江戸の夜は暗い。
周辺鎮守府の提督を集めた会議が終わった後、宿泊も酒席も断った真壁小四郎は月明かりの下を鎮守府へと急いでいた。
よく知った道のうえに提灯の油は充分であり、小四郎は夜を怖れるような性格でもそんな歳でもない。夜道をゆっくりと歩いて帰ることに支障は何もない。
ただ、気持ちは急いていた。
早く自分の鎮守府に帰りたい。落ち着きたい。
会議の決定に気持ちがささくれ立っていた。そして小四郎はそれを当然とも思っている。
深海棲艦の大規模停泊地に対する攻撃が行われる。そのために、囮となる艦隊が必要だと言われた。無論、それは危険な、いや決死の任務である。
小四郎の鎮守府を名指ししたものではない。しかし、小四郎の鎮守府が対象とならないというわけでもない。
囮艦隊の選定は後日になったが、いずれにしろ犠牲は発生する。小四郎にはそれがたまらなく嫌だった。
理屈ではわかっているのだ、囮が必要であるということは。攻撃艦隊が正面から乗り込めばどれほどの被害になるか。それによって今後の江戸、いや、日本の被害がどれほど想像できるか。
「提督とは因果な商売よ」
そう言ったのは誰だったか。
小四郎とて剣士として、武士としての誇りは持っている。しかし、剣を取って深海棲艦に立ち向かうとしてどれほどのことができるのか。
人は水上には立てぬ。だから深海棲艦の砲撃をただ耐え抜き、上陸したところへと斬り込む。斬り込むまでにさらなる砲撃が加えられる。砲撃で四散する屍を乗り越えようやく届いたところで、深海棲艦に剣を突き立てることのできる技量の持ち主がどれほどいるか。
艦娘が現れなければ、武士はそうやって滅亡していっただろう。残された人々も深海棲艦の前に無力無惨に狩り立てられていくだけだっただろう。
しかし艦娘は現れた。この江戸の海に。そして人々を救い、手を取り合った。
そこにどれほどの感謝があるか。
どれほどの喜びがあったか。
それでも、人は慣れるのだ。艦娘の献身に。艦娘の忠誠に。艦娘の力に。
命すらかけて人に奉仕するのが当たり前だと放言する者が現れるのだ。あの日、深海棲艦に立ち向かわずにひたすら逃げまどった者の中から。
確かに命をかけて民を守ることに異論は無い。不必要だとも感じない。だが、それは他人に、いわんや人間を救うために現れたであろう艦娘に強制できることなのか。
小四郎にはそれが腹立たしかった。
艦娘とは一体何なのだ。人のために深海棲艦を殺し、自らの命をも省みることなく捧げる。それだけの存在なのか。
提督として小四郎は多くの艦娘を知っている。笑い、泣き、飯を食い、眠り、歌い、走り、怒る。狡い者もいれば要領のいい者もいれば愚直なまでに真っ直ぐな者もいる。
それは提督となった小四郎にとって最初の驚きだった。
人と同じではないか。
人には為せぬ深海棲艦との戦いに身を投じるのはどのようなバケモノか。と考えたこともある。ところが、そこにいるのはバケモノなどではなかったのだ。
故にこそ、さらに考えるのだ。艦娘の幸せとは、と。
人に従い命を捨てるのが歓びなのか。
ならば艦娘とは一体何なのだ。
焦燥した思いで鎮守府に戻ったところで、提督室には誰もいない。会議は遅くなるとわかっていたので秘書艦には先に休むように言ってある。夜番艦娘は当直室にいるだろう。深夜に帰ってきた提督にわざわざ顔を見せに来る必要もなく、そんな命令を出す気もない。
提督室に戻る途中に立ち寄った厨から拝借した酒を置くと、小四郎はどっかりと座り込んだ。
こんな時間だというのに眠気すらない。
ならば酒で眠気を呼ぼうと考えた。それに、飲まなければやってられないという気分もある。
「あら、盗み酒? 提督自らギンバイとはねぇ」
声に目を向けると、提督室の半開きになっていた襖から駆逐艦娘の陽炎が顔を出している。
「陽炎か」
夜間哨戒の任だったなと思い出す。
それでも、提督室に顔を出す義務はないはずだ。あるいは……
「あー、別に緊急事態ってわけじゃないの。哨戒の報告自体はいつも通りの異常なしよ」
陽炎が即座に小四郎の疑いを打ち消した。
「こんな時間に提督室が明るいからどうしたのかと思ってね」
まさか一人酒とは。と半笑いの表情で陽炎はするりと敷居をまたいだ。
「隼鷹さんに見つかったら五月蠅いわよ」
「そこは間宮ではないのか」
「間宮さんなら提督が飲み過ぎない限りとやかく言わないわよ」
隼鷹ならば自分も飲ませろと騒ぎ出す、と陽炎は笑った。
相違ない、とやはり笑う小四郎。
そこへすっと、陽炎がどこからか湯飲み茶碗を取り出した。
「これしかないけど」
「貴様も同じではないか」
笑いを隠せぬ口調で小四郎は、差し出された椀に酒を注ぐ。
艦娘は見た目こそ若いが、酒の飲めぬ身体ではない。例えば海防艦たちなどの見た目はまさに幼子だが、本人達さえ望めば酒の一合や二合どうと言うことはない。もっとも、ほとんどの艦娘は見た目の年相応の好みを示すため、例えば海防艦などが酒を欲しがることは皆無に等しいのだが。
「提督と差しで飲めるなんて滅多に無いもの。水雷戦隊旗艦としては、貴重な機会は見逃せないわ」
「ぬかしよる。ま、良いわ」
提督としてこの鎮守府にやって来た当初は、どこか艦娘に距離を置いている自分を感じていた。それは、死地へ向かうことを命じなければならぬ自分と艦娘との間の距離を近づけるべきではない、との思いからだった。
しかし、そんな頑なさは徐々に消えていった。それは艦娘達の人間らしさであり、無礼とは明らかに違う良い意味での気安さのためだった。
今の小四郎は、この鎮守府創立当時からの古株である陽炎に気を許していると言っていい。それは日頃最も長い時間接している秘書艦や、頼りにしている鎮守府最高戦力の艦娘に対する気持ちとはまた違うものである。無論、恋慕などではない。
そんな陽炎と飲み過ぎぬ程度に酒を酌み交わしつつ、だからこそ小四郎は尋ねてみる気になったのだろう。
「ときに陽炎、貴様に問いたい」
「なんなりと」
小四郎の言葉に感じるところがあったのか、陽炎の口調が即座に改まった。
このようなところが、自分が陽炎を重用する理由なのだろうなと小四郎は思った。
「艦娘の幸せとはなんだ。それは、人とどのように違うのだ」
問いは二つだった。
無言で碗の酒を飲み干すと、手酌でさらに注ぐ陽炎。
「まず、今の私は幸せ。提督の指揮に従い、深海棲艦を殺すこと」
再び飲み干す。
「そして、いずれは沈められること」
「それが貴様の、いや、艦娘の幸せか」
陽炎は冷たい目で答えた。
「人に従い、殺し、いずれ敗れて沈む。それが艦娘の幸せな人生」
言外の意味に小四郎は青ざめる。
人に従うと言った。
敗れて沈むと言った。
では、殺すとは、何を。いや、誰を。
「私たちの由来を、信じるかどうかは別として提督は聞いているでしょう」
遥か未来の日本によって作られた鉄の戦船。その魂を宿した人の形をした化生。それが、提督にのみ伝えられる艦娘の姿。ただし、それを信じるかどうかは別の話。少なくとも、艦娘達は自らをそう定義している。
「私たちは元々、人に従い人を殺すために作られたのよ」
だから、と陽炎は力強く続ける。
「人に従っても、人を殺さなくていい世界。それでも私たちの戦が必要とされる世界。これが幸せと言わずなんなの?」
心底からの言葉だと小四郎は感じた。ゆえに、だからこそ小四郎は尋ねねばならぬと感じた。どのような答が返ろうとも。
「それが、艦娘の幸せなのか。人のために戦い、死ぬことが」
それは哀しいことだ、と今の小四郎は思う。
自分は武士である。武士には武士の生き方があり、それは運命である。しかし、その中でも自分で選び取るものはあるのだ。
今の自分が提督であることは、自分で選んだ道である。深海棲艦との戦いも、自分で選んだ道である。そこに失敗があるとしても悔いはない。失敗があるとしても、それは自責である。小四郎は、提督ではない自分も選べたのだ。
しかし、艦娘はどうだ。
「少し、違うよ。提督」
二つの碗が空になっていた。小四郎と自分の碗に陽炎は酒を注ぐ。
「金剛さんの話を知ってる?」
「戦艦娘の金剛か」
「この鎮守府の金剛さんじゃなくて、〝最初〟の金剛さん」
艦娘には二つある。
この時代に突如現れた艦娘と、その後この時代で生まれた艦娘。前者は〝最初〟の艦娘と呼ばれ、今はほとんどが幕府大本営、あるいは御所に所属している。
その金剛を陽炎は語っていた。
「私も直接見たわけじゃなくて、〝最初〟の陽炎から聞いた話だけれど」
当初現れた艦娘達は自分たちの境遇に戸惑った。
気付くと知らぬ海の上、知らぬ空の下にいたのだ。
一人が偵察機を飛ばし、信じられぬ世界を見た。彼女たちの認識では江戸時代。自分たちの実艦が建造されるより遥か昔の世界。
加えて、深海棲艦の存在。
この時代でも戦うべきか、それとも元の時代に戻ることを考えるべきかと一同が迷うとき、金剛は自らの偵察機で見た。見てしまった。
深海棲艦に襲われる江戸の町を。炎上する家屋を。砲撃から逃げまどう人々を。
立ち向かう剣士達を。
剣士達は幾多の犠牲の後に知ったのだ。深海棲艦に達人の剣は通じると。
深海棲艦の上陸までを堪え忍び、砲撃をくぐり抜け、触れるだけでも殴殺されかねぬ豪腕を避け、そしてようやく届く一刀ならば、化け物を傷つけることができると。
それがどれほどの犠牲と引換であっても、反撃は可能なのだと。
ならば考えるなどなかった。一刻、四半時、いや、刹那の間でもその侵攻を止めることができるのならば、僅かな時間でも牙無き民を逃がすことができるのならば。
「私は、この世界の人々のために戦います。この世界の人を見捨てて戻ることなんてできるはずがありません。あの剣士達を見捨てて、どんな顔して戻れるって言うんですか!」
金剛とその姉妹達が動いた直後、全ての艦娘が動いた。金剛へ口々に謝罪しながら、自らの逡巡を反省しながら。
この時代における、深海との戦いが始まったのだ。
「町の人を護ろうとする剣士がいなければ、金剛さんは動かなかったかも知れません」
そしてそれは自分たちも同じだと。
この世界で生まれた自分たちも根本的に変わりはないと。
「どんな形であろうと共に戦い、見守ってくれる提督がいるから、私たちは戦います。いえ、一緒に戦えるんです。それが、私たちの幸福です」
力なき人を無視して逃げ出すような提督ならば、自分たちも命を惜しむ。
人のために命を賭すことのできる提督にこそ、自分たちは命を賭したい。
「だから、今の私たちは幸せなんです」
そもそも、と陽炎はさらに続けた。
自分たちの幸不幸を勝手に決めつけるとは何事か、と。
幸せなんて艦娘であろうと人間であろうとそれぞれではないか。
提督はけしからん。
ここで小四郎は首を傾げた。
見ると、酒の量がずいぶん減っている。
自分はさほど飲んでいない。つまり、陽炎が飲んだということになる。
「貴様、飲み過ぎてないか」
「飲んでません」
「酔っておるぞ」
「酔ってません」
力強く答える陽炎に小四郎は今度は頭を抱えた。
しかし、小四郎の表情は笑っていた。それは小気味よい笑いだった。
陽炎の言葉は全て本音に思えたのだ。それが艦娘陽炎の本音だと小四郎には確信できたのだ。
ならば酔って絡まれるなどいかほどのことであろうか。
「何笑ってるんですか」
「なに、貴様の本音が聞けて嬉しいのさ」
「そんなに嬉しいんですか」
何故か陽炎も笑っている。
「艦娘の本音が聞けて嬉しいですか」
「おう、嬉しいな」
「じゃあ。みんなも」
突然俊敏な動きを見せた陽炎が飛ぶように襖へと近づくと、閉じられていた襖を景気よい音を立てて全開にした。
「あ」
声を立てたのは襖の向こう側にいた不知火。そこには天津風、黒潮、そして何故か酒徳利を複数抱えた隼鷹までいる。
「貴様ら、何をやっておるか」
「いやぁ、陽炎と提督が飲んでると聞いて」
「貴様らだけか」
「えーと、ま、はい」
陽炎は締まりのない顔で笑い続けている。
「だってさ、みんな、提督が心配だったのよ。こんな時間にものすごい顔で帰ってくるから」
「陽炎、貴様は飲み過ぎだ」
「だって」
「貴様が飲み過ぎたせいで俺は飲み足りん。不知火、天津風、黒潮、隼鷹、付き合え」
先頭切って奇声をあげ入ってくる隼鷹、それに続く不知火たち。
小四郎は思う。
まだまだ自分は艦娘達のことなどわかっていないのだ。
艦娘を見た目の若さで判断してはならぬ。それは提督として最初に叩き込まれる鉄則だったはずであるのに。
小四郎は自分を恥じた。
そしてその後、圧倒的に酒量で負けたことも恥じた。