私は臆病なまま未来を託す
ゴンジとしての日々が始まった。
アビサルは死んだ。ということになった。ヤウジャが死ぬことは珍しいことではない。狩りにおいて命を落とすのは常であり、それが名誉に結びつくかどうかは死に様で決まる。
アビサルという名に刻まれていた名誉も功績も、今は跡形もなく消えた。私は新たな名を戴き、再び歩みを始めることとなった。
現エルダーの愛弟子といえど、贔屓などは存在しない。ヤウジャにそのような情は不要であり、あるべきでもない。名を変えるとは、全てを失い、全てを捨て、新たに積み上げることに他ならぬ。
アヌ族として、私はこれまで通りバッドブラッドを狩る。だがそれと並行して、より高みを目指す道を選んだ。
名誉を得るため、そして未来を繋ぐために、私は星々を巡る。狩猟を重ね、知を集め、武を研ぎ澄ませる。その果てに待つのは教育係――選別を生き延びた赤子を引き取り、成人まで導くという最も苛烈で、最も数少ない役目だ。
教育係はアヌ族にとって象徴である。赤子を鍛え、生き残らせることこそが部族の礎であり、未来を紡ぐ術なのだから。
そう、私はこれから教育係を目指す。
狩りの始まりであり、そして真の戦いの始まりでもあるのだ。
なんて事を考えつつ、私はエルダーの私室を目指した。
これまでと同じように、エレベーターに乗り込み、最上階のボタンを押す。金属の箱が静かに上昇し、規則正しい振動と共に鼓動を早める自分に気づいた。今や私は“ゴンジ”だ。アビサルではない。だが、まだ内心に巣食う臆病な声は消えていない。
扉が開き、見慣れた部屋に足を踏み入れる。広く静まり返った空間。窓際には相も変わらず街を見下ろす大きな背中があった。エルダーだ。かつて私を導き、そして今もなお部族の頂点に立つ存在。
「“ゴンジ”」
呼ばれた名に、一瞬だけ胸が締め付けられる。だが顔には出さず、私は膝を折り、頭を垂れて答えた。
「エルダー、お呼びですか?」
「うむ、新たな任務がある」
その言葉を聞いた瞬間、背中に冷たいものが走る。任務――その響きはいつも私に緊張と恐怖を与える。だが同時に、アヌ族の一員であることを実感させる言葉でもあった。
「……拝命いたします」
私はそう言い、静かに息を殺した。
「内容は聞かなくていいのか?」
エルダーの低い声が響いた。
「え?あ、バッドブラッド狩りでは?」
私は即答していた。これまで幾度も繰り返されてきた任務、血と裏切りに塗れた仕事。私の口から自然に出た答えはそれしかなかった。
だが、エルダーはゆっくりと首を振った。
「それもある。だが今日は【誕生の日】だ。教育係を目指すのであれば、それを見るのもよい経験になるだろう」
その言葉を聞いた瞬間、心臓の奥に冷たいものが落ちた。
【誕生の日】――ヤウジャが新たに産声をあげる日である。長命の種族である我らにとって子の誕生は稀であり、部族全体を揺るがすほどの喜びだ。母星のあらゆる場所で産声が響けば、それは祭りの鐘と同義である。
だがアヌ族にとってそれは単なる祝福の日ではなかった。赤子は誕生と同時に選別に晒される。強者のみが未来を許され、弱者はそこで命を落とす。それは伝統であり、同時に呪いのような掟であった。
「……誕生の日、ですか」
声が震えたことを自分でも気づいていた。いや、気づかぬはずがない。赤子の泣き声を耳にしたとき、自分はどうなるのか――想像しただけで臆病な自分が顔を出す。教育係を志すのであれば直視しなければならない。それは分かっている。だが、心はまだ覚悟を決め切れていなかった。
エルダーは私の動揺を見抜いたように口元を僅かに歪めた。
「未来を語る者が、赤子一人の声に怯えるか?」
挑発とも取れるその言葉に、思わず唇を噛む。臆病な私が、背中を押されている。
私は深呼吸し、姿勢を正した。
「……承知しました。必ず見届けます」
「うむ、それでよい」
エルダーの目は鋭くも温かかった。師であり、父であり、そして私を誰より理解する存在。彼の眼差しに押され、私は前へ進む覚悟を決める。
大聖堂を出ると、外の空は濃い青に染まり始めていた。遠くの火山から吹き上がる赤い光が雲を照らし、母星の夜は静かに、しかし荘厳に始まっていた。
大通りには既に多くのヤウジャが集まっていた。皆が黒き鎧を身にまとい、槍や刀を背にして整然と並ぶ。彼らの視線は一様に【誕生の広間】へと注がれていた。
その中央にあるのは巨大な石の門だ。幾千年の歴史を刻んだ門が、今夜だけは新たな命を迎え入れるために開かれる。門を見上げた瞬間、私は言い知れぬ重圧を覚えた。
「これが……」
呟いた声は誰にも届かない。だが、自分自身に言い聞かせるためのものだった。
門がゆっくりと開いた。中から現れたのは育成官たちに抱かれた一年育った赤子たちだった。声が夜空に響き渡る。その小さな身体はまだ弱々しく、肌も柔らかい。だが、その目には確かにヤウジャの光が宿っていた。
私は拳を握った。胸の奥が締め付けられる。臆病な私が「逃げろ」と囁く。しかし、教育係を目指すならばこの光景を受け入れねばならない。
選別が始まった。
赤子は一人ずつ無骨な石の間へと運ばれる。選別官がその小さな身体を両手で持ち上げ、宙に投げる。
「っ……」
私の心臓が強く跳ねた。
赤子は宙を舞い、石床に落ちる。二本の足でしっかりと立てれば合格。膝を折り崩れれば、その瞬間に終わる。
ひとり……またひとり。
立ち上がった赤子の泣き声に歓声があがる。崩れ落ちた赤子の静寂に、ただ重い空気だけが残る。
私は歯を食いしばって見守った。
「これが、アヌ族の道か……」
己の胸に問いかける。だが答えは出ない。ただ見届けるしかなかった。
やがて選別が終わり、数人の赤子だけが残った。
その瞬間、私は悟った。教育係の道は狩猟以上に残酷だ。狩りは己の意思で臨める。しかし教育係は、この光景を幾度も幾度も繰り返し直視しなければならないのだ。
「私に……できるのか」
臆病な私が再び囁く。だが、その声を振り払うように私は背筋を伸ばした。
「否、やらねばならぬ」
そう呟いたとき、広間の灯火が強く揺らぎ、選ばれし赤子たちが私の目の前に運ばれてきた。
その眼差しは弱々しくも、確かな光を宿していた。
私はその光に、己の未来を重ね合わせていた。
そうして選別を生き残った赤子が、数少ない教育係に託されていく。
その数は本当に僅かだ。十数人の幼い声の中で立ち上がることのできたのは三人。更にその三人が生き延びるかは教育係の手腕にかかっている。教育係とは名ばかりで、赤子を甘やかす仕事ではない。むしろ常に殺意を孕んだ眼差しで鍛え続け、時に半殺しにしてでも叩き上げる。それが教育であり、儀式であり、未来への礎だった。
赤子を抱えた教育係たちが広間を去っていく。黒い鎧に身を包んだ彼らの背中は、戦場に赴く狩人以上に重かった。
私はその背中を目で追いながら、無意識に自分の胸に手を当てていた。
「私になれるのか?」
その疑問は、幾度となく私の心を苛む。
私はオリオンに育てられた。あの男の背中を見ながら、牙を研ぎ、槍を握り、狩りを覚えてきた。時に叱咤され、時に拳で地に沈められ、時に血反吐を吐きながらも立ち上がった。オリオンの瞳は常に鋭かったが、同時に燃えるような熱を秘めていた。その熱に私は救われ、生かされてきたのだ。
ならば私に、果たして同じことができるのか。
赤子を鍛えるというのは、ただ戦い方を教えるだけではない。名誉とは何か、掟とは何か、何のために刃を振るうのかを骨の髄に叩き込むのだ。だが私は――臆病者だ。戦場で命を張るたびに、心の奥底で常に「逃げろ」と囁く声がある。
「そんな私が教育係だと?笑わせる」
自嘲が漏れた。
だが、私はゴンジだ。名を変えた。アビサル――底を意味するその名を捨て、私は頂きに向かうと決めたのだ。ならば、逃げ続けるわけにはいかない。
選別の場に残された赤子の一人が、ふとこちらを見た。まだ何も分からぬ瞳。しかし確かにそこには生きようとする光があった。
私は思わず目を逸らした。
「やはり私は弱い」
その認識が胸を刺す。だが同時に、胸の奥で熱が芽生えた。あの光から目を逸らす自分が許せなかった。
教育係は強さだけで成れるものではない。臆病でもいい、弱くてもいい。だが、赤子の命を未来へ繋ぐという覚悟がなければならない。
オリオンはかつて言った。
――「アビサル、お前は逃げるだろう。だが逃げた先で必ず立ち上がる。それが臆病者のお前の強さだ」
私はあの言葉を今でも鮮明に覚えている。
「……立ち上がるか」
目を閉じ、深く息を吐いた。私には彼ほどの熱はない。だが、臆病なりにやれることがあるのではないか。
教育係として、赤子を導く日が来る。
血に塗れ、涙に沈む日々になるだろう。赤子の泣き声を背に、何度も心を折られるだろう。だがそれでも、私は立ち上がる。
「オリオン、私はお前のようにはなれない」
呟きは誰にも届かない。だがそれでよかった。
「私は私だ。臆病なまま、私なりの教育をする」
そう決めた瞬間、背筋が僅かに伸びた気がした。
広間の外では、赤子の泣き声がまだ響いていた。その声は弱々しくも確かな命の証。私はその声を胸に刻み込み、歩き出した。
教育係――それは死よりも重い責務だ。だが、私はもう目を逸らさない。
「ゴンジとして、私は臆病なまま未来を託す」
そう心に誓い、私は広間を後にした。
そのまま私は、自らの船に向かった。
広間に残る産声や赤子の気配を背に受けながら、私は一歩一歩足を進める。だが、まだ私は教育係ではない。ただの願望であり、志にすぎぬ。私がその資格を得るためには、まず【名誉】を積み上げなければならない。
名を変えたからといって、すぐに役目を得られるわけではない。ヤウジャにおいて、名誉も功績も全ては血で購われる。誰もが知っている真理だ。
「教育係になりたい、か……」
呟きながら拳を握る。だが心の奥底では分かっている。教育係になるためには、ただバッドブラッドを狩るだけでは到底足りぬ。バッドブラッド狩りは確かに重い任務だが、あれは“義務”に近い。掟を破った同胞を処刑する役割は、誇りではあっても栄誉とは呼ばれにくい。
真の名誉は別にある。
それは星々を巡り、その星の【頂点捕食者】を己の身一つで狩ることだ。文明の手を借りず、仲間の援護もなく、ただ己と獲物との間にのみ掟を置き、命を削る狩り。獲物が猛きものであればあるほど、その勝利は部族に轟き渡る。
かつてオリオンが語っていた。
――「バッドブラッド狩りは義務だ。しかし頂点捕食者を狩ることは名誉だ。教育係になる者は必ずその証を持っていなければならぬ」
私はその言葉を思い出し、頬を歪めた。結局は避けて通れぬ道だ。
「よし……」
私は船の前に立つ。クロークに覆われた鋼の船体は、長きにわたる狩りの傷跡をその身に刻んでいる。幾つもの星で、幾つもの血を浴びてきた相棒だ。
船のハッチが低い唸りを上げて開く。私は踏み込み、内部へと進む。無骨な機材、整然と並んだ武具。血と油の匂いが混ざり合い、鼻腔を刺す。
操縦席に腰を下ろすと、ガントレットを操作し、宙域に散らばる星の情報を呼び出した。
「頂点捕食者、か……」
星々の記録を眺める。凶暴な牙を持つ獣、群れを率いる怪物、毒で世界を支配する虫。どの星にも“頂点”は存在する。その中から自らに相応しい獲物を見つけねばならない。
だが、私は臆病だ。臆病な自分が“頂点”を狩れるのか。思考が揺れる。
「……フッ、臆病だからこそ狩れるかもしれんな」
臆病は逃げる力をくれる。警戒を怠らず、一瞬の油断もせず、確実に仕留めるための冷静を保たせてくれる。それは狩人にとって最大の武器だ。私はそれを知っている。
立ち上がり、武具庫へ向かう。
そこには私のゴンジ――オリオンが名付けたスピアがあった。無骨で、しかし無二の力を秘めた武器。私はそれを背に担ぎ、腰にはセレモニアルダガーを差し、リストブレイドの調整を確かめた。
「教育係になるために……いや、それ以前にゴンジとして生き残るために」
武具を纏いながら、己に言い聞かせる。
全ての始まりは名を変えたことだった。アビサルという“底”を捨て、私はゴンジという“力”を名乗った。ならば力を証明せねばならぬ。
操縦席に戻り、出発の準備を整える。
船体が低く唸り、光が走る。外界の大地が震え、星空へと浮き上がる。
私は画面に浮かぶ星々を見据えた。どの星に降り立つか、それはまだ決めていない。だが、狩りは始まる。
「よし、いくぞいくぞいくぞ!!」
自らを奮い立たせるように叫ぶ。臆病な私を突き動かすのは、未来への渇望と、教育係になるための名誉への欲望だ。
星々は遠く、しかし確実に私を呼んでいた。