――何が起きた……?
私はショットガンの引き金を引いた。
銃口から弾丸が射出された。絶対に避けられないはずだった。
ぱらぱらと弾丸が床に落ちる。私と先生、その間に現れた傘に防がれて全ての銃撃が無力化された。
自身と同じく黒衣を纏った、白い髪の何かが傘を閉じる。
「……シッテムの箱、
それは人なのかすら分からない存在だった。
「アビドスからの撤退を行います。逆理演算開始――演算終了まで残り180秒」
ただ、ここで止めなくちゃ逃げられるということだけは分かった。
すぐさま銃口を向けて引き金を引いた。
放たれた弾丸は銃口から飛び出た瞬間に制止する。
まるで銃弾の時間だけを止めたように、その空間へと固定された。
床を残して消え失せた対策委員会室は空中に浮いていた。
道理を超越した異常。現実離れした状況に怖気が走る。
何より――あれは何だ?
俯いた先生の表情は伺い知れず、ただ手元のタブレットを見続けている。
その全身から発せられる気配は少なくとも人のものではない。化け物だ。決して相手にしてはならない怪物にしか見えない。
「それでも、私は――!」
空から光の柱が打ち立てられる。
床を焦がし、扉を消し飛ばし、空間に固定された銃弾は光の中へと消えていく。
その光から逃れるように、私は距離を取る。
連続して落ちる光は寸分違わず私の場所目掛けて落ちてくる。
避ける。光が降る。寸で躱して切り返す。抜かれた射線。銃は撃たずに先生目掛けて全速力で走る。
どれだけ走っても先生には近づけなかった。
走っても走っても距離は縮まることすらなく、委員会室も敵の位置も、赤方偏移の彼方へと遠ざかって行く。
崩れた部屋。水に浮かんだ委員会室。空には昼と、その向こうの夜が映し出されている。
悪夢のような光景だった。
頭がおかしくなるような現実だった。
「なんなのさ……お前は! いったい!!」
もはや勝てる勝てないの次元ではなかった。
銃の撃ち合いなんて話にならない。ジャンルが違う。理解が出来ない。それほどまでに絶対的な存在がそこには居た。
――こんなの、どうやって戦えって……!!
冗談じゃないと叫ぶのも当然だった。
だがそれはあくまで
――息が出来ない。
心臓が半分になったかのように縮み上がる。激痛が全身を襲う。脳に酸素が回らない。
それは全能の神の力を奮うが代償。創造神の領域に触れようなどと、人の身ではあまりに烏滸がましき所業。
シッテムの箱に唱えられたのは正しきパスワード。神へと触れる
――あと、60秒。
光の柱を使った拘束は避け続けられている。空から格子を下ろす度に、追加で代償を払い続けた。
ぼたり、と鼻から血が垂れた。それは口からも、耳からも、目からも、ぼたぼたと止めどなく零れる血液はタブレットを汚し続ける。
過ぎた力は代価を求める。アロナが私の
「ごふっ……」
一層多くの血が流れた。今この瞬間にも何かを失い続けている。
過去も未来も払うわけにはいかない以上、現在を支払い耐える以外に道は無い。
「先生、残り――」
プラナの声が意識と共に遠くなる。
自身の口が今なお唱えているのはシッテムの箱に映し出された言葉――キヴォトスでは古き文字として知られる音の配列。
――唱え切らなくてはいけない。手綱は握り続けなければならない。私が行っているのは、そういうものなのだから。
「――――」
誰かが何かを言っている。何かが私に迫って止まる。何処かで誰かが叫んでいる。
視界は歪み、音は消え、身体の感覚が消え失せる。
(ああ――私では)
何もかもを失った闇の中、胸の内に浮かんだのは弱い自分への虚しさと最後の選択だった。
(私ではホシノを
「演算終了。先生、黒服、暁のホルスの三名をアビドスから退避します」
プラナの宣言と共に、私たちの姿はアビドスから消失した。
アビドス自治区とトリニティ自治区の境。
崩れた家屋の一室へ、私たちは満身創痍のままに逃れおおせた。
「…………ありがとうございます。先生」
ひび割れた身体を壁に預けた黒服は、身じろぎひとつすることなく礼を言う。
ホシノはカーテンと思しきボロを敷いて作った簡易ベッドの上に寝かせてあった。
意識は無いが、微かに胸が上下している。まだ息はあるが、どれだけ続くのかは分からない。
治療が必要だった。それも今すぐに。
けれど、この世界に頼れる相手は何処にも居ない。何故なら世界全てが敵なのだから。
「…………」
重苦しい沈黙だけが流れ続ける。
全てのサンクトゥムタワーを消せば何とかなると思っていた。その先に救いがあるのだと、そう信じていた。
――そんなものは初めからどこにもなかったんだ。
それでもと願い続けるのは傲慢なのか。
ただ目の前で苦しんでいる子供に手を差し伸ばしてあげたかったんだ。
決してどちらか一方に「諦めて」なんて言うためなどではなかったはずなのに……。
「……もう、良いではありませんか」
「何が、言いたいの?」
顔すら向けることなく黒服に聞き返すと、返ってきたのは私への溜め息だった。
「この世界のホシノさんは最高峰の神秘ではございません。失われた左目、夜と再生を象徴するウジャトの権能が失われている以上、この世界はすぐにでも崩壊するでしょう」
「……残り時間は?」
「24時間」
「それは――」
私は顔を上げて黒服を睨んだ。
「ホシノが生きていて黒服が何もしなかったらの時間?」
「…………今この状況はまさしく緊急事態です。トリアージなのですよ、先生」
『トロッコ問題なのよ』
いつの日かのミレニアムで聞いた
どちらを選ぶか。何を犠牲にするか。その決断を私は他人に任せるのか?
「――駄目だ」
「ですが」
「それは私の義務だ」
これだけは私が選ばなくてはいけない。
子供の悲鳴に耳を塞いで目を閉じて、誰かに進退を任せるなんてあってはならない。
「たとえ私の歩む先に痛みしかなくとも、苦しみしかなくとも――」
左手の傷が――イブキの噛み痕が疼いた。
私が子供に銃を持たせて戦わせたんだ。そしてホシノは塔の崩落に巻き込まれて右目を失った。私の指揮でそうなった。
そのうえ辛い決断から私だけ逃げるだなんて――そんなことは赦さない。
「私が選ぶ。私が決める。全ての責は私にある」
いま目の前で眠るホシノを救うためにはひとつしかない。
ホシノが息を引き取る前に、私の手でこの世界を破壊する。
トリニティを滅ぼし、アビドスも滅ぼし、この世界を作り上げた小鳥遊ホシノをこの手で――
この手で殺す。
そのためにトリニティへ向かう。
「その先に絶望しかないとしても?」
「その絶望とやらに用があるんだ」
数刻、静けさが訪れる。私はただ前だけを見る。
"大人のカード"もこれ以上無茶な使い方は出来ない。縁なき転移も使えない。アビドスを壊す瞬間まで払いきれる範囲でのみの使用に限られる。これが無謀だとは分かっている。だとしても、私の選択は変わらない。
眠るホシノを抱きかかえると、ホシノは「ん……」と声を漏らした。
――まだ生きている。心臓はまだ止まっちゃいない。
――だからまだ、立ち止まるわけには行かない。
「トリニティから全ての天使を放逐する。たとえそこに絶望しか残らずとも」
私は立ち上がり、トリニティへ向かって歩き出す。
足元はおぼつかずとも、ホシノが生きている限りこの歩みは決して止めては行けない。
「さようなら、黒服。きっと全てが戻った先に私は居ないだろうけど、私の生徒たちに手を出すことだけは許さない」
「クックックッ……。分かりました、誓いましょう。……寂しくはなりますね、先生。どうか――」
最期の旅路を見送る黒服はたった一言だけ、餞別の言葉を残した。
『どうかあなたに、良き終わりのあらんことを』
快晴の空の下。何処からともなく雪が降り続けていた。