第1話:チェーホフの弾丸
月光に照らされた夜の砂漠は、誰にも観測されることの無い閉じた箱。
何処からか聞こえるのは吹き荒ぶ砂嵐の音と、やがて途絶える少女の心音。
誰もその死は観測できない。観測に足る因果はキヴォトスの何処にも存在しない。
――そのはずだった。
「な、なんで……」
半分になった少女と、死に逝く少女。その二人を見下ろす別の影は動揺を隠すように口を抑えた。
――小鳥遊ホシノは、梔子ユメの隣で死に逝く過去の自分を見下ろしていた。
そして理解する。世界基底を操作してサンクトゥムタワーを消す度に、一体自分たちは何処にいたのか。
(アビドス砂漠――!! それも、別の世界の!!)
後ろから砂嵐が迫り来る音が聞こえる。追ってきたのだ、世界を異物を。
あの異様な砂嵐は正しく夢の住人のみを狙い続けた。現実の砂嵐ではない。あれはただ、夢の存在を消すだけの砂嵐なのだと気が付いた。
(背負って抱える……!? でも、今の私の身体って……)
試しに過去の自分へ手を伸ばしてみると、感触があった。問題なく触れられるということは動かせるということ。
もちろん無理に動かせば命の時間が削れるだけで、ここには本格的な医学を学んだ者もそのための道具も無い。
怪我の様子は本当に酷かった。左眼部粉砕。どこまで持つかは流石に分からないが、それでも数分経たずに死ぬことは無いはずだった。
致命的なのはこのまま放置されることであり、それが1時間なのか2時間なのか、夢と現実の時間の流れはどのぐらい違うのか……。
ならば、と考える。自治区から医者を連れて来るしかない。問題はここがアビドス砂漠の何処なのかということを正確には分かっていないことだった。
GPSは使えない。ビーコンだってカタカタヘルメット団があらかた解体して売り払われている。コンパスも普段から持ち歩いているわけでは――
(――いや、私は持っていなくても
砂嵐は既に渦巻く風を感じられる距離にまで近付いている。
もうひとりの自分の傍に散乱していた荷物を漁ると、あった。コンパス、それに壊れていない。水平に保てばすぐに羅針は方角を示した。
(これなら……!)
「待ってて! すぐ助けを――」
そう叫んで、不意にあるものが目に映った。
ユメ先輩の残った上半身。その傍に落ちた
一瞬、声が出なかった。
目頭が熱を帯びて、溢れかけた涙を袖口で拭って叫び直す。
「……必ず、助けを呼ぶから!!」
(――こっちの私は、間違えなかったんだね)
かつての私と比べて、こっちの私はユメ先輩に対してきっと素直で、少しだけ甘かった。
なら本当に、守らなくてはいけない。死んではいけない。死なせてはいけない。決して――!
自治区の方角は分かっている。例え距離は分からずとも、自治区の何処かにさえ辿り着ければ移動時間から逆算して位置を割り出せる。流石にちゃんと思い出す必要はあるものの、砂漠の地図なら全て頭に入っている。
武器も盾もここまでの道程において投げ捨てている。重りは無い。周囲にランドマークと成り得る地形は無かったように思える。見逃しが無ければ、ある程度の候補までは絞れている。
(こんなことなら、砂嵐から逃げ始めた時からちゃんと周りを見て置けば良かった……)
しかしそれも仕方の無いことだろう。
ホシノとてここがアビドス砂漠だとは思っていなかったのだから、あくまで結果論に過ぎない。
そしてアビドス砂漠だと疑う余地すらなかった。ミレニアム戦後もゲヘナ戦後も気絶している。まともに見たのはつい先ほどのことで、それだって固定観念が出来上がってしまった後のことだ。
10分ほど全力で走り続けて視界の端。岩山の影が目に映る。
それから全力で頭を回す。思い出せ、砂漠の地図を。あれだけ歩いたこの場所を……。
(南南西に目測200メートル、突き出た岩山の影)
(目視した場所はユメ先輩の居た場所まで10分34秒、今の私の時速は――)
(候補地は3つ。目視した場所から自治区まで3分の場所と11分の場所、それから21分の場所――)
(自治区からの復路を考えれば、3分の場所なら1時間で連れて来られる。他は……駄目だ。私以外じゃ踏破できない)
ハイランダーの列車もユメ先輩が死んだ時間軸では使えない。航空機があれば運べるが、そんな簡単に手配出来る伝手が無い。
3分の場所であればもうじき廃棄された路線の一部が見えるはず――しかし。
(最悪だ……)
見えたのは二つ目の岩山の影。あの位置に岩山があるのは自治区まで最も遠い21分の場所。
過去の自分とユメ先輩が襲撃された地点はD.U.側であることが分かった。
即ち――今この瞬間においては助けられる可能性がゼロに等しいということ。
(――それでも構わない。やれるだけのことを今やるだけ)
思考の方向性を変える。今助けられるかどうかではない。そもそも自分が自治区に行けるのかを調べる必要がある。
(ここは私のいたキヴォトスじゃない。大きいシロコちゃんがいたような、私の知らないキヴォトス……)
だったら、とホシノは思う。
別世界への干渉は例外中の例外を引き当てなければ行えないはず。だったら、今の自分は
(先生がいない今、きっとここで何かが決することは無い……はず)
ならば出来ることはただひとつ。決するべきは今じゃない。本当のタイミングで知らないが為に発生し得る想定外を潰すこと。
それから見えた。自治区の街並み。流石に何処に病院があるかまでは覚えていないため、次に活かす必要がある。
走る。走り続ける。可能な手段を探すため。
足が砂漠の砂を踏む。弾丸のように全身が射出される。そして――
「――駄目、かぁ……」
顔を上げると、そこは真昼のアビドス高校。プール場の端であった。
対策委員会室から一番遠い場所。恐らく先生が砂嵐に巻き込まれた位置から一番遠い場所なのだろう。ひとまず先生との合流を目指して対策委員会室へと向かう。
ここまででいくつかのルールが分かった。
一つ、タワーを消した存在の近くに砂嵐が出現する。これはゲヘナにおいて先生が私よりも早く着いていたようだったからだ。
巻き込まれた順にアビドス高校へと戻される。同時じゃないというのも何か後々意味を持つのかも知れないため、念のため覚えておく。
二つ、最初に砂嵐に巻き込まれた人物は対策委員会室へ転移する。そこから砂漠上での距離によって、次に巻き込まれる者が対策委員会室からどれだけ離れた場所に戻されるかが決定される。
ゲヘナ戦後に私と黒服が対策委員会室前で鉢合わせしていたのはそれが原因だ。黒服は砂漠からアビドス高校へ戻されたときに自分が合流しないようにすることが出来る。暗躍が出来る、ということだ。
(黒服も何するか分からないけど……)
何をするのか怪しい大人でも、先生が負けるとは思わない。先生に任せるべきだ。二度と自分が利用されないそのためにも。
そして、三つ。私たちは、夜のアビドス砂漠から抜け出せない。
出たはずだった。なのに、見えない壁を通過したように前から順へと身体が消えた。そしてアビドス高校に転移した。
何故出られないのかは分からないが、この辺りについては先生に聞けば答えが得られるかも知れない。
重要なのは、出られないという事実をここで知れたこと。その前提で状況を始められる。
(だったら、砂漠から出る方法か出ないままに治療を行う方法を探さないと……)
例えば、タワーを消して砂漠に来るときに医療用の物資や人員を持ち込めれば……。
と、そこまで考えたところで対策委員会室へと辿り着く。引き戸に手をかけて開くと、中には先生が待っていた。
私の顔を見て、それから何かを納得したように頷く。
「おかえり、ホシノ。砂漠のこと、ホシノだったらもう気付いているかも知れないけれど――」
「先生、もうひとりの私を見つけたよ。何処で倒れているかも分かった」
「っ!! 本当!?」
それから先生と情報共有を行うと、やはりと言うべきか、先生もあの砂漠の正体に勘付いての行動だったようだ。
私は地図を取り出して、アビドス砂漠を四角で囲う。その中の右上部分に丸を付けた。
「もうひとりの私がいるのはこの辺り。ただ、砂漠に引きずり込まれた瞬間が一番マズい」
「何処に放り出されるか分からないからね……」
自分が何処にいるのかが分からなければ、倒れている地点が分かっても意味が無い。
大体の方角が分かっても意味が無いのだ。あの時もうひとりの私が倒れている場所に辿り着いたのは本当にただの偶然。奇跡みたいなものでしかない。
偶然を必然に変えるだけの準備が無ければ失敗する。思考放棄で奇跡だけを望むのはあまりに都合が良すぎるだろう。
「先生の方で他に何か分かったことはある?」
「私の方は……そうだね。あの砂漠にどうして私たちが行けたのか、って部分の推測は出来ている。地下生活者の隠れ家と多分一緒なんだ」
「……どういうこと?」
先生が言うには、あの砂漠は一時的な混沌領域と化していたらしい。
混沌領域――全ての事象が確定されないキヴォトスの穴。結果に合わせて過程が後から作られる因果逆転の空間である。
「きっと本来だったらあの砂漠のホシノたちは誰にも見られることなく朝を迎えるんだ。その間に起こったことは誰にも分からない」
そしてあの砂漠は夢と現実が混ざり込んだ異界と化している。
恐らく私たちの存在は、もうひとりの私が見る寝覚めの幻覚みたいなものなのかも知れない。
「とにかく、誰にも知られずに何かを出来る範囲が私たちの活動限界ってことだよね……」
つまるところ、正確な活動範囲限界が分からなければ、うっかり私たちが夢から覚めかねない、ということだった。
情報は一旦出揃った。そろそろまとめに入った方が良さそうである。