Suicide Outside   作:ぞんぞりもす

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三話

「教えてほしいところがあるんだけど」

 

 水曜日のことだった。座り心地のいい図書室の椅子でうつらうつらしていた俺に向かって、ミサキはシャーペンでノートを示した。

 俺は目をしぱしぱさせた。ミサキは黙って俺を見ていた。

 

「ん」

「いつも眠そうだよね」

「疲れが取れん」

「帰宅部でしょ? 家帰ってから何してるの?」

「家事ってけっこう体力いるだろ。だからだよ」

 

 ミサキに触れないように体を寄せて、シャーペンのノックを見る。不思議な香りがした。甘いけれども甘すぎない、と考えたところで、饅頭や大福が近いのかもしれないと思った。

 ミサキの頬は血色が悪いが、女性らしい肌触りのよさとふにふにを兼ね備えていた。

 

「なんで私のこと見てるの?」

「まだ寝ぼけてるから」

「叩いたほうがいい?」

「角度が悪いと陽気に歌いだすから気をつけてな」

「それ恥かくのはライトじゃない?」

 

 改めて問題に向き直る。物理基礎のようだった。

 シャーペンを借りて公式を書きつつ、言葉で考え方を話していく。丸っこくて小さな字の中にまじる俺の字はノートのB罫からはみ出していた。

 

「テスト近いな」

 

 予鈴の間際に呟いた。

 ミサキはシャーペンを動かしながら「うん」と言う。前期の中間テストだし、何より模試ではないから、点数が取りやすいことは予想できた。ただ、何事も初めては緊張する。

 

「休みがちだから素点くらいは取っておかないと」

 

 ミサキは体調不良で欠席することが多かった。だからか気を張っているようだった。無気力なトーンだったけれど、俺はミサキの声音より言葉を信じた。

「そうか」と俺は頷く。そのあとの図書室には微妙な沈黙が横たわっていた。

 

 

 火曜日と木曜日、俺はミサキと食事する。晴れている日は屋上で。雨が降っている日は――ミサキが休むのは雨の日が多かった。それを彼女は気圧のせいと説明した――屋上の扉の近くで。

 なんだか自然とそうなっていた。ミサキの弁当はいつだって丁寧だった。

 

 今日はよく晴れた木曜日だった。六月に入り、都心ではすでに猛暑が観測されている。辺境のここは過ごしやすい気温だった。

 

「どう」

「今日もうまい」

「いま食べたのブロッコリーでしょ。料理食べてから言って」

「ブロッコリーだってうまいぞ。愛がこもってる」

「農家さんのね」

 

 ミサキは弁当を包んでいた薄い布を下に敷いて横座りした。ひとしきり料理の感想を聞いてから自分も食べるというのが彼女のルーティーンだった。

 衣替えの時期が過ぎて、ブレザーを脱いだミサキは、いまだにずっと長袖のセーラー服を着ている。

 

「毎週弁当を作ってもらえるの、ありがたいんだけど申し訳ないんだよな」

 

 うん、とミサキは俺を見た。

 

「手間じゃないのか?」

「手間だよ、それは」

「そうか」

「うん」

 

 こういう沈黙が最近増えた。いわゆる、察してよ、という沈黙だと俺は考えている。

 母がよくしていたものだった。母はそういう思わせぶりな態度を取りながら、相手が間違えると不機嫌になる人物だった。不機嫌になるだけならまだいいほうで、逆上することもあった。だから周囲からかなり嫌われていた。

 違う。嫌われるようになった。昔は違ったのだ、と俺はよく耳にした。頬がこけた父親の表情は、けれども深い愛情をたたえ、きれいな笑みの形をしていた。

 

「引っ越す前、テスト勉強とかどうしてたんだ?」

 

 軽い調子の裏で胃が捩れた。味が暗闇に落っこちて、料理やそれに込められた感情を粗末にしている気がして申し訳なかった。過ごしやすいはずの気温と天気で、俺は背中に汗をかいている。

 取っ掛かりを掴むためのジャブでこのざまだった。もしもリングの上で膝をつくことが許されたら、人生はもうちょっと甘い絶望が幸福を包んでくれていて、人類はもっと数を減らしていたと思う。

 

「友だちと一緒にやってた」とミサキは言う。箸が止まる。

 

「図書室とか、図書館とかで」

「家ではないのか」

「家は……いろいろあるから」

「家庭の都合とかな。ってか、友だちいたのか。向こうで。まじ?」

「私のことなんだと思ってるの?」

「いやだってここで友だちって俺くらいしかいないから……てっきり向こうでは一人だったんだろうなーって」

「偏見激しいってよく言われるでしょ」

「わりと正当な意見だと思うがな……?」

 

 ミサキは俺を睨んだ。

 

「来週から嫌いな食べ物ばっかり詰めてくるから」

「そんな話したことないだろ。当ててみろよ」

「人参、ブロッコリー、アスパラガス、ピーマン」ミサキは箸を持っていないほうの手で指折り論った。

「なんで知ってんだよ」

「食べるときちょっとだけためらうでしょ。見てて分かる」

「こっち見んな」

「は?」

 

 わりとドスの利いた低い声をあげられ、俺は思わず身をすくめた。ミサキは即座に「ごめん」と言った。俺のほうが悪いんだけどな、と思っても言い出すことができず、結局ミサキが口を開いた。相手の尻尾を踏んだとき、相手の出方で自分の対応を変えてしまうのは俺の習性だった。

 

「テスト勉強、一緒にやらない?」

「ミサキさえよければ」

 

 大きな笑い声が階下から聞こえてくる。一年生の教室は屋上の下にあり、三年生の教室はさらに下にある。

 俺たちは一年生の輪に入らず、誰からも存在を思い出されないまま、禁止されている場所で、誰の記憶に残ることもない昼休みを過ごす。

 それを寂しいことと捉えるか、二人だけの秘密と捉えるかは、人による。

 真上から呑気な鳶のぴーんひょろーが聞こえてきた。もしかすると、誰かの記憶には残るのかもしれないと思った。

 

 

 ラインで話し合いをして、俺のアパートで勉強をすることに決めた。土曜日の午前から夕方までと決めた。

 

 俺の部屋を訪れたミサキは内装にとやかく言うことはなく「きれいだね」と言った。竹刀の部品や剣道の防具には触れないほうがいいと判断したらしかった。

 ジーンズに長袖のTシャツを合わせただけのミサキの格好は、スタイルのよさが際立っていた。初めて会ったときの服装を覚えていなかったことを、俺はとても残念に思った。

 

「俺も勉強するから、分からんとこあったら適宜聞いていく感じにしよう」

「分かった」

 

 勉強は順調に進んだ。

 ミサキは何度か髪を耳にかけ直した。ピアスがさらりと宙を振れる。「今日は水色なんだな」と言うと、ミサキは目をそらして頷いた。耳が薄赤く色づいている。それ以降、彼女は耳にかける動作をほとんどしなくなった。

 

 

「腹減った、昼飯」と俺が言ったのは一一時を回ったときだった。

 ミサキも俺の声に姿勢を崩して、肩を回した。服に生々しいしわが寄った。肩が上に行くたびに脇腹と服に奇妙な隙間ができて、そこから覗くインナーはタイトだった。こういうのを細腰というのだな、とどこかのゲーム実況者が使っていた言葉を思い出す。

 

「何作るの?」

「夏野菜カレーを作る」

「野菜嫌いなのに?」

「嫌いだからって取らないのはいけないんだよ。うちじゃ許されんかった」

「食べてるうちに好きになりそうだけどな……」

「嫌いなものを無理に食べさせられたから、余計に嫌いになったんだ」

 

 言い終えてため息をこぼす。

「あぁ、そう」と。ミサキは踏みこんでもいいのか判断できないと言うように目を伏せた。

 

 適当な野菜を適当な大きさに切って、鍋にぶち込んで炒める。ミサキと分担した作業はスムーズだった。

 お互いに特に言葉を発することはなかったけれど、相手のしたいことを考え、相手の切り方を学ぼうとする度量があったので、俺たちは勉強の延長線上にいた。狭いキッチンだったが、俺たちはぶつかることがなかった。

 

 ルーを入れる段階になって「そういえば」と俺は手を止める。「カレーに一家言あったりしないか? 大丈夫か?」

「あ」とミサキは俺を見つめた。そのあとあからさまに目をそらした。

 

「なんかあるなら買ってくるか?」

「ううん。たまたま差し入れで持ってきてたものが、その」

「ポテチとかじゃないよな? カレーにポテチはなかなかだぞ?」

「喉に刺さるからそういうのじゃない」

「なんだポテチじゃないのか。やってみたかったのに」

「なんなのほんと」

 

 ミサキはリビングからガーナチョコの大袋を持ってきた。赤のミルク、茶色のクランキー、黒のブラック。ミサキは大袋を両手で抱きしめるように持っていた。

 女子にしては高い身長が、しかしなぜだか臆病な小動物みを醸し出していた。ミサキは上目遣いで俺を見る。

 

「これ」

「おん。チョコ」

「ミルクを二つ入れてた」

「ほーん」

 

 ミサキは大袋を開けなかった。だから受け取って、代わりに赤いのを二つ取り出した。

 

「ぶち込んでいいのか?」

「うん。ルーと一緒で。さいあく溶ければいいから後からでもいい」

「りょーかい」

 

 分量通りにルーを入れ、ミルクチョコも割り入れた。色づく前の水が跳ねる。

 ついでに追加でミルクチョコを取り出し、赤色のギザギザをびっと開けた。薄い色味の俺の部屋で、その赤色は映えていた。ミサキの口もとに差し出す。

 意図を察したミサキが「ぁ」と小さく口を開ける。彼女は渋い顔で、溶かすように口で転がした。

 

「やっぱりブラックがいい」

「ミルクは駄目か」

「甘すぎ」

「人生もそれくらいならいいのにな」

「甘いだけなら生きてるって感じがしないのに、苦しさばかりだと嫌になってくるのって、理不尽だよね」

 

 何気ない口調だったから、余計に悲壮に思えた。でも、分かってしまう。

 

「人生の甘さは回復魔法じゃないもんな。甘さを知った分だけ、苦しさがより一層苦しくなる。まったく理不尽だ」

 

 俺たちは鍋を見つめていた。

 

「ミサキのミルク」

「黙って」

「俺のミルク」

 

 思い切り背中を叩かれ、悲鳴がリビングから飛び出していく。

 俺は大袋を持ったままだったので、個包装が床に散らばった。奇跡的に――というかキッチンに散らかすのはやばいと思って意図的に袋をリビングにぶん投げたので、鍋の周りには散らばらなかった。冷ややかな目をしたミサキは、俺一人にそれを回収させた。薄い色調の部屋に散らばった彩りが少しずつ数を減らす。

 その中の茶色いやつを一つ、俺は開けた。ミサキは俺がそれを口に運ぶのをじっと見下ろしていた。

 

 

 出来上がったカレーを口にしたミサキは、歯を食いしばっていた。まずいのかと思って聞いてみたがそうではないらしかった。感情をこらえているのだと俺は気づいた。

 

「懐かしいか?」

 

 ミサキは首を、横に振った。

 一家言あったカレーを食べても懐かしくない、と。ミサキの胸の中にある感情に、俺は名前をつけてあげられない。俺が分かった気になることはできない。人間はどうやったって分かり合えないことを、俺は知っているつもりだった。

 

 ミサキはカレーの皿を見ずに、じっと手もとのスプーンを見つめていた。そのスプーンは不安定に空中を揺れていた。俺はミサキの斜向いに座っていたから、彼女の凛々しい横顔が歪むのがよく分かった。

 

「嫌なことを思い出すときって痛いし、それが家族のことだともっと痛いんだよな」

 

「え」とミサキが顔を上げる。目が合った。

「いてーんだよ」と俺は言う。

 ミサキはその言葉が脳内で突如として意味を持ったみたいにしきりに頷いた。

 

「あれ、入れないと駄目って。お父さんが」

「甘い物好きなとーさんだなぁ」

 

 やっぱり訳があるんだよな、と思う。俺たちは知らない土地からやってきた知らない人たちだ。となりを歩くことはできても、たぶん、まだ寄り添って歩くことはできない。

 ゴミ箱の近くに落ちている、赤色のチョコの切れ端が目に入った。ぺらぺらなはずの鋭角が俺の胸を貫いた。悲しさや悔しさといった感情が熱を帯び、生きている証と一緒に空気中に吐き出される。俺の呼吸はやがて落ち着いた。

 

 しんみりとした空気でずっと食べるわけにもいかなかったので、俺は頃合いを見計らって口を開いた。

 

「俺もそれけっこう好きなんだけどさ」ミサキのリュック近くに置かれた大袋を指さす。

「うん」ふーふーしていたミサキはスプーンを顔の前に掲げたまま上目で俺を見る。

 

「ミルクとクランキーばっか減ってくんだよ」

 

 ミサキはカレーを飲みこんでから不思議そうに言った。

 

「ブラック食べれないの」

「そういうわけじゃないんだけど。コーヒーと合わせるなら甘いほうがいいだろ? だから」

「ふぅん」

 

 俺はミサキのペースに合わせて食べ進めた。出し抜けにミサキが言った。

 

「それ、コーヒーを甘くしてブラックを食べればいいんじゃないの」

「……そうじゃん。その手があったじゃん」

 

 コーヒーメーカーの周囲を見て、それからコーヒー粉が入っている場所を見た。

 電気をつけていたから俺の部屋は明るかった。薄い内装を見渡してはっと気づく。妙にリズムを刻んでしまった。

 

「スティックシュガーもミルクもねぇ」

「買ってくれば?」

「マドラーねぇ、シロップねぇ、車もそれほど走ってねぇ!」

「……毎日そんなにうるさいの?」

「毎日そんなにうるさいの? 朝起きて、飯食って、二時間ちょっとの散歩道――」

 

 自信満々にボケたもののウケは悪く、ミサキのため息一つで空気は流れた。ひととおりを歌った俺は意気揚々とスプーンを再び動かした。

 チョコにまつわる恐怖に勝つことはできないかもしれないけれど、嫌な記憶の中に一つでも多くくだらないエピソードが混ざればいい。降りかかる汚泥の中にこつんと光る十円玉の輝きは、元気になれるかどうかは分からないし、流れ星みたいに素敵な言い伝えがあるわけでもないけれど、何よりも美しいと思う。

 

 

 食べ終わって洗い物を済ませた段階で、俺は自分がアホだと気づいた。

 キッチンとリビングがひと続きになっているアパートで、なぜ人がいるときにカレーを作ろうとしたのだろうと後悔した。カレーのにおいが部屋に滞留していた。

 

 歯磨きをしてから二人で相談し、寝室に場所を移す。俺の借りている部屋は寝室が別個になっていた。

 眠気覚ましのブラックコーヒーを嗜みながら、俺たちはテスト勉強を再開する。しばらくしてから俺はチョコの存在を思い出した。

 二人でつまみながら、ときおり会話しながら、進める。俺の部屋は静かで、物が少ない分だけ集中できた。

 

 ミサキのノート近くに溜まった個包装はすべてきっちり結ばれており、黒色をしていた。

 

「ミサキってコーヒーにブラック合わせんの?」

「うん。甘いのはそんなに好きじゃない」

 

 ミサキは俺の側を見て言った。散らばった包装に黒はない。

 

「じゃあこれからは心置きなく買えるな」

 

 俺の言葉は当たり前のように受け入れられた。

 

 俺たちはにおいの抜けたリビングを再びカレー臭くし、夕日が沈むのと同時に二人で家を出た。俺が戻ってきてもにおいは抜けていなかった。どうしようもなく満たされる香りだと思った。

 願わくば、ミサキにとってもそうでありますように。

 

 ベランダから夜空を見る。

 月は見えない。星も見えない。曇っていた。でも、雲に覆われているだけで、光はきっとそこにあるから、俺はそこに向かって手を伸ばした。手は、やっぱり虚無を掴んだ。

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