Suicide Outside   作:ぞんぞりもす

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一一話

 初めて体を重ねてから一週間しか経っていないのに、もうすでに回数が片手では足りなくなっている。していない日はミサキの体調が優れない日だった。ディープキスはしていいけれどその先は駄目、という一線は明らかに書き換わった。

 勉強の休憩時間にでも料理中にでも今までのようにキスをして、そのままの流れでお互いの体を触りあい、果ててしまう。生活は適当になったが、質は上がった。

 

 勉強合宿は、そんな爛れた生活の最中に訪れた。

 

 バスは縦に連なり、目的地へ粛々と俺たち一行を運んでいく。バス内の空気は一足先の修学旅行みたいに浮ついていた。

 

 銀河を突き抜けるくらいに果てのない空色が広がる暑い日だった。

 ゆりかもめに乗れば当たり前のように見える海が右手に広がっている。都会のように建物が風景の邪魔をしないからか、海は俺が思っている以上にだだっ広かった。けれど都会と同じように黒かった。ときおり波が打ち寄せて不規則な白い模様が生まれた。

 周囲に広がる森が、海の手前に見える砂浜が、のびのびと日光浴を楽しんでいる。

 

 ちらとミサキに目を向ける。彼女は俺と通路を挟んで、海の見えないほうの窓側にいた。座るときは男女別だった。窓縁で頬杖を突きながらバスに揺られている。酔い止めが効いていないのかもしれない。

 

 セーラー服に包まれた神秘を俺だけが知っている。聞き慣れない自分の声に恥ずかしがって頬を赤らめ、必死に口を押さえる姿を俺だけが知っている。それでも漏れてしまう吐息の熱を、俺だけが知っている。

 

 昨日もしたのに、と思った。海と同じくらい黒く重いものが胸に広がった。俺は海を見やった。

「海すっげえきれいだよな!」ととなりから声をかけられる。じゃんけんに負けて通路側になった彼に帰りは席を譲ろうと思ったけれど、進行方向的に見えないかもしれない。

 

「俺の心のほうがきれいだな」

「……確かに」

「納得すんな」

 

 プラスチックや不純物の多い海を遠くから見ても、汚いとは思えない。近づいたら、きっと汚いと思ってしまう。やり場のない気持ちは豪快な笑い声に馴染めなくて、心の隅で体育座りをしていた。

 

 

 勉強合宿は何事もなく進んだ。俺とミサキは二人で一緒に勉強をした。ときおり席を立つのは、解説を見てもよく分からない問題に当たったときだけだった。同学年が多くいる旅館で、俺たちは二人きりの世界に閉じこもった。

 風呂と寝るときだけ別行動で、逆に言えばそれだけの時間しか離れていないのに、違和感がすごかった。

 寝るときは数人のクラスメートと同じ部屋で、枕投げに興じた。

 

 

 あっという間に最終日を迎えて、今日ばかりは羽根を伸ばしてもよかった。勉強してもいいし、寝ていてもいいし、海までのシャトルバスが運行しているので希望を出せば行くこともできる。夜はバーベキューが予定されている。

 母に連れて行かれたものとは違うバーベキューだ。昼間に思い切り動いて腹を空かせておかなければならない。

 

 ミサキが「勉強する」と言ったので、俺はクラスメートとともに海に向かった。ミサキの水着が見れないことを誰もが残念がっていたが、俺はスクール水着を拝んでいたので、それほど残念に思わなかった。

 

 

 昼ご飯を食べてビーチバレーや遠泳をして、俺は休憩がてら荷物番をしていた。複数のグループと遊んだので心を調整する必要もあった。

 

「休憩?」と声をかけられたのはそのときで。

「おん」とミサキの影を見て答える。顔を少しずつ上に向ける。

 

 俺は怪物のうめき声みたいなものを出して固まった。

 

 ミサキはちゃんとした水着を着ていた。胸部はがっちりと防御を固めているけれど、下のほうは足の付け根まで見える。くびれや鼠径部を惜しむことなくさらけ出していて、繊細な肌をあますところなく楽しむ――拝むことができた。

 オーバーサイズの上着のせいで後ろ姿を見ることはできないけれど、尻の周りが危ういデザインになっていることは想像に難くない。後ろ姿の防御力の高さと正面の無防備さの差が凄まじかった。

 

 気分転換に来ただけでジャージだろう、という俺の想像は、現実によってありえない方向に蹴っ飛ばされた。

 

「座ってもいい?」

 

 聞くが早いかミサキはすぐさまブルーシートに腰を下ろした。体育座りをして膝を抱きかかえたせいで体のほとんどが隠れてしまう。

 俺は無言で首を上下させたあと、ミサキの動きを顔で追うロボットになっていた。

 

「なんか……すごいな」

「すごい?」

「おん。破壊力が」

 

 制服を着崩すことのない美人が、いきなり露出度の高い格好をしている。私服である程度見慣れている俺にさえ刺さった。

 周囲の人の視線から、ミサキの立ち姿を見たのか座った姿だけを見たのかかんたんに予想できる。

 

「ふぅん」と言ってミサキが髪を耳にかける。オレンジ色の小さな星がきらめいた。

 空と海は同名別種の青をたたえ、砂の白と木々の緑が視界に広がる。油が変色したような重い青を俺はじっと見た。

 

 部屋にミサキがいると落ち着くのになんだか今日は落ち着かなくて、ちらちら視線を向けてしまう。上がった心拍数のせいだと思った。拍動が穏やかなら、きっと水着のミサキがいたとしても気にならない。

 しかし下着姿のミサキがリビングにいて落ち着いていられるかを真剣に考えたところ、無理だった。何を考えているんだろう。

 

「……もうちょっとこっち来れば寛げるぞ」

「うん」

 

 ミサキはブルーシートに手をついて、体育座りのまま軽く尻を上げるようにして移動した。上着の裾がだらんと垂れて白い肉が一瞬あらわになる。

 ペットボトル一本を間に置けるような距離感。リビングで一緒にいるときよりも遠いけれど、そのおかげで心の壁が壊れずに済んでいる。

 

「楽しい? 海」

 

 ミサキは目を細めて俺を流し見る。

 

「楽しいぞ。ミサキが来てくれたから一○○倍だ」

「マイナスにプラスをかけたら小さくなるんだよ」

「もともとプラスだわ」

 

 楽しそうな声と波の音がどこか遠くに聞こえる。二人だけが世界から何層にもわたって隔離されているみたいだった。

 

「前に一度、海に行ったことがあってな」

 

「うん」と言ってミサキは海に向けていた視線を一瞬だけ俺に向ける。続きを話すかどうかは好きにしてもいいよ、話すなら聞くよ、というジェスチャーだと思った。

 

「母親の撮影で一回、どっかの海に行ったことがあったんだよ。大勢の大人がバスに乗りこんで。そのときはなんて言うか、大人が水着姿の女性に群がっているようにしか見えんくて怖かった」

「お母さんが襲われそうで怖かった?」

「いいや。当時はうまく考えられなかったんだけど、今なら分かる。

 将来自分もああやって……性的な欲求を煽られて、それを分かっていながら我慢ができなくなるんだろうなって思ったら怖かったんだ。いつか取り返しのつかないことをするんだろうなって確信めいたものを覚えて」

 

 そのいつかは、俺が思っているよりもずっと早くて。

 自虐しようとしたけれど飲みこんだ。責任をミサキに押しつけているみたいで嫌だった。この責任はすべて自分が負わなければならないものだ。

 

 澄み深まった空よりも、海を見ているほうが性に合う。見たくない部分まで照らされるのが嫌だから、日陰を好む。俺はそういう人種だ。

 

「だから今もまだ泣きそうな顔で私を抱くんだ。あれ、少し寂しいんだよね」

「……すまん」

「ううん」

 

 ミサキはブルーシートの外側に手を伸ばして、半分ほど砂に埋もれた貝殻を取り出した。暑いのか何度か持ち替えた。

 小さな手のひらに収まる小さな貝殻。色褪せていて、力を込めればたやすく割れてしまいそうで。ミサキは貝殻についた砂を親指の腹で丁寧に払った。

 

「我慢できないのが嫌?」

「そういうわけじゃないんだよ」

「じゃあ、なに」

 

 さく、と砂に貝殻が立てられる。同じようにして、言葉が胸に突き刺さる。

 俺もミサキも体育座りをしていた。俺のほうが体を縮こまらせていた。両足を抱くようにして腕で体を押さえつけている。海よりも下の砂に視線が移った。

 砂と同じくらい無数にあるカップルの中で、ひと粒が風に運ばれて海に沈んだことを知っている。

 

「我慢できなかった者の末路を知ってるからじゃないかな」

「私たちもその人たちと同じに見える?」

「いいや、あんまり」

「じゃあ大丈夫じゃないの」

「だったらいいなぁ」

 

 日差しよけのパラソルが思っているよりもずっと高い位置にあった。手を伸ばしても届かなかった。届かないからこそ、安心できた。伸び切った腕がだらんと垂れて、ブルーシートにぱさりと落ちる。上に乗っていた砂が跳ねた。

 ブルーシートは海と空の中間くらいの青さをしていて、それは俺とミサキの二人でいるからかもしれない、と思った。

 

「証明しようよ。何回もして、それでも大丈夫って」

 

 ミサキに一瞥を向けると目が合った。赤色の目が輝いていた。

 

「それとも、私とするのはもう嫌だ?」

「その聞き方はよくない」

 

 ミサキは口の端を優しく持ち上げて、それから俺にしなだれかかってくる。やがて抱きしめるように腕が伸びてくる。チワワやポメラニアンが飛びかかってくるような勢いではなかったけれど、彼女の力は強く、がっしりと抱きしめられた俺は彼女の抱擁を解くことができなかった。

 

 ブルーシートからはみ出して、背中が砂に着地する。生きている熱さがあった。思わず「あつっ」と叫んで飛んで、でもミサキの拘束を解くことはできなくて、腕やら背中やらを何度か砂に打ちつけて、そのたびに叫んで、やっと脱出した。

 

 ブルーシートに座り直して腕や背中を叩くと、ぱらぱらと砂が落ちて、乾いた音がした。

 

「下手したら日差しよりも熱いんだけど」

「私はもっと熱いもののほうが好きだな」

「おい」

「なぁに?」

 

 白い目を向けたが赤い目の反撃にあい、俺は視線をさまよわせた挙げ句、海に浸かる一団を見た。

「まだちょっとついてるよ」とミサキは背中に残った砂を払ってくれたあと、「水着濡れてるんだね」と言った。

 

「一眠りしようかと思ったのに」

「旅館戻ったらどうだ?」

「一緒にいられないでしょ」

「それなら別に俺の足を枕にしなくたっていいだろうに」

 

 俺は振り返って、様々な形状のリュックを顎で示す。なんならブルーシートをじかに枕にしてもいい。

 

「書き心地のいいボールペンと、インクがすぐに滲んでしまってうまく書けないボールペン。どっちも手もとにあるとしたら、どっちを使いたい?」

「もういい、もういい」

 

 俺は手を振ってミサキとの会話を打ち切った。そのあと二人で水着を乾かす手段を考えたが、何も浮かばなかった。

 水遊びをしていた集団がスイカ割りをしたあと、おいしそうにそれを食べる。二人分もらって食べ終わっても、結局案は浮かばなかった。

 

 ウェットシートで手を拭いていたところ、不意にミサキから腕を引かれ、俺はミサキに向かって腕から倒れこんだ。横座りの足がちょうどいい位置にあって、また高さもちょうどよかった。

 

「……逆じゃないか?」

 

 ミサキの太ももは寝心地がよく、冷たい。ミサキは俺の片腕を叩いた。薄手のジャンパーが叩かれるたびに、かさ、と乾いた音を立てた。

 目を閉じたはずなのに、太陽は暗闇を突き破って脳に刺さった。

 

「ねぇ」とミサキが言う。

「ん」とミサキの手首を掴んで応じる。

「こっち向いてよ」

「おん」

 

 海に向けていた顔を上にやった。ビーチパラソルが傘と同じ骨組みだなんてこのときまで気づかなかった。ビーチパラソルが落とす影を遮って、体を前に傾けたミサキが視界を埋める。

 窓の上部から逆さ吊りでこちらを覗く心霊現象のようだった。髪が重力に引かれ、普段は見えない小さな額があらわれる。今度はそこにもキスしよう、と思った。

 

「おっきくしてもいいんだよ」

 

 びくんと体が跳ねて、背が伸びる。あっという間に下腹に血流が集まっていくのが分かった。

 俺は何も言わずに、虫でも追い払うようにして手を振った。目をつむったら何をされるか分からなかったので、海に向き直ることでミサキを視界から外した。

 

「もう」とミサキは言った。再び軽い力で腕を叩かれる。安らいでほしいのか興奮してほしいのかミサキの気持ちが分からない。

 

 砂と同じくらいの高さから見る海はいつもより遠くに見えた。白い砂が広がって、油のような海があって、その中にぽつぽつと黒い頭が浮かんでいて、きらきらと反照によって輝いている先の水平線は空と同化している。

 

「海が素敵な思い出になったらいいね」

 

 ミサキの口調は優しかった。ミサキは腕を叩くのをやめて俺の髪を手櫛で梳く。海に入ったせいで何度も引っかかってしまう。ミサキは無理に解こうとはしなかった。

 自分の思い出が書き換えられればいいなんて、思ったこともなくて。思わず息を呑む。ミサキはそのためにわざわざ冗談を言いまくったのだろうか。

 

 体の向きを回転させると、普段は見ることのない顎の裏が見えた。髪を梳いていたミサキの手が離れる。

 俺は手を伸ばして顎裏を優しく撫でた。

 

「ん」ミサキが喉をさらけ出す。

 

 猫みたいだった。ただ、撫でられるのが好きなだけで意外と性感帯ではないらしい、というのが近ごろの俺の学びだった。

 

 手を戻して海を向く。ミサキが髪を梳く。

 熱くなりすぎていた体の熱がちょうどいい具合いに下がって、風呂上がりみたいにぽかぽかしていた。重力に引かれているわけではないのに、瞼が自然と閉じてしまう。

 闇でも構わずに刺さってくる光が気にならなくなり、聞こえてくる音は鼓膜で何層ものフィルターを通すみたいに遠くなる。

 

「今度からは無言で襲ってもいい?」不意にミサキが言った。穏やかな調子だった。同学年の人たちは楽しそうに海で遊んでいた。

 いきなり雷が閃いたみたいに思考がはっきりして、あっという間に脳内再生をしてしまう。「おい」と言おうとしたけれど、太ももに乗っていないほうの耳をくすぐられて身を捩る。ミサキは楽しそうだった。

 

「今度から触ってあげる」

 

 ミサキは呪詛のような予言を残して、耳をいじるのをやめた。返ってきた静寂は熱を帯びていた。

 

「なぁ、眠りかけてたんだけど」

「あ……ゆ、ゆっくり休んでね」

「おん」

 

 

 そうして気がついたときには眠っていた。日の傾いた砂浜には、一緒に来たはずの人がいない。ミサキは「先に帰った」と説明した。

 俺が寝ているときにミサキはどんな顔でやり取りしたのだろう。気になったけれど聞けなかった。

 

「私たちも帰ろう。たぶん最後だよ」

 

 軽くシャワーを浴びて着替えて、停留所まで向かった。

 

 海沿いの道路を通る車は少ない。帰宅するための最短経路じゃないからだろう。世界の端っこに追いやられたみたいに俺たちは二人きりだった。

 昼と夜から切り離された宙ぶらりんな時間だったから、名前のない宙ぶらりんな関係も許されるような気がして、それがほんのり心地よかった。

 横に伸びた長い影が車道の反対側にまでかかっている。色の変わった空は落ちこんでいるように見えた。

 

 アスファルトをバスが通って、俺たちを追い抜いていく。もしかしてあれ、みたいな雰囲気になってミサキが先に小走りになった。

 手を伸ばしても影は横に伸びるばかりで、ミサキの影とすら俺は手を繋ぐことが叶わなかった。

 

 

 旅館に戻って大浴場でてんやわんやし、少し真剣に勉強をしたら、バーベキューの時間はあっという間にやってきた。

 

 せっかく風呂に入ったのにもう一回入り直さないといけないなーなんてミサキと話しつつ、適当に食材を切って適当に焼いた。家のキッチンと勝手が違うというのに、ミサキはやはり野営に慣れている。

 即席でタレを数種類作って周りの人を驚かせるなんて一幕もあったけれど、俺たちの間にはおおむね穏やかな空気が流れていた。

 

 片付けまでやろうとして教師に止められ、俺とミサキは少し離れた場所で焚き火を眺めることにした。

 明かりから遠ざかるに連れて喧騒も遠ざかる。貸し出し品である折りたたみの椅子を二人分運ぶ俺をミサキが先導してくれた。

 

「転ばないように気をつけて歩くのもいいけど、田舎の星空ってきれいなんだよ」

「どうした急に」

「俯いて歩いてたように見えたから。言っただけ」

「……座ったら見るよ。転んだら危ないしな」

「うん」

 

 俯いて歩いている人に、転ばないように気をつけて歩くのもいいけど、と言ってくれる人は優しいと思う。大抵は無責任に前を向けと言うだけだから。三六○度が道なのに、人はどうしてか進む方向を変えることを嫌う。

 

 程々のところに椅子を並べた。

 

 金平糖を散りばめたような星空に、思わず「おぉ」と感嘆した。

 後ろに控える森林の静寂が聞こえる。自然という気配を感じる。圧倒的なのにとても優しくて、トトロのお腹で眠ったメイちゃんもこんな気持ちだったのかもしれない、と思った。

 ミサキも俺と同じように背もたれに身を預けて空を仰いだ。

 

「星がきれいなんだってこと、私もライトに会うまで知らなかった」

「俺、星がきれいだとか、上を見たほうがいいだとか、そういうこと言ったことあったっけ」

 

「ううん」とミサキは俺を見た。それから星に視線を戻した。「身長差」

 

「それだけか」

「それだけだよ。大層な理由なんて案外ないんでしょ」

「うわ、なっつ」

 

 懐かしいと言うための小さな「っ」に力を込める。ほんの一年と半年前なのに、とても遠い場所のようだ。

 ミサキは優しい口調で話した。

 

「あのときは最初、めんどくさい人に目つけられたなって思ってた」

「すまんな」

「今もときどきめんどくさい」

「おい」

 

 ミサキは空を見上げたままだった。安らかな表情をしている。だから強めに何かを言うことができなくて、ふてくされた口調になった。

 

「流れ的に今は違うとか言うところだろうに」

「人参とかじゃがいもとか、皮剥くのめんどくさいけど私は好きだよ」

「いや、あのな……?」

 

 言わんとすることは分かるけれど、なんか違うくないか。ミサキは俺の視線をまったく気に留めなかった。

 そのうちどうでもよくなって、ミサキから視線を外した。

 

「前にも似たようなことあったよな。こんなふうに、夜に二人で並んで話した」

「去年の秋かな」

 

 ミサキはしみじみと「もう昔のことみたいに感じてる」と言った。

 数え切れないほど二人きりの夜を過ごしても、心の中の日記を見せることは少ない。初めてはメロドラマのように書いたくせに、日常に飲まれたら行間で察してもらおうとする。たった一行分の隙間には寂しさが詰まっている。

 

 ミサキは静かに椅子を動かした。整った顔がいつもと同じ距離に来る。彼女は口もとに手を当てた。

 

「あのときの私たち、ちょっとどうかしてたよね。勢いがあった、って言えばいいのかな」

「今もけっこうあるだろ」

「……するときとかね」

「思ったけど言うなよ……」

「でも勢いがないとできないでしょ、二人とも。だからちょうどいんじゃない」

 

 驚きのあまり言葉が出なくて、静寂があたりに轟いた。

 いつも手を引いてくれるミサキが見ているのは暗闇で、むりやり星を思い描いて銀河にしていたんだと思い知った。

 

「もしも」ミサキは言葉を切って、一度遠くの火を見た。さらに視線を落として自分の腹を見た。ゆっくりと、さする。

 

「私たちの間に子どもができたら、ライトはどうしたい?」

 

 俺は揺れる火をじっと見た。影となった生徒たちが楽しそうに動き回ったり、俺たちと同じように二人きりで話したりしている。ここだけ周囲の重力を引き受けたように一気に重くなった気がした。

 ミサキは立ち上る煙を見上げていたと思う。言ってしまったことを後悔するように大きな吐息が聞こえた。

 

 ミサキの問いかけは、意識の外からいきなり俺を切り裂いた。

 

「私はちゃんとした愛情を知らないし、自分の血がまざっていると思うだけで、きっと愛せないと思う。まだ養子だったり、他人として愛情を注ぐほうが深く傷つかないで済むと思う。だからきっと、自分の子どもを見たくないと思ってしまう」

 

「ライトは?」とミサキは優しく問いかけた。傷つけたことを謝るような調子だった。

 

 彼女は決して「堕胎させる」とは言わなくて。それが余計に痛ましかった。浅ましい快楽の果てにある痛みに耐える覚悟がある。一方で俺はミサキと同じだけ傷つくことが許されない。覚悟もない。

 

「俺は」

 

 乾いた声は続かなかった。唾を飲むことすら忘れて浅い呼吸を繰り返す。

 俺が気持ちよくなっている裏で、ミサキは恐怖と戦っていたのかもしれない。目の前から目をそらしがちな俺は、自分の思い描きたい遠くしか見ようとしない。みっともなかった。同い年なのに年のとり方が違っていた。

 

「でも、私はそれを分かった上であなたと体を重ねている」

 

 飛んできた虫を、手のひらで水をすくうときみたいにして受け止めて、ミサキは言う。

 自分よりも弱いものに寄り添えることが、優しいことなのだと思う。

 ミサキの手で羽を休めた虫がやがて力強く飛び立つ。

 

「気持ちいいっていうのはもちろんあるけど、あなたと繋がっていると、嬉しいんだ」

 

 隣り合った椅子から手が伸びてくる。俺の手の上で重ねられた。椅子から立ち上がって歩いてくる。布の座面に膝を乗せて、体を倒してきた。

 視界を覆う影は、かつて自分を包みこんでくれたものと同じ影だった。頭を押さえられたまま、子どもが示す親愛の情みたいな、唇をぶつけるキスをした。

 

 愛の形はみんなそれぞれ違う。

 それは分かるのに自分の形が分からない。継ぎ接ぎだらけのパッチワークじゃもらったものを返せない。汚泥を返してなんになるのだろう。

 目に気持ちが上ってきた。鼻がツンとし、目頭に熱が溜まる。奥歯を噛むことも、拳を握りしめることもできない。

 

 気持ちを吐露してくれた相手に向かって、俺が涙を流すのは絶対に違うと思って、こらえた。気持ちが熱となって、唇が離れると同時に吐息とまざって霧散した。

 

「今すぐじゃなくてもいいんだけど、考えがまとまったら教えて。手遅れになっても私は構わないから」

 

 ミサキは照れたように髪を耳にかけて、俺を見る目を細くした。それ以上何も言うことなく椅子に戻って空を見た。

 

 傷口からあふれ出る液の正体を探っているうちに俺は眠ってしまっていて、ミサキから体を揺すられて目を覚ました。

 液体は止まっていて、絆創膏を貼ってくれたのがミサキであることまでは分かっても、そこから先どうしたらいいのか分からない。

 

「そろそろ戻る時間だって」

「……悪い」

「寝顔見るのも楽しいからあまり気にしないで」

「そんなに面白いものでもないだろうに」

「面白くなくてもやっちゃうことってあるじゃん、料理とか」

「食べてる人の笑顔を思い浮かべて、みたいな?」

「そうそう」

「それなら分かるかもしれない。俺が料理するときもそうだから」

「でしょ?」

 

 ミサキは声のトーンを一つ上げて、椅子から立ち上がった。ミサキの分の椅子も持とうとしたけれどミサキから止められて、代わりに手を繋いで歩いた。

 

「今日は新月なんだね」

 

 俺は訳も分からず、空をひと通り見回して頷いた。深い闇の中で木々が朧げに佇んでいて、その上に星空が広がっている。月は見えない。

 なんのためにそんなことを言ったのだろう。もしかして上を向かせたかったのだろうか。

 

「どういうことだ?」

「ううん。月明かりがない日だなって思っただけ」

「ないと駄目なのか?」

「なくてもいいよ。これから先もずっと」

「それは困るだろ」

「そうかもね。まっくらだから」

 

 ミサキは俺の手をきゅっと握った。俺たち二人を見て、周囲が何かを言うことはもうなかった。

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