出かける前に散らかした執務室の机を、当直の秘書艦が片づけてくれていた。私は机に出張用の鞄を放り投げ、自分の体もソファに投げ出した。
部屋には他に誰もいない。
音もしない。
意識は、さざ波に弄ばれるごみのように、執務室の静寂を浮き沈みするばかりだった。
自分の脳波の上に、浮かんでいるみたいだ――疲労した頭がそんな妄想に辿りついて、おかしさを覚える。ひょっとすると、疲れて眠りにつくとき、船はこんな気持ちになるのだろうか――
足音。
静寂が波立つのを、私は感じた。
起きなくちゃ。無様なところは見せられない――ソファの上で、やっとのことで身を起こす。制帽を被り直し、服の皺をのばした。机に戻ろうとして、急に、このままでいいかと居直る気持ちが勝ってしまった。どうせ誰が来るのかはわかっている。
「陽炎でしょ。いいよ、入って」
ドアの向こうでかすかに息を呑む気配がした。そういえば、相手がノックするより先に声をかけてしまった。
ドアがゆっくり開き、夜明け色の髪がのぞいた。
「……何でわかったの?」
開口一番そう言うから、笑ってしまう。
「ふふん、提督なめんなよ。……お帰り。哨戒ご苦労様」
わかって当たり前だ。
この夜間哨戒――敵大艦隊の蠢動が報告される中での危険な任務において、旗艦を彼女に任せたのは他でもない自分なのだから。
「帰投したとき窓に明かりが見えたのよ。司令がいるなら報告済ませちゃおっかなって。中央での会議だったんでしょ? 今日は執務室に戻らないと思ってたから、びっくりしたわ」
「まあね……もう日付変わっちゃってるけど」
時計の針は午前二時過ぎを差している。あと二時間もすれば空は白み始めるだろう。
陽炎は肩をすくめた。報告書をくるくる軽く手で丸めながら、鞄が放り捨てられている執務机と、ソファに座っている自分の顔を交互に見比べた。
「いいよ、こっちで聞くから。おいで陽炎」
私は言った。正しい「提督課」は執務机にいるべきなのだろう――でも今は、あの執務机に着きたくない。
陽炎は「そう?」と目を瞬かせ、心なし嬉しそうな仕草でいそいそと向かいに回った。ぽん、と深くソファに腰掛けて足を組むと、報告を始めた。
つんととがった白い膝は照明の下で磁器のように眩しく、時々否応なしにこちらの目を射抜いてドキリとさせる。いつもと違う目線の高さ、いつもと違う距離で報告を始める彼女の姿が、新鮮だった。伏し目がちに報告書を読み上げていると、睫毛の長さがよくわかる。軽く指で前髪を弄っているのは、たぶん無意識の仕草だ――
「ちょっと~、聞いてる~?」
「え、あ、うん」
聞いてなかった。
取り繕ったところで、陽炎にはバレバレのようだ。
ふっと陽炎は息をついて、報告書をテーブルに置いた。
「待ってて」
席を立ち、部屋の奥の給湯室に姿を消した。
気を悪くさせたかな―――そう思っているうちに、温かい飲み物の匂いがした。
ホットミルク。
「はい、あんたのはこっち」
渡されたカップから浮かぶのは、ほのかなチョコレートシロップの香り――好みを覚えられていた。目を合わせると、自分の気持ちを読んだように、陽炎はにやりと笑った。楽しげに、向かいのソファに戻った。
「考え事? 私でよかったら、聞くわよ」
「……大したことじゃないよ。そんな気を遣わなくたって」
「何よ、相談のしがいがないってこと?」
拗ねた目でこっちを見る。
「艦隊の中枢たる我らが司令が、何やらお悩みで気もそぞろなご様子であらせましたので? 小官はこれを艦隊存亡の危機と認め急ぎ対処に当たったわけですが~?」
「わかったわかった。わかりました」
大人のような凛々しさを見せたかと思えば、変なところで子供なのだ――そんな歪さが、今夜はやけに眩しくて胸が痛む。陽炎、というおぼろげな名前とはまるで裏腹の女の子。
私は、この子に一体今まで何をさせてきたというのか。
そしてこれから、何を命じるつもりなのか。
立ちのぼる湯気の音さえ聞こえそうな、静かな夜だった。
世界の全てが死に絶えて、この世界にはもう、自分と陽炎しかいないような夜だった。
人間の自分と、艦娘の彼女。
ソファに座り、ホットミルクを飲んで。
いっそ、そうであってもいいのではないか。こうしている限りは、人間と艦娘の違いなんて、どこからもわからない――
「今日の会議?」
ぴくりと体がわずかに跳ねてしまう。水平線の向こうのマストの形まで見極める彼女は、今の動きを見逃さなかったはずだ。
「何か決まったんでしょ。わざわざ各艦隊の司令を呼び出してのことだから、ろくな話じゃないわよね。南方から接近してるっていう、例の大艦隊のことなんだろうけどさ……考え事の原因は、それ?」
「……私、これでも上官なんだけどな。会議のことなんて話せると思う?」
出てくるのは、苦笑いとそんなぼやきだった。
陽炎は足を組み換え、おどけた仕草で口元に指を当てた。口外しません、のサイン。
同盟国から報告された敵の艦隊は、海底から次々に仲間を呼び寄せ、勢力を拡大しながら近づいていた。沿岸国都市や航路を次々に食いちぎって、どうやら日本を目指すつもりらしい――絶対に到達させてはならない脅威だ。
敵はレーダーに映らない。通常兵器の電子網を、嘲笑うようにすり抜けてしまうのだ。そのため正確な位置を掴むには目視しか方法がないが、深海棲艦の活動領域は巨大な嵐を伴うことが多く、有人無人を問わず航空偵察は効果を発揮しにくかった。
味方主力艦隊は戦艦に出撃準備を整えつつあった。この艦隊が敵を確実に邀撃するには、誰かが位置と針路を報告し続ける必要があった。
目視するということは相手にも発見されるということだ。敵は妨害を目論むだろう。偵察任務についた者は、敵の全砲火に晒されるはずだ。
誰かが、やらなければならなかった。
荒れ狂う海の中、敵主力の砲火を潜り抜けながら、その姿を常に捉え続けなければならなかった――
「オーケイ、わかったわ」
「えっ?」
「つまりそれが、会議で仰せつかった私の任務ってことよね。あんたの艦隊で一番練度が高いのは、自慢じゃないけどこの私だし。それに、さ。だから私に話せたんでしょ。あんたはどんなに冗談めかしたって、誰かれ構わず機密を話したりしないわ。どう、正解?」
自然と、肩が落ちてしまう。
彼女にはどうもかなわない。カップを置いて、諸手を挙げた。
「……降参」
「ふふん、陽炎型ネームシップなめんなよ」
陽炎は言って、嬉しそうに笑った。
「『敵艦見ゆ』を発するは、私みたいな快速艦にとって敵撃滅と同じかそれ以上の名誉よ。他の艦隊の子が聞いたら羨ましがるでしょうね」
他の艦隊の子。
確かに艦娘なら、陽炎の言う通りの顔をするかもしれない。
「でも……」
けれど、今日の会議で自分に任務を言い渡した上層部の顔には、少なくともそんな表情はなかった。
敵の規模を考えれば、その気持ちもわかる。
「近海警備や船団護衛とは全然違うんだよ。主力部隊よりずっと危険な、生きて戻れるかだってわからない――」
「だから何よ。今までの任務だって、それは同じだったじゃない」
責める口調はなかった。
だけど、今の自分には弾丸を撃ち込まれたように重い一撃だった。
「わかってるよ……」
「ちょ、ちょっと、大丈夫?」
急に陽炎が慌てた様子で腰を浮かせた。
何が、と言おうとして、頬を伝う涙に気づいた。
わかっているのだ。
考えてはいけなかった。
私はすでに提督なのだ――適性を認められ、艦娘を指揮して国防の担うことを定められた者だ。そして、それは自ら選んだ道だ。
わかっているのだ。
考えてはいけなかった。
なぜ艦娘たちはここにいるのか。
簡単だ。戦うために生まれたからだ。
提督の命令の名のもとに、彼女たちの選択も聞かないまま、そう言い続けてきたつもりだった。自分自身にも。
陽炎をはじめ、艦娘たちはいつも自分に従ってくれた。
いっそ自分を憎み、不満をぶつけてくれたならどれだけ楽だろう。なのにみんな明るく笑って、共に戦おうとしてくれる。
私は、そんな彼女たちを今まで、何度も。戦地に向かわせていた。
死の危険に満ちていることを知って、殺し合えと命じてきた。人類を、我々を、守るために戦えと。
罪悪感など必要ない。彼女たちには、戦いしかないはずなのだ。そう、自分に言い聞かながら。
夜が明ければ待ち受けている、危険な任務。
やわらかなソファ。
ホットミルク。
同じ目線で向きあってくれる、陽炎。一緒に戦い続けてくれた艦娘の微笑み。
それらが、自分の中の壁を突き崩してしまった。
わかっているのだ。
考えてはいけなかった。
考えたら――自分は恐らく壊れてしまうから。
こぼれてしまった涙は、何の赦しにもならない。
今頃人道者ぶったところで、私は彼女たちを兵器として戦場に駆りたてた者の一人だ。
何て――何て、あまりに自分勝手な涙だろうか。
「そういうことね……」
泡のように漏れ出す私の言葉を、陽炎はしばらくの間、黙って聞いてくれていた。
外見で考えればずっと年下の彼女が、涙ぐむ大人の話を聞く様子はどんなに滑稽だったことだろう。
「その……つまり司令の自己嫌悪ってこと?」
うつむいたままだから、陽炎の声は頭の上から落ちてくる。
「簡単に言えば、そうなんだろうね」
あっけらかんとした、身も蓋もないまとめっぷりにしゃっくりまじりの苦笑が漏れる。
鼻をかみながら、ようやく顔の筋肉の操作を取り戻した。
「あなたたち艦娘に、戦ってこいって言って、自分は安全な後方にいて――そんな自分が時々、許せなくなっちゃって。もし、だよ。もしあなたたちがもっと自由で、好きなように生き方を選ぶことができたなら……こんな艦隊にいずに、きっと色々なことができたはずだよね。戦う生き方なんかじゃない、ちゃんと自分の幸せを見つけることができるはず。それなのに、私……」
「こんな艦隊?」
陽炎の声は低かった。
顔を上げて、様子をうかがう。
「戦う生き方なんか、ですって?」
普段からころころ動くはずの表情が、ぴたりと凍りついたように止まっていた。
視線は自分に向かって引き結ばれていた。
「……陽炎?」
「あの、さ。どんな返事が欲しいわけ?」
射撃目標を睨むような、目だった。
「私たちも普通の女の子になりたかったです、戦ってばかりの一生なんてもう嫌なんです……そう言えば、あんたの気は楽になる?」
ぞっとするくらい、冷たい声だった。
「……ねえ、いいこと教えてあげよっか。私、今日みたいな夜間哨戒が大好きなの」
おもむろに、陽炎は言う。
明るい照明の下なのに、陽炎の姿はまるで、闇色の霧にまかれたようにおぼろげに感じられた。
「空には月も星もない、海と空の境もわからない暗闇を航行するのはすごく楽しいわ。敵との遭遇戦なんか、最高。だって出会い頭でしょ。お互い装備とか陣形とか、もう考えてる時間はない。敵の白目も見える、息遣いだってわかる。一瞬後には殺るか殺られるしかない。あの瞬間が私は大好き」
その瞳に捉えられ、私は、彼女の声以外の音を失っていく。
「私は敵に先陣きって飛びこむわ。我に続け、と信号して。敵も味方もこっちを向いてる。至近距離で敵の砲が当たれば、私みたいな駆逐艦は粉々よね。きっと私は真っ赤な血や、油や、肉を波間にばらまいて、海に呑まれていく――恐怖じゃないの。想像をすると、気が昂ぶってしょうがない。私は槍を構える。ピカピカに磨いた四連装酸素魚雷発射管。最高の射点から、目いっぱいの気合を込めて打ち出すの。魚雷ってね、いつだって歓びの声を挙げて走っていくわただ一度きりの命、それを全部燃やして敵に突っ込むの。だってそれが存在の照明だから――魚雷が敵に突き刺さる。海が弾けて、真っ赤に燃えて飛び散る。温かい波と風が、わっと喝采する。闇の中に血と油と火薬の匂いが、むせるくらいに渦巻いて――あの香り、たまんないわ」
そこまで話すと、陽炎はふっと笑った。
「ね。私たちの見てる世界って、そんな感じよ」
突き放すような声。
だけど、優しげな声だった。
「不知火は、私たちと深海棲艦を戦わせるために送り込んだ何かがいるんじゃないかって、よく言ってる。結局、私たち艦娘が何者なのかはわからない――でも戦うために作られたってことだけは、はっきりしてるわ。だから、戦いは私たちの楽しみ。お腹いっぱいの燃料弾薬、お腹いっぱいのスイーツと同じくらいの、当たり前の幸せ」
「だから、私はそれが――」
不幸だというつもりなのか? 戦いしか知らない彼女たちの幸せは、偽りだとでも?
結局はそれこそが、自分の思い上がりなのだ。
自分の運命さえ自分でまともに操れないくせに、自分の幸福像を彼女たちに押しつけようとしていた。
陽炎は、自分でもらしくないと思ったようだった。
急に、ぷいとそっぽを向いてしまった。
「ごめんね。陽炎……」
返事はない。不満顔で――それでもちらちらと、こっちを睨んでくる。
睨みもするはずだ。彼女たちに気を遣わせたあげく、その存在意義にケチをつけたようなものだから。さっきの自分は、艦娘たちの生きる喜びを、他でもない提督の身で、否定したようなものだったのだから。
「もう、何か、私……あなたが怒って当然だよね……」
「私が怒ってるのは、つまりね」
陽炎が、急に席を立った。
大股に歩いて、ぽかんとしている自分のソファの方に回った。
ほんの一瞬だけためらって、どすんと隣に腰を下ろした。
キッとこちらを見据えて、こう言った。
至近距離だった。
「あんたのそばが好きだから、ここにいるんだってことに、あんたが少しも思い当たってくれないことなの! どう? 理解した?」
「は?」
「は、じゃない!」
あまりに喧嘩越し過ぎて、一瞬こっちも頭が真っ白になっている。
「……私たちのことが本当に大切なら、私たちの幸せを勝手にひとりで考えたりなんかしないで。ちゃんと私を見て」
「う、うん」
気圧されて、うなずくしかない。なおも陽炎は視線を外さない。
「私を見て――お願いだから、今すぐ」
見た。
陽炎の燃え盛るような髪、白い頬を確かに感じた。
「もっと近くで」
言われるままだ。陽炎に少し近づいた。
陽炎も近づいてきた。夜の空気を通して伝わる、かすかな体温。
自分と同じ、だけど違う存在の温もり。いっそ冷たかったらどんなに恐れ、同時に楽になっただろうかと考えたこともある、その温度。彼女たちが生きている証。
「司令」
陽炎が、小さく首を傾げた。
「私のこと、怖い?」
「ううん……怖いわけないじゃない」
自分には幸せにしてやれないかもしれない、だけど幸せになってほしい、大切な艦娘なのだから。
「そう……よかったわ」
陽炎の手がのびて、私の制帽を取り払った。私の髪に触れて、そのまま頭に移動した。
小さな子にするように、そっと撫でた。
「……ちょっと。子供扱いすんな」
「ふんだ。子供みたいに泣いたくせに」
目の前で意地悪に口を尖らせる彼女の手つきは、だけど声よりずっと不器用で、臆病だった。
「陽炎って言葉は、沖に立つ蜃気楼のこと。本当は、存在しない幻の明かり――私の名前は亡霊の名前」
私の頭を撫でながら、穏やかに陽炎は言う。
「戦うために作られた私がここにいるのは、あんたが私を呼んでくれるからよ。艦娘だからじゃない。私たちと一緒に迷ったり、泣いたりくれるあんたが名前を呼んでくれるから――私は一緒に戦える。あんたに、触れられる」
彼女の手が触れている。
今なら、はっきりと陽炎の体温を感じられる。
陽炎は、泣きたいくらいに温かかった。硝煙にまみれ、風雨に打たれ、波間を這いずる彼女の確かな質感だ。
「大丈夫よ。私たちは自分で、自分の幸せを見つけるわ」
ふと、香水を感じた。それは彼女が自分で選んで、身にまとうことに決めたに違いない香り。
ここにいる、と叫ぶような、命の香りだ――そう思った。
「私は幸せよ。好きな人を守れる体で生まれて、好きな人のそばにいられるんだから」
ふと陽炎が顔をしかめて、すっと身を離した。
口元に小さな指を立て、ドアを指差す。
わけもわからず見守っていると、陽炎は足音を立てずにソファを立ち。そろりそろりと忍び足で移動するとドアの前で足を止めた。
一拍置いてから、思いきり開く。
どたたっ、と派手な音。
折り重なるように転げ出たのは、陽炎と一緒に哨戒に出ていた艦娘たちだった。薄暗い廊下の中でもみくちゃになっていても、誰がいるのかすぐわかった。
「盗み聞きたぁいい度胸ねあんたらぁ!」
声をかける間もなかった。陽炎は怒鳴り散らし、他の艦娘たちは蜘蛛の子を散らすように廊下を走り去ってしまう。
残ったのは、初めから廊下に立っていた不知火だけだ。
「……みんな、いつからいたの?」
ようやく、これだけ言えた。
「司令のご想像にお任せします」
「不知火あんたまでねえ……!」
「落ち度なら、司令の元へ報告に赴いたきり部隊を放置した旗艦にあるのでは?」
不知火は表情を変えなかった。唸る陽炎を一瞥して、こちらを見た。
「司令。御存じのことと思いますが、我が姉の気性の激しさ、独占力は陽炎型随一です。気が昂ぶれば何をするわかりませんので深夜の逢瀬もほどほどに」
「お、逢瀬って、」
「それから。先ほどの陽炎の言葉は、この不知火含め全艦隊の総意とお考えください。不肖の姉ながら、今回よく伝えてくれたものと思います。―――最後に、不知火からも感謝を。ありがとうございます」
不知火は、ぱっと踵を返す。
「だっ、こら不知火待て~!」
待たなかった。すたすたと早足で――廊下の突き当たりで一瞬つんのめってから、何事もないように歩き去った。
ソファの制帽を手に取った。
じっと、眺めた。
見たくもないと思った夜もある、自分の帽子――提督の証。
「あ~い~つ~ら~! 後で覚えてなさいよ!!」
振り返ると、陽炎は廊下に向かってものすごい顔で猛り狂っていた。
怒っているのか恥ずかしがっているのか、ともかくもその顔は、燃えるように真っ赤だ。
「陽炎」
「ん?」
今なら言える。
目を見てはっきり言える。あなたの名前を、もう一度。
「……陽炎」
「な、何。名前ばっかり呼ばないでよ気持ち悪いわね」
「ありがとう……陽炎。私、頑張るから」
「ま、まあ元気が出たなら何よりね。別にお礼を言われるようなことしてなうきゃっ!」
頭に制帽を乗せてやる。おかしな声をあげた陽炎を、そのまま帽子越しに撫でてやる。
彼女の幸せがここにあるのなら、私は、彼女の触れられるところにいよう。幸せの場所であり続けよう。
そして、今はそれが、私の幸せの形でありたい。
私の手に陽炎が自分の手を乗せた。
制帽の下からのぞく目が、私を見つめ返した。
くすぐったそうに身じろぎをして。それから、顔いっぱいで嬉しそうに笑った。つられて私も笑みがこぼれた。
「ひどい顔」
声を揃えて、また笑った。
おわり