Suicide Outside   作:ぞんぞりもす

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一○話

「そういえば、バイト変える」

 

 ミサキは目をしぱしぱさせながら寝室から出てきた。寝間着のままふらふらと俺のもとまで歩いてきて服のにおいをかぎ、「シャワー入ったあとか」と呟く。もしも汗のにおいがしたら朝の早い時間――日課のあとシャワーを済ませていないため――で、汗のにおいがしなかったら午前中のけっこう遅めの時間という、ミサキなりの時間確認らしかった。

 

「一○時くらい?」

「そうだな、そんくらい。いやもうちょっと前かな。今日一一時からだったよな?」

 

 バイトの時間確認にミサキはこくりと頷く。

「まぁまず顔洗ってきな」ミサキが離れたことを確認して、俺は昼ご飯の仕上げに移った。

 

 心なしかしゃっきりしたミサキと大皿を囲みながら、起きぬけに聞いたことを尋ねてみる。

 ぽかんとした顔をするミサキと一番上まで閉じられたボタンとが妙に合っていなかった。ミサキには寒色が一番似合うと思っていたが、彼女の寝間着は桜色で、儚い色味とたおやかさが合わさって想像を覆されて久しい。

 

「私、そんなこと言ってた?」

「言ってたぞ。人間関係か?」

「ううん。そういうのじゃないよ」

 

 小さな口に冷製パスタを運びながら、ミサキは合間合間に「んー」と唸る。

 

「なんか、店閉めるらしくて。それで」

「そうかぁ」

「もともと人いないみたいだったし、お客さんもどんどん減っていってるみたいで」

 

 免許を返納する人が増え、かと言って若い人が来るような場所でもないから、お客さんは減っていく一方だったのだという。ミサキはそうつけ足し、俺はミサキがトラブルを起こしたわけではないと知って安心した。

 白い目で見られたけれど、学校の様子を知る俺に非はないと思う。

 

「いつまでだ?」

「ひとまず七月いっぱい……もしかしたら七月の下旬とかまでかも。だから夏休み中だけ短期のバイト探そうかなって」

 

 ミサキが気落ちしているようには見えない。「残念だったな」と言うのも違う気がしたし、だからといってすぐすぐ「具体的になんか考えてるのか?」なんてがっつくのも違う。ミサキのことにどの程度まで干渉することが許されるのだろう。恋人や夫婦といった関係によってラインは違う。そして俺とミサキは一線を間違えがちだ。

 俯くようにして冷製パスタを食べていたミサキが上目で俺を見る。小動物みたいだった。

 

 部屋にはかわいらしい小物が増え、全体的に色調が淡くなった。すっかり半同棲のようになっている。

 

「気難しそうな顔してる」

「イケメンはどんな顔しても様になるだろ」

「うん」

「うんじゃねーよ」

「元がいいからどの角度からの自撮りも盛れる」

「追撃すんな。てかミサキのほうがよっぽどだろ」

「よく言われる」

「自分で振っといてなんだがn=1だろそれ」

「一○○パーセントだよ」

「狭いせまい、世界が狭い」

 

 手を止めてフォークを持ったまま、何かを押し縮めるみたいにぎゅっと胸前でジャスチャーした。

 俺とミサキの食べるペースは同じくらいだった。ミサキは小さな口で少しずつ、間断なく食べ進める。俺は大きな口でミサキの様子をうかがいながら食べ進める。その終点にある同じ減り方。

 巻き返せるから、俺はフォークを皿に置いた。

 

「なんか、なんて言えばいいのか分からんくて。考えてた」

「正解なんてないよ」

「かもしれん。だからといって思ったことをそのまま言うのも違うだろ」

 

 ミサキはわずかに口角を上げて俺を見る。

 

「自分の言葉に責任があるところ、変わらないよね」

「言葉の身勝手さとか、痛みとか、いろいろと知ってるからな」

「重みが違う」

「ミサキもそうだろ」

「ううん。私はそういうのじゃなくて、ただ、期待に押し潰されちゃっただけだから」

「善意だって人を壊すことがある」

「善意なのかな、あれは」

 

 から、と。フォークが慎重に置かれる。ミサキは皿に乗せたフォークが今の自分の心境だとでも言うように、注意深く、落ちたりしないように位置を調整する。皿に先端がこすれて耳障りな音がする。悲鳴みたいだった。

 

「私のお父さん、有名な私立か国公立に行かせたかったみたいで。小さいころから塾行ってたんだ。田舎なのにね」

 

 目を丸くする俺に一瞥を向け、ミサキは皿に視線を戻した。

 

「あるとき――って言っても、中二の秋とかだったと思うんだけど。いきなり学校行けなくなっちゃって。心理的な無理が祟った、みたいな診断受けて。ひとまず休もうってことになったんだけど、家にいても休めなくって、いろんなところに相談してこっち来たんだ」

「うっ、あ、おん」

「一度裏切ったんだから、絶対にどこかでまた裏切ってしまう。そしてそれはきっと、命を損なう形態をしている。地面に落ちたリンゴが世紀の大発見になれることなんてものすごく稀で、大抵は食べられないものとして処分されてしまう」

 

 抑揚のない声で放たれた言葉は「そう思っていたんだけどな」という淡い言葉が上書きした。

 

「ライトに何回元気をもらったのか分からない」

 

 斜向かいで腰を上げたミサキが静かに歩み寄ってきて、しゃがんだかと思うと勢いそのままに唇を奪ってきた。俺はラグに押し倒され、手にしたままのフォークをミサキに向けないように動かす。

 ミサキの体は軽かった。ラグはやわらかい。その下にあるフローリングの硬さを間接的に感じた。

 

 外ではミンミンゼミとアブラゼミが鳴いていた。エアコンの稼働音が聞こえた。

 ミサキは執拗に俺の舌を、音を立てて吸った。もっと、もっとと言うように、引っこめられた舌もろとも口内をまさぐった。

 

 じゅぷ、という音を最後にミサキは顔を上げ、喉を鳴らして二人の結晶を飲みこんだ。赤い舌がほんの少しだけ覗き、手の甲で唇を拭う。

 

「今の話、忘れてもいいよ。私がしたくなってしただけだから。ライトに話したことを私が覚えていれば十分」

 

 ミサキは昼ご飯の続きをするために立った。

 

 話さなくても、一緒にいられると思っていた。でも、ミサキは俺に大切なものを預けてくれる。

 報いたかったけれど、熟成された過去は腐り、もはや原型をとどめていなくって。必死にすくってもこぼれ落ちてしまう。ちょっとずつしか取り出せない俺を、ミサキは許してくれるだろうか。きっと許してくれるだろう。

 

 でも、許してもらえるとしても、それを前提とすることは甘えだろう。もしかしたらミサキは俺の過去を聞きたいのかもしれない。耐えているのかもしれない。いきすぎた甘えは攻撃になる。

 

 それなのに時間は暑い日に外に置いたアイスみたいに溶けていって、もう取り返しのつかないことになってしまって。

 ミサキは「じゃあ行ってくるね」と出ていった。未練も何も感じさせない清々しい足取りだった。

 

 

 浴室から出てきたミサキが、前期期末考査に向かて勉強する俺にしなだれかかってくる。二人の間に置かれた七○○ミリリットルのコーラが優しい音を立ててテーブルに移された。

 シャンプーがほんのり香った。俺もミサキと同じのやつを使うようになったけれど、同じ匂いだとは思えない。

 

「眠い……」

「風呂上がりの一時間後が一番眠くなりやすいらしいぞ」

「ふぅん」

「上がった体温がゆっくりと下がっていくうちに眠気が起こるんだと」

 

 話しているうちにミサキは上体をどんどん傾かせ、俺の足で動きを止めた。伸びた俺の足にミサキが頭を乗せる。

 

「冷房もうちょっと上げるか?」

「ううん。今のままでいいよ」

「寝たら体冷やすぞ」

「ブランケット持ってくる」

「おん」

 

 ほんの一瞬重みが消えた。ミサキが戻ってくる前に、座ったままでもエアコンを操作できるように、部屋の隅に置いていたリモコンを取って来て座り直す。

「ん」ミサキは目ざとくそれを見つけたが何も言わずに横になった。

 

「夏休みの間だけ短期バイト探してるんですって伝えたら、近くのプールの監視員はどうかって言われて」

「ほーん」

「角」

「Horn」

「ねいてぃぶ」

 

 立式した数式のイコールの位置がノートの端寄りに固定される。ノートを押さえる必要のなくなった手でミサキの髪を梳いた。

 

「もう見つかったのか」

「見つかったっていうか」

 

 ミサキは俺の手首を掴んで、動かしたいように動かした。せっかくドライヤーで整えられた髪が乱暴に撫でられ、あちこちに飛び出る。

 

「どうかって提案されただけだよ。でも一人の時間が長いらしいし、暇みたいなんだよね。形だけの監視って言えばいいのかな」

「まぁ田舎のプールだからなー」

「年々利用者減ってるらしいよ」

 

「やるのか、それ」ページを移すために手を離すと「ん」と不満の声をもらされる。すぐにミサキの手が伸びてきた。

 

「やるつもり。伝手らしいから新しく探すより楽そうだし、お世話になった人の紹介ならあまり無下にはしたくもないし」

「出たよ田舎の謎ネットワーク」

「ここが地元の人たちはほとんど顔見知りみたいだからね」

 

 ミサキは「ふぁ」と手で口を隠して、「そのあとはどうしようかな」とこぼす。

 ミサキは今でこそ余裕があるように見えるけれど、最初はかなりぎりぎりでやりくりしていた。だから夏休みが明けたあとバイトをしなければ、いずれ生活資金が底を尽きる。受験から追いかけられながら生活資金のことも考えては心が潰れてしまうだろう。

 夏休みの終盤に今日と同じような会話をする光景が目に浮かぶ。

 

「俺たちはそろそろ受験を意識しないとだよな」

「まだ早いと思うけど、進学校の人たちはこのくらいから意識してそうだよね」

 

 ここは自称進学校だから、すでに受験を意識している人は進学クラスの中でも稀だ。そのくせ八月初週に勉強合宿なんてものが計画されているから頭が痛くなってくる。模試対策などではなく、夏休みの課題をするためのものだろ、と突っこみたい。

 

「なぁ」何気ない風を装って声をかける。字が不自然にでこぼこになって、きゅるっとシャーペンの動作機構が音を出す。紙面に波が立ったみたいだった。

 それを鎮めるために下敷きを入れ直し、紙面と下敷きの中に入った空気を抜いていく。中央から外側にこすっていった指先が熱を帯びた。出血と同じ熱さだった。

 

「頑張ってる人にお金を出すのは変だと思うか?」

 

 ミサキは体勢を変え、仰向けになって俺を見上げた。両手を伸ばして俺の顔を包み、見えない涙を拭うように、親指で頬骨のあたりを優しくさする。

 

「夏休み明けの生活費の目処は確かにまだ立っていないんだけど……いいのかな」

 

 迷いのこもった声だった。

 

「俺の迷惑になるんじゃないかって意味で『いいのかな』って言ったのなら、問題ない。でも、それをしたら自分がどんどん甘えていきそう、大丈夫かなって意味で『いいのかな』って言ったのなら、俺は何も言えない。ミサキのことだから」

 

「うん」とミサキは頷いた。俺は面倒くさい数式にぶち当たって、こめかみを第二関節でぐりぐりと揉んだ。ここから先は全部、計算が面倒くさいタイプの問題だった。

 

 となりの住人が帰宅した音に顔を上げる。エアコンの稼働音に住人の息遣いがまざり、がちゃん、どどん、と賑やかになる。うるさいと思う人がいる音量かもしれないが、俺は他人の出す生活音が家族の出す音よりも好きだった。他人の音だから緊張するのはもちろんだけれど、周囲に人がいると明らかになることで、俺は世間から守られているのだと思えた。

 

 ミサキと一緒に買った壁掛けの時計は七時を指していた。ちらと下を見るとミサキは眠っていて、俺は足をあまり動かさないようにブランケットに手を伸ばす。かわいらしいクマが広がる。

 

「ありがとう」

「……起きてたのか」

「眠れなくて」

 

 ブランケットをちょうどいい位置に直したあと、淡い色の唇が動く。

 

「たとえばの話なんだけど。被災地とかに送るのは駄目なの?」

「送ったことならある」ぶっきらぼうな声になった。手が止まり、目が焦点を結べなくなったせいで視界すべてがぼやける。「俺も父さんもそんなにお金使うたちじゃないから。でもそしたら次から次へと無心されて、だからやめた。その場所に行ったから求められただけかもしれないけど」

 

 知らない人に多額のお金を渡して喜びを共有できるほど、俺はできた人間じゃない。加えて言えば笑顔は怖い。だからできるだけ視界に入れたくない。

 世のため人のため世界のためなんかじゃなくて、身近な人に使うほうが何倍も価値があると思ってしまう。褒められる感性ではない。かといって蔑まれるべき感性だとも思わない。普通ってきっと、こういうことだ。

 

「人間ってほんと――あぁいや、ごめん」

 

 人間は醜悪だ。だから努力して生きようとする人は尊い。

 俺は両親と離れたいと思っていながら、いまだにその両腕にぶら下がっている。バイトに剣道に学校にとなれば押し潰されてしまう、なんて幻覚を本気で信じるふりをして。

 

 ミサキが俺と生活費を共有したとしても、足跡は消えない。風化したり、波に飲まれたりしても、透明になるだけでそこにある。

 ミサキは俺の提案を飲んだ。俺たちは二人の関係につけるべき名称を失って久しかった。

 

 

「どう最近」

 

 好きなゲーム実況者の挨拶をまねしてみる。ミサキは怪訝そうな顔で俺を迎えた。

 ミサキがバイトを始めたのは屋内プールだった。プールサイドの水撒きをしていたミサキからホースを受け取り、見様見真似で引き継ぐ。

 

「もうすぐ閉館だけど」

「知ってる知ってる」

 

 ぺた、ぺた、と二人分の素足が濡れたアスファルトを進んだ。青だったプールサイドがどんどんと紺に変わっていく。日中にかなり暑くなったせいか、茹だっているような熱が足裏から伝わってくる。

 

「勉強の気分転換に散歩でもと思って」

「ふぅん」

 

 夜になってから素振りをすることも道場に行くこともある。ただミサキを家まで送る必要がなくなってからというもの、夜に出歩くことはめっきり減ってしまったので、今日は慣れない場所に行ってみようと思ったのだ。

 ミサキはおそらくスクール水着の上からウインドブレーカーを着ていた。少しサイズが大きいため裾から生足が覗いていて、ホットパンツを穿いているときよりも背徳的だった。足の付け根まで見えている。体や髪が濡れていないところを見るに、どうやらプールに入らずにいたらしい。

 

「泳ぐわけではないの?」

 

 俺の視線に気づいたらしいミサキが言う。

 八月の勉強合宿の最終日には自由時間が設けられていた。そのとき用に水着を新調していた――クラスメートからミサキのことで散々言われたことを今でも覚えている――けれど、いま着ないほうがいいと思って、また到着と同時に閉館時間になると思って、俺は部屋着の半袖短パンだった。

 

「運動はもう十分した」

「そう」

「そういえば受け付けに誰もいなかったけどいいのか?」

「いいらしいよ。どうせ人来ないだろうって管理人さん帰っちゃった」

「女子更衣室入り放題じゃん」

「一つだけロッカーに鍵かかってたでしょ」

「いや、ところどころに鍵のないロッカーあったぞ。紛失したんだろうな」

「……本当に女子更衣室入ったの?」

 

 鍵のないロッカーは男子更衣室に散見された。女子のほうも同じだろうと予想したのだと俺は説明した。ミサキは白い目のままだったが一応信用したらしい。

 半同棲とはいっても洗濯と風呂だけはかなり慎重にやっているので、俺はミサキの下着を見たことがほとんどない。もしかしたら自分のアパートで洗っているのかもしれない。

 

 雑談しながら水撒きを終えるころには閉館時間になっていた。だがミサキは「少しだけ泳ごうかな」と言い始めた。

 

「いいのか? 鍵閉めなくて」

「んー……おそらく。受け付けとか外の電気消せばばれないんじゃないかな。ちょっと行ってくる」

 

 俺がホースを律儀に巻いている間に戻ってきたミサキは、準備運動もそこそこに飛び込み台の上に立つ。ゴーグルも水泳用の帽子もない。思いつきによって突き動かされた準備不足だ。それでもミサキはどこか楽しそうだった。

 俺は当たり前のように手渡されたウインドブレーカーを腕にかけたまま、あたたかみのあるタイルの上に立ちすくんでいた。

 

 ミサキのスタイルに見とれていた。彼女は一年前と比べて肉付きがよくなったものの、イメージでは細いままだった。ところが体はまろやかで、ふっくらとした尻の肉が足の付け根で一筋のしわを作っていた。

 蛍光灯に照らされ、闇の海に浮かぶ孤島。室内プール。その中でひときわ輝きを放つのは闇だった。光の中にある鮮烈な闇だった。一人きりで眠るときに優しく抱きしめてくれたものと同じだった。手を伸ばしたい。そう思ってしまった。

 ミサキは白い肌をさらし、焦げ茶色の髪とピアスを垂らし、赤い瞳で水面を見つめている。凛とした横顔だった。しなやかにミサキが伸びをする。

 

「いつもライトが運動してるところ見てるし、たまにはね」

 

 ミサキはどこかいたずらっぽく俺を見て、流れるように身をかがめて飛び込み台を蹴った。

 俺はしばらく呆けていた。我に返ってからは、ミサキが泳ぐのと外とを交互に見ていた。

 

 

「人来た」

 

 駐車場にヘッドライトが差す。水音にまじってドアの閉まる音がした。

 ずっとプールサイドにいた俺はミサキのレーンの前でしゃがんだ。異変に気づいたミサキがターンをせずに動きを止める。顔の水気を手で拭い上げ、そのまま髪をかき上げる。雰囲気ががらりと変わった。

 

「人来たっぽい」

「……ほんと?」

「おん」

「車種は?」

「見えんかった」

「たぶん管理人さんだね……どうして今日に限って」

 

 ミサキは開いた扉から外を見やる。険しい表情だった。

 

「とにかく電気消して隠れよう」

 

 両手をついて、ミサキは水から体を引き上げる。

 肩から水が滴る。変色した水着から足を伝って水がアスファルトに浸透する。幸い水撒きをしていたので、色が変わったのはごまかせそうだ。

 

「こっち、シャワールームあるから」ミサキは俺の手を引いて外に出てから場所を指示した。

「ミサキは?」

「電気消したらそっち行く。電気がついてもばれないような場所に隠れて。物陰とか」

「分かった」

 

 ミサキと別れ、月光を頼りにして注意深く進んだ。シャワールームを見つけ、入ったあとにカーテンを閉める。

 暗闇で浅い呼吸をした。体に負荷はかかっていないのに、過負荷のせいで心臓が痛い。実家にいる夜みたいだった。

 

 少ししてからミサキが駆け込んできた。驚きの声を上げる前に鋭く囁かれる。

 

「カーテン閉めてたら『人います』って言ってるようなものでしょ」

 

 ミサキはできるだけ音を立てないようにカーテンを開いた。そして使い終わった人がちゃんと閉めておかなかったくらいの中途半端な開け方にした。

 ミサキの体と密着する。塩素の香りがした。背中はかたい壁に押しつけられ、前はやわらかな人肌に押しつけられている。こんなふうに胸を押しつけられたことはなかったし、水着だったのもあって、形を変える生々しい感触に意識が向く。

 

「靴ちゃんとしまった? 出しっぱなしとかにしてないよね?」

「そりゃ大丈夫だけど……」

「ならいい。あと、変に離れようとしないで。ぎりぎりだから」

 

 そのうちに足音が聞こえてきた。懐中電灯がゆらゆらと天井を照らしたり壁を照らしたりするのが、開いたカーテンの隙間から見えた。電気がついて、誰かいるのかという声が反響する。訛りの強い老婆の声だった。ぺた、ぺたと素足が床を叩く音だけが耳に届く。

 音が遠ざかり、やがて電気が消えて、更衣室から人が出ていく気配がする。一秒が永遠に感じられた。

 

 こわばっていた体から力が抜け、さらにミサキと密着する。

 

「ロッカーの中にでも隠れればよかった」

「人が入れる大きさのロッカーなんてないよ」

 

 ホラゲーのつもりでボケたのだけれど、伝わらなかったらしい。

 

 人の気配がなくなったあとも、もういいと判断するまでミサキは真剣だった。途中で一度安心してしまった俺は老婆に意識を割き切ることができなくなっていた。

 テストの途中で思い浮かんで消えなくなった歌みたいに、やわらかさが思考をかき乱す。

 不意にミサキが離れた。

 

「もういいかな。ごめん、服」

 

 メッシュ生地で乾きやすいとはいえ、俺の服は濡れていた。しかし下腹に熱が集まっていたせいで股間周りでしか冷たさを感じない。それ以外の場所は二人の体で温められて、ぬるく湿っていた。

「いや」と言い、俺は濡れ具合を確認していく。素振りで汗をかいたときと同じくらいだからあまり気にならない。

 

「ねぇ」とミサキが神妙な声を出す。手の甲にミサキの手が重なる。そろそろと伸びてきた手だった。「その、もしかして」言い淀み、甲に触れている手に力が入る。

 俺はこの間何も言えなかった。動きも止まっていた。

 

「大きく、なってる?」

 

 ミサキの言葉は尻すぼみになった。俺はこんなに困惑しているミサキの声を聞いたことがなかった。彼女の声音だけで申しわけなさがこみ上げてくる。

 離れたミサキの手が、おっかなびっくりに股間に触れた。人さし指と中指で裏筋をなぞり上げられる。生地が薄いせいでテントが張っていることがさぞ分かりやすかっただろう。

 

「したい……ってこと、だよね?」

 

「すまん」俺の声はもはや聞き取れないほど小さかった。

 ミサキは「ううん」と言った。「許可なんていらないよ」

 

 下腹を離れた手が俺の首に回される。無理して背伸びしていることは想像に難くない。少し体を丸めると、ミサキが深いキスを求めてきた。

 

 何度もなんどもしている行為なのに、今日だけは火を消すことができなかった。

 自分の心すら焼いてしまうと分かっているのに、炎は勢いを増して舞い上がる。

 

 淑やかな水音がさらなる情炎の呼び水となった。

 

 愛おしいとか、好きとか、そういうのじゃなくて。

 想像よりも肉感的な肌と触れ合ったことで性欲が刺激されたことが悔しかった。ミサキじゃなくても反応することは目に見えている。欲に振り回される肉体を恨んでも、体は固まったまま動かない。奥歯を噛んで、想いの雫がこぼれることだけは防いだ。

 

 体から始まった関係の先に何があるかなんて考えたくもない。それなのに想像力は残酷で、おしゃべりにすべてを伝えてくれる。

 

「もっと」

 

 俺の頭を掴んだミサキは執拗に口内をねぶった。

 何度も唇を重ね、舌を絡ませる。虫が慎ましやかに演奏をする中に番の水音が割って入る。つんと塩素が香った。

 ミサキの舌は弾力があって、あたたかく、何よりもぬらついていた。

 

「ぁ」

 

 動かした手がスクール水着の胸部に触れる。触れたままで動かせない。

 

「いいよ。もっとしても」

 

 体が押しつけられたせいで胸の形が変わった。ブラジャーのかたさはなく、じかにやわらかく押し返される。水を吸って暗い色をした水着は見えない。もしも見えたら、ミサキの肌との対比がさぞきれいだったろうに、と思った。

 

 感触を確かめるように揉むと「ん」とミサキが小さな吐息をもらした。小さな芽をつまんだ瞬間、悩ましげな熱い息が首筋に当たった。

 

 手が胸から脇腹を這って、細腰を掴む。くすぐったさの中にわずかにまじる快楽が弾けたとき、ミサキは身を震わせた。動いて刺激を与えていないのに少しずつ呼吸が熱を持ち始めた。

 

 腰から手を回し、ぴっちりと張りついたスクール水着の中に手を入れる。弾力のある尻をぎゅっと掴むと「ひぁ」とミサキが高い声で鳴いた。俺にしがみついて肩口に顔をうずめたミサキは、必死に声を押し殺している。息が荒くなっていた。

 怪しい快感が胸で弾けた。好奇心と優越感と独占欲のまじった仄暗い喜びだった。

 

「ひぅ……」

 

 スクール水着の隙間を押し広げて進み、尻の割れ目に指を這わせる。粘度のある液体が指の腹についた。

 ミサキはとうとう自分の口を手で覆った。俺たちは密着していたが、ミサキはなりふり構わず俺から距離を取ろうとした。手が水着から抜け、ぱちんと生地が尻を叩く。ミサキがそれにすらも喘ぐ。

 

 ミサキは自分の出している声が信じられないようだった。

 俺は暗い声で謝った。

 

「ごめん」

「ううん。……だいじょうぶ」

 

 その大丈夫は、何に対しての大丈夫なのだろう。

 襲われることを覚悟していたのか、今日はいわゆる安全日という意味なのか、それとも、受け入れるという意味なのか。怖かったから、見ないふりをして黙った。

 

 沈黙を苦痛と感じ始めてからしばらく経った。闇のせいで、ミサキが物音を立てないせいで、俺は一人でシャワールームに閉じ込められている気がした。

 目の前に相手がいるのに何も分からない。存在も心も不透明なままもがいている。

 

 いっそ平手打ちでもされたほうが気が楽だった。悪いことをしたのだから罰が必要だと思って、でも俺は自分に罰を与えることが怖くって、だから他者から痛みを与えられることを求める。

 

「それより」ミサキの声は頼りない細さをしていた。「ここでするの」

 

「家に一応、用意してる」

「なに、ゴム?」

「……自分を抑えられないときが、あるかもしれないと思って」

「そんなに責めなくていいよ。私は怖かったけど嬉しかったから」

 

 どうしてそんなに、先を読んで話せるんだろう。

 

 ミサキが更衣室で着替えている間、俺は一人で夜風を浴びていた。体の内側を蝕む熱はどこにも行かなかった。

 近づいてくる足音が止まり、ロッカーを開ける音がして、とんと靴が置かれる。

 

「ごめん、待ったでしょ」

「いや」

「見てもよかったのに」

 

 ミサキは冗談めかして言ってくれたけれど、その言葉の軽さみたいなものが、さくっと胸に刺さる。受け入れられている事実が受け入れられないのかもしれない。その末路を知っているからだ、と思う。

 

 プールから自宅までの帰路、俺たちはほとんど話さなかった。

 熱は虚しかった。心臓が忙しなく動き、血が全身に行き渡るはずなのに、下腹部の一箇所で停滞し、淀む。体の内側を這い回る情欲によって、毒にでも冒されたみたいに呼吸が浅くなる。早くなる。

 

 

 寝室に入ってからも勢いだった。

 嬉しさや興奮よりも、後には引き返せない後悔とごめんなさいが大きかった。結局こうなってしまうのだな、と自分を嫌悪した。でも、どれだけ自分を罵ったところでミサキの中はあたたかく、気持ちがよかったし、ミサキが俺を受け止めてくれたせいで、自分を制御することができなくなっていた。

 

 ミサキが何度俺を抱きしめてくれたのか分からなかった。全身を圧迫するような力強い抱擁にただただ安心したことだけを覚えていた。

 

 

「おきた?」

「……、まだ、微妙に眠い」

 

 翌朝、俺たちは全裸で一つのベッドに収まっていた。ミサキと目が合った瞬間に心臓が跳ねた。

 ミサキは自分の腕を枕にするようにして、体を横たえて俺を見ている。

 

「第一声がごめんじゃなくてひとまず安心した」

「あー……」

「言おうか迷ったでしょ」

「そりゃまぁ……だって、なぁ」

「私、こう見えてけっこう力あるんだよ」

 

 ミサキは細い腕を掛け布団から出した。枕にしていないほうの手だった。差しこむ細い白線を受けて輝いている。空中にとどまらせていた手をゆっくりと降下させ、俺の喉に添える。

 耳もとで囁くように言った。

 

「抵抗できたらしてる」

「機嫌を損ねたら死んでたのか、俺は」

「……どうだろう。痛めつけるくらいはしてたかも。もしくは再起不能になるくらいまで蹴り上げるとか」

「蹴り上げるが具体的すぎて想像しちまったよ」

「女子って強いんだよ」

 

 ミサキは口もとに手を当てる。「でも」と今度は俺の頬を撫でた。

 

「ライト昨日ずっと泣きそうな顔してたから、それだけが心残りかな」

「……電気ついてなかっただろ」

「雰囲気で分かるでしょ、そういうのは」

「そういうもんか」

「そういうものだよ。どのくらい一緒にいたと思ってるの」

 

 ミサキの顔が近づいてきて優しく口づけされる。顔が離れて目が合うと、ミサキの目尻が優しく弧を描く。

 

 愛は、熱を伴った幻覚だ。

 平手も性行為も、いつだって熱がある。発電するときどうしても熱が発生するみたいに、愛するときにも熱が発生する。だからエネルギーの無駄で、たくさんの熱が発生して愛がちゃんと伝わらなくて、好感度のゲージみたいなのは溜まっていかなくて、高揚が愛されているのだと錯覚させる。

 そう思うと心臓が内側から破裂しそうなほど痛くなった。

 

 ぼやけていた視界が焦点を結び、優しい顔が目の前にあることを知る。

 

「……俺にできる範囲でならなんでもする」

「ふぅん、なんでも?」

 

 ミサキがわずかに表情を崩して、耳もとに顔を寄せた。

 

「次からはもっと嬉しそうに抱いて。ね? 私に注がれた分は、心にも注がれてるから」

 

 ミサキは朝のせいで硬度を得ているそれを優しく撫でて、もう一度俺に口づけをした。

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