「何をしてる!救急車!救急車を!!」
「運転手、てめえ何してやがる!ひき逃げなんてさせねえぞ!!」
周囲から聞こえる怒号と悲鳴。
薄れる意識の中で少年はその声と集まる野次馬達に視線が向く。
視界は半分赤く濡れていて、道路には自分のセカンドバックやグローブが転がる。
先ほど何が起こって、どうして自分は、結城士はこうなっているのか、何もわからない。
分からないまま、サイレンの音が聞こえたのを最後に意識が闇へ沈んだ。
それから、しばらく時が流れた。
ここは東京のとある町。
白い軽四の車両が1軒の民家で車を止める。
「ここだな…例の不登校の生徒の家は…」
あらかじめ家の主とは電話で話をしており、車庫の空いているスペースに車を止める。
降りてきたのは長そでのワイシャツとチノパン姿の男性。
薄く髭を生やし、日焼けした肌をした彼は散髪したばかりの角刈りの髪をかく。
彼の手にはキャッチボールをしている野球のユニフォーム姿の少年の写真が握られていた。
「そうですか…ひとまず、勉学に関しては少なくとも…」
「はい、紹介していただいたオンライン授業の教材とカリキュラムについては最低限受けていますが、あれから…ずっと家を出ることがなくて…。何度の足を運んでいただき、ありがとうございます。岩本先生」
「いえ、アイツが頑張っている様子は見てましたから…その分、ショックが大きいのは確かでしょう」
家に上がり、居間でいつも通り教材を黒のショートヘアーに紫のヘアバンドをつけたその女性、結城洋子に渡した男性、岩本太陽は出してもらったコーヒーを口にする。
居間は広くスペースが開いており、食事用の机には4つの椅子がセットで置かれている状態だ。
あれ以来、こうして教材を持ってくるために何度か足を運んでいるため、彼にとっては既に見慣れた景色だ。
彼の個室は1階にあり、家の奥あたりにある。
「去年の夏休みの終わり…今も、忘れられません」
「はい…。命が助かったのは良かったですが…ですが…」
あれ以来、すっかり変わってしまった自分の息子。
そして、それからは口数が減り、自分でもどうしたらいいのかわからなくなってしまった。
今は仕事に出ている夫も同じ気持ちだろう。
慰めでも、叱咤しても立ち直れずにもう春が来てしまった。
あのまま一生、この状態なのかとさえ思ってしまう。
「少しだけ…声を、かけさせてください。中には入りませんし、あくまでも、こちらが話すだけなので…」
真っ暗な子供部屋にはボロボロなセカンドバックとグローブが床に置かれていて、机には電源が切られたタブレット端末と勉強を終えた問題集がページを開けたまま放置している。
写真立ては写真を隠すように置かれている。
そして、この部屋で過ごしている少年はベッドの中にいる。
「おーい、結城。また来たぞ。お母さんに次の教材、渡しておいたからなー」
コンコンと軽くドアを叩く音と共に、聞き覚えのある家族以外の男性の声が聞こえる。
少年、結城士は何も答えずに薄い掛布団を頭を隠すように持ち上げる。
「春休みの宿題、ちゃんとやってくれたんだな。しっかり自己採点もして、すごいよ、お前は。なに、お前ならなんでもできるさ。きっと…。じゃあ、また来るからな。あと、一緒に入れてる4月の試験問題もしっかりやっておけよ」
一方的にそんなことを言い終えたイワモトが立ち去っていく。
しばらくして、掛布団をどかした少年が両腕だけで体をずらしていき、ベッドから降りる。
ブルブルと脚が震える中、ベッドにある支えをつかんでゆっくりとそばにある車椅子に座る。
そして、明かりをつけると今の彼の姿がはっきりと見えるようになる。
薄緑の長そでのパジャマ姿で、肩に届くほどにまで伸びた髪。
これが今の結城士の姿。
「…なんだよ、なんでもできるって…」
小さな声で先ほどのイワモトの言葉に反発する。
もしそれができるというなら、こんな場所にはいない。
無責任なその言葉に腹が立つ。
車椅子を動かして勉強机まで向かい。いつも使っているタブレット端末に電源を入れる。時にはオンラインによるものもあるが、基本的には録画されている授業をもらった教材を使って受けて、課題を解く。
食事の時間は居間へ向かい、風呂については家族の手を借りて、あとは部屋で過ごす。
これがあれからの彼の一日の過ごし方。
平日も土日祝日も、変わることのない植物のような日々だ。
「そうか…イワモト先生がまた教材を持ってきてくれたか」
「ええ…ありがたい話よ、今もこうして気にかけてくれて…」
今日は残業で夜遅くに帰ってきた士の父親である結城秀則がお茶漬けを口にする。
7:3分けをした若干白髪交じりの黒髪で日焼けした肌をしたその男性の脳裏に浮かぶのはあの日に職場に来た一本の電話だった。
朝礼を終え、今日のスケジュールを確認していて、ちょうど喉が渇いたのでコーヒーを飲もうとした時に来た電話で、それを聞いた瞬間、持っていたマグカップを落とした。
急いで病院へ行き、手術室に入った息子の無事を祈ることしかできなかった。
手術は無事に成功し、一命をとりとめたが、それと引き換えになったのが彼の夢だった。
その砕かれた夢の欠片は彼のスマホの中に入っている。
「昔っからの野球好きで、リトルリーグで優勝してヒーローになった時は、本当にうれしかった…」
将来はあのゴジラのような野手になれる将来有望な野球少年だった彼。
その周囲の期待に応えるかのように中学に入り、野球部に入部すると、夏の大会ではいきなりレギュラーとなって活躍を見せ、優勝に貢献した。
一部の同級生や彼にレギュラーを獲られた先輩部員にとっては不愉快かもしれない話だが、彼と妻にとっては誇らしい話だった。
彼はいつも言っていた。
(俺はプロになって、メジャーに行く。父さんと母さんの前で、メジャーリーガーになった俺を見せるんだ!)
だが、そんな彼の夢は飲酒運転によって打ち砕かれた。
犯人は最近になって裁判を終え、今は刑務所で収監されている。
慰謝料については満額認められ、頭金は既に入金されている。
だが、それでも失った夢が帰ってくることはない。
医者から、両足へのダメージからもう二度と野球ができないと言われたときの妻の泣き顔、そして無表情となった息子の顔を今も忘れられない。
リハビリによって、どうにか自力でベッドと車椅子を行き来できる程度には回復しているものの、そこからはいくらリハビリをしても回復の兆しがなかった。
そして、退院後は学校へ行くこともなくなった。
「そういえば、明日…だったか?彼が来るのは」
「ええ…。これが、踏み出せるきっかけになればいいけれど…」
ひきこもってから、彼は多くの友人と関係を断っており、たまに来る電話にも一切出ていない。
だが、唯一の例外がいる。
小学校のころからの友人で、その彼がせっかくだから春休みが終わる前に誘いたいことがあると言っていた。
野球とは無関係で、彼にとっては一切の縁がなかったものだ。
「だが…何もしないよりはいい。それに、今もこうして心配してくれる友達がいる。その点は恵まれているな…士は」