「うえっ」
ここら一帯を闊歩する死体どもを避けていると、泥に足を突っ込んでしまった。抜け出せないような重さではなかったので急いで足を引き抜き走り去る。走っていると民家を見つけ、頼み込むと駆け込ませてもらえた。
ここに昔からいる者によると、昔は空がどこまでも青く澄み渡り、誰もが心地よく過ごせる楽園のような地だったのだという。それがある日、1人の男が現れて全てを捻じ曲げていった。青かった空は真っ黒に塗られ、私利私欲のために放たれた動く死体のせいで彼らは居住地を追われたのだと言う。
彼らの自由の象徴であった空色のエンブレムは、黒いバツで汚された。困窮した生活の中、不満をもち立ち向かおうとした人々もいた。だがことごとく葬られた。闘争が絶えることはなく、端の端に行かなければ誰かの投げた泥が当たる。憎しみと怨嗟を込めた泥は暗く悲しい色をしていた。誰もがここから抜け出したいと思っている。この状況を打破したいと願っている。それなのに方法がなくて、どうしようもなくて、苦しい生活のままこの地で楽園であった過去に縋りついて生きているのだと言う。
「・・・・そう、ですか」
「旅人さんに聞かせるような話ではなかったですね。すみません」
彼らは礼儀正しい。楽しく話している時だって見かける。そんな彼らがわけもわからず闘争に巻き込まれていく。
悔しい。どうすることも出来ない自分が憎い。
「あの」
「もう旅立つのですね」
「・・・・・・はい」
軽く一礼をして別れを告げる。
「お気をつけて」
「そちらも、お気をつけて」
死体どもの群れに見つからないよう、彼らの泥に当たらないよう気をつけながらこの地を抜けた。
彼らに安息の日は訪れるのだろうか。何も出来ない自分には願うことしかできなかった。
何もないところを歩く。あの地を抜けると泥は消え、悲鳴や雄叫びも聞こえなくなった。
「あそこの人たちに安息の日は訪れるのかな」
普段よりワントーン声を落として話しかける。
『わかりません。ただ、今の彼らのままであれば訪れはしないでしょう』
「そっか・・・・・やっぱ自分にはどうしようも出来ないか」
『旅人である貴方が何か出来ると考えるなど、烏滸がましいにも程があります』
「そうだね」
『だから、願うしかないのでしょうね』
珍しく感情論で話してきた。『願うなど意味のないことです』とか言いそうなのに。
「うん」
歩く。何もないところを歩く。
なにもないところを歩いていたつもりだったらしい。
遠くにどこまでも青く澄み渡る空が見える。ここがあちらと新しい土地の境目なのだろう。
そこは穏やかな地であった。街でありながらも、人と人との距離がほんの数歩だけ離れていて。それが彼らにとって生きやすい距離なのだろう。皆が静かに笑い合っている。闘争はどこにもない。地面に泥が落ちていることもない。
ひとつ、深呼吸をした。爽やかで心が満たされるような香りが鼻をくすぐる。
「こんにちは。もしかして旅人さんですか?」
後ろから声をかけられる。振り向くと、数歩先から声をかけた人物がいた。
「ええ、先ほどまであちらの地にいまして。それからこの街に辿り着きました」
「あの土地ですか・・・」
「お知り合いでもいらっしゃるのですか?」
「いえ、私自身があちらの土地の出なんです。ここには移住してきて。というよりも、ここはあの地から出てきた者が作り上げた場所なんです」
静かに暮らしたかった人々が作り上げた居場所。それがこの街なのだろう。
「それにしても、ここの土地は空気がいいですね。いつまでもここにいたい気分になります」
「それならここに住んでみます?」
「お心遣いはありがたいのですが、旅人ですので・・・・」
危うく私たちと言うところだった。
「そうですか」
「ええ。もう旅立とう思っています」
「早いですね」
「こんなに居心地のよい場所にいつまでもいると、旅立てなくなってしまいますので・・・・それでは、さよなら」
「さよなら、旅人さん。お気をつけて」
軽く一礼をして去る。
街を出た時、空は青く澄み渡っていた。
『こちらの街は昔の風景を再現したものだったのでしょう』
「そうか。だからなんとなく聞き覚えがあったのか」
『あの街もいつか汚されてしまうのでしょうか』
「わからない。でも、汚されないといいなとは思う」
『願うのですか』
「うん」
私たちが最初に旅立ったあの街は、どうなっているのだろうか。闘争が激化しているのか、それとも弾圧が終わり平穏が訪れているのだろうか。後者だったらいいなあ、とすこしだけ願っている。
2024/10/29