この奇妙なキヴォトスで目覚めたのは六時間ほど前のことだった。
「ホシノ。起きて、ホシノ」
微睡みの中で聞こえた先生の声。
「……ッ!!」
明らかなる異常事態に私は飛び起きた。
周囲を確認。目の前には心配そうに私を見る先生。縛られている様子は無い。
割れた電球。コンクリ打ちの廃墟。ひび割れた壁から覗くのは真昼の陽光。微かに見える空。ここが二階の部屋だと確認しながら、ショットガンを取ろうと手探って――近くに銃が無いことに気が付いた。
「先生、ここは?」
「多分ゲヘナ自治区の何処かだと思うんだけど……」
「ゲヘナ? 誘拐され……たわけじゃないみたいだね」
「うん。昨日はちゃんとシャーレで眠ったはずだったんだけどね」
困惑したように首を捻る先生だったが、私もそうだと同意した。
家で眠って、本当にそれだけ。例え睡眠薬を飲まされていたとしても、普段と違う眠気が来れば絶対に気付く自信はあった。
それに先生の方だって、シャーレのセキュリティを突破して誰にも気付かれずにここまで先生を運べる相手はいないだろう。
大きい方のシロコちゃんの力なら可能かも知れない。けれど動機が分からない。それもわざわざゲヘナなんて――
「そもそも、何で私と先生が……?」
「そのこと何だけどね。その……違うんだ」
「違うって……?」
言い淀む先生。私の疑問は今まさに部屋に入って来た人物が答えを継いだ。
「私も、なのですよ。ホシノさん」
「お前は――ッ!!」
壊れかけの椅子まで歩いて座ったのは、かつて私を騙してアビドスの根幹を揺さぶった悪い大人――通称、
言葉で騙し、約束を捻じ曲げ、大人の力を持って全てを歪めようとする悪人だった。
「そう怖い顔をしないで下さいホシノさん。ああ、銃ならお返ししますよ。突然撃たれるのを避けるためでしたから」
そして投げ返された銃を受け取ってすぐさま確認をした。
流石に弾は抜かれていたが、シェルキャリアの予備弾がそのまま収められている。
「盾は?」
「その瓦礫の中に隠してありますよ。重かったので」
ショットガンに弾を込めながら部屋の隅に積まれた瓦礫を動かすと、そこには折り畳まれたユメ先輩の盾があった。
サブアームも予備弾もちゃんと入っていることを確認してスリングを肩にかける。
「……妙な動きをしたら撃つ」
「信用して頂けて何よりです」
軽口を叩く黒服を睨みはするが、銃は構えずそのまま先生の元へと戻る。
先生の様子からして、本当に黒服も巻き込まれただけなのだろう。でなければ先生が大人しく黒服と一緒にいるわけがない。
私が先生の隣に座ったところで、先生は私に軽く頷いてから黒服へと話しかけた。
「それじゃあ黒服。説明を」
「承知致しました。先生」
黒服は椅子から立ち上がり、後ろ手に組みながらゆっくりと歩き始めた。
その様子はまるで他校で噂に聞く教授か何かのようでもある。
「私が観測したところ、
そう言われて思い出すのは大きい方のシロコちゃんのことだった。
滅んだキヴォトスからやって来た別次元の存在。その存在が別世界の存在を証明する。
「正確には別世界の
「だ、だとしたら、どうして黒服と先生が居るのさ?」
「それは私にも与り知れぬところではありますが、共通するのはホシノさん。貴女と縁の深い大人であるということでしょうか」
悪い大人の黒服と、善い大人の先生。
対極に位置する二人の中心には私が居た。それはつまり、全て私が――
「ホシノのせいじゃないよ」
先生は私に笑いかける。
「だってこんなの誰も予想できないし、それにホシノが何かしたってわけじゃないんだから」
「……ありがと、先生」
私も笑い返して頷いた。事故みたいなものだから仕方がないと諦めて、それでも先生も居てくれた幸運に感謝して。
そんな私に冷や水を浴びせるように、黒服は説明を再開した。
「話を戻しましょう。この世界を構築したのはこちらの世界のホシノさんであり、私と先生、それから二人のホシノさんはこの世界に囚われている。そこで問題がひとつ」
「ミメシス、だね」
「ミメシス?」
頷く黒服と深刻な顔をした先生に、私は首を傾げた。
すると黒服は「ええ」と口を開く。
「
「それって……エデン条約のときみたいな?」
確かヒフミちゃんへ加勢しに行った時のことだ。
青白く半透明な生徒たちを思い浮かべると、それに先生も頷く。
「そうだね。けど、今回は少し違うみたい」
そう言って先生はひび割れた壁の方へと視線を向けた。
私は壁の方へと歩いて、そっと外を覗き見る。すると通りには生徒たちの姿が見えた。
「あれが……
「ええ、彼女らは生徒でも住人でもない偽りの模倣体。どこかの世界、どこかの時間で有り得た神秘の姿。タワーによって再現され、この世界に縛られた存在です」
断定するような口調が気になって先生の方を伺うと、先生は渋々ながらに口を開いた。
「私も外の皆のことは
先生も黒服も、私には分からない何かが分かるようだった。
分からないけど、少なくとも先生がそう言うならそうなのだと私は理解する。
「それで、黒服。どうやったら私たちは元の世界に帰れるの?」
「この世界のサンクトゥムタワーを無力化することかと」
「無力化?」
「これ以上はまだ
「そっか。じゃあとりあえずは大丈夫――」
そう言いながら先生を見て、私は思わず息を呑んだ。
殺意や憎悪とはまた違う、ただ今にも叫びだしそうなほどに見開かれたその両目。私がまだ理解できていないものを理解してしまったようなその顔は少しばかり怖かった。
そして先生はゆっくりと息を吐いた。
「つまり、世界を滅ぼせば帰ることが出来る、ということなんだね? 黒服」
「その通りですよ、先生」
「え、え……? ちょっと二人とも……?」
何を言っているのか分からず困惑する私を見た黒服は、幼気な幼児を見たかの如く眩しそうに嗤った。
その答えに対して解説するように、先生は私に視線を向ける。
「サンクトゥムタワーがある限り私たちは帰ることが出来ない。そして、サンクトゥムタワーはこの世界の全てを再現しているんだよ」
「あ……」
だから、世界を滅ぼせば帰れる。
タワーを無力化すれば生み出された
だから、世界を滅ぼす。あるべき世界へそれぞれが戻る過程で、全ての
「そ、っかぁ……」
私は思わず呟いた。黒服も先生も直接戦うことは難しいだろう。
だとすれば、この世界を、何の気なしに外を歩く生徒たちを私が滅ぼすのだ。
私が、小鳥遊ホシノが。
「……へへっ」
「ホシノ……?」
思わず笑ってしまった。なんて単純なのだろう。
「それでもさ、ここに居るのは本物のみんなじゃない」
もしも私がこんな世界を作るとしたら、その理由はひとつしかない。ユメ先輩だ。
ユメ先輩にもう一度逢いたくて、その結果作り出したのが偽物の世界なのだろう。
けれどそれは悪夢にしかならない。過去に囚われて歩みを止めれば、もはや進むことも戻ることも出来なくなってしまう。
でも今の私は知っている。それじゃ駄目なんだってことを知っている。
辛くても、苦しくても、それでも全部抱えて進まないと何処にも行けないことを知っている。
「みんなが教えてくれたからね。夢は覚めるものだって」
先生が、ノノミちゃんが、シロコちゃん、セリカちゃん、アヤネちゃんが。
みんなが私を起こしてくれたように、
「随分と夢見が悪いようだから起こしてあげないとね。それで黒服、まずは何をするの?」
「クックックッ……。やはり貴女は素晴らしい」
黒服は不敵に笑って、それから答えた。
「先生と共に外の様子を見に行ってください、ホシノさん。貴女がこの世界に囚われるのは、私にとっても損失ですから」
頷いて立ち上がったところで、黒服は「ただし」と言葉を付け加えた。
「決して誰にも見られぬように。まだこの世界に敷かれた契約が
「随分と慣れてるみたいなこと言うね」
「当然ですとも。異界に来てまず必要なのは拠点と情報。知らぬ禁忌を踏んで祟られるようなことだけは避けるべきですから」
黒服は妙な言葉を私に返すが、聞いた先生は納得したような様子だった。
そして先生は黒服へ簡素な問いを発した。
「口約束は契約に含まれるんだよね、黒服」
「ええもちろん。ですので、私、黒服はこの名に誓い、この世界を脱出するまで小鳥遊ホシノおよび先生に対して全面的に協力を惜しまず、また両名が望まぬ事態は引き起こさぬよう尽力し、緊急時を除いて先生の指示に従うように致しましょう」
手を広げて口約束を行う黒服に対し、先生は「はは……」と薄く笑う。
「私としては、黒服の本当の名前が出てこないことを祈るよ」
「ええ、ご安心ください。この先どこかでその必要が生まれたとしても、それは決して今では無いことだけは約束しましょう」
「それじゃあ、行こっか。先生」
「うん」
そして、先生と私と黒服。因縁と呼ぶにはあまりにも奇妙な縁で結ばれた同盟が今ここに成立したのであった。