刻印師がダンジョンにいるのは間違っているだろうか 作:好きになった作品ほど更新されない
「ここが、オラリオかぁ……」
老若男女どころか人種すらも問わず様々な人物が大勢往来している大通りの中、その少年は目を輝かせてこの街の中心にそびえたつ塔を見ていた。2年だけ居候していたエルフの青年から話には聞いていたが、今ではその話が嘘のように栄えた都市となっている。祖父に聞かされていた話こそ本当のことじゃないかとすら思えてくるが、あの青年が嘘をつくとは思ってもいない少年はそういう歴史があったんだと考えるようになり、同時に現在のように栄えるようになるまで復興することができたんだと改めてこの街の活気の良さに憧れの眼差しで見つめるようになった。
「確か、冒険者になるには神様に会わないといけないんだっけ」
この街でもっともメジャーな職業である冒険者は神の手によって作られている。そんなことを苦虫を嚙み潰したような表情で言っていた青年を思い出しながら、同時にギルドと呼ばれる組織に尋ねればある程度のことはしてくれるとの祖父の言葉も思い出し、この街で生まれるだろう出会いに胸をときめかせながらギルドがどこなのかを探し始める。
しかし、自分以外にも一攫千金を狙う人がいないわけがなく、むしろ冒険者は飽和状態であるとすら言える今の時代。ギルドに教えてもらったファミリアは全部門前払いを受け、訪ねたファミリアの数を数えることも億劫になり始めて宿に泊まるお金も心配になってきた頃になり、その少年は運命の出会いを果たすことができた。
その女神は心優しい神だった。まだ幼さも抜けきっていない少年をだますこともできただろうが、その女神は自分の状況を嘘偽りなく少年に伝えていた。
自分も眷属を探しているところであり、お金もない。そんな自分でも良ければ初めての眷属になってくれないか。
その言葉を、差し出された手を、ベルはつかみ取ることにした。少年は悪意を感じることもできないほどに純粋に育ってきた少年だ。栄華だけではない、悪意もまだ存在しているこの街でそれはあまりにも不利なものであり、食い物にされてもおかしくはなかった。しかし、そう言ったこともなく少年は心優しい女神と出会い、その眷属になることができた。その幸運は、見るものからすればどんな黄金よりも輝かしく感じるほどに羨ましく感じるものだろう。
少年に手を取ってもらった女神は、本当に何千年も生きてきた不変の存在なのかと疑いたくなるほどに幼くも見えるほどに純粋な喜びの声を上げていた。しかし、その様子を見ても少年は嫌な感情を抱くことはなく、むしろ好ましさすら感じるほどだった。
女神はその少年の手を連れて自分が暮らしている教会へ向かった。その教会は見るからにボロボロで本当にここで暮らしているのか疑いたくなるほどだったが、この教会には地下が存在していてそこは人が過ごすには十分すぎるほどに設備が整っていた。
女神は住処に着くや否や、さぁ自分の眷属である証を刻もうと浮ついた雰囲気を隠そうともせずに少年に告げ、少年も得に否定することなくそれに応じる。女神の血を少年の背中に書きやすいように上半身の服を脱ぐように言うと、少年は少し悩ましいと言った表情を浮かべた。その様子にどうしたのかと女神は心配するが、少年も自分の中で解決したのか、何でもないと言って服を脱いだ。
「うわ。そんなかわいい顔して胸にタトゥーを入れてるのかい?」
女神の口から思わずそんな言葉が出た。そして失言だと思ったのかハッとした表情を浮かべて自分の口を両手で塞ぐが、それをベルはかっこいいでしょう、と誇らしげに見せていた。
それは炎を思わせるような
約束を破るということをしたくない少年にとって、不義理だとわかっていても目の前の女神には申し訳なさは感じるものの真実を伝えることは選択肢にはないことだった。
そしてなにも知らない女神はそれをタトゥー以上の価値があるとは思わず、そのまま少年の背中に自身の血を刻み込んだ。これこそが異端の技術を刻んだ少年、ベル・クラネルとその主神ヘスティアの物語の開始の書き始めであり、刻印師が世に知れ渡るほんのわずかな時間の前のことだった。
「うわぁあああああああああ!」
ほの暗い地下を思わせる通路を駆ける少年の叫び声が響く。荒い鼻息と共に筋骨隆々とした文字通りの牛顔の化け物に追いかけられている少年、ベル・クラネルはその化け物が追いつかない距離を
「なんでミノタウロスがこんな上層にいるんだぁあああああああ!」
それは心の底からの言葉だった。通常ミノタウロスは中層と呼ばれる、ベルが今いる上層と呼ばれる階層には存在するはずがない
冒険者は冒険してはならない。その名に反するようなことをギルドの担当受付から口酸っぱく聞かされていたベルだが、その言葉の意味を聞けば納得ができるものだった。冒険者は大なり小なり命を落とす危険が常にある職業だ。強敵に挑まなければ強くなることもできないが、同時に強い相手に挑めばその命を落とすことになる。ある種のジレンマにも似たことだが、命を落としてほしくないギルドはたとえ聞く気がなかったとしても常にその言葉を伝えるようにしているのだ。
ベルもその気持ちはわからないわけはない。むしろ師との訓練で何度も死を感じたことのあるベルにとってミノタウロスは恐怖するには十分な理由のある存在だ。逃げても何もおかしくはないのだ。しかし、同時に胸に刻まれた刻印の主である師に鍛えられたことのあるベルはわずかに好奇心もあった。今の自分は、どこまでの実力があるのだろうか、と。
いつまで走り続けていただろうか。気が付けば周りには自分とミノタウロス以外に誰もいない。ここなら使っても問題ないだろうと、ベルは口慣れた言葉を発する。
「『
その
「『
その
「はぁああああああ!」
ベルはナイフをミノタウロスとすれ違う際にわき腹へと差し込み、強い抵抗感を我慢してナイフを手から離さないように強く握り締め、できる限り勢いを殺さないようにナイフを振りぬいた。
「くっ……!」
しかしミノタウロスについた傷は浅かった。切れはしたのだが、切れたのは分厚い筋肉だけで内臓まで入っていない。ミノタウロスの筋肉がベルの予想以上に硬かったためにうまく食い込ませることができなかったのだ。もう1度ベルは地面を蹴って同じ場所にナイフを振るったが、さすがのミノタウロスも感づいたのか腕をぶん回すがベルはそれを避け、目標の場所から数Cズレた場所ではあるが切り捨てる。だが、それでも先ほどよりは深く切ることができたものの大きなダメージとなった様子はない。
これでもダメなのか。『情熱的な進行』では、おそらく刻印に送る魔力の量を増やしたところで焼け石に水だろう。そう判断したベルは身体をミノタウロスへと向ける。
「『
警戒しながら『情熱的な進行』を解除し、改めて起動キーを口にする。全身にこもっていた熱が引き、胸に霧散した魔力が集まっていくのを感じる。
「『
そして新たに魔法名を口にしようとしたとき、ミノタウロスの口が大きく開いた。
「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■!」
「うわっ……!?」
体の底から湧き出るように出てくる恐怖の感情。これから死を迎えるのだと言葉になっていない言葉で以って教えられているとすら思えるほどの恐怖が、ミノタウロスの
ガチガチと歯がかみ合わない。湧き出るように感じる恐怖を押し殺せない。かろうじてナイフを落とすことはなかったが、足が震えてうまく動かせず満足に逃げることができない。
「ヒッ!?」
ミノタウロスの視線がこちらに向いた。思わず後退りしたときに出っ張りに足が引っかかって尻もちをついた。それをミノタウロスが見逃すはずもなく、傷が痛むのかゆっくりとした足取りでベルへと近づく。
師との訓練以降久しく感じてなかった命の危機に、ベルはうまく立つことができなかった。今度は一片たりとも好奇心が湧くことはなく、ただ好奇心に身を任せたことへの後悔とミノタウロスへの恐怖が頭の中で渦巻くように回っている。
気が付けばダンジョンの壁に背中がついた。ミノタウロスが腕を伸ばせば自分の身に届く。ミノタウロスの腕が自分に延びようとするところを見て、ナイフを盾にするように身を竦めて目を強く瞑った。
「■■■■■■■■■■■!」
次に聞こえてきたのは自分の痛みによる叫び声ではなく、ミノタウロスの苦しむ声だった。同時に自分の体全体に生暖かい液体がかかったのを感じた。何が起きたのかわからず、恐る恐ると目を開けると、そこにはとても現実とは思えない光景があった。
「■■■■■■■■■■■!」
ミノタウロスに致命的な傷が走っている。それをつけているのは、妖精が金色の髪を風でなびかせて飛んでいると錯覚するほどまでに華麗にミノタウロスを攻撃している少女だった。ミノタウロスも自身に襲い掛かる死を振り払おうと腕を振り回すがどれも当たらず、少女のもつ剣はミノタウロスに致命傷の傷を与えた。
「わぷっ!」
ミノタウロスから噴出した血が顔にかかる。幸い口に入ることはなかったが、頭からかかった血が顔に垂れていくのを感じる。目に入らないようにゆっくりと目を開け、ミノタウロスがいた場所を見る。
「あの、大丈夫ですか?」
この光景を一生忘れることはないだろう。そんな場違いなことをベルは思いながら目を見開く。そこには血や土で汚れているものの、それも一つのコントラストだと言わんばかりにきれいな少女が心配そうな声を自分にかけてくれた。
「…………」
「…………?」
呆然と少女を見るベルに不思議そうな表情を浮かべる。もしかしてどこかに大きな傷でもあるのだろうか。そう思った少女は顔をベルに近づけ、どこに傷があるのかを確認しようとする。
「あの……」
顔を近づけながら、どこが痛いの?そう口にしようとすると、ベルは顔が熱くなっていくのを感じる。同時に先ほどまでとは違う混乱が頭の中でかき回され、死の恐怖とは真反対の感情が溢れてきた。
「だぁああああああああああああ!」
気が付けば言葉にならない悲鳴のような声を上げてその場から逃げるように走る。
「……え?」
ぽかん、と。ベルが走り去っていった方向を見て何も考えられないようになる。そして悲鳴を上げて逃げたという事実に思い至り、そこまで自分が怖かったのかとショックを受けて気分が落ち込むことになった。
これがベルと剣姫と呼ばれているオラリオの実力者であるアイズ・ヴァレンシュタインとの初めての出会いだった。ベルからすれば思い出したくもない出会いだが、これが刻印師が世に出るきっかけになることを、この時誰も、全知とすら呼ばれている神ですら知ることはなかった。