養殖が天然に勝てると思うなよ?【本編完結】   作:物体Zさん

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モチベーション爆上がり!ブラックグー!!!


その意気だ、アビサル

 

 

 

 

 何事もなく、母星に到着した。

 

 事件なぞあるはずがない。なんせ俺たちの船のすぐ後ろには、最後までエンジニアの巨大戦艦がぴったりと付き従ってきていたのだから。あの黒々とした環のような巨体が後方に鎮座しているだけで、星系の宙域は完全に静まり返っていた。あれに手を出す勢力など、この銀河に存在しない。もし居るなら、そいつは正真正銘の馬鹿か阿呆か、それとも愚か者を通り越してボケているかのどれかだろう。

 

 俺なら迷わず逃げる。襲われることなど想像したくもないが、万が一にも奴らが牙を剥いたのなら、俺は地に跪き、土を食み、全身を投げ出して許しを乞うだろう。戦うなど到底選べない。死ぬと分かって挑むのは狩人の名誉だが、あの連中に対しては別だ。名誉よりも、あまりに圧倒的な「死」がある。

 

 そんなことを考えている間に、戦艦は俺たちが母星に帰還したのを確認すると、何の未練もなく宇宙の彼方へと去っていった。去り際に入ってきた通信が、また俺を呆れさせる。

 

 「『じゃ! 元気でなー!』」

 

 ふざけているのか、素なのか。あのルナジリオの崇高さと比べ、奴らの軽薄さはどうにも理解できない。ルナジリオだけが異質なのか? それとも、あれが本来のエンジニアなのか? 考えれば考えるほど、答えは遠ざかるばかりだ。

 

 俺は街のドックに船を降ろし、整備係に船を任せた。長距離航行の後だ、燃料や推進機関の点検を怠れば、次の狩りで命取りになる。狩人の艦は武器と同じ、命を預けるものだ。整備は必須だ。

 

 「さ、報告だな」

 

 隣を歩くウルフに言う。あいつは相変わらず落ち着き払った顔をしている。

 

 俺たちは並んで大聖堂へ向かう道を歩いた。母星の空は、今日も鈍色に染まっている。狩人たちの都市は金属の塔が並び、鋼鉄の装甲に覆われた建築物が整然と並ぶ。その一つひとつに部族の紋章が刻まれ、歴代の戦士たちの歴史が刻まれている。

 

 「なんかさ……身体が調子良いような?」

 

 歩きながら、ウルフがぽつりと呟いた。

 

 「……実を言うと、俺もだ」

 

 俺は正直に答えた。

 

 寝違えたような痛みはいつの間にか消え、身体は軽く、力が漲っている。言葉にするなら「研ぎ澄まされた」という感覚。筋肉が柔軟に動き、骨はしなやかで強靭、視覚も聴覚も普段以上に冴えている気がする。

 

 「どういうことだ……」

 

 俺は小声で呟いた。ウルフが飲んだのも、俺と同じ未来に期待ジュースだった。あの黄金の液体。儀式の後に配られた妙な飲み物。見た目は美味そうで、実際に味も悪くなかったが……本当にただの飲み物だったのか?

 

 母星に戻ったというのに、まだエンジニアの影に取り憑かれているような気分だ。あの宴も、ルナジリオの最期も、そして不可思議な液体も。全部が俺の中で繋がっているような、いや、繋がってしまっている気がする。

 

 「おい、アビサル」

 

 ウルフの声に振り向くと、奴は笑っていた。

 

 「調子が良いなら、それでいいじゃないか」

 

 「……そうだな」

 

 俺は短く答えたが、心の奥では安堵と不安が入り混じっていた。強くなることは悪くない。だが、代償があるのではないか。狩人としての勘が警鐘を鳴らしている。

 

 俺たちは黙ったまま歩き続けた。大聖堂の尖塔が遠くに見え始め、その巨大さに改めて圧倒される。母星に帰ってきたはずなのに、これから何かが待ち受けているような――そんな胸騒ぎが収まらない。

 

 大聖堂に入り、俺とウルフは巨大なホールを抜けてエレベーターに乗り込んだ。分厚い金属の扉が音を立てて閉まり、ゆっくりと上昇していく。壁に走る古代文字の装飾が、幽かに光を放っていた。

 

 「ねぇアビサル、これって馬鹿正直に報告していいのかい?」

 

 沈黙を破ったのはウルフだった。

 

 「構わん。事の顛末はマスクで同期され、全て見ている。俺たちが報告するのは()()()()()()……それだけだ」

 

 「なるほど、アヌ族はやりやすくていいね。いつか僕も転族しようかな?」

 

 「勘弁してくれ……」

 

 軽口を叩くウルフに呆れつつも、俺の胸中は奇妙な静けさで満ちていた。報告することなどほとんどない。エンジニアと共に地球へ行き、ルナジリオの儀式を見届け、宴に参加し、帰ってきただけだ。狩猟も戦闘もなかった。ただ、妙な液体を飲んだことだけが引っかかっている。

 

 エレベーターが止まり、目的の階に到着する。

 

 扉が開くと、厳かな気配が押し寄せてきた。エルダーの間だ。広々とした部屋の中央、巨大な窓から街を見下ろすようにしてエルダーが立っている。その横には、腕を組んで静かに佇むオリオンの姿。彼の眼差しは俺たちに鋭く注がれ、心臓を掴まれるような緊張を覚える。

 

 俺は一歩前に進み、頭を垂れた。

 

 「戻った」

 

 「戻りました」

 

 ウルフも隣で礼を取る。

 

 「うむ、ご苦労」

 

 エルダーの低く重い声が響いた。その一言だけで、胸に張り詰めていた緊張が少しだけ和らぐ。

 

 「任務の詳細はすでに確認した。エンジニアと共に行動し、儀式を見届けたな」

 

 「はい」

 

 「……ルナジリオ=ズータルヴェ、か。古より名を伝え聞く存在だ」

 

 エルダーが街の光を背にして振り返った。瞳は暗く、しかし深く燃えている。俺とウルフは思わず背筋を正した。

 

 「その最期を、この目で見届けたのはお前たちが初めてだ」

 

 「……」

 

 俺は言葉を失った。確かに、あの光景は忘れられない。黒い血を飲み干し、崩壊と創造の狭間で散っていった巨躯。その残滓が川へ溶け、やがて地球に生命を芽吹かせる。あれをただの死と呼ぶことはできない。

 

 「どう思った?」

 

 唐突に問われ、俺は口を閉ざした。どう思ったか。畏怖か、驚愕か、それとも感動か。どれも正しい気がするが、どれもしっくりこない。

 

 「……理解できなかった。だが、目を逸らすこともできなかった」

 

 俺は正直に答えた。

 

 「なるほど」

 

 エルダーは静かに頷いた。

 

 その隣でオリオンが口を開いた。

 

 「アビサル、ウルフ。お前たちの務めは果たされた。だが、この経験を軽んじるな。エンジニアはただの同盟者ではない。奴らは我らの歴史に深く関わっている。今回の儀式が何を意味するのか、今後どう影響するのか……それはまだ分からん」

 

 「……はい」

 

 「我らは狩人だ。狩りを通してしか己を測れん。だが時に、狩り以外の場所で己を試されることもある。その時どう振る舞うか、それもまた誇りだ」

 

 オリオンの言葉は鋭い刃のように心に突き刺さった。俺は拳を握り、深く頷く。

 

 「よし、下がれ」

 

 エルダーの一言で、俺とウルフは頭を下げて退室した。

 

 重厚な扉が閉まる。長い廊下を歩きながら、俺は深く息を吐いた。背中を伝う汗が冷たい。

 

 「……終わったな」

 

 「うん。無事に帰ってこれただけでも十分だよ」

 

 ウルフが笑った。だが俺は胸の奥に、どうしても拭えない違和感を抱えていた。身体の調子は確かに良い。力が漲り、五感も鋭い。だが、それは本当に自分の力なのか? あの黄金の液体に仕込まれた何かではないのか?

 

 俺は黙ったまま、窓の外に広がる母星の空を見上げた。

 

 

 そうして俺は家に戻った。

 

 ウルフは掃除(任務)があると言って、さっさと行ってしまった。死なないよう、ほんの少しだけ祈っておいた。あいつは若いが妙に無鉄砲で、いつか本当に命を落としかねない。だが、それでも彼の中には確かな誇りがある。それを俺が止めることなどできない。

 

 「ふぅ〜……」

 

 思わず溜息が漏れる。胸の奥に重く澱んだ疲労感がある。主に心が、だ。身体は逆に元気すぎるほど元気だ。むしろ狩りにでも行けるんじゃないかと思えるほど、筋肉の張りも感覚も研ぎ澄まされている。何故だかは分からない。

 

 結局、俺の身体に起きていることはよく分からなかった。帰還前に血液検査や身体検査を行ったが、何も異常は見つからなかった。だが、そんなはずはない。あの黄金の液体……未来に期待ジュースとやらを飲んで、何も変わらないというのは逆に不自然だ。

 

 俺は部屋の壁にかけてある武器を見やった。スピア、ディスク、リストブレイド、そしてプラズマキャスター。どれも長き歴史と誇りを背負う狩猟の道具だ。普段なら手入れを始めるところだが、今日は不思議と触れる気になれなかった。

 

 窓を開けると、母星の夜風が吹き込んだ。湿った匂い、遠くで響く戦士たちの雄叫び。ユィタ=プライムは常に戦と狩りの気配に満ちている。その匂いを嗅げば、どんな戦士も血が騒ぐはずだ。だが今の俺は妙に冷静だった。まるで身体と心が噛み合っていない。

 

 「……ルナジリオ」

 

 思わず呟いた名が、夜気に溶けた。あの巨躯のエンジニア。崩壊しながらも未来を生み出した男。その最期を俺は確かに目にした。あれは死ではなく、始まりだった。あの黒い残滓が川へと流れ、やがて数千年後の生命誕生へ繋がる。狩猟者である俺には理解できぬ理屈だが、確かにその瞬間を見た。

 

 だが同時に、俺自身にも何かが植え付けられたのではないかという疑念が拭えない。黄金の液体はただの酒や水ではない。もっと深い、根源的な何かだ。飲んだ瞬間は何も起きなかったが……もしかしたら、すでに俺の中で何かが始まっているのかもしれない。

 

 ベッドに腰を下ろし、マスクを外す。金属の冷たさが離れると、妙に頭が軽くなる。手のひらを見つめると、血管が以前よりもくっきりと浮き出ている気がした。力を込めれば皮膚の下で何かが蠢くような錯覚すら覚える。

 

 「気のせいだ……」

 

 そう言い聞かせ、横になった。だが瞼を閉じると、すぐにあの光景が蘇る。巨獣を仕留めるプレデターの幻影、ゼノモーフを素手で屠る戦士の姿。

 

 俺は眠っている時に夢を見たのだ。だがあれは本当に夢だったのか? それとも……未来の断片か?

 

 胸の奥でざわつく不安を抑え込み、毛布を頭まで引き寄せる。眠りが訪れるまでには時間がかかりそうだった。

 

 「……未来に期待、か」

 

 皮肉のように呟き、俺は再び目を閉じた。

 

 

 

 翌日、スッキリと目を覚ました俺は、外に出てガナトスを狩っていた。

 

 外に出ればいくらでもいる獲物だ。ガナトスは俺たちの母星に生息する捕食獣で、鋭い牙と速い脚を持つ。そこらにいるものの大きさは子供ほどしかないが、その敏捷さゆえに侮れない。小さい個体ほど動きが鋭く、狩るには正確な突きと反射神経が必要になる。スピアの鍛錬にはうってつけだ。

 

 「フッ!」

 

 短く息を吐き、俺はスピアを振り抜いた。鋭い一撃が空を裂き、逃げようとするガナトスの首筋を正確に貫いた。

 

 「ギャァッ!」

 

 断末魔の声を上げて、獲物は地に伏した。スピアを引き抜くと血が飛び散り、土に黒い染みをつくる。俺はそのまま肉を引き裂き、そのまま口へ運んだ。

 

 「……まあまあだな」

 

 ガナトスの肉は養殖とは違い淡白で、味わうというよりも噛みしめる力を試すものに近い。だが鍛錬の後に食うと、身体の奥から力が満ちてくる気がする。

 

 「突きが甘いな」

 

 低い声が背後から響いた。

 

 「……オリオン」

 

 振り返れば、スピアを肩に担いだオリオンが立っていた。武装は最小限、だがその身から溢れる気迫は全身を鎧で固めた戦士に劣らない。今やエルダーの補佐となった男がこんな場所に来るのは珍しい。

 

 「何をしにきたんだ? エルダーの横で腕を組んでいたはずだろう」

 

 「『何をしにきたんだ?』じゃない、『何をしに来られたのですか?』だ」

 

 オリオンは咳払いをひとつして、わざとらしく真面目ぶった顔をした。

 

 「……ゴホンッ。まぁいい。久々に鍛錬でもと思ってな」

 

 「へぇ、偉くなったお前でもまだ鍛錬するんだな」

 

 「当たり前だろう。位が上がろうが腕が鈍ればただの老いぼれだ。エルダーの補佐である前に、俺も一人の狩人だ」

 

 オリオンはスピアを軽く回し、俺に向けて構えた。その眼光は鋭く、冗談を言っている時とはまるで別人のようだ。

 

 「来い、アビサル。お前の突きが甘いのは昔からだ。身体が元気だと言っていたな? ならば証明してみろ」

 

 「……面倒な奴だ」

 

 俺は舌打ちをした。だが正直、心のどこかでこの時を望んでいたのも事実だ。身体の奥に満ちている説明できない力――あれを確かめるには、オリオンほどの相手が最適だろう。

 

 俺はガナトスの死骸からスピアを引き抜き、構え直した。

 

 「あんたの突きがまだ俺より速いか、試してやる」

 

 「ふん、言うな」

 

 風が一瞬止んだ。

 

 俺とオリオンは同時に動いた。

 

 

 スピアがぶつかり、鋼が擦れる甲高い音と共に火花が散った。

 

 俺は腰を沈め、全身の力を込めて真っ直ぐ突きを放った。狙いはオリオンの胸部、致命を奪う軌道だ。しかし、奴は一歩も退かずにスピアを横から差し込み、俺の軌道を弾き飛ばす。衝撃が両腕を痺れさせ、思わず奥歯を噛み締めた。

 

 「ちっ……!」

 

 そのままオリオンは身体をひねり、回転の勢いを乗せて逆袈裟に俺の胴を狙う。動きに一切の無駄がない。鍛錬とは思えぬほど鋭い殺意を孕んだ一撃。

 

 「おっと!」

 

 俺は即座にバックステップを踏み、土を蹴りながら後ろに下がった。オリオンの刃が寸前で空を裂き、風圧が頬を叩く。わずかに遅れれば内臓まで抉られていた。距離を取り、再度構え直す。

 

 「良い反応だ。今のは殺す気で放ったんだがな」

 

 「殺すのは勘弁してくれ」

 

 「ハハッ、冗談だ」

 

 そう言いつつも、オリオンの目は冗談では済まされぬ光を宿していた。口元には楽しげな笑みを浮かべながら、まるで狩猟の最中の獣のように俺を見据えている。

 

 「……笑ってやがる」

 

 オリオンはスピアを下段に構え直し、間合いを詰めてきた。砂を踏み締める音が近づくたびに、空気が張り詰めていく。俺の肺は熱を帯び、心臓が戦の太鼓のように打ち鳴らされる。

 

 「はぁっ!」

 

 俺は突きを連続で繰り出した。鋭い槍先が閃光のように走り、喉、胸、腹、足を狙う。しかしオリオンはまるで先を読んでいたかのようにスピアを動かし、軽やかに全てを弾き返す。

 

 「まだ甘い!」

 

 オリオンが吠えると同時に踏み込み、俺の突きを掻い潜り、肩口にスピアを叩き込んできた。

 

 「ぐっ……!」

 

 瞬間的に柄を傾けて防御するも、衝撃が肩から背中に抜け、筋肉が軋む。足元の土が弾け飛び、膝が沈み込んだ。力で押し込まれれば俺など容易く吹き飛ぶ。

 

 「クソッ……!」

 

 必死に踏ん張り、力を溜めた脚で横へと跳んだ。間一髪でオリオンの突きから逃れる。息が荒く、胸が熱い。それでも身体は不思議と軽く、動きに鈍さは感じない。

 

 「はぁ、はぁ……どうなってんだ俺の身体は」

 

 「どうした? まだやれるだろう」

 

 オリオンは片眉を吊り上げ、挑発するようにスピアをこちらへ突き出した。火花の残滓が視界をかすめ、緊張感が一層高まる。

 

 「やれるさ。まだ、な」

 

 再び突進した。地を蹴る音、風を切る音、金属が擦れる音。全てが混ざり合い、戦いの場を満たす。

 

 スピアとスピアが何度も打ち合い、火花が散るたびに視界が白く染まった。手のひらの皮が裂け、血が滲む。それでも武器を離すことはない。俺は一撃ごとに、全身を燃やすような感覚を味わっていた。

 

 「そうだ、それでいい!」

 

 オリオンが笑う。その声には怒気ではなく、狩人としての歓喜が滲んでいた。

 

 俺も笑った。理由は分からない。ただ、心が昂ぶっていた。

 

 スピアを構え直し、再び前へ――。

 

 「ハッ!!」

 

 大地を踏みしめる音が乾いた衝撃となって地面に響き渡る。俺は全身の力を爆発させるようにして一気に間合いを詰めた。筋肉の繊維一本一本が燃え上がるように収縮し、スピアを握る腕に力が籠もる。狙いはオリオンの心臓。ただ一直線に、確実に突き貫く軌道。

 

 槍先が空気を裂き、風鳴りが耳元で炸裂する。視界の端にオリオンの巨躯が迫る。俺は腕を捻り、槍身を弓なりにしならせながら渾身の突きを放った。

 

 しかし――。

 

 「……っ!」

 

 槍先は空を切った。

 

 オリオンの身体がすっと半身にずれ、わずか数寸、しかし決定的な差で俺の一撃を回避したのだ。巨体に似合わぬ滑らかな動き。大地を擦る足音は微かで、影のように軽い。俺の眼が追いついたときには、すでに槍先は彼の胸を掠めることすら許されていなかった。

 

 「だから甘いと言っている」

 

 その声が頭上から落ちてきた瞬間、俺の視界に映ったのはオリオンの握り込まれた拳だった。

 

 「な……!」

 

 スピアを握る腕を振り戻すよりも早く、オリオンの左拳に全身の力が収束していた。筋肉が隆起し、空気が爆ぜるような音を響かせる。

 

 「ぐはぁっ!!」

 

 拳が俺の腹に突き刺さる。重い。鉄塊を叩き込まれたかのような衝撃。瞬間、内臓が跳ね上がり、胃の中の空気が強制的に押し出され、喉を焼くような吐息が漏れた。

 

 視界が白く弾け、足元の大地が消えたように感じる。全身の骨が悲鳴を上げ、筋肉が千切れる錯覚。

 

 「がっ……ふっ……!」

 

 口の端から唾液と胃液が混じった苦い液が飛び散った。肺にまで衝撃が響き、呼吸が奪われる。

 

 オリオンの拳はまだ俺の腹の奥に沈み込んでいた。拳の硬さが生々しく伝わる。筋肉の壁を突破し、臓腑を抉るかのような圧力。そこから生まれる激痛が全身に散り、背骨まで痺れさせた。

 

 「ぐっ……ぬぅぅっ!!」

 

 俺は歯を食いしばり、必死にスピアを振り下ろそうとした。しかし腕が動かない。力が籠もらない。拳に貫かれた腹から力が抜け、膝が震えていく。

 

 オリオンは表情ひとつ変えず、俺の苦悶を見据えていた。まるで「鍛錬とはこういうものだ」と言わんばかりに。

 

 「これが、実戦だ」

 

 拳が腹から引き抜かれた瞬間、空気が破裂音を立てた。遅れて激痛が増し、俺の身体は後方へ吹き飛ぶ。背中から大地に叩きつけられ、砂と小石が四散する。

 

 肺の中の空気が一気に吐き出され、呼吸ができない。喉が痙攣し、必死に空気を吸おうと口を開けるが、肺は焼けるように動かず、数秒間は死の恐怖に捕らわれた。

 

 「はぁっ……はぁっ……! ぐっ……」

 

 どうにか空気が肺に入ると、鋭い痛みが胸から腹に走った。身体が折れそうなほど痛い。しかし、不思議なことに、まだ立ち上がれる力は残っている。

 

 俺はスピアを杖代わりに地面に突き立て、震える足で立ち上がった。膝が笑う。腹は灼けるように痛む。それでも俺はオリオンを睨み返した。

 

 「……まだ終わりじゃねぇぞ」

 

 声は掠れていたが、確かに届いたはずだ。

 

 オリオンは口の端を吊り上げ、愉快そうに笑った。

 

 「その意気だ、アビサル。まだやるか?」

 

 え?まだやるん?

 

 まだ終わりじゃねぇぞ……!なんて言ったのは嘘だ。虚勢だ。張り子の虎だ。俺はすでに腹にオリオンの拳を受けた時点で終わっていた。心も身体もボロボロ。スピアを握ってはいたが、あれはもはや武器ではなく杖だった。

 

 「まだやるか?」とオリオンが問いかけてきた瞬間、本能が「もうやめろ」と叫んでいた。けれど俺の口は「やる」なんて言ってしまった。なんでだ。あの時の俺をぶん殴りたい。

 

 結果、どうなったか。簡単だ。俺はオリオンに完膚なきまで叩きのめされた。

 

 拳、肘、膝、スピアの柄、最後には素手で掴まれ地面に叩きつけられ、俺の身体は土煙の中で何度も宙を舞った。抵抗はした。確かにした。だがすべては弾かれ、躱され、逆に倍の痛みとなって俺の身に返ってきた。

 

 「ぐふっ!」

 「ぬぐっ……!」

 「がっ……!」

 

 その三つの呻き声しか、俺は発することができなかった。

 

 そして最終的に俺は家に転がり込むようにして帰った。

 

 

 「ひどい……ひどすぎる」

 

 布団に突っ伏したまま、俺は呻いた。頬は腫れに腫れ上がり、触れただけで熱を持っているのが分かる。鏡を見なくても、自分の顔が原形を留めていないことくらい察しがついた。

 

 まるで熟れすぎた果実だ。いや、もっと酷い。岩で顔面を何度も擦り潰したような……そんな感覚。

 

 思わず涙が滲みそうになったが、出なかった。出せなかった。頬が腫れすぎて、涙腺が塞がれているのだ。物理的に。涙すら出ない状況なんてあるのか……?

 

 「クソッ……」

 

 呻き声が漏れる。

 

 身体中が痛い。特に腹。あの時の拳の感覚がまだ残っている。臓腑を鷲掴みにされたような圧迫感。息を吸うたびにズキリと痛みが走り、肋骨がまだ震えている。

 

 腕も痺れている。スピアを握る手が震えっぱなしで、力が入らない。握り拳を作ろうとしても、関節が痛みで悲鳴を上げて固まる。

 

 「くそったれ……」

 

 俺は天井を睨んだ。

 

 思い出す。オリオンの笑顔。あの余裕の表情。まるで俺が必死に抵抗する姿を楽しんでいるかのような……。いや、あれは本気で楽しんでいたんだ。きっと。

 

 「アイツ、絶対性格悪いだろ……」

 

 

 鍛錬だというのは分かる。命のやり取りじゃないことも分かる。だが、だからこそ余計に悔しい。

 

 もし本当に殺す気で来られていたら……俺はあの場で死んでいた。間違いない。腹を抉られ、首を折られ、槍で突き貫かれ、地に転がっていたはずだ。

 

 なのにアイツは一切殺さなかった。すべてギリギリで抑えた。あえて俺を生かし、痛みだけを刻み込んで終わらせた。

 

 ……屈辱だ。

 

 「……ああ、痛ぇ」

 

 横になりながら、俺はそっと顔に触れてみた。腫れ上がった頬は熱を帯び、皮膚が張り裂けそうなほどパンパンだ。触れた瞬間、ズキリと痛みが走り、思わず呻く。

 

 「イッテェ……!」

 

 笑い話にもならない。これじゃ獲物を狩るどころか、マスクをつけるのも一苦労だ。実際、装着しようとしたら頬に押し付けられて痛みで涙目になった。いや、涙目になりたかったが、涙が出なかったから正確には「涙目のフリ」だ。

 

 ふと思った。

 

 「これ、俺……しばらく外出れねぇな」

 

 狩猟に出たらどうなる? 仲間に会ったらどうなる? この顔を見られたら笑い者だ。いや、笑いじゃ済まないかもしれない。「あのアビサル、オリオンにボコられたらしいぞ」なんて噂になったら、数日は笑いの種になるだろう。

 

 「クソッ……マジでやめてくれ……」

 

 俺は布団に顔を埋めた。布団に触れた頬がまた痛んで呻いた。

 

 でも――。

 

 それでも思う。俺は確かにオリオンと渡り合った。いや、正確には一方的にやられたのだが、それでも俺は最後まで立ち上がろうとした。意地で、名誉で、負け犬の遠吠えでも、立ち上がった。

 

 それだけは事実だ。

 

 「……チクショウ……次は……」

 

 そう呟いて、俺はゆっくりと目を閉じた。痛みは消えない。だが、不思議と心は少しだけ軽かった。








 ……霧深き伝承に曰く――「未来に期待!ジュース」とは、ただの薬液にあらず。味は美味い。

 それは太古、創造種族エンジニアが星海の果てにて鍛え上げし、黄金の雫を源として生まれた秘薬である。雫は、彼らが神にも等しき手技で編み出した奇跡の結晶。その一滴は時を越え、因果を裂き、あらゆる可能性を映し出す力を秘める。

 飲みし者は夢の中に未来を覗く――されど、それは決して一つに定められた未来ではない。無数の枝道のうち、最良と呼ぶべきひと欠片、すなわち“期待”を垣間見るのみ。

 さらに黄金の雫は飲み手の細胞に刻印を与える。微かに、しかし確実に、未来への変容を促す道標となる。映し出された幻夢は、己のものにあらずとも必ずや運命の環のどこかに結び付いている。

 飲む者よ、恐れるな。
 その雫は祝福か、それとも呪いか。
 ただ一つ確かなこと――汝は、もはや未来から逃れ得ぬ。
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