エイペックスという若いヤウジャと共に、俺はフィアラルの痕跡を追っていた。
奴の足跡は単なる移動の跡ではない。地面に刻まれた深い爪痕、木々に残る血の飛沫、そして獲物を嬲り殺すような形跡が随所に散らばっている。どれもこれもフィアラルの気配を濃く残しており、見紛う余地はなかった。
痕跡はどうやら人間の兄妹の女へと続いている。兄の方は別方向に逃げたようだ。恐らく妹を守るため、囮となったのだろう。人間にしては殊勝な行いだ。だが、その判断が正解かどうかは分からない。あのフィアラルが追うと決めたのは妹の方。兄がどれほど必死に逃げ延びようと、獲物に選ばれなかった時点で運命は決まっていた。
俺はクロークを起動し、草原を進む。
前方を悠然と歩くエイペックスの姿が視界に入る。あまりにも大きい。背中に溢れる筋肉は山脈の稜線のようで、肩や腕は一歩進むたびに波打つ。だが不思議とその巨体には重さがない。足跡は深いが、歩みは軽やかで、まるで大地が自らその巨躯を支えているかのように見える。
痕跡の辿り方は少々乱雑だ。枝を折り、草をかき分け、獣を追う狩人のような大胆さだ。しかし正確だった。彼は迷わない。直感と経験に従って進む。俺のように慎重に一歩ずつ確認する臆病な追跡とは対照的だ。まるで獲物を追う捕食者そのものだった。
やがて辿り着いたのは人間の集落……いや、集落というよりも一時的な拠点だろう。この土地に根を張っている者たちではない。遠方からやってきた人間たちの陣地に見えた。
観察を続けると、兄妹の部族とは明らかに異なる特徴を持っていた。武器は鉄製のナイフや火薬式の銃。着ているものも獣の皮を鞣し、加工したものばかりで、こちらの方が文明的な技術を持っている。粗末ながらも計画的に設営されたキャンプには、彼らなりの秩序と工夫があった。
だが、その秩序はもはや崩壊していた。
拠点の中央で、一人の女が暴れていた。獣の皮を纏い、血に塗れた手で武器を振るい、自らを捕らえた人間たちを次々と屠っていた。動きは淀みなく、力強い。彼女は恐らく例の妹だ。逃げることを選ばず、戦うことを選んだのだろう。
俺とエイペックスは木に登った。
俺は幹に爪を立て、枝に体を密着させるように身を潜めた。対してエイペックスは隣の木に登り、太い枝の上にしゃがみ込み悠然と構える。その佇まいは堂々として、狩人というより支配者の観察のようにも思えた。
「……」
俺は息を殺し、視線を下に向ける。ナルの戦い方は人間の枠を超えていた。小柄な体格ながら、振るう一撃は重く、足運びは速い。何より迷いがない。捕らえられ、絶望に追い込まれたはずの状況から、逆に獲物を狩る者へと変じている。その姿に、僅かに心が揺れた。
暫く観察していると、拠点の入口からひとりの人間が現れた。片足を引き摺り、苦悶の声を漏らしながら戻ってきた男だ。
あの顔は……窪地で脚を切られた男。まだ生きていたのか。
「ナル!」
俺の隣で、低く唸るような声が上がった。エイペックスだ。
彼の声は俺にだけ届くほど抑えられていたが、確かに熱を帯びていた。
――ナル。
あの女の名はナルというのか。
俺は僅かに顎を引き、再び視線を戦場に戻した。血と煙に塗れた拠点の中で、彼女の動きは止まらない。獲物を狩る人間……その姿は、俺たちヤウジャですら一瞬見惚れるほどだった。
脂汗を浮かべながら脚を引き摺り、男が近づく。
その姿は痛々しかった。全身から発せられる体温は異様に高く、傷口からはまだ血が滲み続けている。まともに立っているのがやっとといった様子で、だが男は必死に手に持った短銃を構え、こちらへにじり寄っていた。
「助けてくれ……!く、薬はあるか?」
息を荒げ、苦悶に歪んだ顔で叫ぶ男。声には必死の響きがあった。
対するナルは投げ斧を構え、警戒を崩さない。その黒い瞳は獲物を狙う獣のように鋭く、しかし揺らいでいた。自分を捕らえ苦しめた敵のはずだ。それでも彼女は斧を振るうよりも、逡巡の中で男の言葉を聞いていた。
「た、助けてくれたら……!これの使い方を教えてやる!頼む!」
男は手に持つ銃を示し、必死に声を張り上げる。確かに人間にとって銃は強力な武器だろう。彼女のような者にとっては喉から手が出るほど欲しい力かもしれない。
ナルは短い呼吸を整えると、斧を僅かに下げ、ゆっくりと男に歩み寄った。そして驚くべきことに――その傷の治療を始めたのだ。
「……」
俺は木陰からその様子を凝視していた。信じられない。元来敵であるはずの相手に手を差し伸べるなど、俺たちヤウジャでは考えられない行動だ。臆病であれ、冷酷であれ、生き残るために敵は排除する。それが当たり前だった。
だがナルは違った。彼女の行動は、俺の中にあった常識を一瞬で揺さぶった。
ナルは男の脚の傷口から針金のような刃物――恐らくフィアラルが用いた武器の破片――を引き抜いた。男は絶叫し、地面にのたうつ。しかし彼女は躊躇わず、その破片を腰のポーチにしまう。その目には実用と必要の判断しかなかった。
さらに彼女は腰帯から小袋を取り出し、中に入っていた橙色の花びらを掴み出した。
「なんだ、あれは……?」
俺は小さく呟いた。見たこともない植物だ。
ナルはその花びらを強引に男の口へ押し込んだ。
「ほぉ……」
思わず声が漏れた。驚愕と共に。
花びらを口に含んだ男の体温が、瞬く間に下がっていったのだ。マスクの熱源視界ではっきりと確認できる。熱に燃えていた肉体がみるみる冷え、炎のように揺れていた光が消え失せる。まるで死体のように。
「面白い……」
植物による処置か?いや、まるで術のようだ。死んだふりを装うために使ったのか、それとも自然の中に潜む知恵か。いずれにせよ、この女は人間の中でも特別だ。
隣で同じように見下ろしていたエイペックスも、不思議そうに眉をひそめていた。彼の巨躯が僅かに前傾し、その目が好奇心に煌めくのがわかる。
そして――奴が来た。
フィアラルだ。
奴はクロークも付けず、姿を晒しながらゆっくりと歩いてきた。骨のマスクが鈍く光り、空気を震わせるような存在感があった。奴の周囲の空気は淀み、ただ歩いてくるだけで大地が重く沈んでいくように感じられる。
倒れた男は、地面に体を投げ出したまま動かない。死体を装ってやり過ごそうと考えたのか?だが違う。先ほどの花びらによる体温の低下……もしかすれば、本当に奴の視界からは死体のように見えるのかもしれない。
ナルは賢く、木の影に身を潜めた。だがその影は、エイペックスが登る木と同じ。彼の頭上からは大粒の汗が滴り落ちそうになっていた。
「……あの馬鹿」
俺は内心毒づいた。あんな巨体が汗を滴らせれば、一瞬で気づかれる。だが奇跡的にフィアラルは気づかなかった。奴は完全に、獲物にのみ集中している。
そして――
フィアラルの足が、倒れた男の脚を踏みつけた。
「――ッ!!」
鈍い音と共に、折れた骨が軋む。次の瞬間、男は堪らず悲鳴を上げた。
その声が獣を呼び覚ます。フィアラルの赤い視界が閃き、リストブレイドが展開される。鋭い二枚刃が唸りを上げ、振り上げられた。
「やめろ……」
俺の喉から、無意識に声が漏れていた。
そして次の瞬間、フィアラルの刃は振り下ろされ、男の胸を深々と貫いた。
そしてその直後だった。
拠点に向かって、吠え声を上げながら一匹の犬が駆けてきた。あの女――ナルの側に仕えていた犬だろう。ずっと近くで動いていた気配を感じていたが、今まさにここへ駆けつけたのだ。
「……」
俺は息を潜め、犬の走りを見守った。犬は小柄だが、必死に吠え、牙を剥き、勇敢にもフィアラルに向かって突進していく。だが、その勇気は愚かにも映った。相手はバッドブラッドだ。誉れを失い、掟を捨てた同族殺しの怪物。犬ごときで止まるはずがない。
フィアラルがゆっくりと腰に手を伸ばした。そこから引き抜かれたのはシュメル族特有の武装――スピアボウガンだ。槍の原理を応用しつつ、矢ではなく金属の針を射出する特殊な武器。奴はそれを犬に向けた。
俺の視界に三本の赤い照準線が浮かび上がる。フィアラルのマスクから伸びたレーザーだ。三角に収束した照準が、疾走する犬を確実に捕らえている。
「……まずいな」
思わず声にならない声が漏れた。あの武器は
犬が命を散らす光景が頭に浮かぶ。背筋に冷たいものが走った。
「ヨーーーホウッ!!!」
その時だった。突如、鋭く甲高い叫び声が大地を震わせた。
視線を向けると、馬に乗った人間の男が現れた。土煙を巻き上げ、豪快に駆けてくる。片手にはシュメル族の特殊槍――今は収縮し、棍棒のような形をしている――を握っていた。
「……人間か」
俺は目を細めた。まさかこの状況で人間が割って入るとは思わなかった。馬上のその姿は堂々としていて、まるで戦場を駆ける戦士のようだ。
犬を庇うように馬を操り、フィアラルと犬との間に割って入る。
「おいおい……命知らずめ」
心の中で呟きながらも、俺は息を呑んでその光景を見ていた。
フィアラルのレーザー照準は犬から逸れ、馬に乗った男へと移っていく。赤い三線が馬の首元を走り、次の瞬間には男の胸を狙っていた。
だが、男は恐れなかった。むしろ声を張り上げ、馬を更に加速させた。馬の蹄が地面を打ち、轟音が平原に響き渡る。
「何をする気だ……?」
俺の疑念は膨らむばかりだった。人間の武器でヤウジャを殺せるはずもない。だがその男の眼差しには、確かな覚悟が宿っていた。
エイペックスが隣で呟いた。
「……勇敢だな」
確かに勇敢だ。だが俺にはそれが、勇敢ではなく愚かにしか思えなかった。
フィアラルが引き金に指を掛ける。その瞬間、時間が凍り付いたように思えた。赤い光が揺らぎ、犬の吠える声、馬の嘶き、そして男の叫びが混じり合って轟音となる。
「避けろ……」
俺の心の奥底から、臆病な自分が叫んでいた。だがそこで思わぬ声が聞こえた。
「ウワーーーーー!!!」
女の声だ。すぐ下を見ると女が短銃を手に持ち叫んでいた。
そしてフィアラルの意識が女へと向いた。
馬に乗った人間――男が隙を突きフィアラルへと一気に迫った。
唐突で粗雑に見えるその動きは、しかし狩りに慣れた者の勘によるものだろう。フィアラルがボウガンを女に向けた瞬間、その死角に馬の勢いを利用して潜り込む。
振り下ろされた棍棒の一撃がフィアラルの頭蓋に直撃した。硬質な衝撃音が響き、マスクが弾け飛ぶように外れて地に転がった。視界から赤いレーザーの照準が逸れ、代わりに近くの木へと伸び、針が木肌を抉り込むように突き刺さった。
「タアベッ!」
木陰に隠れていた女――ナルが叫んだ。エイペックスの登っている木のすぐ下から響く声。なるほど、やはり兄妹であったか。
タアベは体勢を崩すことなく馬から飛び降り、手にした棍棒を一気に槍へと変形させた。シュメル族の独特の変形槍――収縮と伸長を自在に操るそれを、狙い澄ましてフィアラルに投げ放つ。
「……!」
槍は正確に肩口へと突き刺さった。あの化け物の肉を穿つほどの威力。俺の目から見ても驚嘆せざるを得ない。人間にしては、いや人間であるからこそここまでの集中力を発揮できたのか。だが惜しい。
タアベは続けざまに地面を転がりながら矢を拾い上げ、次々と放った。一本がフィアラルの腹を貫き、その傷口から再び矢を引き抜き、また放つ。まるで循環するような一連の動作。俺の眼には、それは紛れもなく“狩り”だった。
「……素晴らしい」
小さく声が漏れた。臆病な俺ですら、その戦いぶりに胸が震えた。至高の獲物であるヤウジャをも狩れるのではないかと錯覚するほどに。
だが――やはり奴は甘くなかった。フィアラルは最後に頭部へ向かって放たれた矢を掴み取ると、そのままクロークを起動した。姿が掻き消える。
「……消えた」
タアベは周囲を見渡し矢を構えるが、既に奴の姿はどこにもない。
横を見ると、隣にいるエイペックスから異様な気配が溢れ出していた。
「……な、なんだ?」
心臓を鷲掴みにされるような殺気。臆病な俺の本能が「逃げろ」と叫んでいた。
「おい……エイペックス。大丈夫か?」
問いかけた声は僅かに震えていた。
「ちょっと……もう我慢できない」
巨体が低く呟いた。背から引き抜かれた一本のクロークを纏ったスピアが陽光を反射し、鋭い煌めきを放つ。
「なっ……ちょ、待て!」
俺は慌てて声を上げた。
エイペックスが立ち上がり、窪地に向かって構える。その眼は、もはやフィアラルだけでなく全ての存在を敵とみなしているかのようだった。
その時、兄妹の会話が俺のマスクを通じて拾われた。
「タアベ!」
「〈どこへ行った!!〉」
「タアベ、逃げて!」
「……ダメだ。逃げろナル。奴は俺を敵とみなした。俺が生きていられるのはここまでだ」
人間の男は、覚悟を決めているようだった。いや、諦めか。
だが俺の視界には、クロークを纏ったフィアラルが映っていた。タアベの背後へと忍び寄り、ゆっくりとリストブレイドを突き立てようとしている。
「……!」
喉が鳴った。声を出そうとしたが出ない。臆病な俺の体が固まってしまっていた。
今まさに――
その時だった。
ブンッ――重い風切り音が響いた。エイペックスがスピアを投げ放ったのだ。
投げられたそれは目にも留まらぬ速さで一直線に飛び、タアベの肩をかすめるように通過して、その背後に潜んでいたフィアラルの足元に突き刺さった。
「グオオオオオッ!?な、なんだこれは!!」
驚愕と怒りが混じった叫び。突き刺さった瞬間、スピアが発する衝撃で周囲に風圧が広がり、クロークが強制的に剥がされる。奴の姿が露わになった。
その気配に気づいたタアベが振り返る。まるで獣の本能に突き動かされるような速さだった。
「これは……!」
タアベは即座に地面へ刺さったクロークの解かれたエイペックスのスピアを引き抜く。脚を踏み込み、腰を捻り、全身の力をスピアに乗せた。次の瞬間、その槍は勢いよく振り抜かれ、フィアラルの頭蓋へ突き立った。
「グッ……ギ、ギャ……!!」
低い呻き声を上げながら、奴の身体が硬直し、震え始める。ビクビクと痙攣を繰り返し、やがて力なく崩れ落ちた。
一瞬の出来事だった。
「はぁ……はぁ……」
「タアベ!」
「大丈夫だ、怪我はない……何も負ってはいない」
兄妹と、傍らで吠える犬が、地に伏したフィアラルを見下ろしていた。
「この醜い化け物は一体……」
「コイツが……皆を殺した」
人間たちの視線には恐怖よりも憎悪と、そして勝利の確信が宿っていた。
……信じられない光景だった。
確かにエイペックスが助け舟を出した。だが勝負を決めたのは人間だ。タアベが槍を突き立て、妹ナルが恐れず叫んで奴の注意を逸らした。その連携がなければ、あの瞬間は生まれなかっただろう。
臆病な俺ですら分かる。これは――偉業だ。
人間がヤウジャを狩る。狩られるべき存在が、狩る側を打ち倒す。この逆転ほどの栄誉は他にない。
「アトラルさん……」
隣でエイペックスが小さく俺に声をかけた。あいつの目は純粋な興奮と畏敬で輝いていた。
「うむ……」俺は小さく頷き、言葉を吐き出す。「人間の可能性を見た。これは正しく……
胸の奥で臆病な俺が「信じられん」と呟く。だが――目の前の事実は揺るがない。