朽ちた人型の前で立ち尽くす褪せ人をカゴメは静かに見守る。
実のところ、カゴメが彼について知っている事は少ない。
鎧を片時も手放さない奇特で無口な大男であり、エビとカニが好き。
そして戦場においては無類の強さを誇り、あらゆる手を尽くして一切の容赦無く敵を圧倒する。
しかし、平時では思いの外寛容な部分を垣間見せる。
カゴメが必要以上にくっついても鬱陶しそうにこそすれ拒絶される事は無かった。
当初は無関心から来るものと考えていたが、最近はそうでもないのではないかと思っている。
でなければ、東の国で嫌われ者の妖怪と常日頃から共に居ることなど出来ないだろう。自身の事だ、自覚はある。
彼を知る者の中では、それなりに付き合いの長い方だがそれでもその程度しか知らない。
何かを頑張っていたのは分かる。だが、何をそれ程までに頑張ってきたのかは知らなかった。
彼女にとって頑張りという行為こそが最重要であり、何に対してかは左程重要ではないからだ。
気にはなるが、彼が多くを語らない以上、聞くつもりは無かった。それがどのようなものでも、彼女がそれを理由に離れるつもりは無かったからだ。
あの老人の語った『エルデの王』
それが何なのかを彼女は知らない。
しかし、褪せ人はそれを目指し、なったのだろう。
だが、彼自身がそれを認められていない。
それが後悔からくるものなのか罪悪からくるものなのかは分からないが、今目の前の朽ちた人型の内にある光こそが、彼にとってその原点なのだろう。
故に、カゴメは静かに見守る。
どのような選択をしたとしても、彼女は褪せ人のそれを受け入れ、祝福するつもりだった。
エルデンリングを前に、褪せ人は立ち尽くす。
己の手には失われたはずのルーン。
そして大地には青く光る秘文字。
それが意味する事は一つだった。
「——選び直せと、そう言うつもりか」
それが己の望みなのだと、あの魔神と迷宮は判断したのだろう。
確かにあの時エルデンリングに律を掲げてから、その事を考えなかった事はない。
もし、あの時掲げた律が違えば、今よりも良い世界になり得たのではないかと。
掲げたのは完全律。
神の意思を排し、黄金律の下、人が己の意思で立ち上がる世界。
人のごとく、心持つ神に踊らされる事の無い世界。
黄金の理の中に生きる者にとって、修復された律は救いであったはずだ。
だが、それを掲げた事によって救われなかったものが居たのもまた事実。
死に生きる者達など、最たる例だった。
彼らは望まずして黄金律を外れ、その庇護を失った。
黄金律は彼らを守る事はなく、亡者として迷い、彼らにとって死は安息を意味しなくなった。
故に乙女は、己に王たるを望んだのだ。
黄金律を外れた、弱き民の為の王を。
或いは、忌み子達とてそうだろう。
彼らは黄金律によって不当に貶められた存在である。
あの忌まわしい穢れた男に賛同するつもりはないが、それでも彼らに救いの手を差し伸べる選択肢は、当然あったはずだった。
黄金律にとって角持ちは忌まわしい穢れた呪いであったとしても、その理の外においては、むしろ神聖で選ばれた民の象徴なのだから。
無論、褪せ人個人の感情としては角人達の所業に思う事が無いわけではない。黄金律を掲げるにあたり、永遠の女王が呪いと定めるのも無理はなかった。
だが、針の騎士がそう言ったように、結局はそんな彼女とてやっている事は角人達と変わらない。敗者か、そうでないかの違いなのだ。
今一度、褪せ人は己の手の内にあるルーンを見遣る。
褪せ人にとってその決断は、誰を救うかではなく、誰を救わないかを決めるものであった。
「……」
長い沈黙であった。
周囲が固唾を飲んで見守る中、褪せ人は一歩前へ出る。
そして、足元に落ちた女の頭部を拾い上げんと、手を伸ばした。
「お待ちになって? それは、本当に貴方の望みですか?」
不意に、声が響く。
魔神マンモンの声であった。
どこまでも優しげに語り掛けるそれに、悪意は見られない。
「その選択は何も変わらない、貴方が望んだのは別の結末でしょう?」
その声と共に、新たなルーンが浮かび上がる。
まるで三つのルーンが混じり合い、力強い光を放つそれを見て、彼女が何を言いたいのかが分かった。
「それを使えば、貴方の望んだ結末が見られるでしょう。誰もを救い、外敵に脅かされる事もなく、安寧を迎える。その治世は言われるでしょう——黄金の時代と」
それは確かに、褪せ人の求めたものであった。
全てを救い、憂いなく人々が歩みを進める時代。
かつて、何も知らぬ己が目指した、王たる姿。
「貴方も望んだ筈です。戦いの果てに、報われたいと。数多の屍を積み重ね、それでも手を伸ばしたのは全てを救う選択肢があると思ったからではありませんか?」
——全てを救わなければならない。
かつてこの地に来て、あの男は言った。
己の故郷を奪われ、父を殺されながらも、それでも全てを救うのだとその目に決意を湛えて。
出来るわけ無いとせせら笑う事は出来た。
無謀な事だと訳知り顔で告げる事も出来た。
それでもそうしなかったのは、他ならぬ己が、その眩しさに惹かれたからでは無かったか。
己の取りこぼしたものすら拾い上げようとするあの男を、酷く羨んだのではなかったか。
そんな選択肢が、今目の前に掲示される。
所詮は幻。それに手を伸ばしたからといって何かが変わる訳ではない。
しかし、そうと分かっていても抗い難いものだったのは否定しない。
「……」
しかし、それでも褪せ人はそのルーンを選ぶ事はなかった。
永遠の女王、その頭部を手に持つと朽ちた身体へと向かう。
「どうしてでしょう? 貴方にとって酷く苦しい後悔はその選択であったはずです。それは貴方の望みではありませんよね? ……ね? ね?」
心の底から心配そうな声音で語り掛けてくるマンモン。
この魔神は、本当に善意で欲望を叶え続けてきたのだろう。
褪せ人の選択が理解出来ないとばかりに声をかけてくる。
そんなマンモンの言葉に、褪せ人は口を開く。
「決めたのは私だ。その責任から逃れるつもりはない」
たとえ何度繰り返そうとも、己が掲げるのは完全律である。
人は律の下、己の意思で歩まなければならない。
永遠の女王などと讃えられ、しかしその実優しいだけの女に縋り、全てを背負わせる時代はもう終わる。
救わなかった者達の怨嗟は己が背負おう。
嘆きも呪詛も、ただ己だけを責めればよい。
己の心の底の望みを示されても、その決意が揺らぐ事はなかった。
褪せ人がマリカの頭部を朽ちた身体に乗せる。
そして、あの時と同じように完全律の修復ルーンを掲げてみせた。
朽ちたマリカが、エルデンリングが輝きを放つ。
世界が黄金に包まれ、視界が覆われる中、カゴメの優しげな声が褪せ人へと届いた。
「——報われますよ、頑張った貴方が成した事が間違いだなんて、そんなはずありませんから」
その言葉にどこか懐かしさを覚えながら、褪せ人は再び目を見開いた。
そこには灰に覆われた世界は無く、薄暗い迷宮へと景色は戻っていた。
「どうやら戻って来れたようだな」
シャディアが周囲を見回しながら、若干の安堵も込めて言う。
思いの外時間をかけてしまっていた。
自身の状態を確認しているところに、アスバールが心配そうに駆け寄ってくる。
「大丈夫ですか?」
それは、先程までの光景についてだろう。
あの魔神は、少々喋り過ぎた。聞かれて問題のないものではあるが、さりとて己の内面を晒されるのはあまり気分の良いものでもなかった。
だが、それだけである。
「問題ない」
所詮は終わった事を掘り返されただけのこと。
その程度で揺らぐ覚悟で律を選んだつもりはない。
願ったのは事実だが、それでもつまらない感傷に流される程軟弱なつもりも無かった。
「時間をかけすぎた。急がねばならん」
当初の目的を果たさねばならない。
幻が解けてから、マンモンの声がしなくなったのも気にかかる。
一行が同意したのを確認すると、褪せ人達は迷宮の奥へと急ぐのであった。
褪せ人達が迷宮の奥へ進む。
ここに来るまでに妨害らしい妨害は無かった。
それも当然か、この迷宮は侵入者を阻むものではなく、魔神マンモンが訪れた者達の欲望を映す鏡として利用している箱庭だからである。
その先で、一際大きな扉を潜る。
薄暗い迷宮の中で、打って変わって眩い輝きに包まれた部屋であった。
それはさながら宝物庫。金銀財宝で埋め尽くされた部屋であった。
それらは魔神マンモンが、人の欲望を叶えるべく溜め込んだ財である。
欲深き者達がマンモンに財を求め、この部屋より持ち去った。
しかし、しばらくするとその財達は人知れずマンモンの下へと戻ってくる。彼ら欲深き者達がこの部屋の財の所有者であり続ける事は決してありはしないのだ。
「フハハハハッ!! 良くぞ来た挑戦者達よ! だが、少しばかり遅かったようだな!」
周囲を警戒する褪せ人達に、部屋の奥より声が響き渡る。
力強い男の声であった。
その先に居たのは獅子の獣人と——血に塗れたマンモンの姿。
「うぁ……私が、こんな……」
「実に良いファイトであったッ! だが、王者たる我の敵では無かったなッ!」
獅子の獣人がマンモンを褪せ人達へと放る。
放物線を描き、思いの外丁寧に投げ渡されたマンモンを褪せ人が抱き留め、地面へと寝かせる。
「あー! 魔界でアタシの壁を壊した獣人!」
カゴメが獣人を指差して叫ぶ。
褪せ人も覚えがあった。かつて、アナトリア達オークをハルモニアとエスネアが襲撃した際に現れた獣人の男。
名は確か、ガオレオンだったか。
「……む? そうか、エスネア達を襲ったファイター達か!」
ガオレオンがカゴメの言葉に思い出したかのように声を上げる。
そんなガオレオンの背後に控えるデーモンの手に握られているのは暗く、不可思議な輝きを放つ光。
「あれは……!?」
アスバールがそれを見て目を見開いた。
何か知っている様子に、それを問うより早くアスバールが叫ぶ。
「あれを彼らの手に渡す訳にはいきません! 何としても取り返すのです!」
その言葉を聞いた褪せ人の判断は早かった。
すぐさま聖印を握ると、祈祷を発動させる。
それは、忌まわしき祈り。
己の瞳に黄色い狂い火を宿す。
瞳の内を、狂い火がのたうつようにして暴れ狂う。
「……!」
狂的な痛みが褪せ人を襲うが、最早慣れたもの。
漏れ出そうになる悲鳴を押し殺しながら、狂い火を収束させ、制御する。
そして、十分に力を溜めたそれをデーモンに向けて放った。
距離はあるが、問題ない。
この祈祷の優れたところはその射程と威力。
守りすら貫く狂い火の熱線はデーモンを貫くのに十分な筈だった。
「ふん、無駄だ! 王者たる我がここにいる限り、飛び道具など無駄だと知れぃ!」
ガオレオンの言葉と共に、狂い火の熱線が突如としてその軌道を変える。
デーモンを貫くはずだったそれは、まるで吸い込まれるようにして仁王立ちのガオレオンへと向かい、直撃する。
「フハハハハ! ちびっこ達の声援を受けた我にこの程度効かぬわ!」
そして、デーモンの代わりに狂い火を受けたはずのガオレオン自身は全くの無傷であった。
かつて、エスネアへのトドメを邪魔された時と同じ現象。
雷に限らず、狂い火も通用しない。
ガオレオンの言葉を信じるのならば、遠距離攻撃自体が意味を成していない事になる。
遠距離攻撃を自身へと集め、その上で無効化する。
あまりに厄介な相手である。
「ガオレオン様、転移門の準備が出来ました。今回も貴方様がチャンピオンでございます」
「ヨシ! ここでの役目は終わったようだな!」
デーモンの言葉に、ガオレオンが力強く頷くと、転移門へと歩みを進める。
逃すわけにはいかない。
遠距離での祈祷が通用しないならば、接近戦を挑むほかない。
褪せ人が地を蹴り、ガオレオンへと駆ける。
「ここでファイナルマッチ! ……と言いたいところだが、我は魔王を下した貴様を侮るつもりはない! この場は退こう。だが、忘れるなッ! 時代のスターはこの我、魔王軍幹部ガオレオンであるッ!!」
「良いから逃げますよ! ガオレオン様!」
褪せ人がガオレオンに辿り着くより先に、ガオレオンは転移門より奥へと消えてしまった。
褪せ人が足を止める。
転移門、この世界ではありふれた移動手段のようだが追跡出来ないのが厄介だった。
「幻に時間を掛けすぎたか、私の責任だ」
取り逃がしたのは己が感傷に浸っていたからに他ならない。
もっと早くに辿り着けていれば、間に合ったのだろうが。
「そんな事誰も思っていませんよ。第一、魔神マンモンを害するのを止めさせたのは私です。責任を問われるなら私でしょう」
そんな褪せ人の言葉をアスバールが否定する。
責任を問われるのならば、強行突破を止めた自分であると主張する。
「あの幻には褪せ人以外の欲望も混ざっていたんですから全員の責任ですよ!」
そんなアスバールを、カゴメがさらにフォローする。
責任の所在を問うても仕方ない。
気を取り直し、褪せ人がアスバールへと問うた。
「あれが何なのか知っているな」
「はい、魔王軍が求めた『力』とは即ち『破滅の力』。かつて破壊神が振るったとされる力の欠片です」
この世界の創造神、それと対をなす破壊神の力。
それこそが、魔王の求める力の正体であった。
「今回奪われたのは恐らく小さな欠片の一つ。故に、直ぐにどうにかなる訳では無いはずです」
しかし、現状はその全容は不明。
数も、その力の大小も分かってはいない。
「いずれにせよ、ここで出来ることは無い。急ぎ破滅の力について調べ、奴らより先に押さえなければならない」
名前と由来さえ分かれば、調べようはあるだろう。
王国と帝国、加えてアスバールの城館の資料を漁り、糸口を探る事となる。
「マンモンはどうしますか?」
「……傷を癒して放置するより他はあるまい」
もとより彼女は魔王軍と褪せ人達に住処を荒らされただけである。
悪意は無く、欲深い何者かが手を出さなければ害はない。
故に、彼女自身をどうこうするつもりは無かった。
「一度王国に戻る」
「分かりました。転移門を開きます」
アスバールが転移門を開き、褪せ人達が潜り抜ける。
魔王の力の正体は分かった。
これより始まるのは、破滅の力の争奪戦。
それはまるで、砕けた大ルーン達を思い出させた。
アスバールやカゴメ達と別れ、褪せ人が王都の邸宅へと戻る。
王子達はまだ遠征より帰ってきていない。報告は後程になるだろう。
アスバール達は先の一件からか、何やら気を遣っているようであった。邸宅に一人で戻っているのも、恐らくはそれが理由である。
迷宮で起きた事については左程気にしていないのだが、偶には静かなのも悪くはない。気遣いに甘えさせてもらおう。
しかし、そんな彼女達の気遣いは無駄に終わる。
邸宅の玄関を開くと、濃密な死の気配が褪せ人の身体を包み込んだ。
邸宅自体に何の変わりもありはしない。しかし、間違いなく何者かがこの邸宅に居る。
冷たく、どろどろとしたそれは不快感の伴うもの。
突如として漂ってきたそれに僅かに戸惑うも、しかしすぐさま足を踏み入れる。
ある意味で慣れ親しんだものだった。言ってしまえば、狭間の地の地下墓の空気。
懐かしい気持ちが無いわけではないが、自身の邸宅で漂っているのは勘弁してほしいところである。
仮にも他人の屋敷でそんなものを漂わせているのは一体何者なのか。
廊下を進み、居室へと向かう。
明かり一つない暗い部屋に、一人の女が居た。
黒と赤に彩られた衣服を身に纏い、死人のような冷気を漂わせた女だった。
魔女を思わせる姿も相まって、何処か、雪の魔女を思い出させる。
「——何て濃密な死の音色。怨嗟と、嘆きと、ほんの僅かな希望……貴方ですね、私の封鎖領域にその音色を響かせていたのは」
「……」
意味の分からない事を一方的に告げられるのは慣れている。
しかし、単なる不審者として突き出すのは憚られた。
何故なら、彼女の纏う気配は間違いなく人外のもの。
恐らくはアスバールと同じ——
「——亜神が一体何の用だ」
「……貴方がこの地に来てからずっと気になっていました。多くを殺し、悲哀と嘆きの音色を響かせながらもそれらを背負い、前へと進む。不思議なものです。これ程に死の気配に満ちていながら、私はこうして狂う事なく貴方の前に立っている」
褪せ人が問いに、亜神は口を開く。
突如として現れ、死の音色を響かせる異界の戦士。
冥界に居た時よりずっと気にはなっていた。時折死した魂から聞こえるのだ、恐ろしい英雄の話が。
世界の全ての死を知覚する彼女は、彼が何をしてきたのかを知っている。
多くを殺し、ただ目的の為に邁進する。
一際強く響くそれは、彼女の関心を集めるのに十分であった。
そんな音色を聞いているうちに、気づいたのだ。自身が死の音色に狂っていない事に。
「——会いに来ました。最も死に近く、最も死より遠い者よ」
死氷の亜神が褪せ人へと微笑む。
厄介ごとの気配に、褪せ人は静かに溜め息をつくのであった。
ストーカー参戦。
帝国大戦まで我慢出来ませんでした。