「──っん、ぁう」
「っ!ミルー、ミルー。大丈夫だ、ここにはお前を傷付けるものは誰もいない」
「ッンン、も、いやぁ」
己よりも遥かに小さな子供の目からはポロポロと涙がこぼれ、僅かにその体は震えていた。
彼女の名前はミルー。ただそれだけしかロシナンテは知しやしない。何故ならば彼女は自身のことを語らないからである。
ミルーとロシナンテとの出会いはあまりにも奇跡的で、己の血のつながった兄から殺されかけた時に手を差し述べてくれたのが彼女であった。
銃で撃たれ血を流し続けたロシナンテは、あとは死ぬしかないのだと悟っていた。いや、死ぬ事でしか救えないものがあるのだと本気で思っていたのである。ただ一つ気がかりだったのは、共に旅をしてきた不治の病と思われている少年・ローの事だけ。オペオペの実をギリギリのところで手に入れ食べさせる事はできたが、はっきり言ってしまえば彼一人だけでそれを治療し生活できるかと問われると悩ましい。何せあの子はまだ十三歳。独り立ちするには早すぎる。生まれ育った環境故に一般的な子供よりは強く生きていけるだろうが、病という枷がある。まだまだ大人に頼らなければ生きていけないだろう。
チカチカと点滅し出す世界でもし叶うのならばローの成長を見守りたかった、欲を言えばもっと生きていたかったと願い天を仰ぐ。助からないのは分かっている、それでもと未来を望んでしまうのは人としての性だろう。
弱々しく吐いた息は白く、かろうじて自分が生きている事を知らしめる。これがあと何分持つだろうか。せめて、ローが逃げ切るまで命が持てばいい。
そう思っていた最中、小さな影がロシナンテにかかった。霞む目では誰がやってきたのか見えず、もしかして兄の手下がとどめを刺しにきたのかと最悪の展開を思い浮かべるも死にかけの体は動く事はなく。
ここで終わってしまうのかと諦めたその時の、柔らかな光がロシナンテの体を包み込んだのだ。
「────」
一体何が起きたのか分からない。ただ分かるのは目の前に現れたのが敵ではないという事だけ。
死んじゃだめだよ、生きるんだよとロシナンテにかける声は幼く、それでいて慈愛に満ちたものであった。幼子と思われるその人は自分数倍はあるであろうロシナンテの体を背中に乗せると、ずりずり引きずりながら雪道を歩きだす。幾分か傷が楽になったからか押し寄せてくる眠気に耐えながらも彼女の声を何度も聞いた。
生きて。お願いだから、死なないで。死んじゃだめ。生きるんだ。また死なないで。
これ程に誰かに生を願われた事はない。そう思いながらもロシナンテは、耐え難い睡魔に身を委ね瞼を閉じたのである。
薄暗い闇の中、ロシナンテは地獄を見た。
繰り返される死と白が赤く染まる世界。
その世界の中心にいたのは一人の少女。
どう見てもローよりも幼いその少女は何度も何度もロシナンテの兄、ドフラミンゴに立ち向かい、その度に悲惨な死を遂げた。銃弾に貫かれその身を斬られ、殴り殺され踏み潰され。
もうやめてくれと叫ぼうにも、声が出る事はなく。ロシナンテはただ彼女が死ぬ瞬間を繰り返し眺めるだけしかできない。一体何のためにそうまでしてドフラミンゴに立ち向かうのだと問おうにも、言葉がロシナンテから紡がれる事はなく。
何度も何度も彼女が繰り返し死に絶える瞬間を瞳に焼き付け、彼女がもうやくドフラミンゴに勝ち、終わると思われた繰り返しは何故か終わらなかった。
何故、どうして。彼女は勝ったじゃないか。もうやめてもいいじゃないか。そう思ったところでロシナンテが変えられる未来ではない。
勝てっても繰り返される世界に気づいた彼女は、次にロシナンテを生かすための行動に移り出す。もしかしてこのループの原因は己の死なのではと、ロシナンテは気づいてしまったのである。
彼女がドフラミンゴに勝てた時でさえ、自分は撃たれ、出血多量で死んでいるのだろう。己の死が繰り返される起点なのであれば、彼女がロシナンテを生かそうと行動するのは必然でしかない。けれどもそれは楽な道ではなく、何度も自分は死んで、時には救おうとした彼女が殺される。戦わなくとも、ロシナンテを救おうとするだけで彼女は殺されるのだ。
もうやめてくれ、救おうとしないでくれ。見捨てて逃げてくれ。
叫ぼうとしたところで、記憶と思われるこの世界では声が届く事はない。
絶望に苦しみ、それが終わったのはどれくらい
繰り返されたあとだろう。
天井に煌めく光に長い夢を見ていたのだと、ようやく戻ってこれたのだのだと深く息を吐いたが、ベッドに横たわるロシナンテを覗き込むように見てきた少女の存在で夢は夢でなかったのだと思い知った。
何度も繰り返し殺された少女はロシナンテを見て微笑んだ。
あぁ、よかった。生きてる。
たったそれだけの言葉に、どんな意味が込められたかなんて知るわけがない。
ただその言葉はロシナンテに心に深々と、生涯消えない傷を残したのは間違いないだろう。
生きている。生かされている。
目の前の小さな少女に、己は生かされた。
見知らぬ人間を、死んでもしょうがないと諦めた人間を、この少女は身を挺して救ってくれたのだ。この恩をどう返せばいいのだろう。そもそもこの恩は返せるものなのだろうか。
手を取り何度も何度もお礼を言ったところで彼女は首を傾げ、お礼を言われるような事はしていないといって聞きやしない。彼女がどれだけのことをしてくれたのかまるで理解していないようであった。何度も救おうとしてくれた記憶があるのだといったところで彼女は少し目を見開いたくらいで、肯定も否定もする事はなく。彼女は"そんなことより"と、少年の、つまりはローのことをロシナンテに頼んだ。
自分は警戒されているから、怪我の調子がいいのなら一緒にいてあげてほしいとも。
ロシナンテは自分だけでなくローも助けてくれたのかと喜んだが、彼女は助けていないと首を振る。それでもローが生きているのは彼女のお陰でもあるに決まっている。そうに違いないと決めつけたロシナンテを少女は困った顔で見ていた。
ロシナンテが目覚めるまで少女、ミルーと名のったその子は、この家の主に家事を手伝いながら二人の面倒を見ていたという。よく出来た子だ、親子か何かと家主である発明家ヴォルフに問われたがロシナンテは首を横に振り、命の恩人だと答えた。数日後に目覚めたローも何故かロシナンテと似たような記憶を所持しており、やはりミルーは二人の恩人であると理解した。たとえそれを彼女自身が否定していても、過ぎた現実がそうなのだと示しているのだから。
崇拝にも似た気持ちでミルーの側で過ごし、なるべく彼女に恩義を返そうとしたロシナンテであるが、ドジをするたびに助けられてしまう。これでは恩が増えるだけなのではないかと本気で頭を悩ませた。
いったい自分に何が出来るのだろうと考えて、ようやく思いついたことがただ彼女の側にいることだった。遠くの海を見て『帰りたい』と嘆く彼女を支える事だけが、今の自分にできる事なのだとロシナンテは考えたのだ。何せ今の自分にできる事は少ない。海軍を頼れば彼女を故郷に帰してやれるだろうが、その海軍には己の兄の手下が潜んでいる。容易に連絡なんて取れやしない。
ならばせめて、ミルーが寂しくならないようにそばにいる事だけが今の自分にできる事なのだろうと。すぐに故郷に帰してあげるとは言えないが、ローがもう少し大人になれば船に乗って三人で旅をすればいい。それまでは自分が側で守ればいいのだと、ロシナンテは思考した。
ローもまた、出会い頭にいざこざがあったがミルーを信じ切っていた。何せ命の恩人であるロシナンテを助けてくれた少女だ、信じないわけがない。
それに何より、ローにもロシナンテ同様に繰り返された記憶がある。ロシナンテよりは多くはない断片的な記憶であったが、暗い箱の中で聞いてた少女の声は確かに目の前にいるミルーのもので、それを否定する術はなかったのだ。
ロシナンテがミルーを守ろうとするのと同じく、ローもまたここではない何処かを思い浮かべて泣くミルーに対して庇護しようという思いが日に日に強くなっていくのを感じた。ローにはかつて妹がいた。生きていればミルーより年上であろう妹が。
ミルーが目を細める度に、帰りたいと嘆く度にどうしようもなく心が締め付けられる想いに駆られる。自分たちを救ってくれた少女一人救う事はできないのかと嘆き、ならばせめてここに居る間は寂しくないように抱きしめるのが日常になるのには大した時間は掛からなかった。
そんなミルーに対しての過保護が当たり前になららつつある頃、その奇妙な生活のメンバーがもう一人増えた。彼はミンク族という獣の姿を持つ種族であった故にいじめに遭い、それをローが助けたことによって仲間入りしたといってもいい。ロシナンテもそうであったがミルーもその姿を気にするそぶりもなく、一緒に住むことになったと伝えられたところで『そう』としか返さない。その態度をシロクマ・ベポは不思議に思ったものの自分に害がないなら問題ないと思っていた。しかしながら共に過ごすうちに、害がないどころか興味を持たれていないのではと悲しくなったのだ。
ロシナンテやローが世間話をすれば応えるミルーだが、ベポと二人きりになると会話をする事がほとんどない。ベポが話しかけないせいもあるが、ミルーが彼を見ることもない。ただ遠くを見て涙を溜めて、帰りたいと小さくこぼす事はあったがそこから会話を広げられるわけもなく。ローにミルーはどこに帰りたいの?と聞いたところで得られた情報は多くはない。
「聞いても、いつか帰るとしか教えてくれないんだ」
「どうして?」
「──ミルーは、自分の帰る場所がわからないのかもしれない」
憶測でしかなかったが、ミルーがどこに帰りたいと教えてくれない以上送り届ける事はむりなのだろう。むしろ送り届ける場所さえも本当にあるのかわからないのだ。もしかしたらフレバンスのようにすでにない国へ帰りたいと願っている可能性すらある。そう思えば思うほど、ローはミルーに対して故郷の話を聞けなくなっていった。
「ミルー、大丈夫?」
だがベポはミルーへと声をかけた。返事なんて決まって『大丈夫』の一言だと知っていても。自分だって『ゾウ』に帰れるかわからないのだ、何となくだが彼女の寂しい気持ちがベポはわかる気がした。そっと距離を縮めて頭を撫でてみれば、ふわふわの黒髪が肉球に触れる。少しでも力を込めてしまえば壊れてしまいそうな身体をしているミルーは、その身体に似つかわしくないほどの不安を抱えてるに違いない。そう思えばどうにもいたたまれなくなった。
「おれ達がそばにいるからね!」
「──そう」
泣きそうな顔で頬を歪めたミルーを抱きしめていればそこにローとロシナンテも加わり、ヴォルフには肉団子かと笑われたが気にする事はない。ほんの僅かだが、ミルーがベポを掴む手に力が入ったのだ。なんて言われても良かった。
それから数日もしないうちに、今度はペンギンとシャチと名乗る二人が加わった。
「……ミルー、あの二人の怪我って治せるか?」
「できなくはない、けど。ろーくんがちりょうしてくれたところをなおすだけだよ?」
「それでも早く治った方がいいと思うからな」
二人は大怪我をし、それをローがオペオペの実の能力を使い治療した。ロシナンテが二人のオペが終わるとミルーに更なる回復を頼み、千切れた腕も抉れた腹も、リハビリが要らなくなる程度まで治したのである。ペンギンとシャチは手術をしてくれたローに感謝し尊敬すると同時に、元通りと言っていいほどの状況まで回復させたミルーにも深々と頭を下げた。
しかしながらミルーはそれに対し、ローが施術した後だからできた事。いなければ治せなかったのだから、恩を抱くならばローだけにしてほしいと言いきった。
「でも、お前がいなけりゃ元通りになるまで何ヶ月かかって、痛かったはずだってローさんが」
「だから俺たちとしては、ローさんは勿論、お前も、ミルーも恩人なんだよ!」
「──そう」
ミルーは何度お礼を言おと、困ったように笑うだけ。
どうしてあれほどまでに頑なに、誰かに感謝されるのが嫌なのかと問えば別に感謝されたくてやっているわけではないからと彼女は答える。そういって、自分がやってきた行いを何一つ認めやしなかった。
六人がヴォルフのところに住みついていく日が 経つと、日に日にミルーの顔色が悪くなっていくのが目に見えてわかった。ロシナンテが理由を聞こうにも口を開く事はなく、ローにもベポにも何も言わない。新参者であるシャチとペンギンには尚更だ。唯一ミルーと日常的な会話をできたのは誰でもなくこの家の家主であるヴォルフただ一人。彼曰く、ミルーの心がもう限界なのだろうと。
ミルーは歳の割に落ち着いた子だ。でもいくら落ち着いていたとてまだ五歳。一般的な常識で言えば家族と共にいる年齢なのだ。
そんな子供が長い間訳もわからず親元から離されてしまえば、精神に異常をきたす。そうヴォルフは言ったのである。
「じゃぁ、おれらが家族になりゃいいんじゃね?」
そう軽々しく言い切ったのはシャチで、その日から暇さえあればミルーに構うようになった。大丈夫、問題ない。それしか言われなくても隣にいるようにしたしこっそり買ったお菓子を半分分けてあげたりと、少しでも安らげる時間ができればいいと願って。
無論それは他の四人にも伝染し、元からミルーの側にいたロシナンテはいつでもぴたりと身体を沿わせるようになった。何も知らない人間から見れば過保護にも見える行動だろうが、人肌を感じて寂しくないようにと考えた末の行動である。
ローもベポもそれに倣い、時間を見つけてはミルーの名を呼び側にいた。
ペンギンは少しずつ落ちている食事の量に気づくと食べやすいものをレシピを職場の先輩に聞き、それを家でも作って食べさせた。
そんな五人の姿を眺めていたヴォルフはまるで家族だなと呟いたが、その言葉は心をポカポカと暖めただけで嫌な気持ちににはならなかった。
しかしながら現実はいつだって非情なもので、ミルーは日に日に弱っていく。昼間はちょこちょこと家事をするために室内を歩き回り、まるで問題なんてありませんよと平気な顔をしているが、夜になると魘されて泣いた。その度にロシナンテが手を握り頭を撫でるも、苦しみ姿に変化が見られる事はない。
「ローさん、ミルーは何に魘されてるの?」
「……それは」
覚えがあると言えば、繰り返されたあの地獄。終わらない生と死の繰り返し。
嫌、やめて。苦しい、痛い。そんな単語が聞こえてくれば、それしか思い浮かばなかった。
「ミルー、大丈夫かなぁ」
「今日はみんなで寝る?」
「そうしよう!」
「勝手に決めるな」
ミルーを真ん中にして囲うように眠ることが日常となり、それが当たり前になっていく。
手のかかる末っ子を相手しているような気持ちと、ミルーの心が少しでも癒されるようにと誰しもが彼女を思った。
このままミルーの帰る場所がわからなくて、ずっとここにいるのならば、自分たちが守ってあげればいい。帰る場所になればいい。いつか笑った顔を見せてくれればいいななんて願って。
「ミルー」
彼女の名前を呼んだ。
でもやはり、現実はいつだって無情なのだ。
「おうちに帰りたい」
そう呟いたミルーの喉がなり、ポロリと涙が溢れる。それをロシナンテがいつも通りに指で拭おうと手を伸ばしたその瞬間、瞬きをしたその瞬間。彼女は消えた。文字の通り、消えたのだ。
「ミルー!何処に行った!?」
室内を見渡しても姿はない。庭を街を探し回ってもミルーは見つかる事はなかった。
一瞬だった。本当に何が起こったか分からないくらいの間で、彼女はいなくなってしまった。
『いつか帰れるから』と言っていた声が不意に蘇る。
嗚呼、あの子はこのことを言っていたのかとロシナンテはこの以上事態を理解してしまえた。
「コラさん?」
「みんな、よく聞け。ミルーは家に帰れたんだ」
「っ!でも、どうやって!?」
「分からない。でもきっと、ミルーには分かってたんだ。こうなることが」
いつ帰れるか分からないが、いつかは帰れるのだとミルーはわかっていたに違いない。でもそれが何時になるかはわからなかった。だから辛かった、苦しかった。
「でもっでも!」
「落ち着けベポ。おれにもローにも悪魔の実の能力があるだろ?多分きっと、ミルーもそうに違いない」
あの子には不思議な力があったから。
人を治す力に、死に戻る力。一体何の実を食べたのか気になるところだが、少なからずその力が関わっているに違いないだろう。
「ミルー、泣いてねェかな……」
「家に、帰れたなら。大丈夫なんじゃねェの……」
良かったはずなのに、少し寂しい。
そう呟いたのは誰だろう。
残念な事にロシナンテ達はミルーの名前以外のことは何一つ知らない。何処の海で生まれ、何処で育ったのかも。ミルーがお家と呼ぶ場所さえ知らない。
でも、彼女がそこに帰っていったのならばそれで良かったに違いない。違いないのだが──。
「大丈夫、かな」
あの泣き虫な子は、優しい子は無事なのだろうか。本当に、帰れたのだろうか。
彼らがそれを知る術はなく。
それから幾年か月日は経ち、ロー達は育った島を去る時が来た。海賊になってしたい事、すべき事はもう決まっている。
ロシナンテはドフラミンゴを止める事を飽きらめきれず、海軍に戻れなくともそれを願い。ロー達の手を借りてそれを成す為船を出す。無論、目的はそれだけではない。世界を見たい冒険をしたいという思いもあった。
そしてなりよりも──。
「会えるかなぁ」
「会えるといいなぁ」
「てか、忘れられてたらどうする?」
「その時はもう一度、思い出させてやりゃいい」
「──それだと辛い思いも思い出されるんじゃねェか?」
「それでも、おれは思い出してもらいたいけどな」
何処にいるか分からない少女にまた出会う為、彼らは船を出す。
某日、マリンフォードにて。
「外科医ー」
そうローを呼んだ声の主は、かつての少女に似た姿をしていた。