ホシノの押す手が止まる。相対するは百合園セイア。アビドス生徒会長から離反して私を助けてくれた生徒であった。
セイアはそっと微笑むと、私の瞳に目を合わす。
「君がここに来ることを、ずっと待っていたよ。時間にしては二日と経っていないけれど、一日一日が随分と長く感じた」
「……私もそうだよ、セイア」
本当に長い一日だったと思う。ミレニアムからゲヘナ、アビドスでの戦い……その全てが、ずっと恐れていた悪夢を体現していた。
悪夢のような状況の連続だった。悪夢のような――
「目を逸らしてはいけないよ、先生。耐えているだなんて、虚飾が過ぎる」
「そんなことは……」
自分の手に視線を落した。左手にはイブキの噛み痕。子供を傷付けたという後悔の証。
虚飾――まさしくそうなのかも知れなかった。矜持も何も、この世界では無力なのだと思い知らされて打ちのめされた。
私に世界を救う力なんてものはなく、正道へ連れ戻す力すらこの手の中には存在しない。
ただ葦のように風に吹かれて揺れるだけ。私は何処までも無力な存在だった。
もはや返す言葉すらも見つけられない私に対して、セイアはゆっくりと口を開く。
「トリニティの世界基底は、いま君の目の前にあるパイプオルガンだ」
「……っ」
「私たちは君の
びくり、と身体が反射的に動いた。
選ぶ? 何を、何を私は選べばいい。私が選ぶべき道は何だ――
「ねぇ、セイアちゃん」
ホシノが口を割り込ませた。
「先生を追い詰めるつもり? 助けてもらった身で言うのも何だけど、敵意があるなら……」
「敵意は無いさ。だが、選ぶのは先生の責務であり大人の義務だ」
「ッ! 先生だって人間――」
「いいんだ、ホシノ」
「でも!」
「いいんだ。ありがとう。でも、セイアの言う通りだから」
「――っ」
私は、選ばなくてはならない。私を助けてくれた彼女たちをこの手で消すか、否かを。
彼女たちと協力すれば安易な解が見つかるんじゃ――なんて、一瞬だけ縋りつきたくなった。
けれど、セイアはそれすら見透かしたように首を振った。これは、選択の時だ。選ばなくてはならない。選択を放棄するかも含めて、私には目を逸らすことが許されていない――
「ところで先生。ここはトリニティの大聖堂だ」
「え……」
「そして告解室でもある。少々拡大解釈し過ぎ……と言われても仕方ないが。けれども、告解室なら立場なんて関係ない。何故なら――」
「――何故なら、主の元において全ては平等だから」
「……そうとも」
セイアの言葉を継いで出た私の発言に、セイアは満足そうに頷く。
「君は今この瞬間、先生ではなくなった。大人ではなくなった。なら、君の言葉は何だ? 恥じらいなど捨て、身も心も曝け出して、君は君の罪を告解しても良いだろう」
「わ、たし、は……」
唇が震えた。罪――そう、罪だ。
セイアがじっと私を見ている。ああ、その目だ。私は自らの罪を認識する。目、目、目――生徒たちが私を見ていた。
私は、その全てを振り払ったんだ。
私の目には生徒として映らない。けれども視覚が、聴覚が、感情が、彼女たち
感覚は偽物と分かっていながら、感情は守るべき子供であると叫び続けた。
その声に自ら耳を塞いで事を為し続けた。全てはホシノを帰すため。自分だけなら許容していた事柄に、生徒であるホシノを理由に私は全てを消そうとした。
責任の仮託だ。責任を負うと言っておきながら責任を押し付ける自分が恐ろしかった。
例え今までそうでなくとも、いつかそうするのではないかという自身の不審は拭えなかった。
私は完璧ではない。私は救世主でも神でもない。ただの人だ。弱く、脆い――ただの人に過ぎなかった。
ミレニアムでの戦いもそうだ。
助けてくれたノアを見ておきながら、助けようとしてくれたユズを見ておきながら、私は結局彼女たちをこの世界から消した。
もしかしたら消えずに日常を過ごす彼女たちの姿があったのかも知れないのに、私は私のエゴでミレニアムごと全てを消した。
そんな私が良い大人で居られるはずもない。
自傷気味の覚悟と共に自身を捨て去り、ホシノを駒のように扱って戦いに出た。結果、ホシノは死にかけ、私はホシノが死にかけなくてもよい答えに気が付いた。
欺瞞だ。何もかもが自分にとって必要だったと言い訳するための欺瞞に過ぎなかった。
「わ、私は……優れているわけでも無い。何も出来ない……。時間をかけて誤魔化しているだけなんだ……!」
時間を掛ければ誰であっても何でもできる。そして私は優れているわけでも無い。
シャーレの業務だって何とかしているだけだ。私は弱い。ひとりでは何も出来やしない……!
私に出来ることはただ、生徒のひとりひとりに向き合うことだけ。
誰かを救ったり、世界を救ったり――そんな大層なことを出来る力は私に無い。
「あったかも知れないんだ――! ゲヘナの結末だってもっと救いのある終わりが! 何処かに!!」
私には見つけられなかった。見つけられず、そしてマコトたちが傷ついた。
この世界の燎原の火は誰だったのか。ミレニアムから広がった戦火、その最初に火を付けたのは誰だったのか。
「私だ。私が争いを持ち込んだ。消すしか無くなった。ホシノだって目を潰した。私が、私が戦おうと選んだから――!!」
もっと良い案があったかも知れなかった。もっと良い案が、もっと良い案が――!
「私が子供たちを傷付けたんだ!! 私が!! 私のせいで! 子供が傷ついたんだ!!」
喉の奥から迸る絶叫が大聖堂を満たす。それでも私は叫びを止められなかった。
私の選択でミレニアムもゲヘナも消し飛ばした。私の選択でホシノもツルギも、皆が傷ついた――
「私に出来ることは何もない。最初から、何もなかったんだよ……私には」
叫びはいつしか嗚咽になっていた。
守りたかった。力が無くとも、ただ、子供たちが傷つく世界を否定したかった。未来へ向かって歩けるだけの赦しが無ければ、一体何のために生まれて来たのか。
「……それが君の、
事切れたかのように口を閉ざした私へ、セイアが言葉を投げかけた。
それからセイアはゆっくりと、私に対して口を開いた。
「それなら君は知らなくてはいけない、夢の本質を。そもそも君はひとつ、大きな勘違いをしている」
「……?」
セイアの瞳が私を射抜いた。
そして、セイアの口から紡がれたのは、この世界の反証でもあった。
「夢、悪夢、色々あるが……そもそも夢は、
「……っ」
「これまでの君は明晰すらしない夢に翻弄される夢の住人に過ぎない。思い返すんだ。普段の君ならゲマトリアを名乗るのかい?」
「それ、は……」
「君もまた、夢の流れに流されていたんだ。そこに自由意志なんて無く、ただ夢が描いたストーリーラインに乗っかって流されていた。だからこそ、今日見た全ては君の最悪だ。最も恐れる悪夢のひとつだったんだ」
セイアの言葉は留まることなく降り注ぐ。
預言者はただ、導き預かった言葉を紡ぐ。
「私は知っている。君の悪夢は覚めるということを。そして何より、私が導こう。この物語の結実へと」
セイアは笑う。それから語る。これまでセイアが見てきたその全てを。
そうしてセイアは口火を切った。
「これまでの粗筋」
それは、夢から覚めるための最初の手順に相違なかった。