというほどのものでは無い。だが、門を開くのがあのグレーターデーモンのみということは無いだろう。ならば、それらを捕まえて開かせてやればいい。取引で済めばそれに越したことはないが、最悪力づくでも構わない。拷問の心得は無いが、殺してしまっても次を探せばいい。
「この場で、この状況でそう言ってのけるのか…貴様は」
暗黒騎士は、戦慄する。魔界という未知の領域に放逐されてなお、この揺るぎなさ。これもまた、この男の強さなのだろう。だからこそ、この男に聞いておきたいことがあった。好敵手の前では決してできない、己の弱さを吐露する。
「一つ、教えてくれ…。我は、何処で間違えた…?街を、愛する者を、命を賭して守るべき主君を救えなかった己を過ちと断じ、この身を魔に堕とした。しかし、その結果がこれだ。我は…私は、どうすれば良かったんだ…?」
それは、決して答えの出ないもの。己でも分かっているのだ。例え今、この様であっても、己は何度繰り返したとて、同じように力を求めたであろうと。故に、あくまでこの男が、強者がどのような答えを出すのかそれが、聞きたかった。
「…その答えは、お前にしか出せないものだ。その選択をしたお前にだけ、その資格がある」
「はぐらかすな…。ならば、お前自身の選択に、答えを出せるのか?それこそが、正しかったのだと」
答えなど、出せるはずが無かった。己は前に歩み続けながら、それでも過去の選択に未だ答えを出せていないのだから。己は一生、これを抱えて戦い続けるのだと、そう決めていた。
「何だ、貴様ですらそうなのか…。なら、我は…」
褪せ人の無言をどう受け取ったのか、僅かに安堵の様子を見せながら暗黒騎士は口を開いた。そして、己の大剣の柄を、褪せ人へと向ける。
「…持っていけ。貴様の持つものに比べれば、幾らか劣るがそれなりの業物だ」
そう言って大剣を差し出す。かつて、若き騎士の頃より主君から賜ったそれ。魔に堕ちた身でも、その剣を手放すことは無かった。その相棒が、こんな魔界の地で朽ちるのは耐えられなかった。
褪せ人は無言でそれを受け取る。確かに、悪くはない。それを懐にしまうと、今度こそ褪せ人は歩き出した。
「我の最期が、あの男との戦いで良かった。良き戦いだったんだ…。だが、もし、叶うならば我はあの男と――」
その最後の願いが、暗黒騎士の口から洩れるころは終ぞ無かった。ただ、朽ちた鎧が魔界に墓標代わりとして転がる。
褪せ人は振り返ることなくその場を後にした。
「さぁ、この後、どうしましょうか?ここが頑張り時って感じですねっ!」
――何故、この娘がここに居る?
王子と共に魔界の門を抜けた、その様子まで己は確認していたのだ。まさか、戻ってきたとでもいうのか。
「えへへ、戻ってきちゃいました。アタシのお気に入りが、今まさに困難にぶち当たりまくっている。なら、戻って一緒に頑張るのが良し、そう思ったんです」
己の疑問に、笑顔でそう答える妖怪が理解できなかった。そんな理由で、魔界という死地に飛び込んだというのか。やはり人外の考えることは理解できない。そう思った。
「その魔界で悲観することなく、策を練っている人に言われたくないですよー。後はまぁ、命の恩人?ですし。洗脳された私を助けてくれたんですから、当然お返ししないとっ」
そう言って笑うこの妖怪はやはり善良ではあるのだろう。実際、魔界という未知の地域において、この妖怪の防御能力は確かに有能である。特に褪せ人は、相手の出方を伺い、その上で最適な武器と戦術を選択する。であれば、自身との相性自体はそう悪くはないのだ。
「さぁさぁ!この後、どう頑張るんですか?上級デーモンを探すで良いですか?私もお手伝いしますよ!」
「…いや、他にやることがある」
「やる事、ですか?」
図らずも魔界に放逐されたわけだが、結果としては僥倖であると、今褪せ人は考えていた。この地は、女神アイギスが魔王を封じた場所。であれば、情報収集の格好の機会を得られたと考えて良い。未だに目立った動きを見せない魔王の動向が得られる可能性が最も高いのは、この地をおいて他にないだろう。
「せっかく恵まれた機会だ。何の手土産もなく帰るというのもな」
「おぉ…!この状況でさらに頑張れる事を見つけているだなんて…流石はアタシが見込んだ人!勿論、私もお手伝いしますよっ!」
少女は内心でさっさと戻った方が面倒は少なく済むだろうな、と気付いてはいた。王国の面々が情の深い者達ばかりなのは、王子達を見て何となく分かっていたので、長期間この地に留まるのは絶対に面倒になる。そんな予感がした。だが、目の前の男がまたまた自分好みな事を言うものだからもうそれでいいや、と後々の面倒事もまた頑張りどころだろうと気にしないことにしたのだった。
「出発は明日にする。まぁ、明日と言ってもこの闇では分からないのだが」
「じゃあ、まずはご飯にしましょう。さっき魔界の…果物?みたいなものを見つけたので!」
そう言って少女が勢いよく立ち上がる。そして、走り出そうとして、思い出したかのように振り返った。
「あっ!自己紹介がまだでした!アタシはぬりかべ妖怪のカゴメって言います!一緒に、無限に頑張りましょう!」
そう言って今度こそ、果物を取りに走り出すのだった。
「――全部、俺のせいだ。俺があいつを魔界に連れて行ったばかりに」
その懺悔には深い後悔と悲しみが込められていた。
魔界の門を抜けた後、団長を失った暗黒騎士団は壊滅。副団長のエルヴァもまた、洗脳が解けたことにより、正気に戻ったようだった。その後、褪せ人を捜索するも、終ぞ見つからず、それでもなお一人で探そうとする王子を宥め、王国まで帰還した。また、洗脳されていた妖怪の娘についても未だ見つかっては居なかった。
そして、治療を終えた王子は主だった者達を集め、事の顛末を語る。
暗黒騎士団長の最期と背後の黒幕、グレーターデーモンの登場。そして、魔界へ赴きそれを討った後、自分だけが生きて戻ってきたということ。
全てを語り終えた王子に常の覇気は無い。ただ己の罪を吐露し、罰を受けんとする罪人のような面持ちだった。
周囲の者達も何も言えない。ただ、何処までも暗く重苦しい空気だけが部屋を支配していた。
「………」
イリスもまた、その言葉を聞き、何も言えないでいた。口を開けば心にもない言葉が出てしまいそうだった。頭では、理解しているのだ。他ならぬ自分も、王都で魔界の門の恐怖を味わった身。それを自在に操るデーモンを放置することが、どれほどの悲劇を巻き起こすのか、想像に難くなかった。王子の選択は決して間違いなんかじゃない。それは分かっていた。
だが、それでも、どうして、そんな言葉が胸中で渦巻く。幾度となく、彼は戦場に赴いては、顔色一つ変えずに戻ってきた。今回も、そのはずだったのだ。最近になって、彼がこの世界の文字を読むことに苦労していることを知った。今度戻ってきたら、一緒に勉強に誘おう、そんな風にすら考えていた。
タラニアもまた、常の態度は鳴りを潜め、静かに拳を握っていた。あの男のそばは居心地がよかった。騒ぐ自分に、何処か辟易しながらも拒絶するようなことは無かった。戦場においては鬼神の如く活躍する癖に、普段は海老すら満足に茹でられないその男の不器用で、しかしほんの僅かに感じられる優しさが嫌いではなかったのだ。
「――王子。お前、それで良いのかよ?」
誰もが言葉を発することが出来ない中、その沈黙を破る者がいた。ずかずかと足音を無遠慮に響かせながら、その男は王子へと近づき、再び声を掛ける。
「魔界だか何だか知らねぇが、お前はあいつの何を見てきたんだ?あいつは、そんな所に閉じ込められた程度でやられるようなタマだったか?」
「…魔界を知らないから、お前はそんな風に言えるんだ。あそこは、ただの人間が生きていられるような場所じゃない」
「はっ!魔界なんて確かに知らねぇよ。だが、俺は知ってるぜ?あの料理下手くそむっつり野郎が、お前なんか目じゃないくらいに強いってことをよ!普通の人間なワケねぇだろ。常識ねぇのかよ」
確かにモーティマは魔界の事なんて知りはしない。だが、それでもあの男が野垂れ死ぬような気は全くしなかった。この男は一体何を見てきたのかと、そう叱咤する。
「お前は、それで良いのかよ?そのまま、罪人みてぇな面して罰をもらえるのを待つつもりかよ?俺は、俺達山賊はそんな女々しい野郎について来たつもりはねぇぞ!」
モーティマは、この男についても知っていた。お人好しで、面倒事に突っ込んでいくどうしようもないやつだが、それでもその強さは認めていた。今はまだ、褪せ人に届かずとも、何れは間違いなく、並び立てる。そう感じる程度には認めていたのだ。こんな所で躓いて折れるような人間では無いことを知っている。
「…中々、手厳しいな。だが、そうだな、あいつがそんな程度で果てるようなやつでは無いか」
王子の目に、僅かに光が戻る。未だ、憔悴した様子ではあったが、それでも再び立ち上がる意思が垣間見えた。
「俺は、俺の成すべきことを成す。こんな所で立ち止まっていては、あいつに追いつくなんて土台無理な話か」
「へっ!多少は見れる面になったじゃねぇか。それでこそ、王国の頭ってもんだ。辛くても、頭なら胸を張れってんだ」
王子の様子に、周囲も少しずつ明るさを取り戻す。褪せ人もそうだが、王子もまた、この国の支えなのだ。その男が沈んでいては、周囲の者もまた、沈むのだ。
「まぁ、俺も案外、ひょっこりと何食わぬ顔で戻ってくるんじゃないかと、そう思いますがね」
英雄の輝かしい活躍は、近くの者を盲目にするのだ。王子もまた、例外では無かったという事。輝きに目を焼かれたからこそ、それが奪われたとき、己の足元のおぼつかなさに怯えるのだ。故に、一歩引いた目で見ていたジェロームこそが、何処までも正確に先を見通していた。
「心配をかけた。褪せ人が居ないのは紛れもなく俺の責任。だが、だからこそ、俺はここで止まるわけにはいかない。あいつを救う術を、探さなければならない」
王子はもはや、かつての姿を取り戻していた。己には、幾度躓いて立ち止まろうとも背を押してくれる仲間がいるのだ。ならば、その仲間に応え続けなければならない。
イリスも、タラニアも幾らかは気を持ち直したようだった。あまりにも悲観的になりすぎた。そもそも、誰もあの男が死んだ姿を見ていないのだ。ならば、あの男は何らかの理由で魔界に閉じ込められ、しかし生きている。そう考える方が自然な気もしてくる。
「俺はもう、立ち止まらない。あいつに追いつけなくなるからな」
王子は前を見据える。未だその背を追う事しかできないその男に、しかし追いついてみせるのだと改めてそう誓った。
『暗黒騎士の大剣』
専用戦技「暗黒オーラ斬り」