Suicide Outside   作:ぞんぞりもす

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一話

 じいちゃんから「タイヤ交換をする」と言われたちょうどその日、俺は美人と出くわした。

 

 ほんの少ししかない貴重な春休みの、昼前のことだった。じいちゃんはジャッキで宙に浮いたおんぼろの軽の右前輪を、軍手をはめた拳でばしばし叩いている。あちこちから糸が飛び出ていて、洗っても落ちない土のついた軍手だった。

 

「おっかしなぁ」と訛りまじりに言い、じいちゃんはすっかり薄くなった白髪に手をやる。

 俺はうんうん唸りながら車の周りをうろつく老人の観察に飽きていた。が、一応、外れないらしいタイヤの近くでしゃがんでみた。

 

「抜けない?」

「抜けね」

「車屋いけばいいじゃん。もしくはスタンドとか」

「金かかるべ。それにここまでやったなら、最後まで自分でやるじゃ」

「はぁ……よく分からんな」

 

 最後の一つだった。ボルトを外してもタイヤが抜けてこないというアクシデントが起こり、そのまま何も進まずに三○分が経とうとしている。

 ばあちゃんはペットボトルのお茶を俺とじいちゃんに渡して家に引っこんだ。洗い流したばかりのような青空の下、俺はじいちゃんと二人きりで途方に暮れていた。

 

 それからさらに一○分が経過し、飽ききった俺はスマホのツイッターを当てもなくスクロールしていた。四角く切り取られた枠の中に様々な喜怒哀楽の吐息があった。

 ツイッターを閉じて、でも暇になって、また目的もなく開く。スクロールする。更新するけど似たようなツイートばかりで、また閉じる。

 

「あ」

 

 出し抜けに顔を上げた俺は、美人がじっとこちらを見ていることに気がついた。タイトなTシャツにジーンズを合わせた背の高い女性だった。スタイルがいい、と思った。

 その美人も俺に気づいたらしく、ハイライトの薄い目で、半ば死人のような無表情で俺を見つめ返した。ぼさぼさのショートボブに収まる顔は小さく、唇の色素も、肌の色素も薄い。写真加工の変なフィルターを通しているみたいだった。

 

「タイヤ交換?」美人の声は低かった。

「うん、そうです。なんか最後の一個が外れないみたいで」

「ふぅん」

 

 美人は動かない。俺の背後にあるホイールを見ている。

 じいちゃんの「おっかしなぁ」が風に乗って運ばれてくる。

 視界の端にはふきのとうが咲いていた。芽を出したばかりの細い草花が風で揺れていた。

 

「それ、やろうか?」

「え」

 

 その細い腕でどうやって。軽のタイヤは小さいらしいが、それでもそこそこの重量があった。それに工具を扱えるようにも見えない。

 

「たぶんできるから」

 

 美人は俺が返事をする前に動き出し、じいちゃんに「ちょっといいですか」と言った。そしてひょいとタイヤを外してみせた。手品みたいだった。俺とじいちゃんは観客で、マジシャンの手際に圧倒されていた。

 焦げ茶色の髪が動くたびに揺れていた。不健康そうな肢体が、その体からは想像できないほど伸びやかに、そして力強く動く。

 

 あっという間にタイヤ交換を終えたその人に、じいちゃんは「せめて昼ご飯でもどうだ」と訛りまじりに提案した。

 しかし美人は「いらない」と一蹴し、車の通らない道路の端っこを歩いていく。もうすでに背中は小さくなっている。名乗ることすらしなかった。風のようなその人を相手に、俺もじいちゃんも正しい対応ができなかった。

 

 太陽が高い位置にあった。美人の影はアスファルトの海に浮かぶ孤島のようにぽつんと存在し、ただ優美に揺れていた。

 

 

「戒野ミサキ。趣味は……一人でいること。散歩もいい」

 

 あ、と思った。入学式を終え、自己紹介をしている最中に、俺の目は釘付けになった。先日の美人と俺は同じクラスだった。

 クラスにはおろしたての制服と同じくらいがっちがちになった人が多かった。不安や緊張からだろう。

 

 しかしミサキと名乗った美人は、微塵もその気配を見せなかった。濃紺のブレザーがよく似合っている。みんなと同じ着こなしなのに、制服は糸のほつれまで彼女を際立たせるために存在しているみたいだった。

 分厚いタイツに包まれた細い足が教壇をおりた。

 

 帰りのホームルームを終え、俺はまっすぐにミサキのもとに向かった。

 

「あのとき、ありがと」

「……、あのとき……?」

 

 いきなり話しかけられたことに、ミサキは一瞬だけ嫌そうな顔をした。

 

「ほら、車の。一週間くらい前にタイヤ、変えてもらっただろ」

「あぁ」

 

 合点がいったらしく、ミサキは頷いた。

 

「あれ、タイヤけっこう減ってたから、もって今年中だよ」

「おん」

「来年には新しいのちゃんと買ったほうがいい」

「はぁ」

 

 ミサキは立ち上がってリュックを背負い、俺の横を通り過ぎる。流れるような動作を目で追っていた俺はやっと声を上げる。

 

「待て。ちゃんとお礼言ってなかった。ありがとう」

 

 ミサキは立ち止まって振り返ることもなく言う。

 

「できたからしただけ。やれなきゃ素通りしてた」

「それでも、ありがと。助かった」

「うん。それじゃ」

「おう、また」

 

 誰とも関わりたくないというように、ミサキは一人で教室を出る。何にも興味を示さない姿勢は、誰のどこにも入りたくないと言っているようで、誰かから気にかけられることすら疎んじているふうだった。

 

 

 ミサキは教室の隅でいつも頬杖をついていた。四階の窓から見える田舎特有の瓦屋根や背の低い建物、当てのない青空を眺めていた。

 まるですべてが退屈だというように。教室という狭い箱庭から飛び出して、雲の上から落ちたいというように。

 そんなミサキに友だちができるわけはなかった。

 

 

 大人びている、というふうに認識されていたように思う。

 でも俺からすれば違っていて、人間社会の外側に行こうともがいた結果、異端という枠に収められるはずのところを、その容姿のよさが手伝って大人と錯覚されていると思った。

 野球部の顧問や体育教師が、彼女の前では少しだけ声のトーンを抑えたり、自分が大人だと示すように大人ぶった態度をとることが多かったのが滑稽だった。

 

 

 委員会を決める日、俺はたまたまを装って、同じ図書委員に立候補した。

 

 委員会の顔合わせの日、放課後に図書室に向かう途中で「どうして図書委員選んだんだ?」と聞いたところから雑談は始まった。

 ミサキは不必要に喋らない人物だと思っていたから、意外だった。彼女はクラスでも授業でも私的な時間でも、いかに口を閉ざしていられるか試行錯誤しているように見えた。

 

「暇そうだったから」

「あぁ、本を読むわけではないのか」

「電子書籍なら、読む。でも漫画のほうが多いよ」

「まんが」

 

 無愛想な顔から飛び出してきた重量のないワードが、ふわふわと脳内に浮く。どんな顔で読んでいるのだろう、と思った。

 

 ミサキが呪術廻戦や高校生家族を読んでいるところを想像する。ベッドの上でラフな格好をしたミサキが、脚をぱたぱたさせながら、食い入るようにスマホを見つめ続ける。情景だけでギャグだった。

 でも、顔だけ分からない。表情には荒いモザイクがかかって再生される。笑顔ではないと思う。

 

 いや、違う。俺が笑顔を想像することを拒んでいるのだと思った。笑顔は俺にとって恐怖の対象だった。ヒーローが悪人にとって悪であるように、世間一般ではよいとされているその表情が俺は苦手だった。

 

「あなたは?」

 

 あなた、という二人称を初めて耳にした俺は、それだけで不思議と心が音を立てた。丁寧な感じと距離を取ろうとしている感じがまざりあう、人間関係への配慮を感じた。

 ちょうどそのとき窓の前を通って、傾いた陽に上半身が当たった。長い影が壁にまで伸びる。

 考えているふうを装って間をあける。

 

「読まないかなぁ。ラリホーだしあれ」

「らりほー?」

「眠くなってくるって意味」

 

 俺はどちらかと言うとゲーム実況を見ていることが多い。これは家事の最中でも聞けるのが大きな理由だった。

 

「ふぅん」と怪訝そうな顔をしたミサキは続けて「じゃあどうして図書委員に?」と言った。俺は答えを用意していなかった。知らない選択式の問題に直面し、しかもその中に見覚えのある選択肢が二つ合ったときのように、難しい顔をする。

 

「涼しいから」

「え?」

「図書室、涼しそうじゃん。夏場はさ。環境委員とか風紀委員とか、熱いのに外いないといけなさそうだなって。朝もあんまり時間ないしな」

「それ、今考えたでしょ」

 

 ミサキは当たり前のように看破した。

 俺たちは廊下や階段を並んで歩いていて、四人分の廊下を二人分の幅で歩いている。ときおりすれ違う生徒は別々の肉体で示された部屋に向かって歩いていて、リモコンで動いているみたいにみんな無表情だった。

 

「すべてに理由があると思ってるほうが間違ってる。大層な理由なんてなかなかないんだよ」

「なにそれ。訊いてきた私が悪いみたいの」

「そーだそーだ、悪いわるい」

 

「は?」と低い声でミサキが言う。思わず体がこわばった。美人の無表情はなかなかに迫力があった。でも笑顔のほうがもっと怖いと思った。

 

「責任転嫁する男子ってさいてい」

「嫁って漢字が入ってるのに? 女子はいつだって男子に悪事をなすりつける」

「……それ、敵増やすだけだよ」

「小学校のときだってそうだった。きなこ揚げパン脱走事件とか、掃除のモップ――ロッカー開けた瞬間に毎回こっち側に倒れてくる問題、テープベタベタに貼りつけてるのはいたずら好きの吉野くん問題とかも」

「人の話を聞いて。なんの話してるの?」

「知らん」

「あと、あるあるネタと本当に関係のない個人名出すのはやめて。どっちに触れればいいか反応に困る」

「分かる。網戸と窓の間にでっかい蜘蛛がいるみたいな、な」

 

 ミサキは俺の言葉を無視した。だから俺は追撃した。

 

「ミサキには突っこみの才能があるよ。ここで捨てるには惜しい。一緒に世界を目指そう」

「一人でワーストワンになってればいい」

「もしかして俺のボケ世界で一番つまらないって言われてる?」

「実際ひどいよ。鏡見たほうがいい。同じくらいひどい」

「容姿の話は関係ねーだろ。俺かっこいいし。じゃあボケも世界一、ネガティブ界のワーストワン、マイナスとマイナスの掛け算でプラス」

 

 俺があまりにもボケまくるせいか、ミサキは意外と返答してくれた。面倒くさいと思ったかもしれないけれど、テンポの早い会話に付き合ってくれた。口論みたいなそれは、どちらかと言うと、お互いに全力でスマッシュを打ち合う卓球のラリーに似ていたと思う。

 

 ひとしきりのやり取りを終えるころには図書室に到着していた。三回のノックをして「失礼しまーす」と言う。俺は顔立ちが整っていたし、いわゆる陽キャと呼ばれるオーラを放っているらしいから、人生の毛色が違う俺には冷ややかな困惑が向けられた。

 ミサキのほうがよほど歓迎されていた。けれどミサキは何も話さず、図書当番を決める話し合いのすべてを俺に任せた。

 

 

 ミサキは笑うことがほとんどない女子だった。でも、それ以外の表情は豊かだった。屈託なく笑う同学年の男女よりも明らかに異質で、笑うことが罪みたいに思ってるんじゃないかと思った。

 あるときそれを伝えると、ミサキは不機嫌になった。

 

「別にいいじゃん」と。怒気のこもった発言の裏にはほのかな悲しさがあって、俺は申し訳なく思った。

 昼休みの静かな図書室はまるで二人だけの秘密基地だった。扉の鍵を回すたび、俺は宝箱の鍵を回すみたいに感じていた。話すことが少しずつ増えていった。

 

 

 ある日、ミサキが休んだ。担任は理由をいちいち説明しなかった。

 ラインでミサキに聞いたところ、体調が悪いらしかった。本来スマホは登校時に預けなければならない。けれど、俺はそれを無駄と思って預けていなかった。

 

 女子にはいろいろあるのだと思って、それ以上は尋ねなかった。

 それとなく翌月のカレンダーを確認してしまって、今日と同じ日付け、もしくはその数日前を見てしまって、とてつもない自己嫌悪に陥った。

 

 放課後、ミサキの家へ届け物があるかをそれとなく担任に確認する。

 

「最近は個人情報の取り扱いにうるさくてな……」

 

 担任は職員室で、他の教師を気にするように周囲を見た。頭に手をやっていかにも困ったなぁというオーラを出す。

 高校始まって最初の月から授業に置いていかれるのは不安だろうとか、そんなに手間じゃないとか、あらかじめ考えていた理由を説明しても手応えは悪い。

 

「ノートとか、ミサキ、誰から見せてもらうんすか」

 

 不意に口から飛び出た言葉は、俺が考えてもみなかった事実だった。

 ミサキは人の目を惹きつけてやまない容姿をしている。でも、同時に孤立している。悪い噂の聞こえてこない孤立した美人という異質さが、ミサキの一人を加速させた。関わることになんらかの許可証がいるみたいな認識になっていた。

 

「もしかしたら一人でなんとかするのかもしれないですけど、自分からノート見せてなんて言わないっすよ、絶対」

 

 担任は悩ましげな声を上げた。ミサキの孤立を担任も危惧しているようだった。

「おんなじ委員会でときどき話すんで大丈夫ですよ」という一言を決め手に、担任は俺にA4サイズの茶封筒を持たせた。

 住所を聞いてグーグルマップで調べ、早速向かった。

 

 

 二両編成の電車が遠くに見えて、ここは田舎なのだと思う。

 同じような形をしたアパートが建ち並んでいた。

 国道沿いの歩道には花壇用のスペースが設けられ、チューリップやアザミが植えられていた。雑草一つなく、土がむき出しとなっている場所が多い。土は乾いていた。しかしひび割れを起こすほどではなかった。

 だだっ広い駐車場に車は少ない。平日の夕方前だからだった。植林しなくても勝手に生えてくる自然がフェンスに絡みついていた。フェンスの外の草原にはシバザクラが咲いていた。

 

 人の手が入っているのか入っていないのか分からない混沌とした様相が、厳格に管理される都会とは異なっている。

 下を向いていた俺は不意に顔を上げ、太陽の眩しさを手で遮った。ミサキは四階にいるらしかった。

 

 ベルを一度鳴らしてしばらく経った。のっそりと扉を開けたミサキは、タンクトップにホットパンツだった。胃薬みたいに白い肢体が惜しげもなく光にさらされ、俺は目のやり場に困った。

 

 たとえ同じ格好でも、ばしっと決めたオシャレであれば、今日はそういう気分なんだなと思って、俺も受け止める決心がつく。

 でも、明らかに気を抜いた格好であれば、見てはいけないものを見た気分になってしまう。

 これは下着と水着の違いとよく似ていた。

 

「な……! なにしに来たの……!」

 

 家にゴキブリが出たときのような蒼白なマジ顔でミサキが叫ぶ。

 負けじと俺も叫んでいた。

 

「いや、ぴんぽん押しただろ俺! 出たのはそっち……」

 

 俺が言うが早いか、ミサキはものすごい音を立てて扉を閉めた。アニメの誇張表現みたいな、マンションが斜めや上下に縮んで伸びる感じの音が聞こえた。やがて緩い部屋着に着替えた、肩で息をしたミサキに封筒を渡した。

 ほんの少しだけ開いた扉に体を隠して立つミサキは、俺を半目で睨んでいる。

 

「ライン……なんでくれないの」

「いや、いっかなって……ごめん」

 

 バツが悪くなり、行き場を失って逃げ出そうとする心を押さえるようにして後頭部に手を当てる。毎朝ワックスを付けている髪を無造作にくしゃっと握った。

 

「ごめん。今度からするよ」

「……無理そうならいい。意外と面倒くさがりなの?」

 

 俺は目をそらして一度頷いた。

 

「返信けっこうマメだったから、そういう性格なんだと思ってた」

「面倒くさいけど、人間関係こじれたら、もっと面倒だろ。だからやってる」

 

 ぶっきらぼうに言った俺は、ミサキの顔を見ることができなかった。

 カラスが陽気な鳴き声を響かせて飛んでいった。

 

「分からなくもないけど」ミサキは俺の背後にある手すりを見ている。手すりのぎりぎり上から外の世界を見るように俯いている。

 

「あと、その、なに、なんだ。格好、もう少し気をつけたほうがいいぞ。女子の一人暮らしなんだし、俺みたいな男に襲われないような格好したほうがいい」

 

 念のための忠告にミサキは気分を害したようだった。ミサキは片手で扉を押さえていた。

 もう片方の手で自分の腹を隠すようにしている。その手が力んだのが分かった。意味不明な男からいきなり言われた言葉が怖いのかもしれなかった。俺はミサキから距離を取って、手すりに背中を当てた。

 

「うるさい。別にいいでしょ。私の勝手。それに私を襲う物好きなんていない」

「そりゃ勝手だろうけどな。でも美人はあんまり卑下するもんじゃない」

「……なに?」

 

 ミサキは俺の正気を疑うように片目を歪に細め、眉をひそめた。嫌悪感からの仕草か、真意を探ろうとしての仕草なのか。ミサキはその立ち姿すらも様になっていた。

 

「ねぇ。私、明日どんな顔であなたと話せばいいの?」

「分からん。普通でいいよ」

 

 ミサキは苦々しい顔でため息をついた。「とにかくありがとう」と淡々と続ける。

 

「一人暮らしか?」

「そう」ミサキは恨むようにちらと部屋を振り返って、隠し事が見つかったのを悔やむように頷いた。

「そっか。大変だろうけど頑張れよ」

「どういう意味?」

「え、家事とか」

 

 これ以上の話は無意味と思って「じゃあな」とむりやり話を切り上げた。『ありがとう。気をつけて帰って』と送られてきていた。無事に帰宅できたことを伝えるメッセージのあとに、よく分からん適当なスタンプを送ると『なに?』と返ってきて、その日の会話は終わった。

 

 

 四月の下旬のことだった。またしてもミサキが休んだ。俺は担任から届け物を頼まれた。「行けるか?」という問いかけには、物理的な意味以外にも、様々なものが込められているように感じられた。

 

 今度はミサキに連絡を入れて学校を出た。アパートについても既読はつかないままだ。

 暮れ合いの前のアパートは、人の気配が薄かった。住んでいる人の数が一戸建てよりはるかに多いのに、死んだように静かで、階段を上る靴音がコンクリートの壁にすべて吸収されているみたいだった。

 部屋のベルを鳴らしてもミサキは出てこなかった。

 

「ミサキ?」

 

 ノックをしても返事はない。

 一階まで郵便受けを見に行く。きれいだった。ライン通話をかけても出なかった。いきなり倒れたとか、もしくは寝ているとかだろうか。

 

 試しにノブを回してみると、すんなり回った。

 封筒を届けに来たはずの俺は、まるで下着泥棒かのようにミサキの部屋に足を踏み入れた。足音を消すことには慣れていた。

 

 きちんと整理された生活感のない部屋を、俺はまるで足の踏み場がない人が進むみたいにつま先立ちで進んだ。

 閉め切られた薄いカーテンからわずかばかりの陽光が入っている。空気が滞っていた。この部屋はミサキの心の中みたいだった。

 漫画や文庫本は見当たらなく、枕の近くに大きなクマのぬいぐるみが置かれている。かわいらしさと無骨さがせめぎ合う部屋だった。

 ミサキはベッドに仰向けで寝ていた。俺の存在に気づき、わずかに顔をこちらに向ける。

 

「だれ」

「おれ」

「……しってる」

「知られてなくても自己紹介するから安心しとけ」

「うん」

「うんではないだろ」

 

 軽いやり取りをしたとはいえ、ミサキの顔には、警戒と怯えと恐怖が滲んでいた。そこまで親しくないクラスメートがいきなり上がりこんできたのだ。無理もないと思う。

 後者二つについて、俺は考えなかった。俺個人の境遇からくる予想がミサキに当てはまるとは限らないからだった。個人の体験を意味ありげに語るやつはだいたい老けていて、そしてだいたい嫌われている。

 

 ミサキの瞬きは極端に少なくなっていた。俺の一挙一動に合わせて、焦げ茶色の瞳がゆっくり動く。警戒した昆虫のように、ミサキは俺から目を離さない。

 俺はかわいらしいデザインのラグの上に膝を立て、そのあとに正座をした。野良猫を刺激しまいとするような慎重さだった。

 

「届け物、届けに」

「うん。勝手に置いといていいよ」

 

 ミサキは座卓を顎で示した。それから緩慢な動作でスマホを手に取り「連絡入れてたんだね。気づかなくてごめん」と言った。ミサキの頬は青白かった。ブルーライトのせいではないと思った。

 

「いや、こちらこそ、すまん。倒れてるんじゃないかって思って……」

「心配しすぎ。老人じゃないんだから、そんな頻繁に倒れたりしない」

 

 淡々としていた。責められるとばかり思っていた俺は返すべき言葉を見つけられなくて俯いたままだった。ミサキが礼を言ったところで、俺はやっと顔を上げる。

 しばらく無言だった。俺は立ち去らなかった。

 

「帰ったら? ここにいても無駄」痺れを切らしたミサキが口を開く。

「なぁ、ちゃんと飯、食ってるか?」出し抜けに俺は尋ねた。

 

 キッチン周りに生活はあらわれる。部屋の散らかり方に性格はあらわれる。

 この部屋の洗い場には何もなかった。近くにカップラーメンの空容器が山積みになっているわけではないし、かといって食器が見当たるかと言えばそうではなくて。

 

 息遣いがない。営みが感じられない。この部屋から受け取る印象はその一言に尽きる。

 ミサキは言いづらそうに言った。当然、目が合わない。

 

「昨日から食べてない」

「だと思った」

 

 俺はリュックを置いたままにして立ち上がる。

 

「勝手に使っていいか?」

「適当に用意するからいい」

「そうする気力もわかないから、そうやってベッドで休んでるんだろ」

 

 面倒くさそうな態度を一変させて、ミサキは俺を睨み上げる。鋭い視線だった。

 

「何? 同情? それとも料理できるっていうアピール?」

「そんなんじゃない。ってか親切心って回答が出てこないあたり筋金入りすぎるだろ」一呼吸置いた。「一人暮らしの大変さは知ってるつもりだよ」

 

 俺の口調から何かを読み取ったらしいミサキは何も言わなかった。

 

 俺は冷蔵庫を適当に漁って卵の雑炊を作ることにした。近くの戸棚に土鍋があった。こういうところが息遣いなのだ、と思った。

 土鍋を火にかけている間に、消費期限の切れている食品を適宜捨てていった。ミサキに確認するようにしていたのだが、最初は怪訝そうな顔で頷いていたミサキは、途中から「好きにして」と言い放った。

「男子に言っていいセリフじゃないぞ」と言うと「きしょくわるい」と返された。

 

 冷蔵庫の張り紙で確認したところ、燃えるゴミの日は明日だった。食品と一緒に燃えるゴミもまとめた。吹きこぼれる寸前でなんとか土鍋の存在を思い出し、事なきを得た。

 

「食欲あるか? 一応一人前だけど」

 

 布団からのそのそ出てきたミサキは、鍋から昇る湯気をかいで(・・・)むせた。「大丈夫かよ」と言いつつ水を持ってくる。

 

 ミサキはレンゲを取り、血色の悪い薄い唇でふーふーして口に運んだ。

「おいしい」とミサキは言った。固くなっていた心臓が安心から拍動したのを感じた。

 ミサキは自分の言葉に驚いたように、無表情のまま、目だけを見開いて固まっていた。俺にとって特別な無表情だった。

 

「俺もうちょっとゴミまとめてるから、腹いっぱいなったら教えてくれ。洗って帰る」

 

 暗に残してもいいと伝えたけれど、伝わったのかどうかは分からない。

 俺が立ち上がるのに合わせてミサキの顔が上を向いて、その様子をかわいらしく感じた。

 

 

 ビニール袋をがさごそ言わせていた俺は、ミサキが食べ終わったことに気づけなかった。気づいたら後ろに美人がいてビビり散らかした。

 

「あなた、おじいちゃんと暮らしてるんじゃないの? どうして……」

「違うぞ。一人暮らし。あんときは力仕事要員で呼ばれただけ」

 

 中身のなくなった土鍋を丁寧に置いたミサキは「自分で洗う」と言ってきかなかった。ミサキは燃えるゴミ用のビニール袋を指さす。小さいながらも読みやすい字で町内名が書かれていた。

 

「ごめん、それ。まとめさせちゃって」

「ん? あぁ、いいよ。気づいたからやっただけだし。最初のほうって自分がどんくらい食べるのか分からなくて食べ物余らせがちなんだよなぁ。数人で暮らしてるのと一人のときじゃ全然違うし」

 

 袋の口を縛り、軽く揺する。よし、と独り言がもれる。実家にいるときは決してもらさなかったはずなのに、一人暮らしを始めてからは独り言がもれるようになった。

 

「それじゃ、自分で洗うなら――」

「ねぇ」

 

 逡巡が視線の動きにあらわれ、ミサキが次の言葉を発するまで少しの間があった。

 

「どうしてライトは……そこまでしてくれるの?」

「あんときのお礼だーって言いたいんだけど、お礼にしちゃさすがにやりすぎてるもんな。自分でも変だと思ってるよ」

 

 俺は軽薄に言った。すべてがうやむやになるように。聞いても無駄だと諦めてもらえるように。

 ゴミ袋から独特の臭気が漂う中、ミサキと俺は立ち尽くしていた。

 

 なんとなく理由は分かっていた。

 本当に弱い人は、痛いことを痛いと言うことすらできない。そういう、助けを求められない人に特有の優しい拒絶感や、人と距離を取ろうとする言動の端々を、母に重ねてしまったのだろう。だから面倒を見ようとする。自分の見たかった結末が見れるように、と。

 

 つまるところ、これは自己満足から始まった破滅への一途なのだと思う。まだ破滅すると決まったわけではないけれど、唯一の標本との縁故はほとんど切れている。

 

「俺に見つかったのが運の尽きだな」

「そんなこと初めて言われた」

「悪役しか言わねーもんな、こういうセリフって」

「そういう意味じゃないんだけど」

 

 ミサキは困惑気味に言った。気難しい様子だった。

 

 ミサキは玄関まで俺を送りに来てくれた。

 外の明るさが室内に入りこむ。いやおうなしに照らされた室内が少し身を縮めたように思われた。

 ミサキが上下長袖のジャージを着ていることに、俺はこのとき気がついた。

 

「今日はちゃんと服着てるんだな」

「前回が裸だったみたいに言わないで」

「家の中で露出するならセーフだぞ」

「うるさい」

「言うて俺も不法侵入したし……今なら下着泥棒と夢のタッグを組めるな。お安くしとくぞ?」

「さっさと帰って」

 

 リュック越しにぐいぐい背中を押され、部屋から閉め出された。扉が閉まる前、俺はミサキを振り返って言う。

 

「こんな田舎に、高校入った時点で一人暮らし。訳ありだとしか考えられないだろ。俺に手は貸さなくてもいいけど、俺は勝手に親近感覚えてるよ」

 

 言い終わると同時に扉が閉まった。だから返事はなかった。聞こえているのかすら定かではなかった。

 街は夕暮れだった。俺は、並んで自転車を漕ぐ幼子と母親のようにはなれないし、古い民家から流れてくる料理のにおいに「今日のご飯はなんだろな」と心を踊らせることもできない。履き古したスニーカーがいつも通りの速さで俺をアパートに運んでくれる。

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