俺は船の寝床に横たわり、ただ呆然としていた。
宴は何事もなく終わった。宴と言いつつ、出てきたものは
ジュースを飲んでも身体に何の異変もなかった。ブクブクと膨れ上がって破裂することもなければ、異形に変貌することもない。胸を割って何かが飛び出す……そんな悪夢めいた展開も、結局誰にも起こらなかった。
「……なんだったんだこの任務」
無駄に精神をすり減らしただけで終わった。あれほど身構え、覚悟まで決めたというのに肩透かしを食らったような気分だ。
でも……何事もなく終わった。もしかしたら、それだけで十分なのかもしれない。命を落とさず、精神に致命的な傷を負わず、ただ無事に帰れる。それが一番の成果。
そう考えると、緊張の糸がようやく切れた。
「……ひとまず寝よう」
俺は目を閉じ、寝床に身体を沈めていった。
アビサルが寝床で深い眠りについた時、その肉体の奥深くでわずかな異変が静かに進行していた。
黄金色の微細な光が、彼の細胞ひとつひとつに絡みつくように広がっていく。それは表面的な変化ではなく、もっと奥の、遺伝子のさらに下にある「存在の根」に触れるような変化だった。
細胞の形は保たれたままだが、その働きがわずかにずれ、かすかに異なる方向へと書き換えられていく。炎が薪を舐めるように、黄金の粒子はアビサルの肉体を侵食し、しかし壊すことなく、より強靭なものへと作り変えていった。
その変化を当の本人が知るはずもない。アビサルはただ眠り、深層意識の彼方で「夢」を見ていた。
夢の中、彼は荒涼たる世界に立っていた。
大地は赤黒くひび割れ、空は紫がかった稲光で覆われている。大気には鉄の匂いと血の匂いが入り混じり、獣の唸り声が地の底から響いてくる。その星はどこなのか分からない。しかし彼は、確かに自分がそこに立っていると理解していた。
そしてその前に、一人の巨躯のプレデターが現れた。
背丈はアビサルの二倍はあるだろうか。全身が筋肉で覆われたような体躯、マスクに刻まれた無数の戦いの痕跡。装備はたった一本のスピアだけ。それでもその存在は揺るぎなく、圧倒的だった。
巨躯の狩人は獲物を狩っていた。
岩陰から飛び出す巨獣の喉を正確に突き刺し、咆哮を上げる怪物の顎をへし折る。血が噴き出し、荒野を染める。だが狩人の動きは無駄がなく、まるで舞を踊るかのように流麗であった。
夢は途切れることなく流れていく。
無数のゼノモーフが群れとなって現れる。空を覆うような数、黒き影が大地を埋め尽くす。だが巨躯の狩人は怯まない。
彼は素手で尾を折り、爪を握り潰し、顎を粉砕する。酸の血が飛び散っても、肉体はびくともしなかった。全てが圧倒的な力によって屠られていく。
やがて一際大きな影が現れる。
ゼノモーフ・クイーン。群れの支配者、女王。
その巨体が咆哮と共に迫る。空気を震わせる声は、まるで地獄そのもの。だが巨躯の狩人はただ一歩踏み込み、拳を振り抜いた。
轟音。
クイーンの頭部が粉砕され、巨体が地に沈んだ。
信じられない光景を、夢の中のアビサルはただ呆然と見ていた。
しかし夢は終わらない。
最後に現れたのは、禁忌の存在だった。
プレデリアン。
プレデターとゼノモーフ、その最も忌まわしい交配の果てに生まれた異形。忌避され、畏怖され、存在すら口にすることを禁じられた怪物。
禍々しい姿が眼前に現れると、荒野の大気そのものが淀んだ。空が黒く染まり、血のような雨が降る。だが巨躯の狩人は眉ひとつ動かさず、ただ拳を握りしめた。
衝突。
プレデリアンの鋭い爪が振り下ろされる前に、狩人の拳がその胸を打ち砕いた。肉が裂け、骨が砕け、異形の怪物が絶叫と共に地に崩れ落ちた。
プレデリアンが死に絶えた時、荒野の空は晴れ、雷鳴も消えた。
その瞬間、アビサルは自分が何を見ているのか分からなくなった。
これは未来か?幻か?それとも自分自身の行く末を示しているのか?
黄金の光に包まれる巨躯の狩人が振り返った。
その仮面の奥から視線がこちらに向けられた気がした。
アビサルは言いようのない感覚に囚われた。圧倒的な力、果てしない孤独、そして「選ばれた者」という感覚。
その目は確かに彼を見据えていた。
次の瞬間、夢は音もなく崩れ落ち、アビサルの意識は虚無へと沈んでいった。
同じ刻、ウルフもまた眠りの中にあった。
彼の身体にもアビサルと同じように黄金色の粒子が染み渡り、細胞の深奥を変質させていた。外見には一切の変化がなくとも、確実に何かが組み替えられていた。まるで見えない職人が、一つひとつの細胞を研ぎ澄まし、強靭な刃へと鍛え直しているかのようだった。
その最中、ウルフの意識は深層に沈み、夢を見ていた。
そこは荒れ狂う雨が降りしきる惑星の都市だった。
暗雲が空を覆い、稲光が絶え間なく走る。雷鳴は大地を揺らし、冷たい雨が叩きつけるように降り注いでいた。建築物はどれも見慣れぬ形をしている。鋭角と曲線が絡み合い、石でも金属でもない不可解な素材で築かれた塔。
ウルフはそのうちの一つ、高層建築の屋上に立っていた。
風が吹き荒れ、マスクに雨が当たる。視界の向こう、漆黒の影が現れる。
プレデリアン。
異様な咆哮が夜空を裂く。ゼノモーフのしなやかな尾、硬質な外殻、そしてプレデターの頭部に似た形状。両者の悪夢が掛け合わされたその姿は、存在するだけで世界を穢すように思えた。
ウルフは武器を構える。
右手にはゼノモーフの尾を削り出して作られた鞭。左腕のガントレットからリストブレイドを展開し、背中からスピアを抜き放つ。
「グルルル……!」
プレデリアンが飛びかかる。
鞭が唸りを上げて振るわれ、黒い外殻を裂く。スピアが投げ放たれ、胸板を貫く。しかし怪物は倒れない。裂けた肉から酸の血が噴き出し、屋上を焼きただらせる。
反撃。
その腕がウルフを叩きつけた。衝撃が走り、瓦礫が弾け飛ぶ。胸の骨が軋み、肺が潰れそうになる。視界が白く霞む。
だがウルフは臆さなかった。
血を吐きながらも立ち上がり、再び怪物を睨み据える。
武器はまだ残っている。だが――彼は気づいていた。
これらの武器は、この戦いの決め手にはならない。ゼノモーフ由来の鞭も、鋭利なスピアも、この異形には通じない。
「……ならば」
彼は静かに鞭を手放した。
スピアも、壊れかけたガントレットも捨てる。雨に濡れ、地面に落ちたそれらが鈍い音を立てる。
彼の身体に残った武器はリストブレイドだけだった。
さらにウルフは、自らの両手を仮面にかける。
鋼鉄のマスクを外す。
その素顔が冷雨にさらされる。白濁した牙を剥き、喉から獣のような唸りを漏らす。その行為は儀礼であり、誇りであり、敗北を許さぬ名誉の象徴だった。
――マスクを捨てたその瞬間、後退はない。
名誉ある死か、勝利のみ。
プレデリアンが再び吠える。
空気が震え、屋上が揺れる。
ウルフは一歩踏み出した。
次の瞬間、全力で駆け出す。
リストブレイドが雨を裂き、閃光のように輝いた。
「チッ……寝違えたか?」
首を左右に回すと、骨が軋むような音がして、背筋まで鈍い痛みが走った。身体の節々が重い。まるで長い戦闘の後に全身を叩き潰されたような感覚だった。だが実際には戦いなどしていない。ただ眠っていただけだ。だからこそ、余計に気味が悪い。
頭の奥で何かが渦を巻いていた。悪い夢を見たような気がする。しかしその内容は掴めない。まるで砂を握ろうとしても指の隙間から零れていくように、思い出そうとすればするほど形を失い、濁った水の底に沈んでいく。
「……くだらん」
舌打ちして、気持ちを振り払った。夢の残滓に囚われるなど狩人として不覚だ。俺は俺の任務を果たせばいい。エンジニアと別れを告げ、母星に戻る。それだけで十分だ。
立ち上がり、壁に掛けていたマスクを手に取る。金属と未知の素材が融合したその仮面は、冷たくも馴染んだ重さを持ち、装着すればたちまち視界に赤い情報が走る。敵影なし、毒素なし、空気成分は許容範囲内。機械的な警告音が安堵に似た感情を運んでくる。
机に置いてあったガントレットを腕にはめる。カチリと音を立てて装着が完了した瞬間、狩人としての自分が確かに蘇る。あの宴で武器を置かされたことが、今になって妙に腹立たしく思えた。プレデターから武装を奪うことは、牙を抜かれた獣と同じだ。あの能天気なエンジニアどもには決して理解できまい。
船を降り、甲板へと向かう。金属板の床を踏み鳴らす音が、やけに響く。普段なら気にもしないが、今日は妙に耳障りだ。静けさの中で自分の存在が浮き彫りになるようで、落ち着かない。
やがて甲板に出ると、既にウルフと数人のエンジニアが集まっていた。彼らは言葉を交わしていたが、その様子は儀礼的で、どこか芝居じみて見えた。深い意味などなく、形式だけを守るための挨拶。俺にはそう映った。
小走りで近づき、声をかける。
「ウルフ」
振り向いたウルフは、やけに清々しい顔をしていた。若さゆえの柔らかさと、場の空気を疑わない素直さが、その顔には刻まれている。
「あ、アビサル。おはよう。ちょうど挨拶をしていたところだよ。任務は終了だ」
「そうか……」
短く答えながらも、胸の奥に得体の知れぬざわめきが残っていた。
本当に、これで終わりなのか?
俺はまだ信じ切れない。生命循環の儀式は確かに終わった。ルナジリオという偉大な存在は、自らの肉体を崩壊させ、新たな生命を星に齎した。エンジニアたちは満足そうに笑い、宴では馬鹿げた名の飲み物を口にして騒ぎ、そして今、形式的に別れを告げている。
だが――あまりに軽すぎないか。
俺の知る儀式とは違った。荘厳で、神聖で、狩人が息を呑むほどの厳粛さを持つものだと思っていた。しかし実際は、笑いと騒ぎに包まれ、子供じみた宴で締めくくられた。
俺は視線をウルフへ向ける。奴の顔には満足げな安堵が浮かんでいる。若さゆえの順応か、それとも俺の方が頭が固すぎるのか。どちらにせよ、この奇妙な温度差が胸に重くのしかかる。
視界の端で、エンジニアたちが手を振っていた。別れの挨拶らしい。俺は無言で頷いた。形式には従う。それが狩人としての筋だ。しかし心の奥底で燻る疑念は、消えようとしなかった。
「任務は終わった……のか?」
心の中で繰り返す。
だが、その答えを与える者はいなかった。
離艦の許可を貰い、船を発進させた。帰還だ。
何かと戦うこともなく、ただ精神を削られただけの任務だった。敵の爪痕も、血の匂いも、死闘の余韻もない。あるのは、妙に軽すぎる宴と、飲んだはずのジュースの後味だけ。これほど疲労感が残るのに、身体にはかすり傷ひとつ付いていない。狩人の任務としては最も「異常」な形だった。
「チッ……」
独り言のように舌打ちをして、椅子に深く座り直した。身体の痛みはまだ抜けない。首を少し動かすだけで筋が軋む。寝違えただけのはずだ。だが妙に長引いている。夢の残滓のように、痛みもまた俺を苛立たせた。
計器に触れ、航路を入力する。ユィタ=プライム――母星に帰還するための座標だ。艦内に赤い光が走り、目的地のデータが確定する。船体が低い振動を発し、空間を切り裂くような推力音が響き始めた。
早く帰ろう。
そう心の中で呟きながらも、胸の奥はざわめいている。あの儀式の光景、ルナジリオの崩壊、黒い雨の記憶。思い出すたびに背筋が冷える。俺は狩人だ。死を恐れたことはない。だがあの光景は、狩りの死合とは全く違う恐怖を植えつけた。
「……エルダーは、これを分かっていたのか?」
独り言は宙に溶け、応答はない。
オリオンも、エルダーも、任務を下した時に多くを語らなかった。だが、あの馬鹿騒ぎのような宴を見せられてなお、「意味がある」と信じて送り出したのだろうか。狩人の未来にとって、この経験が必要だと?
操縦盤に映る星々を見つめる。虚空に浮かぶ光の粒は、冷たくも永遠のように輝き、俺の心をさらに孤独にした。隣にウルフの船が見える。奴はこの任務をどう受け止めているのだろうか。あの若造は笑って適応した。軽く受け流し、宴に混ざり、最後まで崩れなかった。そういう柔らかさが、今は羨ましくも思える。
俺は柔軟ではない。いつだって疑念と恐怖を抱え、歯を食いしばって前に進んできた。だからこそ狩人としてここに立てた。だが同時に――俺はまだ若い。エルダーの言葉を借りるなら「深淵を覗き込むには、尚も未熟」なのだろう。
船体が揺れ、光が伸びる。次元転移弾が発射され、ワープゲートが開いた。
「帰還……だ」
声に出しても、胸は晴れなかった。母星に帰るだけのはずなのに、なぜか帰り着くことが「終わり」ではなく「始まり」であるような、そんな妙な感覚が付きまとっている。
未来に期待ジュース――あの黄金色の液体が脳裏を過った。あれを飲んだ瞬間から、俺の身体に何かが巣くったのではないか? 痛みはその証なのか? 分からない。ただ確かなのは、もう「何もなかった」とは言えないということだ。
ユィタ=プライムへの航路は正しい。数日のうちに帰還する。
だが、俺の内側には、帰る前には存在しなかった「何か」が芽吹いている。そんな気がした。