エスネアが魔王軍に入った事に、特に大きな理由は無かった。単に、荒れ果てた魔界での退屈な日々に嫌気が差しただけの事。そこに偶々姉貴分であるハルモニアが魔王軍に所属する事になったと、そう聞いて面白そうだからとついていっただけであった。デーモンには珍しく、見た目相応に年若い彼女はその事について深く考えてはいない。刺激を求めて所属した魔王軍での日常はお堅い姉貴分のお説教とその上司を除けば実に楽しいものであった。
——あの人間が現れるまでは
初めは単に物珍しいだけの存在。人間でありながら、オークの部族に混じっていた妙な存在。
人間といえば、他のデーモン達が戯れに物質界から連れ去っては一方的に甚振っては壊している弱い生き物という程度の認識。彼女にしてみれば、わざわざ碌な抵抗も出来ないそれらを虐めることに何の楽しみを見出す事も出来なかったが、目の前の男は違った。
瘴気をものともせず、オークの英雄の隣に立ち、デーモンの軍勢を前に揺るぎもしない。
面白い、弱い相手では楽しくないのだ。ハルモニアの忠告をいつものように聞き流しながら、新たな玩具に目を輝かせた。
そして、そのすぐ後に姉の忠告の、その意味を知る事となる。
初めに追い詰めていたのは自分だった。顔色一つ変えず、傷つきながらも兜の奥の目の光が消えないのは気に入らなかったが、それでも、自分との戦いでこれ程健闘する相手は楽しかった。しかし、徐々にその天秤が傾いていく、肉体的不死というアドバンテージをものともせず、此方を殺し続ける男に恐怖した。
此方の攻撃を的確に防ぎ、作業の如く此方に死を与えてくる男に絶望した。
そして、此方を完全に終わらせる事の出来るその黒い剣を見た時、彼女の心は折れたのだ。
命からがらに逃げおおせた後も、あの男が迫って来ているのではないかと、ガオレオンを前に、それでも此方を殺そうとしていたその目を思い出す度に眠れぬ日々を過ごした。ハルモニアが傍に居てくれなければ、正気を保てていただろうか。それ程までに、彼女の心は傷ついていた。
しかし、いつまでもハルモニアに甘えている訳にもいかない。少しでも彼女の優しさに報いる為にも、魔王軍として成果を出すのが、彼女への恩返しであると、そう考えて今回の作戦に参加していたというのに。
「な、何で…魔界に居たんじゃ…?」
目の前の鎧の男を、見間違えるはずがない。仲間のオーク達がやられたと聞いて、彼女なりに仇打ちをせんと、飛び出してみればそれはそこに居た。
あの時と同じ揺るがぬ立ち姿で、此方を見るなり、黒い剣を握って近付いてくる。
「うぁ…ああ…!」
彼女の豹変に、デーモンと竜人は戸惑う。常の小馬鹿にしたような態度は気に入らない者も少なくなかったが、それでもその強さは本物であった。そんな彼女が見せる狼狽に、兵士は動けない。
目の前の男はただ此方を見て、今度こそ殺すのだと、言葉なくそう言っている気がした。
褪せ人がエスネアを見遣る。怯え、立ちすくむ少女を前に、殺すのは容易いだろうと考える。何に怯えているのかは分からないが、正気に戻る前に処理した方が良いと考える。
魔界での戦い、結果としては褪せ人の一方的な勝利という結果に終わっていたが、褪せ人は目の前の悪魔の力を過小評価していなかった。短いスパンで蘇り続ける彼女を、乱戦の中放置する事がどれほど危険かは想像に難くなかった。
前回のように一対一であれば問題ない。しかし、今回は違う。周囲の相手をしながら、彼女を討つのは至難の業であると、そう思っていた。
「あのデーモン、知っているのか?」
「魔王軍の一人。以前、魔界で殺し損ねた相手だ」
王子の疑問に、短く答える。理由はどうあれ、取り逃がしているのだ。己の失態は、己で取り返す。それが筋だと褪せ人は考える。
「凄まじく怯えているような気がするが…」
オークに与している以上、敵なのは間違いない。取り逃がしたと言っている以上、油断出来る相手でもないだろう。それでも、怯える少女を前に剣を振り翳す鎧の偉丈夫というのは、絵面が悪過ぎた。王国軍も、魔王軍も事態を飲み込みきれず戸惑いを見せる。
「理由は分からないが、隙を晒している今が好機だろう」
「それ、本気で言っているのかい…?」
今まさにエスネアが恐怖一色の瞳に写しているのは間違いなく褪せ人である。それにも関わらず常の調子で前を行く褪せ人にタラニアは呆れていた。とはいえ、彼女も止めるつもりはない。
「——そこまでです。人間よ」
双方が褪せ人を除いて戦闘を躊躇する中、エスネアを庇うようにして黒い肌の女悪魔、ハルモニアが現れる。
「お姉ちゃん!」
「エスネア、貴方は神器回収に向かいなさい。此処は私が受け持ちます」
「で、でも!」
エスネアは焦ったような声を上げる。今の自分はまだ何も成せてはいない。このまま、足を引っ張ってしまっては、ハルモニアに失望されてしまう。今、エスネアが縋る事が出来るのは彼女だけであった。
「貴方には荷の勝ちすぎる相手です。私達で足止めする間に、アイギスの神器を回収する。それは貴方にしか出来ない事ですよ」
「ほ、本当…?」
「えぇ、ですから早く。貴方の活躍に期待していますよ」
「うん…!待っててね、お姉ちゃん!」
その言葉に、僅かな安堵を見せ、去っていくエスネアにハルモニアは穏やかな表情を向ける。その様子を見ながら、しかし褪せ人は追わなかった。わざわざ指揮官が出てきたのだ。此方を無力化する方が優先度は高いと、そう思ったが故に。何より、心の折れてしまった者に用は無かった。
「王子、あの赤い女悪魔を追え。この悪魔は私が引き受けよう」
「…分かった。死ぬんじゃないぞ」
その言葉に、王子は頷く。アイギスの神器こそ、今回の目的。魔王軍に回収される前に、保護しなければならない。
加えて、エスネアを追えば逆説的にアイギスの神器の場所まで向かえるのだ。この機を逃さない手は無いだろう。
「行かせると?」
「私を止める事が出来るのなら、やってみるが良い」
手勢を率いてエスネアを追う王子に、ハルモニアが口を開く。しかし、行動には移さない、否、移せないでいた。目の前の男から目を離せば、直ぐにでも喉元に剣が突き立てられる。そんな光景を幻視したが故に。
ハルモニアが槍を構え、それに応えるように背後の竜人とデーモンが武器を構える。褪せ人達もまた、武器を構えた。
「乱戦になりますが、構いませんね?」
「所詮は戦争。己の矜持が許す限り、咎めるものなどありはしない」
ハルモニアの言葉に、褪せ人が応える。戦争に、殺し合いに卑怯も何もあったものではない。己がそれを許せるかどうか、唯それだけが導となるのだ。
ハルモニアはその言葉に僅かに微笑む。殺し合いの最中であるが、好感の持てる意見であった。己は武人である前に軍人であると、そう定めて戦ってきたが故に。或いは魔王軍にこの男が居れば、良き戦友になったかもしれないと、そう考えた。
竜人とデーモンが褪せ人達に迫る。ハルモニアの号令のもと、先の戸惑っていた姿など露と消えていた。迫り来るそれに、雷光の斬撃と砲撃が襲いかかる。
「二人で盛り上がっているところ悪いけど、ボク達が居ることも忘れないで欲しいね」
「まとめて吹き飛ばして差し上げますわ!」
ここに居るのは、何も褪せ人だけではない。歴戦の傭兵達と、王国軍の兵士達も居る。彼らとて歴戦の戦士。一廉の者達ではない。
褪せ人が彼女達の活躍を横目に見遣りながら、疾駆する。狙いは指揮官であるハルモニア。彼女に向けて、己の身体を低くすると、そのまま雷撃へと変じ、突進する。
「……ッ!」
予想外の速さで接近する褪せ人に対して、ハルモニアは槍を構え、応戦する。
褪せ人の手に握られたくすんだ黄金の斧が振りかぶられると、そのまま大上段に振り下ろされる。
その一撃を彼女の槍が受け止めた。甲高い衝撃音を立てながら、そのデーモンをして驚嘆に値する膂力で褪せ人は彼女を上から押し潰さんと力を込める。
鍔迫り合いの形となった二人に、竜人の戦士がハルモニアを援護せんと接近する。しかし、それはカゴメの壁によって阻まれる。
「邪魔はさせませんよ!」
「小癪ナ…!」
周囲を取り囲むようにしてせりあがってくる壁を前に立ちすくむ竜人達。そして、その壁を蹴り上げ、タラニアが宙を駆けるように竜人達の頭上より魔法剣を振るう。
「さぁ、ショータイムだ!」
彼女の軽やかな動きを捉えられず、上空から降り注ぐ雷の斬撃に竜人達が斬り裂かれる。それはまさに、雷の雨と呼ぶに相応しい光景であった。
「ぐっ…!」
援護が届かない事に顔を歪めながら、ハルモニアは少しずつ押し込まれていく。槍を持つ手が、大斧より伝わる雷により、少しずつ焼かれていくのを感じる。
「ハルモニア様…!」
褪せ人へと向けて、ドラゴニュートメイジが魔法を放つ。炎弾が迫るのを確認すると、素早くハルモニアへと蹴りを放ち、後方へと吹き飛ばす。そして、迫る炎弾を大盾で防いだ。
着弾し、爆発するそれに肌を焼かれるのを感じながら、褪せ人はドラゴニュートメイジへ向けて雷の槍を投擲する。
「ソノ雷光は…!」
ドラゴニュートメイジが雷の槍に驚愕を示しながら、避ける事叶わずその身に雷撃を受けた。倒れ伏す魔法使いを褪せ人が確認する間もなく、ハルモニアが放つ斬撃を大盾で防ぐ。魔槍の一撃は一度で終わる事なく、遠距離から連撃を繋げてくる。それを大盾で受けながら、褪せ人は前進する。
周囲から集まってくるデーモン達を前に、連撃の間隙に褪せ人は祈祷を発動させる。
右手に赤き雷撃を宿し、天高く突き上げる。聖印を握った手から雷撃が放たれると、褪せ人を中心に赤い落雷がデーモンとハルモニアへと降り注いだ。
「まタダ…!マタ、アノ男は竜の雷ヲ…!」
その光景に、竜人達は忌々しげに睨みつける。愚かな人間が、竜の雷霆を行使する。その事が竜人達の逆鱗に触れていた。褪せ人を討たんと殺到する竜人達を、カゴメとタラニアが着実に数を減らし、イーファの砲撃で一網打尽にしていく。
「まだ、まだここで果てるわけには…!」
全身を落雷に焼かれ、満身創痍となったハルモニアが戦場を見る。怒りに統率を失った竜人と、残り僅かな手勢のデーモンでは彼らを討つ事は叶わないだろう。
しかし、ここで退いてしまえばこの男は真っ直ぐにエスネア達のもとへと向かう。任務の上でも、彼女の個人的な感情においても、それだけは避けたかった。
近づいてくる褪せ人に向けて、槍を構える。しかし、決死の覚悟で構えたその槍は、突如として背後に現れた何者かに掴まれると、静かに降ろされる。
「——モウ良イ、十分ダ」
「ク、クロコ様…!?」
それは、竜人であった。鎧を纏い、身の丈ほどの斧槍を携えたそれは、ハルモニアの様子を見る限り、上位に位置する存在だろう。
褪せ人は新たに現れた竜人に警戒する。放たれる圧は只者ではない。
「申し訳ありません…とんだ失態を…!」
「良イ、詰まらヌ任務と思ッテいたガ、興が乗ッタ」
ハルモニアの言葉に軽く応えると、クロコと呼ばれた竜人がゆっくりと此方へ向き直る。斧槍を握る手に力が込められ、雷が迸った。
「人の身で竜雷を纏いし者よ。我ガ名は竜将クロコ!我ガ雷槍と、いざ鎬を削ロウゾ!」
放たれる圧が増す。魔王軍、その中でもとりわけ秀でた存在であると、その有り様が示していた。
「これは…とんでもないのが出てきたね」
「まず間違いなく相手の将ですわね。流石は魔王軍、といった所でしょうか」
歴戦の傭兵をして、目の前の竜人は普通では無かった。今までに倒してきた竜人の長など、この竜人と比べれば赤子のようなもの。それ程までに、隔絶していると、そう言わざるを得なかった。
周囲の竜人とデーモンが動きを止める。そして、褪せ人とクロコを囲むように広がっていく様は、先と打って変わって一騎討ちが望みだと、そう言っていた。
指名する相手は当然、褪せ人。
褪せ人が前に出る。魔王軍、とりわけ竜人達からの言葉無き圧が増したように感じた。愚かな人の身で、古き竜の雷を振るうなど何という不遜。そう言っているような気がした。例え、異界の竜の力であろうと、その源流異にするものであろうと、この身に刻まれし竜の魂が悟っていた。あの者は、竜を喰らいし者であると。
褪せ人が無言で武器を構える。竜雷など、唯の道具。それに一方的な因縁を向けられるのは、正直良い迷惑でしか無かった。
「…やるんですね?」
「無論、向かってくるというのなら戦うまでだ。今までも、これからも」
カゴメが珍しく神妙な面持ちで問いかける。一筋縄では行かないと、本能で理解しているのだろう。
しかし、やる事は変わらない。この地でも、狭間の地でも。向かってくるというのなら、容赦はしない。
「分かりました。もう、何も言いません。——頑張ってください!」
カゴメの言葉を最後に、王国軍も魔王軍も最早何も言わなかった。この一騎討ちこそが、この戦場の勝敗を分つのだと、誰もがそう考えていた。
褪せ人は常の如く大盾と大槌。対してクロコは斧槍を構える。
一瞬の睨み合いの中、最初に動いたのは、やはりクロコであった。竜人の中でも、極まった身体能力を駆使して、一気に距離を詰める。驚嘆に値する速さ。しかし、褪せ人は動かず、盾を構える。クロコはそのまま盾に向けて突きを放った。凄まじい衝撃音と共に、褪せ人はその身体ごと背後へと押し戻される。重装の褪せ人を、それも盾を構えた偉丈夫を押し戻す威力。それを目にした王国軍が息を呑み、魔王軍は己が将の力量に沸いた。
「我ガ突きヲ以ってしてモ貫けぬトハ、ましてや倒れもせぬカ…!」
しかし、驚嘆したのはクロコ。己が力量に自身があったが故に、盾もろともに貫けると、そんな確信すら持っていた。だが、褪せ人の持つ盾は唯の盾ではない。
武器と同様にこの盾とて、さる鍛冶師によって鍛えられた物。神殺しを目指した男が鍛えた盾が、易々と崩れるなどと、そのような筈もない。
黒鉄に黄金の意匠が象られたそれは、かつて影の地にて猛威を振るった黒騎士達の遺物。その盾を構えた者は、決して退く事は無かったという。
即ち不退転。その精神は褪せ人にもまた、宿るもの。
返す刀に、褪せ人が大槌のカウンターを放つ。しかし、大槌を振り上げる、その出掛りを潰すようにして斧槍が大槌へと振るわれる。
威力の乗り切らない状態で潰され、それと同時にクロコが蹴りを放つ。その蹴りを褪せ人は大盾によって受け止める。そして、褪せ人はそこで踏みとどまらずに、その威力を利用して距離を離すと、着地と同時に騎士の雷槍を放った。
未だ蹴りの構えの解けていないクロコに、一際強力な雷槍と追撃の雷撃が襲い掛かる。
「グッ…!」
その一撃を、クロコは甘んじて受けた。もとより此の身は真なる雷を宿さんとする者。この程度の雷撃で、狼狽えるなどあってはならない。
しかし、褪せ人とてそれは理解していた。明らかに雷を駆使して戦う相手に、何も考えずに雷槍を放った訳ではない。わざわざ相手の希望に沿ってやるつもりも無かった。
僅かな閃光の目眩しになれば、それで良かった。クロコが雷槍を防ぎ、反撃に転じようとしている間に、既に次の祈祷を発動させる。既にクロコの目の前に、無数の黄金の礫が迫っていた。
「オォォ…!」
迫るそれらを悉く躱し、斧槍で弾く。しかし、直撃こそ免れたものの、防ぎ切れなかった礫の破片がクロコの、その強固な鱗を焼いていく。
しかし、クロコもただでは終われない。体勢を立て直すと、その斧槍に雷の力を込める。未だ古き竜の雷を纏えぬ身でも、竜人として、人間に負けるわけにはいかなかった。
斧槍を触媒に、雷の槍を放つ。それは、褪せ人の放つそれよりも速く、鋭かった。
辛うじて躱し、しかし僅かに掠めた雷が鎧を伝って褪せ人の身体を焼く。ただ掠めただけでこの威力。直撃など受けられるはずも無かった。
そして、両者の距離が近づいていく。再びの接近戦。絶えず武器を変え、戦いの拍子を変化させる褪せ人に対して、素早く順応してはその斧槍一本で反撃を挟んでいくクロコ。その周囲はまるで嵐でも起きているかのように荒れ狂っていた。
「何だ、これは…一体、何が起きている…?」
王国軍の誰かしらから漏れたその声は、しかしほぼ全員の総意であった。
多くの王国兵が、この男の戦いを目にした事がある。戦場において、敵対するものを情け容赦なく屠続けるその武威を知らぬ者は居ない。今回も、苦もなく竜人の将を打ち倒すのだと、そう考えていたが故にその衝撃は大きい。
理解の及ばない激戦に、戦慄していたのは王国軍だけではない。魔王軍もまた、両者の戦いは理解の埒外にあった。類稀なる力を持って生まれた竜人、クロコ。それはかつての千年戦争において、地下深き大穴に追いやられ、人間達に復讐を誓う竜人達の旗印であった。古き竜の力を纏うに最も近き者。
その竜人に喰らいつくばかりか拮抗せんと渡り合うアレは、果たして人間と称して良いものなのか。今なら、エスネアの狼狽も分かるというもの。もはや、竜雷を簒奪した愚者などと、謗る者はこの場には居なかった。
「良キ戦士ダ。故に、人族としテ置いておクノハ実に惜しイナ」
そして、クロコにとってもこの上なく嬉しい誤算であった。竜の雷を振るう不遜な輩。しかし、立ち会ってみれば類稀なる強者。魔王軍に所属したのは魔王への忠義、そしてより己の武を高みへと押し上げるため。
なればこそ、今この男は宿敵足り得る。この死闘を乗り越えた時、己もまた高みへ上るだろう。そうすれば、いずれは真なる雷竜の、その力を纏える筈だと信じて。
褪せ人は、そんな感情の込められた言葉に一顧だにしない。言葉は不要と、どこまでも己の中で完結しているこの男は、殺すと定めた相手に掛ける言葉などありはしない。
両軍が固唾を飲んで戦いを見守る中、事態が大きく動く。
褪せ人の振るう武器をクロコが弾き、褪せ人が大きく体勢を崩す。その隙を見逃さなかった。横薙ぎに斧槍が振るわれ、無防備な褪せ人の胴を薙ぐ。
「……!!」
致命の一撃。十分に威力の乗せられたそれを防ぐ事は叶わない。咄嗟に、地面を蹴り、衝撃を和げんと振るわれる方向へと飛ぶ。
斧槍の一撃をまともに受け、褪せ人は吹き飛ばされる。あの場で踏み止まっていれば、胴は折れ、最悪の場合、両断に至っていただろう。吹き飛ばされた褪せ人が密林の木に激突し、大きな土埃を上げる。
「褪せ人!?」
カゴメが思わずといったように叫ぶ中、クロコは油断しなかった。吹き飛んだ先、褪せ人が倒れているであろう方向に雷槍を放つ。
しかし、その雷槍は褪せ人へと届く前に、熱線によって掻き消される。
「何ダ、それハ!?」
土埃が晴れた先、竜王の似姿をその身に降ろした褪せ人がクロコに向けて黄金のブレスを放つ。避けるクロコを追うように薙ぎ払われるそれが、密林の木々を焼き切っていく。
「このままでは巻き込まれますわ!全員、退避してくださいませ!」
およそ個人の出していい規模の攻撃ではない。遠巻きに見ていたにも関わらず、ここもまた死地であると悟った両軍が、巻き込まれないようにさらに距離を保つ。
避けるクロコも、直撃こそ避けてはいるが、その強烈な熱に鱗は溶け、剥き出しの肉が焦げていく。痛みに顔を歪めながらも、これ程の攻撃が長く続く筈もないと、回避に専念する。
竜王の熱線が絶え、クロコが向き直ると、既に褪せ人が目前で武器を振りかぶっていた。握られているのは、何の変哲もない鉄の大剣。振り下ろされるそれを、咄嗟の判断で腕で受け止める。竜人の、それも最強と呼び声高いクロコの鱗は、並の鎧よりも遥かに強固。ただの鉄の大剣であれば、受け止める事など造作もない。その筈だった。
受け止めんとした大剣が、クロコの鱗を何の抵抗も無いかのように斬り裂き、その胴を袈裟斬りにした。
「オオォアアア!!」
腕を落とされ、身体を傷つけられたクロコが吼える。落とされた腕が、袈裟斬りにされた胴が、燃え盛るように激痛を走らせる。想定外の痛みに悶えながら、何をしたのかとクロコは睨む。
褪せ人が鉄の大剣の刀身を撫でる。その刀身にはべったりと脂と、そして尖ったさざれ石が付着していた。竜餐脂。古き竜を討つべく、竜餐の戦士達が用いたそれは、竜に対して致命的な傷を与える。
もはや勝敗は決した。両の腕は無く、竜餐の傷が蝕むその身体は戦いを続けられるものではない。褪せ人がトドメを刺さんと歩み寄る中でも、クロコの闘志はまだ折れてはいなかった。
「まだ、続けるか」
「武器が握れズトモ、此の牙がアル。此の身が蝕まれようとも、此の足がアル。我ガ竜雷、腕を失くした程度で絶えるものでは無いと知レ…!」
その答えは、理解できるものだった。或いは己が逆の立場でも、同じようにしただろうから。
傷つき、最早死を目前としていて尚放たれる圧は間違いなく竜であった。
飛び掛かり、雷の帯びた牙が迫る。しかし、その牙が届くよりも先に、褪せ人が鉄の大剣を構えて大きく踏み込むと、その勢いのままに斬り上げた。竜餐の呪いを帯びた剣が、クロコの身体を深く抉る。
「申シ訳ありませヌ、魔王様…済まヌ…同胞達ヨ…」
その一撃がトドメとなった。もはや立つことは叶わず、少しずつ命が溢れていくのをクロコは感じた。最期に、己を殺した男の姿を見遣る。
鎧はひしゃげ、その隙間からは夥しい血が流れている。それでもその男の立ち姿に揺らぎは見てとれない。その佇まいは、見る者には余裕さえ感じられるだろう。だが、他ならぬクロコには分かった。この男もまた、薄氷の勝利の上に立っていると。痩せ我慢が上手いものだと、僅かに笑う。
「良キ戦イであっタ…」
未練が無いといえば、嘘になる。真なる竜雷を宿すことなく、竜人達の悲願も果たせなかった。だが、目の前の男は己の勝負を受け、正面から打ち破ったのだ。
「クロコ様が…負ケタ…?」
「転送魔法陣を準備セヨ!我らが悲願ヲ、古き竜雷ヲ諦めるワケにハ…!」
勝敗は決した。両軍の反応は、対照的だろう。
クロコの敗北を受けた魔王軍の動揺は激しい。特に竜人達の反応は顕著であった。最強の竜人が敗れ、途方に暮れる者。それでも、悲願成就のため、僅かな可能性に賭けて竜将を救わんとする者。
対する王国軍は勝利に沸き立った。口々に褪せ人を褒め称え、アレこそが英雄であると興奮したように叫んでいた。
「神官は急いでくれ!あれ絶対痩せ我慢だから!格好つけてるだけだから!」
褪せ人をよく知るタラニアが褪せ人の様子を見て大声で神官を呼ぶ。あの男は斃れるその瞬間まで弱みを見せないのだ。一体どんな環境で戦えばそんな風になるのか。今は仲間に囲まれているのだから、少しくらい弱みを見せてくれたって良いのにと、タラニアはそう思った。
「お疲れ様でした!後はゆっくり休んでいてください!」
カゴメが褪せ人へと近づいてくる。この娘にしては珍しく休めなどと行ってくる。或いは、相当に弱って見えているか。だが、そうもいかないはずだ。
「その前に、やるべき事がある」
「やる事って、血がドバドバ出てますけど」
この程度は出血ではない。出血とはもっと噴水の如く飛び散るものだ。
釈然としていないカゴメを尻目に、ハルモニアへと歩み寄る。
「まさか…クロコ様が…」
魔王直属の竜将クロコが討たれる。自らの上官が打たれたという事実を、受け止めきれないでいた。
「続けるか」
ハルモニアに、褪せ人が問いかける。その言葉に、ハルモニアは我に帰ると、褪せ人を見る。その全身は血に塗れ、鎧もまた不格好に歪んでいる。間違いなくクロコとの死闘で疲弊しているだろう。そんな有様でも、彼女はこの男に勝つ光景が浮かばないでいた。それほどまでに、かの竜人が敗北した事実は大きかった。
「もはや、これまででしょう。降伏します」
そう言って手に持つ槍を捨てる。本当なら、仇討ちを果たすべきなのだろう。だが、己の忠義に、部下達を付き合わせる事は出来なかった。
「私の命は、御随意に。ですが、兵達とあの子…エスネアの命はどうか、見逃してもらいたいのです」
「私に権限は無い。所詮は雇われだ」
降伏し、無抵抗となった相手を殺す趣味はない。しかし、降将の扱いなど知る由もなかった。助命については簡単に通るのだろう、王国軍なら、恐らく言うまでもない。
「この方については、お任せください。褪せ人様はどうかお休みを」
「まだ、アイギスの神器を確保できていない」
王子が離れ、ここの指揮を引き継いでいたセーラの申し出に了承する。
しかし、直ぐにでも王子と合流しなければならないだろう。
その言葉を聞き、先程から褪せ人へ回復の奇跡を掛け続けていたヒーラーの女が呆れたように口を開いた。
「……イリスさんが、困り果てていたのも分かりますね。一体どうすれば、こんな身体で動けるのでしょう。ましてや、このまま次の戦場に向かうと?」
「アイギスの神器の入手こそが今回の目的。敵将の討伐は任務ではない」
「……せめて傷をある程度癒してください。大立ち回りした英雄が失血死で斃れるなど、笑い話にもなりませんから」
何を言っても聞かないだろう褪せ人に、一応の妥協案をセーラは示した。自身の主人も無鉄砲なきらいがあるが、この男の影響も少なからずあるだろう。何とか是正し、王子が影響を受けないようにしなければと、密かに画策する。
褪せ人は奇跡を受けて傷を癒している間。王子の向かった方向を見遣る。直ぐにでも向かうつもりだが、あまり心配もしていなかった。既に心折れた者に負ける程、あの男は弱くないだろうと、知っているが故に。