床。冷たい。身体の寒気。喉の奥に詰まった血――
「――ッげほ! げほ、げほ――がっ、はぁ……」
そして、吐血。
意識が覚醒に近付くと同時に、私は自分が何処かの部屋で倒れていることを知る。
ゆっくりと目を開けると、霞んだ視界に映るのは砂埃の積もったクッションや大型の機材。雑多な資材を集めた準備室のようだ。
ゲヘナ消失の際に先生と離れていたのが原因か。確かにあの砂漠からワープして来たようだったが、周囲に人の気配は無かった。
「……先生は、対策委員会室かな」
身体の感覚も曖昧なままに立ち上がって歩き出そうとして――私はうっかり転んでしまった。
「いてて……」
窓枠にしがみ付くように立ち上がる。窓に私の顔が映る。
――私は私の顔を見た。
「…………まぁ、そうだよね」
頷いて、それからその辺りに転がっていた暗幕を手に取って頭から被る。
それから「ふぅ」と一呼吸。のろのろと壁に手をつきながら、お化けみたいな恰好で対策委員会室へと向かう。
対策委員会室前の廊下で、遠くから黒服が歩いてくるのが見えた。
「生きてたんだ」と皮肉気に挨拶してみると、「おかげさまで」といつもの調子で返される。
「流石の貴女も、この戦いは厳しいご様子で」
「流石にね~。それで、中に入らないの?」
「クックックッ……私も野暮ではございません。先生に話があるのでしょう?」
相変わらず胸の内でも見透かしたような言葉にげんなりした。
「どうしたのさ。黒服にしては気が利くじゃん」
「おやおや、これは悲しいことを。先生が貴女の衣服を脱がせているときも席を外していたというのに」
「そっ……それは治療のためでしょ!!」
布地の下で火照る顔。先生だって別にやましい目的で脱がせたわけじゃ……。
「ですので、
「だからそういうのじゃ無いって!」
不愉快な笑い声を上げながら、黒服はそのまま私を通り越してどこかへと歩いて行った。
まったくなんだったんだ。今のは――
そして辿り着く対策委員会室の扉。人の気配はちゃんとする。私は扉に手をかけて開け放つ。
「先生~、おつか――」
そう言いかけて、私は思わず息を呑んだ。
ソファに座っていたのは先生の死体――
「……ホシノ?」
「――え、あ、う、うん」
先生の声で我に返る。
いったい何を見間違えたのか。陽光に照らされた先生の姿が一瞬だけ死体と見紛うなんて、どうかしている。
嫌な見間違いを頭から追い出そうと首を振ると、先生は普段と変わり無いように私に向かって微笑んで、ふと首を捻った。
「その恰好は?」
「……お化けだよ先生。驚かそうと思ったんだけど……驚いた?」
「……うん、驚いたよ」
他愛もなく下らない応酬でも、それは必要なことだった。
ロクに休めず戦い続けて、私も先生も疲れ切ってしまっていた。
私はそのまま先生の隣に座る。
今にして思えば、ミレニアムからずっと距離が近くなった気がする。
――シロコちゃんに怒られちゃうかな。
一瞬そんな考えが脳裏を過ぎって「うへへ……」と思わず笑ってしまう。
「どうしたの?」
「シロコちゃんが怒るかなーって」
「シロコが? なんで?」
本当に不思議そうな顔をする先生に、私は頬を膨らませる。
どうしてこうも気に掛けないのかと憤慨し、頭をぐりぐりを押し付ける。
「言っておくけど、シロコちゃんには『なんで?』なんて聞いちゃダメだよ~? ちゃんと自分で考えてね」
「分からないけど……分かったよ」
そう言って先生は暗幕越しに私の頭を撫でてくれた。
その手の温もりと優しい感触が私の身体に触れる度に、ちゃんと先生はここに居るってことを実感させてくれる。
目を瞑ってしまったら先生も消えてしまうんじゃないかなんて、考えすぎなのは分かっていた。
それでも不安を感じてしまうのは、どうやら私もだいぶ疲れてしまっているせいに違いない。シロコちゃんには悪いけど、今だけは甘えてしまってもバチは当たらないだろう。
そう思った時、
先生の左手に巻かれた包帯。血が滲んで酷く出血したような跡があった。
「先生、それ――」
ほぼ直感的に部屋のゴミ箱に目を向ける。
夥しい数の血塗れになったガーゼ。脳裏に浮かぶエデン条約での出来事。腹部を撃たれて瀕死になったあの時の――
「せ、先生? どうしたの、これ……?」
声が震える。先生を見上げる。顔が見える。私の身を案じる瞳もその顔も、出血のせいか異様に青ざめて見えた。
――いったい何を浮かれていたんだ私は……!
微笑む先生の表情の裏には、まるで今際の際まで追い詰められてなお誰かの無事を確認したような、そんな壮絶さが滲み出ていた。
「大丈夫だよ」
「じゃなくって――その手! 怪我したの!?」
「ああ、これ? ちょっと、イブキに噛まれちゃってね?」
「噛まれたって……」
噛まれた、なんて生易しい言葉じゃない。噛み千切られかけて、だ。適切なのは。
「な、何があったらそんなに深く噛まれるのさ――!! こ、こんなの……」
「ああ……世界基底は最初からサンクトゥムタワーに無かったんだ。イブキだったんだよ。
「そ、それ……って……」
「最初に私たちが居たアーケードにさ、トラックが集まったよね。その中にイブキが居たんだ。ホシノが頑張ってくれたからどこに居たのか分かったんだ。だからありが――」
「そうじゃないでしょ!?」
先生の首元に私は抱き着いた。
だって分かってしまった。全然気のせいじゃなかった。
何があったかなんて全部は分からないけど、
それだけ抵抗されるようなこと、普段の先生だったら先生自身が絶対に許さない。
そんな状況が発生していたんだ。私の居ないアーケードで。
「そうじゃないよ……」
嫌な予感は確かにあった。先生が自分のことを
なのに私は見て見ぬふりをした。先生なら大丈夫だろうって、そう思い込んで……。
「先生、駄目だよ。怪物なんかになったりしちゃ……」
そうでなければ、たとえ帰って来れても先生の魂はこの世界に囚われ続ける。
それは帰れたとは言わない。そんなもの、私は望んでいない。
「一緒に帰ろうよ、先生」
「…………うん、そうだね」
そう言って先生は頷いた。それでも胸のざわめきは収まらない。
悍ましい終わりが脳裏を掠める。先生は口を開いたのはそんな時だった。
「ところでホシノ。ホシノも、言いたいことがあるんじゃないの?」
「待って――!!」
先生は私の被ったカーテンに手をかける。ぞっと背筋が凍って身を逸らす。
「ホシノ……」
「駄目、待って……駄目だよ……」
見せるわけには行かない。これ以上先生を追い詰めるわけには行かない。
カーテンの布地の端を掴んで、私は先生に背を向ける。
「……怪我をしたんだね。それも、見せられないぐらい」
「……うん」
静寂が訪れる。先生は私の背中を優しく撫でた。
「どれぐらいの怪我なのか、見せて欲しいな。この後の作戦も考えたいから」
「…………」
「見せてくれないと、黒服への頼み事が増えるかもなー」
「そっ……! それはずるいと思うなぁ……」
そこまで言われてしまったのならもう仕方なかった。
本当に大人ってずるい。諦めて私は先生に向き直る。
「驚かないでね」
「ああ……」
そして私は布地から顔を出した。
「――ッ」
先生の顔が悲痛に歪んだ。
ああ、だから嫌だったのに、と私は思う。
先生は泣きそうな顔を浮かべて、
「ホシノっ……ごめ――」
――その言葉を続かせないように、私は先生の唇を塞いだ。
小鳥が啄むような、そんな一瞬。私は先生から唇を離す。先生は目を丸くして私を見ていた。
「先生のせいじゃないよ。だから、これからの話をしよう?」
そう言う私の右顔は、完全に潰れてしまっていた。
正確には右頬骨から右眉にかけて。タワーの爆発と振り落ちる瓦礫に巻き込まれて、もう私の右目は何も映してくれなかった。
それはもう戦うとか戦わないとか、そういう選択以前の話で――右目がどうこう以前の話で、私の身体はもう戦闘行為に耐え切れない。
「まあ、戦えないよね。正直身体もまともに動かないし、右目もこんなだし。でもさ、まだ諦めてないよ」
「…………っ」
「先生、黒服を呼んで。次のことで話があるの」
先生は固く目を瞑った。
その姿はまるで、自身を罰して茨を巻き続ける、いつの日かの私のようにも見えた――
「ふむ、説得ですか……」
対策委員会室。そこには私と先生、それから黒服が集まっていた。
これからのことについてどうするか、その話し合いを始めたのだ。
「確かに、貴女が戦えない以上トリニティ攻略はもうひとりのホルス――アビドス生徒会長の協力を得る必要があるのは理解致しました」
「というよりも、それしか無いと思うんだよね~」
私が相槌を打つと、先生も黒服も同意するように頷いた。
私の右顔には今、黒服が用意したスカーフで覆われていた。奇妙な紋様が織り込まれた不可思議な布地――それは黒服が用意したもので、先生は訝しむようにそれを眺める。
「先生、そればかりはあなたが危ぶむようなものではございませんよ。気休めのようなものです」
というのも、だ。
この眼帯はかつてのゲマトリアが残した遺物らしいのだが、オーパーツというよりもアンティークで、黒服が言うには特殊な技術を用いて作られただけの布であることには違いないらしい。
強いて言うなら決して破けず汚れないもの。それ以上のものではなく、何かこう、突然光を発して力がみなぎる等ということも無いらしい。
それはそれで残念だったが、先生はそれ以上に
「大丈夫でしょ。私としてはビームぐらい出て貰ってもいいんだけどさ~」
「まあ、それは……そうかも」
「でしょ~?」
おどけるように言ってみると、先生は僅かに笑みを浮かべた。
私自身、目が見えないこと自体はそうショックでも無かった。なるべくようにしてなったと言うべきか。
もしもこの夢の世界から目が覚めたときでも見えないままだったら、何かの拍子でショックを受けたりするのかな――などと考えたりしたものの、ううん。多分そうは思わない。その時は必ず先生も一緒に戻っているからだ。まさに名誉の負傷であることは間違いない。
そこで水を差すのが黒服だった。
「しかし、ホシノさんの
「どういうこと?」と先生。だが、私はその理由を知っていた。
「ホシノさん。貴女がもし
「ううん。無理だね」
これには即答。先生は言葉を噤む。
例えば救急医学部で戦ったイオリちゃん。私が全力で勝負を終わらせに行ったけれど、あれは右目で捉えなきゃ出来ない。
それは右利きの人が左手でも同じことが出来るのかって話に近くって、左目で捉えようとすると身体の軸も銃身を支える手の位置も、その全てが逆になってしまう。
そもそも利き目を潰されることは痛手どころの話ではない――戦闘不能だ。たとえ身体が万全でも、二度と元のようには戦えない。
だからこそ、銃を使わない先生は分からなくて当然だった。
「とはいえ、ホシノさん。私は貴女の
「意味……?」
「そうです。貴女はキヴォトス最高の神秘。だからこそ、起こる事象、起こった事象、そこに意味が付与されることは充分にあるのではないかと」
「……そんな大層なものかなぁ」
占い程度の話をここでされても……と流石に眉を潜める。
ともかく――ともかくだ。
「先生、トリニティより先にアビドスに行こうよ。それで、何としてでももうひとりの私を味方に付けよう」
トリニティの牙城はもう崩せない。それだけは分かっていた。
どう考えても私ひとりで崩すことなんて出来ない。それは万全の状態であるかどうか以前の問題。
ティーパーティー現ホスト、フィリウス派代表、桐藤ナギサ。
トリニティで実権を握るというのは決して並大抵のことでは無いと先生から聞いて分かった。
ゲヘナ攻略戦での羽沼マコトは真の意味で統率を取れなかったのとは逆に、桐藤ナギサを倒さない限りトリニティは全戦力を以て私に襲い掛かってくる。
数の暴力、その恐ろしさを今の私は知っている。
知っているからこそ、必要なのは
加えて相手には予知夢で未来を読んでくる百合園セイア、単騎のツルギに匹敵する聖園ミカが居る。
そして聖園ミカはティーパーティー所属のパテル派代表。何をしたって桐藤ナギサから離れることは無いだろう。
そうである以上、ティーパーティーホストの襲撃は不可能。どう考えても総力戦にしかなり得ない。
戦力が足りない。トリニティを倒すための戦力が。
「何としてでも
それに――と、私は口に出さずとも先生へ目を向けた。
ゲヘナが消えたということはアビドス防衛部隊も消えた。機を逃したらトリニティから防衛隊が派遣されるかもしれない。
攻めるなら今しか無い。応援が来る前にアビドス生徒会長を寝返らせる。
「ってことなんだけど……どうかな」
そう聞くと先生は頷いた。
「そうだね。私もそれしか無いと思う」
先生は周囲を――黒服を、私を見渡す。
覚悟は決まった。先生は息を深く吐いて、ただ告げる。
「この世界を作った
それは大いなる過程の物語。
トリニティを越える、そのために必要だった旅路のひとつ。
だからこれは、痛みと悲しみで終わる話。
その意味を――