今ひとたび、英雄たらんことを   作:blue man

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ちょっと長め。


裏切りと策謀

 天界の門。誰が築いたのかも分からぬそれが、重々しい雲を突き破るようにして聳え立っていた。

 

「これが、天界の門……」

 

 巨大なそれを見上げながら、王子が呟く。開かれた門の先は、薄い光の膜に覆われているようだった。

 その荘厳な雰囲気に立ち止まった王子より前にアスバールが前に出ると、王子へと口を開く。

 

「王子、神の楔を私に」

 

「あぁ」

 

 アスバールに促され、王子が神の楔を手渡すと、それを受け取った彼女は術式を発動させる。

 王国の者達を光が包み込み、やがてその光は静かに収まった。アスバールが神の楔による神性を付与したのだ。

 王子達が己の身を確かめる。身体に大きな変化は無い。しかし、僅かに身の内で小さな何かが灯されたのを感じた。

 

「……これで天界の障壁を越える準備は整いました」

 

 アスバールの言葉に、褪せ人が門へと歩みを進める。

 門の奥、拒むように広がる光の膜に褪せ人が触れる。僅かに膜の光が強まるも、すぐに収まり、何の抵抗もなくすり抜けていく。

 膜の向こうで褪せ人が振り返って王子達を一瞥すると、すぐにそのまま奥へと進んでいった。

 

「……奥へと進もう」

 

 王子の言葉に王国の者達も意を決したように門の奥へと進む。

 彼らはついに踏み込んだのだ。神々の領域、争いの絶えぬ光の向こう側へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 抜けるような青い空の下、石畳で舗装された道を進む。

 

「ここが天界か……」

 

 タラニアが歩みを進めながら周囲を観察する。

 まるで大地の如く広がる雲。その上に古めかしい石造りの建造物が立ち並ぶ。

 少し道を外れて雲の端から見下ろしてみれば、凄まじい高さに思わずタラニアは目眩を覚えた。

 万が一足を滑らせようものならば、一巻の終わりだろう。

 

「神様はよくこんなところに住めるね……」

 

「ここは天界でも外縁ですからね……鳥人や天使ぐらいしかここに居を構える事はありませんよ」

 

 下を覗き込み、身震いするタラニアにへリューズが口を開く。

 ここは天界の端。ここに神や天界人が来ることは稀であり、多くは自由に空を飛ぶ鳥人と天界の警備に回された天使達くらいしか通る事は無いという。

 

「へぇ、それでこんなに静かなのね」

 

「私が知る頃はもっと賑わっていたんですけどね……」

 

 アブグルントの言葉に、へリューズは周囲を見渡す。

 今、この場に王国の者達を除いて人の気配はありはしない。いくらここが天界の端であるとはいえ、まるで気配がしないのは異様であった。

 

「警戒して進もう、ここは既に敵地のはず——」

 

「——マスター、西より飛来する反応を確認しました。数は2、恐らく鳥人であると推測します」

 

 警戒する王子を遮るようにして、アージェが西の空へと視線を向ける。

 褪せ人も同様に目を向ける。遥か西の空、遠く二つの点が見える。この距離の時点で接近に気付くとは、やはり彼女は人間とは違うのだろう。

 

「敵ではなさそうですが……」

 

 アスバールが呟く。

 たった二人での接近、此方に敵対の意思を持っているとは考えにくい。

 しかし、ここが既に神々の領域である以上は警戒するに越した事は無かった。

 

 次第に二つの点が近付き、朧げな輪郭がはっきりとしてくる。

 鳥人の女。凄まじい速度で接近するその二人は装備からして戦士であるようだった。

 薄い桃色の髪に白い翼を広げた幼なげな女と、赤茶色の翼の褐色の女。

 いずれも必要最小限の防具であり、惜しげもなくその肌を晒している。空を飛ぶ故に、身軽である必要があるのだろうと考えて、この世界ではそのような考察が無意味だった事を褪せ人は思い出した。

 

 そんな褪せ人の考えを他所に、いよいよ声の届く距離まで近付いてきた二人。その表情に敵意は見られない。しかし、褐色の少女からは僅かな警戒を感じ取れた。

 

「すごーい! 本当に人間さんだ! ねぇねぇライノー、もしかしてこの人達が天使様達が話してた英雄さまじゃない!?」

 

 白翼の少女は赤茶色の翼の女へと話し掛ける。その様子は人間がここに居るという驚きと、何かしらの期待が見てとれた。

 

「まさか天界の門を超えてくる者が地上に居るとは」

 

 赤茶色の翼の女、ライノーは王子達へと向き直ると口を開く。

 

「私は鳥人の戦士ライノー。貴殿らは魔王ガリウスを討った物質界の英雄殿で相違ないか?」

 

 ライノーの確認の言葉に、王子は静かに頷いた。それを見て、白翼の少女が上空を飛び回りながら喜びを露わにした。

 

「わぁっ、本当に英雄さまなんだ! ライノー! ぼくたちの里を助けてもらおうよ!」

 

「……どういう事か、説明してもらえるでしょうか?」

 

 白翼の少女の言葉に、アスバールが問いを投げ掛ける。少女はアスバールの姿を見て大きく目を見開いた。

 

「ぴぃっ!? 亜神さまだ! ライノー、亜神さまも居る! それも二人だよ! これはもう勝ちだよ! ねぇねぇライ——へぴっ!?」

 

「パリオス、話が進まないからちょっと静かにしてくれ」

 

 一人はしゃぎ続ける白翼の少女——パリオスを小さく小突くと、改めてライノーは事情を説明し始めた。

 

 ケラウノス、そして魔王ガリウスの亡き後、天界では亜神達による神の楔を巡る争いが繰り広げられていた。

 そんな亜神同士の争いは激化の一途を辿り、やがて天界を巻き込んだ動乱へと発展していく。

 

「私達はある方の庇護下で何とか巻き込まれずに済んでいたのだが……最近になって連絡が途絶えてしまったんだ」

 

「そしたらね、天使さま達が仲間にならないなら殺すぞーって集落にやってくるようになっちゃって……」

 

 今まで辛うじて跳ね除けていた戦乱の火が遂に鳥人達の集落へと及ぼうとしているのだという。

 そんなライノー達の言葉に、イリスが問いを投げかける。

 

「そのある方というのは?」

 

「『銀腕さま』だよっ! カッコよくて強くて素敵な方なんだー!」

 

 パリオスが花が咲いたような笑顔と共に答える。

 余程慕っているらしい。そして、告げられた名はつい最近聞き覚えのある名でもあった。

 

「銀腕、ねぇ……」

 

 アトナテスがアージェの方を見る。かつてアージェを造り、千年戦争を駆け抜けた英傑の一人もまた『銀腕』であった。

 その視線を受けたアージェが頷く。

 

「恐らく推測通りかと、彼女達の言う『銀腕』と私を設計した者は同一人物です」

 

「まぁそんな二つ名で呼ばれる人が二人も居ませんよねぇ」

 

 アンブローズもまた確信をもって言う。鳥人達を守護していた人物は自分達の知っている彼女で間違いないのだろう。

 問題は、そんな彼女と連絡が途絶えているという事。天界の情勢を考えれば他の亜神と争い、敗北した可能性すらあり得た。

 

「銀腕さまが負けるはずないよ! あんなに強くてかっこいいんだから!」

 

「そう思いたいが……」

 

 パリオスの言葉にライノーが呟く。

 いずれにせよ、目下の問題は庇護を失った鳥人の里である。ライノーからは助力を得る代わりに里を拠点として提供するとともに補給物資もある程度融通する用意があるという。

 

 天界という地上から隔絶された空間において、土地勘のあるものの協力を受けられるばかりか補給すら賄えるのは王国としても願ってもなかった。

 

 王子がその申し出に快諾の意思を見せると、ライノーは安心したように表情を緩めた。

 

「ありがたい……早速だが里に案内しよう。ついてきてくれ」

 

 そう言うと、ライノーとパリオスが翼を広げ飛び立つ。

 その背を追いながら、褪せ人達は天界の僻地、鳥人達の隠れ里へと向かうのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ところで、亜神達は何故神の楔を求めるんですか?」

 

 隠れ里へと向かう道中、フーロンはふとそんな事を問うた。

 神の楔、この世界の神が奇跡を用いる際に必要となるもの。それに価値があるという事は理解している。しかし、それでも他の神々と争ってまでこぞって手に入れようとしているのかは理解出来なかった。

 

「そうですね……亜神も自分達の領土を守るのに必死ですので、多くの兵力を求めています。そして神の楔の数はそのまま亜神としての力を意味します。強き亜神である事は、多くの民を引きつけますから」

 

 フーロンの疑問に、へリューズが答える。

 大半の亜神は、己の身を守る為に力を求めているのだろう。亜神としての力を誇示する事は、多くの民を集め、より兵力を増やす事に繋がる。神といえども、ただ一人では勝つ事は出来ないのだ。

 そんなへリューズの答えにフーロンは僅かに僅かな呆れを滲ませて口を開いた。

 

「……何というか、その辺りは人と変わらないんですね」

 

「そうですねぇ……後は神の楔の力で良からぬ事を考えている亜神も居るかも知れませんが……」

 

 神の楔の力は万能に近い。それこそ複数集めれば、神の後継者を名乗れる程に強力なものである。

 世界樹を魔物化した亜神は、恐らく神の楔を用いて何らかの大掛かりな奇跡を起こそうとしている、そうへリューズは睨んでいた。

 

「……」

 

「む? どうかなされたか?」

 

 雑談をしながら隠れ里へ向かう中、褪せ人が突然足を止める。

 それをライノー達が訝しげに見つめるも、アージェやアトナテスも同様に足を止めると、己の得物を抜き放つ。

 

「……囲まれたか」

 

「転移術の発動を確認。周辺に複数の魔力反応です」

 

 その言葉に王国の者達が一斉に周囲を警戒し始める。

 褪せ人が周囲を油断なく見渡す中、彼女は現れた。

 

「——へぇ、思ったより見知った顔が多いね。これなら手加減は必要無いかな」

 

 凛とした女の声、冷たく、感情を押し殺したようなそれにアトナテスを始めとした英傑達が顔を上げる。

 

「……ッ! どういうつもりだ——トラム」

 

 現れた女の姿に、アトナテスが険しい表情を浮かべる。

 天界の石造りの建物、その屋根に降り立ったのは銀腕の亜神であった。亜麻色の髪を風に靡かせ、冷徹な表情で此方を見下ろす。

 冷たい視線がアトナテスから他の者達へと動き、そして最後に王子へと移る。

 

「そして君が、彼の子孫かな? 戴冠はまだみたいだから、王子と呼んであげようかしら」

 

 能面の如き無表情で、彼女はそう言うと己の剣を抜き放つ。輝ける剣、それはかつて仲間と共に魔王を討つ為に振るわれた光の剣であった。

 

 ——銀腕を掲げし者、トラム

 

 アージェの創造者にして英傑として伝説に残る偉大なる戦神、その名であった。

 こちらに光の剣を向けるトラムに対し、アンブローズが口を開く。

 

「……どういうつもりか、聞いても良いですかぁ?」

 

「どういうつもりって? 私がここに居る理由? それとも天界人の兵士を引き連れている理由? それとも、私がこうして君達に刃を向ける理由かしら」

 

 トラムの言葉に呼応するように周囲に兵士が現れる。

 防具を纏わず、最低限の装備で身体を晒す彼等は剣闘士を思わせる。それぞれが握る武器も地上の者達からすれば些か古めかしく感じさせるものであったが、多少魔術に造詣の深いもの達が見ればそれが魔法の武器である事が分かる。

 

「悪いけど、君達にはここで死んでもらうわ」

 

 トラムが告げる言葉に、しかしアトナテスは訝しむ。

 魔王を討った英雄達とかつての仲間を相手取るにしては、些か戦力が足りていない。彼女自身と天界兵は決して侮る事の出来ない存在だが、それでも勝てるとは思えなかった。

 

「……お前、俺達の事を忘れたのか? 数で攻めるにしたってこの程度じゃ相手になるわけ——」

 

「——勿論、彼らだけじゃないわ」

 

 トラムの言葉と共に、膨大な魔力が膨れ上がった。天界兵などとは比べるべくもない、何か強大な存在が現れようとしている。

 間をおかずにそれは現れた。トラムの背後、展開された魔法陣よりそれは這い出でる。

 

 それは、亜神であった。

 後光を背負った巨体の女。古めかしい装束を身に纏い、本来頭髪にあたる部分には無数の蛇が蠢いていた。

 

「ご、ゴルゴーン!?」

 

「フシュシュ……鳥人如きが妾の名を呼ぶデない」

 

 驚きのあまり叫ぶライノーに、ゴルゴーンは不快げに顔を歪める。そして、トラムの方へ顔を向けると口を開いた。

 

「何を悠長に構えテイる? かつての仲間に、くだらぬ情でも湧いたカ?」

 

「……ッ! そのような事は……」

 

「ならバ妾に見せてみよ、英傑たるお前の力を」

 

 ゴルゴーンの言葉に、トラムが怯えたように肩を震わせる。

 そして決意を込めた目で此方を見つめると、その銀腕の魔力を解放した。そして王子達を見据えて言い放つ。

 

「さぁ英雄達よ、私を殺しなさい。でなければ私が貴方達を殺すわ」

 

「チッ、また一人で背負い込みやがって……」

 

 そのトラムの姿に、アトナテスが斧槍を構える。

 この亜神は昔から一人で抱え込む悪癖があった。大方今回も、誰にも助けを求められず一人で苦悩しているのだろう。

 

「……やるしかなさそうだな」

 

 王子が神器を構え、亜神と天界兵へと相対する。

 王国の者達が武具を構える中、褪せ人もまた武器を構えた。

 

 亜神と英雄、天界での戦いの幕が切って落とされようとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

「——だが、お前がその舞台に立つ事はない」

 

 

 

 

 

 

 一触即発、今まさに駆け出そうとしていた褪せ人の足元に魔法陣が展開されると、褪せ人を包み込む。

 

「……っ!?」

 

 突然の魔法陣に褪せ人がその範囲から逃れようとするも、間に合わない。

 包み込んだ魔法陣が褪せ人を掻き消す。何らかの転移術が発動した証左であった。

 

「褪せ人!?」

 

「転移魔法……違う、これは……!?」

 

 突然の出来事に狼狽する王子。アスバールもまた、その展開されたあまりに高度で複雑な術式に目を見開いた。

 

「ゴルゴーン、これはどういう事ですか」

 

「フシュシュ……全てはあの御方の御意志。お前はただ塵芥どもを狩れば良い」

 

 何も聞かされていないトラムはゴルゴーンへと問い掛ける。

 目の前の亜神が何者かの意思の下動いているのは知っていた。今回も、その何者かの齎した策なのだという。

 

 狼狽する王国の戦士達の中、アスバールは冷静にその魔法陣のあった場所を見つめる。

 

「魔力の痕……まだ間に合う! 王子、私達は彼を追います! 放ってはおけません!」

 

 褪せ人が消えた足元に魔力の残滓が残されている事を感じ取った。この魔力の痕を追えば、転移魔法で褪せ人を追える。

 

 それと同時に、これが罠である事もわかっていた。褪せ人を転移させたあの術式、それは女神アイギスの権能に限りなく近いものであったからだ。

 それ程の力を振るう存在について、アスバールは背後に居る亜神が何者なのかを朧げながら感じ取った。

 

「……分かった! だが無茶はするな!」

 

 王子の言葉にアスバールは転移魔法の準備を始める。

 へリューズ、フーロン達もまた褪せ人を追うべくアスバールの近くに集まる。天界のトラム達を迎え撃つ王国と英傑達。そして褪せ人を追う者達で分かれる事となる。

 

 褪せ人を追う者達を見ても、ゴルゴーン達が止める様子はない。天界兵もまた、アスバール達を無視して英傑達へと駆け出していた。

 転移魔術の準備をしながら、アスバールはついてくる者達へと口を開く。

 

「恐らく、この転移は読まれています。私の予想が正しければ、今回の騒動に関わる亜神は一筋縄ではいかないでしょう」

 

 アスバールの言葉に全員が頷いた。

 ここより先、何が待ち受けているかは分からない。それでも、彼を見捨てるという選択肢はありはしなかった。

 

 アスバールの魔法陣が足元に広がり、包み込んでいく。残された魔力の残滓を追い、何処とも知れぬ死地へと足を踏み入れていった。

 

 

 

 

 

 

 

「——罠と知り、それでもなお踏み込むか。嘆かわしいな、人間如きにそれほど入れ込むとは」

 

 

 

 

 

 

 アスバールが目を開き周囲を見渡す。

 そこは部屋であった。応接用のテーブルと山積みの書類の置かれた書斎机。それを認識した時、アスバールは戸惑いを覚えた。それは酷く見覚えのあるものだったからだ。

 

「私の部屋……?」

 

 見間違えるはずもない、それは魔界における彼女の城館、アスバールの仕事部屋であった。転移魔術を間違えたかと焦りを覚える中、部屋の扉を何者かが開く。

 反射的にタクトを構えると扉の先を睨みつける。

 

「……ッ! 誰ですか!?」

 

「あれ? お嬢、そんなところに立って何してるのよ?」

 

 しかし、入ってきたのは敵ではない。己の知る愛しい従者の一人、ヤハールであった。

 身構えるアスバールを見てきょとんとした表情を浮かべる。

 

「ヤハール……なの……?」

 

「……? そうよ? そろそろ王国との定例会議の時間だから呼びに来たんだけど」

 

 戸惑いながら問い掛ければ、やはり首を傾げながらもヤハールが答える。

 頭の中に靄がかかったように思考が鈍い。果たして己は、何のためにここに来たのだったか。

 思わずふらつくアスバールへと慌てたようにヤハールが駆け寄る。

 

「ちょっと大丈夫? 最近働き詰めだったから疲れてるんじゃない?」

 

「そう……でしょうか」

 

 心配そうにこちらを覗き込むヤハールにアスバールは何とか答えを返す。

 何か、大事な事があったはずなのに思い出せない。そしてそれすらもゆっくりと塗り潰されようとしていた。

 

「調子が悪いなら言いなさいよ? 世界が平和になってからずっと仕事続きなんだから」

 

「世界が……平和……?」

 

「そうよ! 魔界を統一して、天界の亜神達を倒して、漸く一息ついたんじゃない!」

 

 戸惑うアスバールに当然のようにヤハールが言う。

 そういえばそうだったか。世界は平和で、魔界も統一された。そして今自分はこうして魔界の民の為に働いている。

 

「お嬢様? どうかしたの?」

 

 ようやく自分の状況を把握し始めたところに、新たに部屋に入ってくるものが居た。己のもう一人の従者、ロタンとそして——

 

「何をやっている」

 

 褪せ人であった。いつものように鎧姿ではあるが、武器は携えていない。常と変わらぬ態度の彼を見て、何か引っ掛かりを覚えるも、すぐさまその違和感は消え去った。

 褪せ人達を見て、ヤハールが口を開く。

 

「お嬢、ちょっと疲れてるみたい。王国の人達には悪いけど今日は帰ってもらってお休みにした方が良いかも」

 

「お嬢様、働き詰めだったものね。話してきてあげるわ」

 

「ま、待ってください。流石に会議に来た彼らをそのまま帰すわけには……」

 

「ダメよ! また倒れられたら困るんだから! 事情を話せば、王子達は分かってくれるでしょ?」

 

 ヤハールの言葉に思わずアスバールが声を上げるも、すぐさま反論されてしまう。こうなってしまうと己の従者達は中々聞いてくれないのだ。主想いなのは良いが、少々困ったものである。

 

「そういう事だから褪せ人、今日は一日アスバール様と居てあげてね!」

 

「アスバール様、目を離すとすぐ働いちゃうから、気分転換に付き合ってあげて欲しいの」

 

 ヤハールとロタンにそう言われて、褪せ人は僅かに考えた後に頷いた。

 

「……良いだろう」

 

「そういう事だから、アスバール様は働くの禁止ね! しっかり休んで、体調を元に戻す事!」

 

「お嬢様、ゆっくり休んで、ね?」

 

 それだけ言って、ヤハールとロタンは部屋から出て行ってしまった。

 

「まったく、困った従者達です」

 

 残された褪せ人に、アスバールは困ったように微笑みかける。しかし、折角の休み、それも従者達の計らいで彼と一緒に居られるのだ。素直に彼女達の想いに甘えるべきだろう。

 

「さて、何をしましょうか? ふふ、突然のお休みですから困ったものですね」

 

「……好きにすれば良い。今日一日、付き合ってやる」

 

 褪せ人は常の如く言葉少なに返す。しかし、その短い言葉の中に彼なりの不器用な優しさを感じられた。

 アスバールは彼と過ごす一日をどのように彩ろうかと思いを巡らせる。

 そこには最早、自分がここに居る理由に疑問を持つ事などありはしなかった。

 

 

 

 

 

 

 

「あら? 此処は……」

 

 へリューズが目を覚まし、身体を起こす。自分が何をしていたか思い出そうとするも、頭に靄が掛かったように思い出せないでいた。

 

「私の屋敷……ですね」

 

 目を覚ました場所は冥界の第二層、ヘルヘイムに建てられた己の屋敷の寝所であった。

 ベッドから身を起こし、部屋を出る。廊下を歩きながら、何ともなしに周囲を見渡した。

 

 屋敷に人の姿はない。彼女に従者はなく、時折ハイドースの使いが様子を見にくる程度なのだから当然ではあるが。

 ひどく静かな屋敷の中を彼女は歩いていく。そして、ふと立ち止まった。

 

「死の音色が……聞こえない?」

 

 その静けさは、彼女にとってはあり得ないものだった。死を司る神であり、死と寄り添う事こそが権能である彼女は、常に世界のどこかで訪れる死を知覚してしまう。それ故に彼女は少しでもそれを遠ざける為に冥界へと降りたのだが、それでも完全に遮断する事は出来ていなかった。

 それが今や存在しない。それは彼女にとって喜ばしい事であると同時に異常事態であった。

 

「どうしてでしょう……?」

 

 しかし、彼女は首を傾げる程度に留まる。常の彼女ならばその異変に対して何らかの動きを見せただろうが、それ程に強い疑問を抱く事はなかった。

 驚く程の静けさに戸惑いを覚える中、ふと屋敷の外の中庭から物音が聞こえてきた。

 静かに、何か硬質なもの同士を擦り合わせたようなその物音にへリューズは釣られるようにふらふらと外へ出る。

 

「貴方は……」

 

 そこに居たのは、褪せ人であった。篝火の前に腰掛け、無言で武具を研いでいる。

 へリューズの声に僅かに顔を上げ見遣るも、すぐに武器へと視線を戻して手入れを再開し始めた。

 

 何故此処に彼が居るのか、疑問が浮かび上がるもすぐさま掻き消える。彼が側に居る、その嬉しさが彼女の疑念を押し潰していた。

 小気味良い音を響かせながら武具を研ぐ褪せ人の側まで歩くと、ゆっくりと腰掛ける。そして、へリューズは微笑みながら、訝しげに見つめる褪せ人へと口を開いた。

 

「少し、ここで眺めていてもよろしいですか?」

 

 その言葉に褪せ人は少し手を止め考えるも、やがて頷くと手入れを再開した。

 

「……ここはお前の屋敷だろう、好きにしろ」

 

「えへ……ありがとうございます」

 

 褪せ人の了承を受け、ひたすらに武器を研ぎ続ける姿を眺める。静けさの中、ただ刃を研ぐ音だけが響いていた。心地良い音に、彼女は安堵する。その静寂は、彼女にとって何よりも愛おしいものであった。

 

 彼女が何故冥界の城館に居るのか、そこに疑念を抱く事は無かった。

 

 

 

 

 

「ここはオリュンポスの第一層、夢と眠りの亜神ヒュープの寝所。ここでは人も亜神も関係ない。ただ、温かな夢の中で永劫安らかに眠るといい」

 

 

 

 

 

 その光景に、褪せ人は懐かしさと違和感を同時に感じていた。過ぎ去った筈の記憶、しかし今はそうではないように感じる。

 

 褪せ人が無言で歩みを進める。道中に敵はなく、ただ静けさだけがそこにはあった。

 石畳を踏み締めながら周囲を観察する。立ち並ぶ石像、噴水の広場のある中庭。酷く見覚えのある光景だった。しかし、自身の知るそこよりも随分と手入れが行き届いているように感じた。

 

 そこは狭間の地、カーリアの城館。かつて褪せ人が忍び寄り、魔女との邂逅を果たした場所。

 以前訪れた時よりも明るい道中を褪せ人が歩く。

 

 中庭を抜け、城館の中へと入ろうとして——狼の遠吠えが響き渡った。

 

「……!」

 

 すぐさまバックステップで入り口から距離を取り武器を構える。

 城館の屋上から降り立ったその姿に、褪せ人は目を見開いた。

 

 使い込まれた、毛皮のマントを羽織った騎士鎧にカーリアの意匠を施されたグレートソード。そして、厳しい狼の顔。

 

「お前は……」

 

 半狼のブライヴ。かつて月の王女に仕え、忠義と使命の狭間に狂い、褪せ人によって殺されたはずの男であった。

 ブライヴはゆっくりと立ち上がると、褪せ人の方へと向き直る。

 

「まったく、今までどこに行っていたんだ。随分と探す羽目になったぞ」

 

 警戒する褪せ人を気にした様子もなくブライヴは親しげに歩み寄る。狂った様子はない。確かにこの男は、ああなる前までは良き戦友であった。

 

「何故生きている」

 

「会うなりどうした? ハハっ、どこかで変な術でももらったのか、後でイジ爺に診てもらうと良い」

 

 殺したはずの男に戸惑う褪せ人に対し、ブライヴは言っている意味が分からないとばかりに首を傾げる。そして、褪せ人から背を向けると屋敷を顎で指し示した。

 

「行こう、ラニが待ってる」

 

 

 

 

 

 褪せ人が先導するブライヴについて歩く。

 見知った場所の見知らぬ光景。果たしてこの城館はこれ程に小綺麗だっただろうか。そんな疑問が胸中に浮かぶも、そもそも何故自分がそう思ったのかすら思い出せない。

 

 しばらく歩き、城館を抜け、王家の月見場からさらに奥へ。幾度となく訪れた魔術師塔を昇った先に、彼女は居た。

 褪せ人のよく知る姿で、いつものように椅子に座り、四本の腕を膝の上に載せながら此方を見遣る。

 

「あぁ、結局戻ってきたのか、お前。まったく、仕方のないやつだ」

 

 ——魔女ラニ

 

 かつて一時とはいえ仕え、しかし袂を分かったはずの彼女がそこに居た。

 

 

 

 

 

「——眠れ英雄。ここにはもう、君を苦しめるものなどありはしない」

 

 




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