「ふわぁ~」
虹夏の欠伸の数がやけに多い。
朝食を半分ほど食べ進め、脳が漸く動き出したことで星歌は気が付いた。
「あふ……」
また欠伸。片手で掃除機をかけながら大きく開けた口を反対の手で押さえる。
いつもなら星歌が起きて朝食を摂る頃にはしゃっきりとした虹夏が「お姉ちゃん起きるの遅いよ! 早く食べちゃって!」と怒りながら家事をしているのだが……
「むー……」
欠伸をした事により滲み出た涙を拭いながらのろのろと掃除をしている。
(そういえば昨日は普段より遅くまで勉強してたな)
寝不足なのだろう。星歌は咀嚼していたものをごくりと嚥下してから口を開く。
「虹夏、眠いなら二度寝してきたらどうだ?」
「ん~? 確かに眠いけどまだ家事終わってないし、昨日の続きも少し残ってるし……」
「でも今日は午後からバンド練習あるんだろ? 寝不足で集中できなくなったら意味ないぞ」
「うっ確かに。……じゃあ15分だけ仮眠取ろうかな」
話しながら続けていた掃除が終わったのか、虹夏は掃除機をしまうとスマホを取り出しアラームをセットしてからソファーに寝転ぶ。
「ちゃんとベッドで寝た方が良いんじゃないか?」
「少しだからここでいいよ」
星歌の助言を断り、目を瞑った虹夏は10秒程で寝息をたてだした。
(はっっっや! どんだけ疲れてたんだアイツ)
これ程までに身体が睡眠を欲しているのに、たったの15分の仮眠では絶対に足りないだろう。
星歌が時計に目をやると時刻は9時54分。昨日話していた内容によるとバンド練習は14時開始。
ならばお昼まで寝かせておいてその間に星歌が家事と昼食の支度を済ませておけば、虹夏は余裕を持って練習に臨むことができるだろう。
(よし、そうと決まれば……!)
虹夏を起こさないように息を潜めて慎重に手を伸ばす。狙いは虹夏が枕代わりにしているクッションのすぐ側のスマホ。
(取った! あとはアラームをオフにすれば寝かせておける)
意気揚々とスマホ画面に触れる。が、ロックが掛かっていた。当たり前である。
星歌は顎に手をやり斜め上に目線を動かしそのまま少しばかり固まった後、虹夏の生まれた日付を入力する。
(やっぱり駄目か。そうだよな、いくらスマホのロックとはいえ誕生日を暗証番号にする奴なんていないよな)
途方に暮れた星歌はアラームをオフにするのを諦め、スマホを手に持ったままリビングを出る。廊下を経由し自室に入ると、スマホをお気に入りのぬいぐるみと枕で挟み、その上から布団で簀巻きにした。簡易消音システムである。
「さて、家事に取り掛かるとするか!」
力技でアラーム問題を解決した星歌は、気合を入れて家事に臨む。
***
苦戦する羽目にはなったがなんとか家事を一通り片付けた星歌が昼食の準備に取り掛かろうとキッチンに立ったその時、インターホンが鳴った。
起きてしまったかと思い即座に虹夏の様子を伺うが、変わらず寝続けていた。いや、変化はあった。少しだけ口が開き涎が出ている。
(こういう所は小さい時と変わらないな)
来客の対応が終わったら拭いてやろう。とにかく今は玄関に向かわねば。1回目は運良く起きなかったが、何度も鳴らされれば流石に起きてしまうかもしれない。急ぎつつも音を立てないようにそっと玄関へと赴く。
そこには靴を脱いでいる最中のリョウがいた。
「あれ? 虹夏じゃなくて店長が出てくるの珍しいですね」
「何で勝手に入ってきてんだテメェは……!」
「なんか鍵開いてたので。それにちゃんとインターホン押しましたよ?」
言われて星歌が扉に目をやると、入った後にリョウが掛けてくれたのか既に鍵は閉まっていた。恐らく朝のゴミ出しの後に寝不足の虹夏が閉め忘れたのだろう。
やり取りの間に靴を脱ぎ終わったリョウが上がり込んでくる。
「午後からバンド練だけど早く来すぎちゃったので、時間までお邪魔します」
「嘘つけ練習時間まで2時間以上あるだろうが! どうせそういう建前で昼飯集りに来たんだろ?」
「ぎくり」
「ったくお前はな~。でも丁度良い、手伝うんなら食わせてやる」
「手伝う?」
幾度となく伊地知家の食事にしれっと参加してきたリョウは、虹夏の調理見学仲間である星歌の言葉に首を傾げる。
「実はだな……」
***
星歌から『虹夏おやすみ大作戦』を聞いたリョウは、リビングのソファーで気持ち良さそうに眠る幼馴染の頬を指で突く。
(おいやめろ! 起きちゃうだろうが!)
星歌は控えめな声で注意するがリョウは気にせずに、
(大丈夫、いつも虹夏が寝てたらやってるけど起きたことないですし)
(いつもやってんのかよ……)
起きないならいいか。星歌がリョウをキッチンに連れて行こうとすると、いつの間にか右手にキャップを外したペンを握っていた。
(……何しようとしてる?)
(虹夏を可愛くしてあげようと思って)
(既に可愛いだろうが)
(いやこうしたらもっと可愛くなります)
虹夏の左頬に角度を変えながら直線を3本引く。所謂猫の髭だ。
(ほら可愛い)
(まぁ、確かに……)
すると今度は星歌の手にペンを握らせてくる。
(じゃあはい、店長の番)
(じゃあ、じゃねぇよ)
(水性だから大丈夫です)
ぐいぐいと無理矢理ペンを握らされた手を虹夏の頬へと近付けさせられる。根負けした星歌はリョウの要望通り虹夏の右頬に3本髭を描いた。水性だし、たまにはこういう悪ふざけも良いか。
(ほら描いたぞ)
星歌がペンを返すと、受け取ったリョウはキャップを閉めようとした所で動きを止める。たらりと冷や汗を1つ掻いてから星歌に顔を向けた。
(やっべ、これ油性でした)
(お前ふざけんなよ!)
(絶対怒られる……)
(クソ、リョウに乗せられて私まで共犯になってしまった……)
妹の体を気遣って色々していたのに、最終的にストレスを与えるであろう結果になってしまった。項垂れていた星歌がふと横を見ると、リョウがまたしても虹夏の顔にペンを走らせていた。
(おっっまえ何してんの!?)
(どうせ怒られるならもう少し落書きしておこうと思って……)
(開き直るな!)
一体今度は何を描いたのかと虹夏の顔を覗いてみると、額に『山田リョウ』と書かれていた。
(え、怪盗とかが名前残してく奴?)
(いや書く内容思いつかなかったから、私のサインなら虹夏も喜ぶかなって)
(相変わらず自己肯定感凄いな)
だがこれは星歌にとっては好都合なのでは? これならば虹夏が落書きに気が付いた時に真っ先に疑うのはリョウだろう。まさか片方の髭だけ星歌が描いたとは思うまい。このまま放っておいて全ての罪をリョウに被せよう。
満足したのかリョウがペンをしまいだしたので、今度こそキッチンへと連れて行き昼食作りを開始した。
***
何かが焼け焦げた匂いがする。
ふわふわと定まらない意識の中、虹夏が最初に感じた事だった。
「おいリョウ! お前が茹でてる麺焦げてるぞ!?」
「店長のミートソースも焦げてないですか?」
聞き覚えのある声に段々と意識が覚醒していく。そうだ、仮眠を取っていたんだ。その間にリョウが来たのだろうか?重たい瞼を開き、声がする方に顔を向ける。
「焦げるってことは火が通ったんだろうし多分茹で終わったんですよね?」
「そうだな、ザルにあけてくれ」
「はい」
「お、おい。なんで麺に水をかけ出したんだ?」
「え? 麺って水で締めてから湯切りするんじゃないんですか?」
「パスタって水で締めるっけ……?」
恐ろしいものを見てしまった。
くるりと反対に寝返りを打ち、目を瞑る。
(これは夢これは夢これは夢これは夢……!)
しかし願いとは裏腹にどんどんハッキリとしていく五感が、これは現実であると告げてくる。
というか待てよ? 今何時だ?? 枕(代わりにしていたクッション)元のスマホを取るべく手を伸ばすが一向に触れない。仕方なく身を起こして壁掛け時計に目を向ける。
「えっもうお昼じゃん! アラームは!?」
「ん? 起きたのか虹夏。アラームで起きないようにお前のスマホは私の布団で包んである」
「えっ?」
「虹夏おはよう。冷蔵庫に入れといた非常食無くなってるんだけど、もしかして食べた?」
「は?」
「非常食って草の事か? アレなら捨てたぞ」
「そんな……」
「えっと、色々と説明して欲しいんだけど……」
***
生茹でで芯が残っているうえに焦げている水で締められて冷えた麺に、濃いめの味付けに負けないくらい焦げの苦みが主張しているミートソースをかけたパスタを口に運びながら経緯を聞いた虹夏は、クソまずパスタを食している最中とは思えない笑顔を浮かべる。
「そういうことだったんだね。心配かけてごめんね、ありがとうお姉ちゃん!」
「頑張るのは良いけど、体調管理にももう少し気を遣えよ」
「うん!」
「にじかにじか、私もお昼ご飯作り頑張った」
「リョウもありがとね! ……と、トッテモオイシイヨ!」
「え、これが? もしかして寝不足で味覚がおかしくなってる?」
リョウが信じられないものを見るような眼で虹夏を見つめてくる。
コイツには二度とお世辞は言わない。虹夏は固く決意した。
「しかし自分で作ったとはいえ、パスタってこんなに不味くなるんだな」
「店長が私の非常食を捨てなければ代わりのお昼ご飯に出来たんですけどね」
「悪いな、お前と違って草は昼飯の代わりにならないんだ」
「っていうかリョウ、草をそのまま直で冷蔵庫に入れないでよね。せめて袋に入れるとかラップで包むとかしてよ」
「わかった、次からそうする」
「直じゃなきゃ良いのかよ……」
正式に伊地知家の冷蔵庫に野草を入れる許可が降りたりしながら食事は進む。程なくして全員が食べ終わった。
「皿は洗っておくから虹夏は練習の準備しときな」
「ありがとう!」
虹夏は食器をシンクに置いてから自室へ向かう。何故かリョウも引っ付いていこうとしていたので、星歌は腕を引いて耳元で囁いた。
(おいリョウ。虹夏、全然気が付く様子が無いけどどうするんだ?)
(え、落書きの事ですか?)
(それ以外に何があるんだよ。もうすぐ練習なんだから早くネタバラシしとけ)
(練習場所のスターリーはすぐ下だし、ぼっちと郁代にしか会わないから別にこのままでも良くないですか? というか折角だから2人にも見せたいです)
どことなく楽しそうに見えるリョウ。確かに不特定多数の人に見られるわけでもなさそうだし、最終的には「怒られるのコイツだし良いか……」と思い、星歌は放っておくことに決めた。
***
挨拶を述べ、スタジオに一歩足を踏み入れた郁代は一瞬固まった。笑顔で挨拶を返してくれた先輩の頬に、猫の髭が描かれているからである。
だがもう1人の先輩であるリョウが口の前に人差し指を立て合図を送ってくる姿も一緒に視界に入っていたので、すぐさま何事もなかったかのように練習の準備に取り掛かる。
「あぇ!?」
しかし郁代の後ろにいたひとりはドッキリ等に慣れていない為、つい驚きから声を漏らしてしまう。遅れてリョウの合図に気が付き慌てて口を塞ぐ。
「ぼっちちゃんどした?」
「あっい、いや、なんでもないです!」
素早く首を90度回し顔ごと目を背ける。とてつもなく怪しい動きに普通なら不信感を持たれるだろうが、行動の主が後藤ひとりだったので普段の奇行の一種だと思われたのか、特に突っ込まれることなく流された。
そのまま練習が始まる。目が合う度に微笑む郁代といつも以上に目を合わせてくれないひとりを少し不思議に思いながらも、虹夏は別段問い質したりはせずにいた。
暫くして、キリの良い所で虹夏は立ち上がる。
「よし、一旦休憩にしよう。私、トイレに行ってくるね」
虹夏が部屋を出て扉が閉まったのを確認してから郁代とひとりはリョウへと詰め寄る。
「リョウ先輩、伊地知先輩にいつ落書きしたんですか?」
「昼前くらいかな。虹夏の家に行ったら珍しく二度寝してたんだよね」
「あっあの、いつまで内緒なんですか?」
「虹夏が気付くまで」
落書きされてるのを黙っていなければならない事に罪悪感を覚えていたひとりは沈痛な面持ちだ。郁代はそんなひとりには気が付かず、先程から気にはなっていたが虹夏の前では聞けなかった事をリョウへと尋ねる。
「ひげの落書きはわかるんですけど、どうしておでこにリョウ先輩の名前を書いたんですか?」
「落書きだけならマイナスかもしれないけど、私のサインもあればプラマイゼロで怒られないって訳」
「流石先輩、知的な作戦!」
「郁代のおでこにもサインしてあげようか?」
「いいんですか? でも顔以外でお願いします!」
郁代が嬉しそうに右手を差し出し、リョウが胸ポケットから取り出したペンで自身の名前を書いていく。ものの数秒で書き終わり、ペンをしまった。
「ありがとうございます!」
やったー! 右手を掲げてくるくると回りながらはしゃぐ郁代を見ながら、反応の良さにリョウの気分も上がる。
ふと視界の端に映ったひとりを見ると、こちらを凝視していた。
「ん? 羨ましいのかぼっち」
「うぇ!? あっそのえっと──」
ひとりはわたわたと両手を振りつつ暫し言葉を探してから、
「──はい」
少し頬を赤らめて目線を下の方へと外しながら肯定した。そしてリョウはペンを取り出してからひとりへと近寄り、前髪をあげる。
「え?」
「何? ぼっちも手の方が良かった?」
「あっその、ペンを貸して貰えるんじゃ……?」
至近距離で向かい合ったままお互い困惑する。やや遅れて合点がいったのか、
「もしかして私のサインが欲しかったんじゃなくて、ぼっちも郁代にサインしたかったって事?」
「あっはい」
さらっと認めるひとりに思う所があったのか、リョウは黙ってひとりの額にサインしてからペンを手渡す。
「えっあっリョウさん!?」
「ペン貸代1秒100円ね」
「ぼっぼったくり価格……」
どうか冗談でありますように、と願いながら借りたペンを手にしたひとりは、リョウのサインをカメラに写している郁代に声を掛ける。
「きっ喜多ちゃん! わっ私も喜多ちゃんにサインしても良いですか……?」
「ひとりちゃんも書いてくれるの? ありがとう!」
許可をくれるどころかお礼まで言われてしまった。ひとりはこそばゆい気持ちに少しの照れを感じながら、
「あっじゃあ左手をください」
「はーい、あげます!」
ふふ、と笑いながらひとりの言い間違いに乗っかる郁代。ひとりは恥ずかしそうにしながら郁代の左手を取り、丁寧に名前を書いた。
ひとりの名前が書かれた左手をそっと一撫でした後、郁代はひとりの手からペンを取る。
「ひとりちゃんありがとう! 今度は私が書いてあげるわ!」
言うが早いがひとりの左手に郁代の名前が書かれていく。
「はい完成!」
「あっありがとうございます!」
わ~! と大きく口を開けて目を輝かせながら左手を見つめるひとりに、リョウは不服そうに言い放つ。
「ぼっち、なんだか私のサインより嬉しそうだね」
「えっ! い、いやそんなことは!」
「リョウ先輩はおでこに書くからですよ~。大丈夫、ひとりちゃん前髪長いから目立たないわ!」
郁代はスマホのインカメラでひとりの顔を映して見せる。
突然自身の顔面ドアップを見せられたひとりは、「う"っ」と小さく呻いてから恐る恐る半目で画面を確認した。確かにサインは完全に前髪で隠れている。じっくり見ると髪の隙間から『何か書いてあることがわかる』程度だ。
これならば帰りの電車でも目立つことはないだろう。ひとりが安堵から息を吐くと、
「山田ァァァァァァ!!!!」
ドバァァァン!
途轍もない勢いで扉が開き、轟音と怒声が飛び込んで来た。
トイレで手を洗う際にでも鏡を見たのだろう。そして落書きに気が付きすぐさま水で落とそうとしたのか、顔からは水が滴っている。
虹夏は徐に右手を上げ、親指で自身の顔を指し示すと、
「テメェ、これはどういうつもりだ……?」
返答次第では〇す。
暗にそう語っている虹夏の形相と放つ圧に気圧され、後輩2人は一歩も動くことができないどころか、呼吸すらも出来ずにいた。
そんな中『心臓に剛毛が生えてそうな先輩』世界のYAMADAこと山田リョウは、
「虹夏を可愛くしてあげた。ついでにサインも。自慢していいよ」
サムズアップと共にドヤ顔を披露する。
言い訳でも命乞いでもないリョウの言葉に虹夏の殺気がピタリと止まった。
呼吸は再開できるようになったものの、自分たちに出来ることは何もない。後輩達はリョウを諦めた。
ひとりはせめて安らかに眠れるようにと読経を始め、郁代は写真フォルダからリョウの遺影を選びだす。
すると先程まで目が座っていた虹夏が笑顔を浮かべてリョウに接近する。
「そっか、じゃあ私もお返しにリョウを可愛くしてあげるよ!」
「いや私はもうすでに人類最高傑作レベルで完成されてるから」
「うるせーっ! よりによって油性で書きやがって! いいから黙ってやり返されろ!」
遂に虹夏がリョウへと飛び掛かった。リョウのペンが油性であることが発覚し、第二の額サイン被害者であるひとりが青ざめる。
寸刻の取っ組み合いの末、リョウの頬に猫の髭が、額には『伊地知虹夏』の文字が書かれた。
「あー! ユネスコ世界遺産認定間近と言われている私の顔に落書きが!」
「顔への評価天井知らずか?」
その後、帰る際。互いの額に名前が書かれている様子をシャワーを強請りに来た廣井きくりに見られ、『最近の若い子のいちゃつき方は変わってるね~』と、ケラケラ笑われた。
リョウときくりは暫くの間伊地知家出入り禁止となるのであった。
舞台版ぼっち・ざ・ろっく! 最高!