その日の夜。あれから家に戻ったなのはと千冬は、アリサやすずか、それから他の同級生たちとも遊んだりせず、久しぶりにのんびりとした休日を過ごした。一夏の世話をしながら、自分たちも足腰が立たないように見えるほど、ごろごろだらけるのんびりさだ。いつも庭で盆栽を弄ることしかしない恭也でさえ、
「まるで年寄りみたいだな」
と言ってしまう程だった。
そうなるくらい、二人とも疲れていたし、休みたがってもいた。何しろこの一ヶ月半、魔法にジュエルシードにライバルに、果ては襲い掛かる大敵相手に飛び回り斬りかかり撃ちまくりの毎日であったから無理もない。
その内翠屋から両親と美由希が帰ってくれば、お待ちかねの夕食である。二人ともお腹いっぱい食べたら、締めにアイスをパクリと平らげ。それからはまた、ひたすらぐうたらのんびりである。
「なんだなんだ、今日の二人は?」
今まで何かと活発に動いたり、しきりにヒソヒソ話し合っていた二人の豹変を見て、士郎はからかうように問いかけた。
「まるでナマケモノみたいにごろごろして。女の子がそんなんじゃ太るぞー?」
「大丈夫ー」
「もう運動は一年分しましたから……今日だけは休みます……」
フライパンの上のバターのように溶けてしまうくらいだらけきっているなのははまだいい。女の子にも時にはだらけたい時があるだろう。
だが、朝起きて剣を振ってご飯を食べてお茶を飲んで剣を振って昼食食べてお茶を飲んで剣を振って晩御飯食べてお茶を飲んでもまた剣を振る、そんな毎日を繰り返していた鍛錬の鬼の千冬が、よりによって休むなどとは。
「……そうか」
二人のだらしない様をよく見つめた士郎は、あっさり笑ってこう言った。
「なんだか分からないけど、二人ともよく頑張ったみたいだな! 偉いぞ!」
両手を広げて、二人の頭をうりうりと撫でる。
二人が以前、春の始めの辺りから、何かをし始めていたのには内心気付いていた。何をやっているのかは知らないが、毎日休まず早朝に出かけたり、夜もこっそり外出したり。篠ノ之さんの方では、あの大きな道場まで貸し切ったというではないか。
正直何をしているのか、気にならないでもなかった。とは言え、士郎のような大人が子供のやることに口を出すのは野暮というものだろう。
無論、危険なことではないかという疑いはあったし、もしそうなら、それとなく止めようともしたのだが。
真剣な瞳で毎晩千冬と「作戦会議」なんかを繰り返している二人を見れば。
剣道場を篠ノ之家の父親、柳韻と一緒にこっそり覗いたその中で、滅多打ちにされながらもふらふらのまま立ち上がるなのはと、苦しそうな顔をしながら、それでもなのはの言うとおり手加減せずに相手する千冬を見れば。
それを止めることは、士郎にはどうしても出来なかった。
「にゃはは、ありがとう、おとーさん」
「……その、ありがとうございます、師範」
もしかすると、士郎の判断は子供を守る父親としては失格なのかもしれない。危険から引き離し、自分の手の中で庇護してやるのが親の責務なのだろうし、現代社会において親がやるべき第一のことなのだろう。
しかし現に、なのはも千冬も五体満足、ちょっとの傷とくたくたの疲れだけで帰ってきてくれて。そして、なのはは嬉しそうに笑い、千冬も恥ずかしがりながらちゃんと笑ってくれている。陰りのない二つの笑みから分かるのは、二人が自分の行いに、達成感や満足感を抱いていることだ。
それはこの、まだまだ育ち盛りな子供にとっては得難い財産になるだろう。
二人や、その周りの様々な子供たちが互いに持つ、硬い友情と同じように。
「じゃあ、俺は一夏くんをベッドに寝かしつけてこようか」
「……ぁ、待ってください。私も行きます」
士郎が、リビングのソファに座ってうとうとしている赤ん坊を抱きかかえると、千冬もそれに釣られてぴょこんと起き上がり、士郎の足元へぴとっと寄りかかりながら一緒に行こうとした。疲れていても、姉として弟とは離れたくないんだろう。
しょうがないから、と士郎は千冬の身体を持ち、一夏と二人とも、小脇に抱きかかえてやる。そしてそのままのしのしと、二人の寝室がある二階へと歩いて行った。
リビングに残されたのは、なのはと、洗い物をしている桃子のみである。美由希はお風呂に入り、恭也は自室で明日の準備でもしているのだろう。
「……ね、おかーさん?」
その言葉に、桃子がふと、取り掛かっていた洗い物の群れから目を上げると。先ほどまでごろりと行儀悪く寝転んでいたなのはが、いつの間にか立ち上がって、閉じかけた瞼を開いていた。
「どうしたの、なのは?」
さっきまでの無気力さとは打って変わって、なのははしきりに窓の外を見つめている。
くすぶるような焦りにも似た表情は、まるで何かとてつもない忘れ物をしてしまっていたことに気付いたかのようにも見える。
その手にはいつの間にか、ピンク色の携帯まで握られており。リボンを気にして、服の襟を直したりしているのだから、完全によそ行きの格好であった。
「ちょっと、お出かけしていいかな?」
「いいけど……どうしたの?」
「ううん。ちょっと夜風に当たりたいだけ。海浜公園まで行ったら、すぐ帰ってくるから」
どう見ても、何か引っかかってしまう言い回しであったが、しかし桃子は顔色一つ変えず、瞬き程の間も無しに、
「分かったわ。でももう夜遅いから、なるべく早く帰ってきていらっしゃい」
と了承した。
「うん、ありがとうおかーさん! じゃ、行ってくるね!」
だっ、と駆け足で出て行くなのはへ、桃子は小さく手を振り、ただ見送る。
こうなるずっと前から、なのはは何かの忘れ物に気がついていて。でも千冬がいたからそれも言い出せず、士郎と一緒にいなくなったからようやく足を踏み出せたのだろう。
なのはらしいわね、と桃子は心の中で苦笑する。きっと、千冬を心配させたくなかったのだろうが、それならこんな夜に、一人の娘を送り出す桃子を、心配させるのはいいのだろうか?
多分、なのははそれほどまでに、千冬のことを想っているのだ。
それに、今からなのはが拾いに行くだろう「忘れ物」も、それと同じくらい大事なものであるはずだ。それこそ、母親の不信の目をかわすことなんて、忘れてしまうほどに。
(ほんとにしょうがないわね、うちの子たちは)
桃子はそう思いながらも、士郎と同じく、娘や息子たちが持つそういう心を、迷うことなく肯定し、認めていた。
夕方から増えてきた雲は、すっかり夜空を覆い、耽ってきた夜の帳に、少女が一人、佇んでいる。何をするでもなくベンチに座って、その場にある何にも誰にも目を向けず、ただ漠然と、何にも照らされないで真っ暗な海を見ていた。
座り込んでじっとしている彼女の身体の中で、活発に動いているのは頭脳だけだった。座ったまま動かないままで、そこだけは常人の数十倍の早さで思考を巡らし、あるプログラムを組み立てている。膨大なスケールと緻密なディテールを兼ね備えなければいけないそれを、少女の頭脳は瞬く間に形にしていった。
プログラムが出来上がれば、今度はそれを演算して、その中にあるアルゴリズムを解いていく。それを決められた通りの早さで実行することは、人間の脳ではとても成し遂げられないはずだ。地球や、もしかしたらミッドチルダのコンピュータでさえ難しいかもしれない。
しかし少女の脳内は淀みなく動き、作り上げられた二つのプログラムを完璧に演算していた。
そして、彼女の目が映す海の上が、段々と変わっていく。
最初はちか、ちか、と朧げに、しかし段々はっきりと『見えてくる』それは、魔法の光。桜色と金色。二つの光が空を舞い、ぶつかったり離れたりを繰り返している。
脳内でエミュレートされたものが、視覚情報として認識され、目で見ている情報に上書きされて映しだされたのだ。所謂幻覚というもので、通常は脳の機能の誤作動でしかない。しかし少女は、それを意図的に行って、しかも無意識で脈絡なく映すのではなく、完全に制御していた。
(……)
だから少女には見えるし、聞こえる。
潮騒の音を霞ませて遥かに余りあるほどの、魔力の衝突音と、破裂音。
戦い合う二人の魔導師、が杖を鍔迫り合うように杖を打つ音だって。
少女の助手は、それは素晴らしい仕事をしてくれた。十七層に及ぶ観測魔法が転送した映像から、少女はその現場で起こった出来事を演算するのに、十分すぎるほどのデータを読み取ることが出来たのだ。
全て、少女には理解できる。その日の気温、空気の流れ。今、白い魔導師が放った桜色の光が僅かながら風に流された。弾道が左にずれるので、誘導を利用してして少しずつ修正している。そんなことまで、分かってしまう。
(……それで?)
やがて、魔導師二人の対決は、それぞれの全力の撃ち合いへと移行する。30分にも満たない戦闘時間の中で、互いに魔力を出し尽くし、緩やかな体力切れを迎える前に一発で勝負を決めようとしているのだ。
先ず動いたのは、黒衣を纏った魔導師。相手が大魔法のチャージを始めれば、魔法そのものの抜き打ちで対抗するように詠唱を始め――たかのように見せかけて、バインドにより相手を固定。何もさせないまま、確実に相手へ直撃させるための引っかけだ。
そこから展開されたのは、何の変哲もない、連射型の射撃魔法。但しその数、合計38個。複雑な術式にも高度なテクニックにも依らない、只数と威力で押しまくる、正しく必殺の魔法だった。
黒い魔導師の号令の元、金色の弾丸は一斉に放たれる。しかも秒間七発、合計斉射時間きっかり四秒で、計1064発の飽和攻撃だ。
結果は予想通り、全弾直撃。これでまず間違いなく撃墜できるし、仮に出来なかったとしても防御するだけで魔力を全て削る事ができる。それこそ、後は少し小突くだけでダウンするくらいに。
しかし、魔導師の目に油断はない。斉射後のダメ押しとして、残った魔力をかき集め一際大きな魔槍を作り、未だ晴れない爆煙の向こうへと放った。
そしてこれも、直撃。拡散する雷光が周囲の構造物を抉り、爆発が周囲に広がった。
しかし。
その全てを受けきって、白い魔導師は尚も、空を飛んでいた。
(……だから?)
そして白い魔導師は、返すように砲撃の態勢へと移る。黒い魔導師もさせるものかと、空になりかけの魔力をフル回転させて回避しようとするが。
設置型で、しかも構築から遅延して発生するように調整されたバインドが、その四肢を掴んだ。
後の先を取る。対決の最初で、白い魔導師が行った戦術。それは最初から最後まで、魔導師の知恵と戦術を貫く一つの軸であったのだ。
まずは一発。自身の残りの魔力を全て、景気良くデバイスに注いだ白い魔導師は、直射型の砲撃魔法を放った。バインドで縛っているのだから、もちろん直撃する。
しかし、この程度なら耐え切ってしまうかもしれない。勝利への執念は、こちらも向こうもそれぞれ強く負けてはいないから。だから、最後の最後、ダメ押しのダメ押し、相手を打ち倒す大本命を放たねばならない。
白い魔導師は砲撃を終了した後、それを撃てる程の空間を求めて天へ昇った。
(……だから、どうしたっていうの?)
その危惧の通り、黒い魔導師はギリギリ生き残っていた。身体は傷つき、魔力も切れかけているが、すんでの所で落ちずに、空を漂っていた。これで勝負は決まったことになる。互いに魔力切れなら、戦闘経験において辛うじて上回っている黒い魔導師の方が勝つのだから。
しかし、頭上を押さえつけられるような悪寒を感じて、黒い魔導師が頭上を見上げると。
そこには、極大の魔法陣と、あり得ないほど大きな星があった。
(……そんなものが、なんだというの)
集束魔法。
戦闘中に散らばった魔力の僅かな残滓を集め、自らの魔力を消費することなく大威力を放つという、ある種裏技のような魔法。
白い魔導師が編み出した、知恵と戦術、最後の切り札が、それだった。
(くだらない)
それはあくまで砲撃魔法とはいえ、規模からしてかなりの範囲を焼き尽くす。黒い魔導師には、もはや回避するほどの魔力も残っていない。
(くだらない、くだらない)
せめてもの抵抗だろうか、五層に及ぶ防御魔法を張るが、そんなものは紙くず同然だ。
(くだらない、くだらない、くだらない)
今、全てに決着を着けるため。白い魔導師は杖を振り下ろし、そこから、黒い魔導師を完全に蒸発させてしまう光が――
(くだらないっ!!)
そこで、彼女の――束の計算した状況再現はぷつりと途切れ、その視界に踊っていた白も黒も桜も金も、消え失せた。
「……」
彼女の心の中にあるのは、自己嫌悪である。
何だ今の妄想は。本当のなのはとフェイトの戦闘は、こんな味気ないものではなかったはずだ。もっと二人とも激しく、熱く、輝いていたはずなのだ。
束のエミュレートは確かに完璧である。それをもし何かを通じて外部に出力できたなら、あの戦闘を生で見た誰もが首を縦に振るだろう。完璧に再現されていると。その一挙一動に至るまで、寸分狂いなく現実のままであるとも称されるはずだ。
だが、そこには熱さがない。たかが9歳の少女二人の心の動きくらい、簡単に推察できる。しかし束が推察した時点で、そこから熱さが逃げていき、冷たい厳然な事実へと代わってしまう。再現できるのは事実だけで、二人の心の中にある熱さは、どうしても創りだすことが出来ないのだ。
だから、なのはの本当の心を折り曲げて、こんな改変をしてしまう。
もしあの収束砲撃が魔力ダメージのみでなかったら、物理破壊設定であったら。
それで、あのフェイトとか言う女の子が、この世から居なくなっていたら――なのはの目は、あのお別れの時だって、束の方へ向いていた。
なんて、なんて馬鹿げた空想を、本気にして、しまう。
「……ぅ」
なんという無様だ。
正真正銘の天才、篠ノ之束が、嫉妬なんていう幼稚な心を御しきれないでいる。そうして、起こった現実をわざと捻じ曲げるなんて真似をしてしまうとは。
これでは、アレと同じじゃないか。吐き気がするほどの嫌悪感が湧く。
千冬が聞いたら笑うだろう。笑いに笑いに大笑いして、それから束の頭を木刀でぽかり、と思い切り叩くはずだ。なのはには只のげんこつなのに、不公平極まりない。
それから、そういうことを実際にやってのけて、、それでなのはに申し訳が立つか? なんて言い出すに違いない。それは正しい。間違いない。世の中のルールを無視している束に向かって、そういうことを言えるのは千冬しかいない。
だが束だって、そんなことは分かっているのだ。
ユーノに言ったらどうなるか。彼はとても優しいから、出来る限りの手段を使って束を慰めてくれるだろう。鬱屈した思いを溜め込んで、暴走しないように。
そんなユーノの気遣いは、束にとって邪魔ではない。単なるデータ整理だけではなく、そういうフォローも出来るから、彼を未だ助手において、自分の食事を半分分けてやって、寝床まで提供しているのだ。
でも、それだけじゃ足りない。和らぎはするだろうけど、結局は対処療法に過ぎない。
「ばかみたい……」
浮かんだこれらの考えを、束は一瞬で切って捨てた。彼らは確かに、自分を思ってくれるだろう。しかし、それらと束とは、決定的なまでにずれているところがあった。
そして他でもない、そういう好意を受け止められなく思う自分に、
「つまんない、なぁ」
という、評価を断定した。
無性に、なのはの声を聞きたくなった。
あの、何も考えていないようで、結構考えていて、それでもいざという時考えではなく本能的に放たれる声。少女らしく甘ったるくても、それと同時に、聞いている者の心を背中から叩いて押してくれるように凛として響く、あの素晴らしい声を。
――束ちゃん、どうしたの?
なんて、とぼけた調子で聞いて欲しかった。私の悩みなんか分からないけど、苦しい顔をしていることは見つけてくれて、そうして歩み寄って欲しかった。
そうすれば、束は苦しみから解放される。
あの時と同じで、高町なのはは篠ノ之束の全てを受け入れて。
理解しようとしてくれるはずだから。そういう限りのない受容こそが、この世でただひとつ束に与えられた道標だ。
(でも、来るわけない。こんな所まで、今来るわけがない)
なんとも暖かくて女の子らしい夢想だが、科学者としての束はそれをあっさり否定する。こんな夜に、もしもなのはが外に出たとして。それがここまで辿り着く可能性は、概算してみれば限りなく、0に近い。
かつてユーノの助けに応じたような、魔力による導きだって無いのだから。
――やだなぁ、束ちゃん。束ちゃんが寂しい思いをしてるなら、私はそこへ行くよ。いつだって、どんなときだって――
あぁぁ。
何だこの思考は。
ふざけるな篠ノ之束よ。全てを冒涜する天才よ。
いつもの自信と元気、他人をからかう傍若無人はどうしたというのだ。
これではまるで、ただのごくごく普通の小学3年生ではないか。
今すぐこの妄想を終わりにするんだ。そしてラボに急ごう。じっくり新研究に打ち込めば、あんな下らない感情なんて直ぐに忘れてしまうはずだ。『白式』を直しそして完成させるなど、やりたいことはまだ沢山あるじゃないか。
なんて悶々としていた束が、聞こえる幻聴をシャットアウトしようとベンチからがたり、と立ち上がった、その目の前に。
「束ちゃん!」
本物の、高町なのはが、そこにいた。
「なのちゃん……!?」
束は驚いて振り返る。しかしその顔に、咎めるような表情は浮かんでいない。もしかしたら実は、心の中ではなのはが来てくれると確信していたのかもしれない。しかし、余りに非理論的だったので、その可能性を極めて低く見ていたか、全くの的外れだと考えていた。
それでも、なのははここにいる。夢でも幻でもなく、確かにいる。
「にゃはは、やっぱりここにいた」
「やっぱり?」
急に出て行く自分のことを心配した、ユーノにでも話されたのだろうか。
そんなロジカルな想像は、リリカルな答えによって、真っ向から打ち砕かれる。
「えとね。もしかしたら、束ちゃんここにいるかなって思って。そうしたら、なんだか勝手に足が動き出したの」
もしかしたらってなんだ。なんだかってなんだ。
分からない。海鳴市は広いし、束の行動範囲は更に広い。愚かな考えに囚われた頭を冷やすためなら、例えば北極まで行って比喩でなく全身を冷やし尽くすことだって出来るのに。どうしてピンポイントでこの公園に辿り着いたのか。
それが、二人を結ぶ運命なんだよ。なんて乙女的な解釈が出来れば、どれだけ楽か。束の矜持は、この事象について、納得のできる結論を出さねば収まらない。しかし同時に、それはどうあがいても無理なことだとも諦めてしまう。
だってこれは、なのはの側でいつもいつも起こる、小さな奇跡の一つにしか過ぎないのだから。
「ふうん……なのちゃんてさ」
「なに?」
「ホント、意味が分かんないよ」
本心からの言葉は、侮蔑としては聞こえず、むしろ賞賛だった。
だからなのはも、嫌な顔一つせずに受け取る。
「そっか……束ちゃんにそう言われると、なんだか嬉しくなるね」
「なんでかな? 馬鹿にされてるって思わないの?」
「そうかもしれないけど……でも、束ちゃんってとても頭いいから。もし馬鹿にされてても、それはちょっとは怒っちゃうけど、間違いだなんて言えないよ」
なのはの言葉は嬉しいが、束にその言葉に頷けはしなかった。
束はさっきから、どうにも青臭いことばかりしている。嫉妬に身を委ねてはそれを悔やむ、なんてのは常人がやることだ。
それではいけない。もう少し、割り切ってしまわねば。
天才というのは、そういう下らないことから離れていなければならない。ただ純粋に自らの興味あるもの、愛する者の為にひたすら情熱を注ぐ、そういう存在でなければならない。
そう、所詮他人の意思なんて、あっさり吹き飛ばしてしまえばそれでいいのだ。
あの時、分厚い結界の中で全ての干渉を排除し、なのはと千冬、二人だけの劇場を創りだした時のように。
そう有りたくて、束は自分で自分を『天才』だなんて嘯いているのだから。
「……」
「あれ? 束ちゃん、どうしたの?」
でも。千冬のしかめっ面を思い出す度に、何の興味も関係もない、ただ利用しあうだけのユーノが、自分を心配してくれるという事実を認識する度に。
そして、目の前にいるなのはが、何の気なしに、首を傾げて微笑む姿を見る度に。
今の『篠ノ之束』に、そういうことは出来ないという結論が、弾き出されてしまうのだ。
「……なのちゃん、私ね」
ああ、なんて青臭い。初心で、生煮えで、未成熟な私。
これではとても、あの老女を馬鹿にすることなんて出来ないじゃないか。
「私……わた、し……」
歯を食いしばって口を閉じた束は、しかしその胸に渦巻く感情を喉奥で練上げる。どうせ青臭いなら言ってしまえ。フェイトのことを邪魔だと思うと。なのはがフェイトに取られやしないかと思ったら、不安で胸が一杯になってしまうことを。
しかし、その最後の最後、吐き出す寸前で留めてしまう。
「……」
それは、恥じ入らずに感情を撒き散らすより、よっぽど天才らしくないことだった。
そういう生の、率直な想いや欲求を、発明や発見という形で世の中に突きつけ、世界を変えていくのだって、天才なのだから。
それでも、どうしても口が開かない。
言ってしまって、大事な友達をまた一人増やせた少女を、傷つけたく、ないから。
そう思うこと自体が、既に天才らしくなくて。でも、束の心はそう思っていて、自分の心には、嘘をつくことをしたくなくて。
何も言えずに、黙ったままでいた。
「束ちゃん、私ね」
だから、最初に言葉を投げかけるのは、あの時と同じく、なのはだった。
「束ちゃんが、ユーノくんと仲良くしてるのを見て……ちょっと、ちょっとだけ、羨ましいな……って、思っちゃっ、た……」
なのはは深く顔を俯かせ、今言った言葉がいかにも重罪の自白であるかのように恥じ入り、消え行くようなか細い言葉を紡ぎだす。それは束にとって、今までのどんな『予想外』よりもはるかに色濃く、そして驚愕に満ちた『予想外』だった。
「な、なのちゃん……どうして?」
ユーノとなんか仲良くない、とは言わなかった。ただ、どのような思考で持って、そういう結論に辿り着いたかどうかを聞き質す。
だって、言うはずのない言葉なのだから。いくらなのはが『予想外』の塊でも、これだけは。
いや、『予想外』だからこそ、そんなことを言うのはあり得ない。
「私ね、最初はユーノくんが束ちゃんの側にいてくれて、とても嬉しかったんだ」
そう。
なのはが束に一番望んでいることは、今も昔も同じはずだ。
束の今生きている世界が、つまらないものではないことを理解させる。そして、世界をつまらないものにしないように、頑張る。
束がこの世界を一先ず「楽しい」と認識しているのは、なのはという友達を得たから。つまなのはの立場としては、束の友達を増やす事こそが、束の世界を楽しいものにさせる一番の方法なのだ。
だから、なのはは頑張っていた。
束とアリサ、すずかが、予想される限り最悪の出会い方をした時。
千冬と束が出会った後、その性根の違いから何度も何度も仲違いしかけた時。
なのははいつも両者の間に割って入り、ひび割れた関係を修復するため力を尽くした。
そしてユーノが束に攫われた時も。なのはは止めず、それどころか、本来自分のペットになるはずのユーノを何の戸惑いもなく束に預けた。
その結果として束はユーノを『助手』として扱い、事件の間だけでなく、今も側においている。
こうして今、束の周りにはなのはだけではなく沢山の人たちが居る。
かつて一人ぼっちだった女の子は、もう一人ぼっちではなくなった。
束にとっては後ろ髪を引っ張られてむずむずするようなその事実は、しかしなのはからしてみれば、ジュエルシードを集めきったことより嬉しい結果であるはずだ。
「でもね」
だのになのはは胸を押さえ、その奥から中々出て行かない気持ちを、絞りだすように語りだす。
「全部終わって、こうして見ると……私と束ちゃん、なんだか遠くなっちゃったなって、思うの」
遠い。言われてみれば、束にも思い当たる。
この事件の間、それまで密着仕切っていた二人の距離は、大分遠のいている。なのははジュエルシードを集めるために街中を飛び回り。束はミッドチルダ式魔法のメカニズムを解析して応用し、『白式』を完成させるためラボに籠もりきりだった。だから、直接顔を向けて会った回数を数えてしまえば、片手の指で足りてしまう。
でも、束はその間片時も、なのはのことを忘れてはいない。
そういう気持ちを込めて、束はあえておちゃらけた冗談を返す風に返答した。
「そ、そんなことないよぉ! 私が考えてるのはなのちゃんとちーちゃんのことだけだって。あんなフェレットのことなんて、なんにも」
「そうかな? 本当に、そう?」
だが、澄んで潤んだ瞳にまっすぐ見据えられると、束もうっ、と言葉に詰まる。
それがそのまま、答えになった。
「本当にそうなら、ユーノくんを『助手』だなんて言わないはずだよ。束ちゃんが助手を作るなんて、今回が初めてだったし」
そう、初めてなのだ。篠ノ之束が、自分のラボにまで定住を許した人間は、ユーノ・スクライアというただの異世界人の少年が初めてなのだ。
なのはも何回かお泊りはしたけど。いつも束と一緒にいるなんてことはなかった。
「それがね、なんだかとても……とてもっ……」
「悔しい」
なのはが後一歩の所で言葉に詰まり、手を握り締めて一生懸命に何か言おうと頑張っている。そういう所を見た束は逆に、自分の言葉のつっかえを外して、今まで言おうとしても言えなかった言葉をするりと口に出した。
「そう! 悔しいんだ……おかしいよね」
ぽたり、ぽたりと、なのはの瞳から涙が溢れて、革靴に落ちる。
「アリサちゃんとすずかちゃん、それに千冬ちゃんが束ちゃんと知り合っても、こんなこと思っていなかったのに」
そして束も、いつの間にか涙を零していた。
「束ちゃんに一杯友達が出来るの、とても嬉しいはずなのに」
――なのちゃんが友達を作るのは、なのちゃんらしくて、とても面白いはずなのに。
「どうしてかな。束ちゃんが段々、離れていっちゃうような気がして」
――どうしてだろう。なのちゃんが段々、離れていっちゃうような気がして。
「とてもとても、寂しいの」
――とてもとても、つまらないの。
「……あは」
あぁ、なぁんだ。
束はようやく気づいた。
私たち、同じなんだ。
一人は天才で、一人は魔法少女だけど。
でも同時に、まだ子供で、ごくごく普通の小学3年生で。
だから私たち、友達になれた。
――でも、もし、そうでなかったら――?
「……なのちゃんっ!」
「にゃっ!?」
束は湧き上がる衝動を解放し、思い切りなのはにぶつかって、その身体をぎゅっと抱きしめた。
「あ……」
「なのちゃんっ、なのちゃんなのちゃんなのちゃんっ」
そして、なまえをよぶ。何度も、何度も。
高町なのはという名前を覚えている、その喜びを一回ごとに噛み締めるように。
だから、なのはも応じて、なまえをよんだ。
「束ちゃん、束ちゃん、束ちゃん束ちゃんっ……」
抱きしめ返す手は、強くて熱い。だから、束も更に強く抱きしめ返す。
「私、なのちゃんと友達になれて良かった……本当に、良かった」
「うん、わたし、私もっ! 良かった!」
私も、貴女も、今ここにいられるのは、貴女が、私が、ここにいるから。
そうでなくても、ここにいたかもしれないけれど。でもそれは、今の私たちとは絶対違う。
良くも悪くも、今の二人がいるのは、二人のせいなんだ。
だから、心配なんてしなくていい。
なのはの周りにどれだけ友達が増えようとも。束の世界がどれだけ色鮮やかになろうとも。
束はやっぱり、なのはの大切な友達で。なのははやっぱり、世界で一番綺麗だから。
「ねえ、束ちゃん」
「なあに」
密着した状態から、ちょっと離れて、なのはは提案する。
「踊ろうよ」
伸ばされた手。
それは突拍子もない、理屈に合わない、不合理で噛み合わない行為。
だけど束は、差し出された手の平に、自分の手を重ねた。
「うん」
そうして、二人は向かい合い、足を運んで踊り始める。
なのははダンスなんて知らないし、束は知っているけど、やったことは一度もない。
だから、ただ片手を取って、互いの身体を近づけさせるだけの、稚拙な真似事にしかならなかった。時々足なんか踏んづけじゃったりして、小声でごめん、と言ってから、またくるくる回り出し。今度はコマのように早く回りすぎて、なのはだけ目を回してしまう。
あぁ、下らない。でも、なんだかとっても。
「楽しいね」
「うん」
一休みした束がそう言うと、なのはは頷いて、それから目を閉じて何やら呟き始めた。
すると、束の足元からふわり、と浮き上がるような感覚が生まれる。ひんやりした空気が縦方向に肌を撫でた。
持ち上がっている、と即座に気付いて足元を見れば、そこにはピンク色の魔法陣があって、二人、いつの間にやらその円形の上に立っていた。
「なのちゃん、これって」
魔法の秘匿とかそういう関係で、いけないんじゃないのか。
目でそう問い質すも、なのははいたずらっぽく、にゃははと笑うだけだった。
「さぁ、しっかり掴まってて」
魔法陣はそのままぎゅうぅん、と真上に向かって上がっていく。慣れ親しんだ地面はどんどん遠のいて、その代わりに黒い雲が頭上へどんどん迫り来る。
「ちょっと揺れるかも。気をつけて」
その言葉通り、浮かぶ二人が雲にぶつかった時、ぐらぐら、と足場の魔法陣が揺れた。しかし、二人を丸ごと多い、内部の乱気流で吹き飛ばすはずの雲は一向に襲ってこない。どうやら、魔法陣の上には無色のバリアーが半球状に展開されているようだ。
「もうちょっと、もうちょっと……!」
ふと、束がなのはの首元を見れば、そこにいつも輝いている赤色の宝石が姿を消していた。どうやらこの術式、正真正銘なのは一人の負担で保持しているらしい。デバイス無しでの展開は、なのはにもそこそこの負担が生じるはずなのだが。
それだけ、二人きりになりたかったのかもしれない。
「……いくよ束ちゃん、上を見て! さん、にー、いち!」
なのはがカウントダウンを終えると、束の視界は真っ黒からあっという間に弾けて開けた。ちょうど雲を抜けたらしい。満天の星空が、束の視界を包むように瞬いている。
そして東側を見れば、見事に丸く欠片ない月が、青白く妖しい光を放っていた。
「すごい……」
海鳴の地表を覆う雲の上。そこにあるのは月と星の光だけで、二人以外に何も、誰も存在しない。それが、束の心を何より熱く灯らせた。
星はなんて綺麗なんだろう。月はなんて美しいんだろう。
それは、二人の、そしてこの世界に生きる少年少女たちの前途に広がる、果てしない未来のようだった。
正に、未来は
「さあ、踊りを続けましょう? 月のウサギのお姫さま」
この単純で、それでも純粋で真新しい原風景を見たからか。
なのはは珍しく芝居がかって跪き、手を伸ばして束を誘い出す。
それが余りにおかしくて、束はぷっと吹き出しながらも、同じくらい大根芝居な優雅さを以って、その手を取った。
「はい、魔法少女の王子さま」
あはは、にゃはは。
似合わない言い回しに、互いに呆れて笑いながら、また踊りが始まる。
くるくる、くるくる、らん、ららら。
遥かに高い空の上、でも、落ちたらどうしようなんて、考えない。
だって、友達だから。
愛しているから。
愛して、信じているのだから。
「楽しいね、束ちゃん。束ちゃんは、楽しい?」
「うん、とっても」
「そっか、良かった」
二人のワルツはいつまでも続く。
誰も見てはいない。ここに改めて契られた、熱くて硬い友情を、証明する者は誰も居ない。
しかしただ満月だけが、小さな二人を見つめている。
束は全てを得心した。
今日は満月で、それが、こんなに蒼いのだ。
巡り合えないはずの二人の友達が出会ったとしても、おかしくはないし。
孤独であるはずの少女が、出会わないはずの少女と出会ったりしたって何もおかしくない。
だって、あの日の夜も、この夜も。空には蒼い満月が昇っていたから。
こんなに月が蒼いのだから、不思議なことが起こった。
小さな奇跡にこじつける理由なんて、それだけで、十分だろう。
以上。なのはさんと束さんのお話、ここで一旦一区切りとなります。
これからも様々な難事件やトラブルが、二人を襲うことでしょう。
ですが、そんなものでめげる天才でも、魔法少女でもありません。
きっと二人仲良く、千冬、ユーノ、それから沢山のお友達と一緒に立ち向かって。
元気に華麗にぶっ飛ばしていくことでしょう。
そして、今は赤ん坊の一夏や箒が成長した、その時には。
強くてかっこいいお姉さんと、愉快で可愛いお姉さんが、二人を見守ることでしょう。
そのお話は、またいつか、どこかで――
……とまぁ色々書いていきましたが、正直どうするかすっごい迷っております。
とりあえず、この作品の他にも放置してるのがあるので、そこから段々取り掛かっていきたいなぁ、と。
そしていつか、IS学園にやってくるなのはさんだけは、これだけは書きたい。ここまで読んでくれた皆さんにご覧頂きたい。そう考えております。
では、全20万字、文庫本に直して一冊強、二冊にちょっと足りないくらいの作品をここまでご覧頂き、誠にありがとうございました。
凍結する人