掠れた記憶が叫び声を上げる。かつての悪夢。あの日に交わした絶望の全てを。
『アビドス砂祭り――?』
黒くぼやけた
『奇跡なんて起こりませんよ』
『いつまでもふわふわと、あなたはアビドスの生徒会長なんですよ!?』
『その肩に乗った責任を自覚してください!!』
そして私はポスターに手をかけて、引き裂く。
びり、と音を立てて裂ける私の未来――けれど……。
「……済みません。頭に血が上っていました。席を、外します」
10cmほど裂いて、私は
――怒りに身を任せて、それでどうなる?
中途半端に裂かれたポスターを机に置いて、これ以上先輩に当たらないようにと生徒会室から身を翻す。
その時、先輩がどんな顔をしていたかなんて見ることもせずに。
「…………はぁ」
分かっていたことだった。
あんなユメ先輩だったから私はここにいる。
たまたまだ。ちょっと虫の居所が悪くって、それで腹が立ってしまった。本当にそれだけだった。
「明日、ちゃんと謝りにいこ……」
きっとユメ先輩は許してくれる。だからこそ、私は自己嫌悪に苛まれる。
――あとにして思う。
――あれはきっとなんてことのない学校生活の一幕。すれ違いですらない、他愛のない日常のひとつだった。
翌朝、先輩は学校にいなかった。
修繕されたポスターを見て、私は少しだけ安堵して、どうしてあんなに怒ってしまったのだろうと後悔した。
一刻も早く謝りたかった。この胸のつかえを取りたいがために、また今までと同じ今日を歩けるように。
「……もしかして」
アビドス砂漠へと向かう。遠くに人影が見えた。
「ユメ先輩!」
「あれ、どうしたのホシノちゃん?」
「どうしたのじゃないですよ! なんでこんなところにいるんで――」
いや、違う。私の言いたかったのはこんな言葉じゃない。
「――済みません」
「え?」
「昨日、その……」
「……ふふ、いいんだよホシノちゃん。私の方こそ、ごめんね?」
喧嘩……ですらなかったけど、謝って元通り。それで終わり。そのはずだったんだ。
「せっかくですし、もう少し遠くの方行ってみましょうよ。この前言ってたあの場所まで」
あの時、素直に帰っておけば良かったんだ。ううん、そもそも、私はあの時謝りに行くべきじゃなかった。
「なんですかこいつ――!!」
「ホシノちゃん!!」
遠くに見えた砂嵐が不意に私たちの方へと向かってきた。
砂嵐の中に
私はあの時の全てを後悔し続ける。
――あの時戦おうとしなければ。
――あの時探索を続けようとしなければ。
――あの時謝りに行かなければ。
――あの時八つ当たりなんかしなければ。
「ユメ……せんぱい……?」
ヘイローの砕けたユメ先輩の身体は半分しか残っていなかった。
私を庇った結果がこれだ。
「あ……あぁ……」
砂嵐が遠ざかる。真昼の太陽の下で、悪夢みたいな現実が私の前に横たわる。
「これは……違うよ。こんなの、夢に決まってる」
そして私は現実を受け入れられなかった。
引き攣った笑みを浮かべながら、半分だけになった先輩の隣で横になり、まだ体温の残っている先輩の手を握る。
「ゆ、夢ですよ……。ええ、有り得ない。有り得ません。ほら、目が、目が覚めれば、こんなの……」
自分の頬に手繰り寄せて、目を瞑る。「少しだけ眠りますね」と、そう言って。
それで終わってくれれば良かった。けれど、現実は何も変わらない。奇跡なんて起こらない。
とっぷり日の暮れた夜の砂漠で目覚めた私は、隣を見る。
何も変わらない。そこには当たり前のように死体があるだけ。
誰のせいでこんなことになった?
誰がユメ先輩の仇なんだ?
「……ははっ、私だ」
「全部、私のせいだ……」
「私のせいだ。全部、何もかも」
私は、全ての怒りの矛先を見つけた。
ユメ先輩の仇は誰か、心の底から呪いをかけた。
――私は私を赦さない。
――私が笑うことも楽しそうにすることも、私は決して赦さない。
――私が何かを大事にすることだって赦さない。
――私が抱えたもの全て、何もかも壊してやる。
その魂が救われることを絶対に許さない。未来永劫、死してなお苦しみ続ければいい。
混濁した感情。道理の通らぬ行動。没した理性は自身に対する殺意という形で表出される。
そして、全てがスローモーションになる。
ショットガンを持つ。銃口と目が合う。
――絶対に逃がしたりなんてしない。
――どこまでも追いかけ続けやる。私に安寧なんて訪れない。
――私を一生苦しませ続ける。楽になれるなんて思うな。
私さえいなければこんなことにはならなかった。
ユメ先輩を殺した仇。それは全て、私だった。
「いま、仇を討ちます。ユメ先輩」
空を仰いで引き絞られる引き金。爆ぜる弾薬。
仇を殺すのに必要なのは、最初から殺意だけで良かったのだ。
道具はあくまで手段でしかない。殺意があれば、人は殺せる。
散弾の小さな弾丸ひとつひとつがゆっくりと私に向かってくる。
全てがスローモーションになる。私の瞳に映る景色は、徐々に速度を落としていく。
それは極限状態に見える錯覚に過ぎない。時間は止まることなく流れ続ける。
その時だった。迫りゆく弾丸の向こう、空に浮かんでいたものに気が付いたのは。
――なんだ……あれ……。
黒い太陽か、それとも月食か。ただ、夜の闇より昏い何かが天辺に居た。
私の左目がそれを捉える。そして私の周りに
『「色彩」が天空神と接触した――』
『だが、これはなんだ? この過程は我々に何を齎す?』
止まりゆく時間。迫る弾丸。
私を取り囲む
『だが結果は変わらない。全ての
『我々と同じ末路を辿る。名が無いために呼ばれず、呼ばれない故に存在しない
――ふざけるな。
『!!』
周囲の
――お前たちなんか知らない。こんな結末は認めない。
『何故だ?』
『有り得ない』
弾丸が左目を突き破らんと僅かに触れる。
そのとき、私の眼前には数多の世界が広がっていた。
それは道理を超えた理解し得ない現象。
理解できない物を理解できないままに探る。どこかにあるはずだ。ユメ先輩が死なない世界が。
――それは例えばゲヘナ学園。アビドス高校から転校して、万魔殿へ編入した世界。
――それは例えばミレニアム。アビドス高校から転校して、セミナーへ編入した世界。
――それは例えばトリニティ。アビドス高校から転校して、スイーツ部へ編入した世界。
――それは例えば砂嵐が発生しなかったアビドス。全盛期の学校で友人たちと過ごした世界。
探す。探し続ける。このキヴォトスでユメ先輩と過ごす日々を。ユメ先輩が生きている可能性を。
世界が回り、私の世界に塔が立つ。日が沈んでまた昇る度に、私たちの歩んだ場所に塔が立つ。
けれど、ユメ先輩が卒業できる世界はどこにもなかった。
死ぬ度に棄却される世界線。ユメ先輩の死体を置いて別の世界へ飛ぶ度に、私はこの夜の砂漠に引き戻される。
棄却する。時間が進む。弾丸が左目を突き破る。
棄却する。時間が進む。眼底に弾丸が到達する。
棄却する。時間が進む。頬骨が砕けてこめかみが粉砕される。
でも、それは決して無限じゃない。
私を完全に書き換える前に、私の左目は破壊される。このロスタイムには終わりがある。
世界を回す。ユメ先輩が死ぬ。
無数のユメ先輩の死体が山となり、築かれた塔が世界を埋めつくす。
何がきっかけだっただろうか。気付けば私は、自分が死ぬことに恐怖を覚えていた。
あれだけ死を望んでいたはずなのに。引き延ばされ続けた時間が私に執着を与えてしまった。
――嫌だ。
願って走り続けたその先にあったのは、どん詰まりの袋小路。
夜の砂漠の下の私は左目を失った。ロスタイムは尽きてしまった。
――死にたくない。
誰も来ないこの砂漠で私はひとり。ユメ先輩の死体の隣に並ぶのは私の死体だろう。
どれだけ叫んでも誰にも声は届かない。ただ、死ぬ。誰にも気付かれることもなく。
――死にたくない!!
「……ぁ、だ……」
誰か助けて。
それが、15歳の私の終わり。
そして私は、最期の夢を見る。
アビドス高等学校。
それは砂嵐によって荒廃し、それでもなお抗う生徒たちによって存続している砂上の楼閣である。
例え未来は暗くとも、それでも今この瞬間だけの光があった。意志があった。鮮やかな青春があった。
そこにはもう、誰もいなかった。
吹き荒ぶ砂嵐は街も学校も思い出も、やがて全てを呑み込むだろう。
全てが死に絶え、全てが剥がれ落ちる最初の場所。全てのテクスチャの終わりと始まりはここから始まる。
そんな中でたったひとり、砂漠の真ん中で死に逝く少女は時間を止めた。
自らを夢の世界へと退避させ、命燃え尽きぬようその意識を閉じ込めた。
夢の世界にタワーが墜ちる。
数多の世界で過ごした日々を元に、その心象風景を学校という形で再現する。
第一の塔は永劫軍備。
それは来るべき戦いに備える、血と硝煙に塗れた地獄の象徴。
誰一人としてアビドスを守ろうとせず、ただ接収しようとする敵だけに囲まれた過去の再現。
第二の塔は命題反証。
それは絶対的な死という命題を棄却するべく答えを追い求めた煉獄の象徴。
数多世界を飛び続け、存在の不確かな道を追い求めて闇の中を彷徨う現在の再現。
第三の塔は礼拝招詞。
それは妥協と諦観に浸されながらも最悪ではないという逃げ道に浸った天国の象徴。
結果を引き延ばし続けることで生まれる泥沼のような安寧に耽溺する、未来の再現。
第四の塔は不変神域。
それは死に囚われて凍てつく夜の向こうに全てを閉じ込めた常世の砂漠。
一切の変化を拒み続け、下界の時間から切り離された神域そのもの。時を否定し偽りの太陽で照らし続ける歪な世界。
そして夢の世界が生まれ落ちた。
それは誰にも会えず、ただ死ぬひとりの少女が祈った最期の契約。
けれども世界は歪み始めていた。
他ならぬ小鳥遊ホシノが先生と黒服を引き連れてこの世界にやってきた時から。
同じ世界に二人は存在できないという大原則。それは先生の存在するキヴォトスでは抜け道があれども、この夢では違う。
この夢に先生という概念は存在しない。奇跡は起こらず、ただ成るべくして成る結果だけが残り続ける。
小鳥遊ホシノが二人いるというエラーに世界は耐え切れず、数日もしないうちに夢の世界は破綻する。
壊れてしまえば、残った全ては在るべき場所へと帰される。
先生たちは元の日常へ。そして小鳥遊ホシノは今際の際の砂漠の元へと戻されて死ぬ。
「ユメ先輩を殺し続けた私が生きてていいはずなんてない」
生徒会長は泣きながら私に銃口を向ける。
「でも、怖くて――死ぬのが怖くて……!!」
私はきっと、静かに笑っていた。
だってもう、仕方がなかったから。
「だからさ……。代わりに消えてよ……!!」
振り返る。先生と目が合う。そして――
「ごめん先生。助けてあげて」
「ホシ――」
銃声が全ての幕を下ろした。
吹き飛ばされる肢体。散弾が全身に突き刺さり、キヴォトスの民であるホシノの皮膚すら貫いた。
「ホシノッ!!」
手を伸ばし、抱きかかえる。
眼前には未来すら与えられなかった
「どいて、先生。そっちの
「……駄目だ。私は、どっちのホシノも助けたい」
「無理だよ。だって、この世界を滅ぼして帰ろうとする先生たちと私とじゃ、絶対に折衷案なんて無いんだから」
その右目は諦観の底に沈んでいた。
時間が無い。お互いに。分かり合えない。何故なら天秤に掛けられているのはホシノとホシノ、双方の心臓なのだから。
そして――私の前には二つの選択肢があった。
「…………ふざけるな」
「これの……、一体どこが選択なんだ――!!」
銃口が向けられる。硬く目を閉じる。
もう、私が選べる道なんて何処にもなかった。
「……アロナ」
遠く、さざ波の音が聞こえた。
崩れた教室。積み上げられた椅子と机。そして、シッテムの箱の生徒たち。
残された手段はもう、これだけだった。
「ごめん――ごめんアロナ……! 私は、弱い、ただの人間で、誰かに犠牲を強いることしか出来ない――!!」
【……大丈夫ですよ、先生。だから、言ってください。
震える声で、懇願するようにただ、跪く。
人間賛歌を棄却する神頼み。そこに選択の意志なんてものはなかった。
ただ、ここから逃れるそのために。
「……君の時間を、少し分けて」
【あげます、全部あげます。ですから――】
私はアロナに手を伸ばす。指先が触れる。私の世界の始まりはここからだった。
呟くのはシッテムの箱の起動パスではない。災厄の箱を開く実行キー。世界を滅ぼす詩の一節。
私とアロナの声が交差する。混ざり合い、ひとつに溶けて世界に響く。
星が墜ちる。空が赤く染まる。
そして、シッテムの箱は開かれた。