その日はテストが返却される日で、加えて水曜日だった。俺とミサキは図書室でその話をした。
数学Aに関して、二人とも平均点は超えていた。学年トップは満点だと教科担任が発表したとき、クラスの何人かは俺のほうを見た。それは事実となった。
ミサキの間違い確認を終え、話題は流れていった。
俺は後頭部で両手を組んだ。そして薄暗い天井を見ながら言った。
「なんか、機嫌悪かったよなー。梶原せんせ」
「平均が低いって言ってたし、それが原因でしょ」
「この学校に何を期待してるんだか」
「言い過ぎ」
この学校は、平均偏差値が五○に届くかどうかの自称進学校だった。二年になってから文理の進学クラスに分かれるので、現状の一年は様々な層がごちゃまぜになっている。
「人が怒ってると気疲れするから、あんまり感情出してほしくないんだがな。大人なんだし、もうちょっと舵取りっていうか、感情の処理くらいはしてほしいもんだよ」
「……そういうところ、あるよね」
「うん?」
ボヤキに対して真摯な返答をされ、固まる。
教室の椅子だと痛すぎてできないが、図書室の椅子の背もたれはやわらかく、全体重を預けて後方を見ることができた。その姿勢で横目を向ける。
ミサキは頬杖をついて課題を進めていた。一瞥を向けられて目が合った。
「私が声を低くするとちょっと様子変わるでしょ。あんまり怒られ慣れてない?」
「ばれてんのかー」弾みをつけて姿勢を戻した。椅子が軋んだ。「怒られ慣れてるとかそういうんじゃなくて、ま、家庭の事情だな」
俺たちの間を漂う空気は図書室の雰囲気によく合っていた。
俺とミサキの間にある一線は、車道と歩道を分ける白線のように、その領域を超えたら関係を損なう可能性があるものだ。小さいころにやった白線をたどる命知らずな遊びを再現できるほど俺とミサキは子どもじゃなかった。人の心は、そんなふうに遊ぶには脆すぎる。
「家庭の情事だよ。家庭のジョージ」
「おさるのジョージのイントネーションで爆弾を落とさないで」
「どちらかと言うとペパプリのつもりだったんだけど」
「ぺぱぷり?」
「そ。ペーパーズプリーズ。確か海外のゲームだな」
「けっこうゲームの話するよね。家行ったときに見当たらなかったけど」
「ユーチューブでゲーム実況見てるだけだから。実際にやるわけではないんよ。家でやる時間もなかったし」
「ふぅん」
ミサキは話半分で聞いているような相槌を打った。暇になった俺はなんの気なしにクラスメートが話していたことを思い出した。
「そういえば情事で思い出したんだけどさ、もう何人か付き合い始めたらしい」
ぴたりとミサキの動きが止まる。うん、と頷いたミサキの目はひどく暗かったように思われた。湿度とか絶望とかじゃなくて、深海のように光の届かない暗さと重さがあったと思った。振る話を間違えたと思うと同時に、俺には暗い喜びも湧き上がっていた。
「一年生で?」とミサキが続きを促した。
「おん。俺が聞いた話では。てかその、振って大丈夫だったか?」
「恋愛沙汰の話ってこと?」
「おん」
恋バナと恋愛沙汰では、ぜんぜん違う。
高校生には恋愛というプライベートをまるで事件のように取り扱う習性があると思う。ミサキもおそらくそうだった。でもその事件性には、愉快というよりも犯罪という色が濃かった。
「聞く分には、私は関係がないから」
「ま、そうだよな」
それきり俺たちは言葉をかわさなかった。
生き延びるためには黙っている必要があったと言わんばかりのミサキの態度は、俺を安心させた。足音を立てて歩かないところも俺と似ていた。
でも人間は、自分と似ているところが多い人間に勝手に期待して失望することが多いと思うから、俺は気を引き締めなければならないと思った。必要以上に誰かに何かを求めたりなんてしないように。
似ている、なんて感覚は幻想だ。直列回路と並列回路が、エネルギー量が同じでもぜんぜん違うように、感情もそんなふうに異なっていると思う。人間にはそれが、同じものとして見えがちだ。
「梶原先生、機嫌、戻ってたね」
翌日の昼休み、ミサキは卵焼きをつつきながら言った。
踊り場は朝から降り続く小雨が屋内にまで入ってきたかのように薄暗かった。
「なー」と相槌を打ちながら、俺も卵焼きを口にする。
ミサキが作るのはいつも甘い卵焼きだった。「甘いのが苦手だと思ってた」と言うと、ミサキは言いづらそうに視線をそらし、俯いた。その日も雨だった。今日よりもひどい雨で、登校する前に、これはミサキ休むかもしれないなぁと覚悟していた。
「自分のやりたいようにやってみれば」と言った日から、ミサキの卵焼きは急にしょっぱくなった。そして日本が段階的に暑くなるに連れて、ミサキの卵焼きは薄味になっていった。
「怒りとか喜びって、
「うん」とミサキは気のない返事をした。箸を動かす手が止まっていた。俺用の弁当箱よりも一回り小さいそれをじっと見つめている。口数の多い俺よりも減っていない。
感情は食べ物とよく似ている。
生肉を買ったら、ラップにくるんで冷凍室に入れるか、冷蔵庫に入れて期限までに食べるか、すぐさま火を通すのが普通だ。怒りもきっと同じで。
冷凍室に入ったのを確認するまで触れないか――この場合あとから解凍される恐れがあるけれど。
ぶつけられるのに耐えればいいか――母はほとんどの場合すぐさま調理したがった。
期限が切れるまで待てばよかった――腐った食べ物なんて食べたくないから。
食べ物と同じように、感情には期限がある。ひと通りの説明を聞いたミサキは「ふぅん」と言った。
ミサキの弁当はそれなりに減っていた。箸を小さく開いてご飯や料理を摘み、それを小さな口に何度も運んだ。
ミサキのペースに合わせて弁当箱の中身を調整しているとき、出し抜けにミサキは言った。
「じゃあ、恋は?」
「恋?」
「うん」
ミサキの仏頂面から放たれる浮ついた言葉に俺は困惑した。まじまじと見つめてしまう。
「なんで?」
「前に誰と誰が付き合ったとかって言ってたから、どうなんだろうって」
ミサキは意外と、こういうところがある。人の話を聞いていないような相槌を打ちながら、ふとした瞬間に結びつけて質問してくるようなところだ。
「恋もおんなじだよ。ドーパミンだっけ? 恋をしているときに出るのは。相手に過剰に期待して興奮することができるのは、三年間とかだったはず。それが切れたら終わりだよ」
「愛は。何か違う?」
「あい~?」
英語の一人称を引き伸ばすみたいに言う。薄暗い踊り場に軽薄な声は吸い取られた。学校にこびりついた埃や染み、湿気などの一つひとつが音を削ぎ落としているみたいだった。
バカ殿のまねでもしようと思ったが、あまりにも心とかけ離れていてやる気が出なかった。蹴込み板を内履きの踵で何度か叩く。
愛は熱を伴う強い幻覚だ、と思う。
母が俺に暴力を振るったのも、父が母を見捨てなかったのも、その感情が原点だと思っていた。
弁当箱を静かに脇に置き、俺は思い切り伸びをした。ワイシャツの裾がぴんと張ってズボンから抜けた。ラジオ体操の深呼吸みたいにして両手を左右に開きながら、腹筋を使ってゆっくりと上体を後傾させていく。やがて触れた踊り場の床は冷たかった。
「きたないよ」とミサキが言う。ミサキが言うとむしろ清潔なんじゃないかと思ってしまう。その機微が伝わらなかったらしいミサキは、ため息をついて遺憾の意を示した。
「ミステリーボックス」と俺は言う。
「ふぅん」とミサキが言う。
「無限とか、永遠とか、それと同列に語られるけど、実際には限りがあるんだよな。期限だってきっとあるし。人によって違う――うーん、ランダム性が極めて高い、みたいな? だからみんな、ランダムだけど私のは高ステータスだよねって期待してるように見える」
胸の中で徐々に熟成されて腐っていくものを、どうしてみんな盲目的に信じられるのか、俺には分からない。
愛という名前をつけることで傷を覆って、痛みをごまかして。それが重なれば重なるほど体に傷は増えていく。愛の証も増えていく。やがて歩くだけで血が吹き出てしまうくらいどうしようもなくなったら、愛は形を変え、憎しみとなる。
その過程が、愛。愛をスタートとして、憎しみというゴールに向かうマラソン。
あぁ、言えないなぁ、と思って、俺はそれきり黙っていた。隠し事はよくないなんて言う人がいるけれど、そういう人はきっと下水を清水と感じられる感性をしているんだと思う。
それは幸福だろうか。その清水らしいものを口にしたら、数日後に病原菌に冒されてしまうかもしれないのに、でも、何も知らずに死ぬことだってできるかもしれない。無知は幸福だ。
でも俺たちは知りたいと思ってしまう。
予鈴が鳴って飛び起きた俺は急いで弁当の中身を押しこんだ。ミサキは優しく背中を払ってくれた。
ミサキが手を止める。
「私とあなたの関係は、いつか終わってしまうのかな」
「出会った瞬間に別れることは確定してるからな。死別まで含めて覚悟しておかないと」
「うん」
返事は確かだった。「今日もありがとう」と俺が差し出したオレンジ色の保冷バッグを、ミサキは少しの間黙って見つめていた。
金曜日のことだった。面倒くさい体育教師に頭髪のことで注意を受けた俺は、放課後にミサキにヘルプを求めた。
俺たちはテスト勉強の一件以来、一緒に買い物に行ったりどちらかの家で食事をしたりするようになっていた。
鍋の季節ではないが、今日は鍋だった。理由は面倒くさいからだった。一人用の小さな鍋にこんもり食材を入れ、それを二人でつつく。
「美容室ってどこ行ってる?」
出し抜けに俺は尋ねた。ミサキの髪はずっとボブカットであり、この土地の出身ではないにしろいい店を知っていると踏んだからだった。短い髪を保とうとする場合、女性は一ヶ月に一度くらいは美容室に行く必要があるらしい。
小さな口にキャベツの芯を一切れ運んだミサキは、口もとに手を当てながらふーふー言っていた。時間をかけてそれを嚥下して俺に向き直る。飲みこむときに頷くような動作をするのがいちいち小動物じみている。
「美容室?」
「そ。今日髪切れーって言われてさ。思わず噛み切ってやろうと思った」
「ふぅん」と言いながらミサキは手もとのスマホを操作し、「ここ」とマップを示した。
少し伸びた前髪をかき分けて見る世界は少しだけ明るい。ミサキの表情もやわらかく見えた。
「お、いらっしゃい。予約の
翌日の午後二時、俺はミサキと一緒に美容室に到着した。三十代半ばの髪を剃り上げた痩せた男性からは、どこか飄々とした印象を受けた。これは主人公の師匠ポジだ、と思った。ゲームにおいて弱いハゲはあんまりいない。腕は確かそうだ、と現実とゲームがごちゃまぜになった感想を抱く。
俺はミサキから行きつけを教えてもらってからすぐに電話し、その場で予約を済ませた。日時をばっちりおさえたミサキは「私も行く」と言った。
ついでに買い物もすれば一石二鳥だろうと考えた俺は、ミサキの同行を了承し、そのあとなぜか昼ご飯と夕ご飯も一緒にする約束をしたのだった。
「戒野さんはどうする? 待ってる?」
「待ってます」
「……うちは特にカップル割りとかやってないから、そこのところは勘弁してね」
「いえ、その。カップルとかではないので」
「そうなの」と美容師は俺を見る。恋愛沙汰でボケるつもりはないので素直に頷いた。
その男性は感心したようにしきりに頷いて、俺たちを店内へと招き入れた。
ウッド調の明るい店だった。壁は教室の机よりもずっときれいで艷やかな木材で、いたるところに観葉植物が生けてあった。店内BGMは民族音楽のようで、牧歌的なメロディと店内の香りがマッチしている。席が二つしかないことも相まって隠れ家みたいだった。
「あとでミサキちゃんのスタンプカードにおまけしておくね。紹介料みたいなものだと思って」俺の手荷物を預かりながら美容師は言った。ミサキはこれが目当てなのだと思ったが、ミサキの返答は淡白だった。
「今日の予約は黄海くんだけみたいだけど、ミサキちゃんはいいの?」
「はい。私は後日来るので」
「へぇ、そうなんだ」
美容師は俺とミサキの関係を訝しんでいるようだった。というよりも、ミサキの人柄をある程度分かっているのなら、ミサキが男を連れこまないことも想像できていたのだろう。イレギュラーが起こったことを認識される程度に、ミサキはこの店の常連となっているようだ。
髪の要望を伝えるとき、俺は面倒くさいので写真を見せることにしていた。
スマホでその写真を見せてもらった美容師は「……これ、宣材写真?」と不思議そうに俺の写真を見つめた。俺はネットから拾ったものだとごまかし、ミサキのほうをちらりと見た。一定の間隔でスマホを横スクロールしていたミサキの手が一瞬だけ止まったような気がした。
「ライトって、ちゃんと髪の手入れしてるの」
「保湿くらいは」
「ふぅん」
俺は幾分さっぱりした髪になっていた。
ミサキは雑談の最中に「ライトくんは手入れしっかりしてるんだね」と言われたことを気にしているらしい。こつ、こつと横スクロールしていた手が止まった音を俺は聞き逃さなかった。
鏡越しにミサキと目が合ったが、真意は読み取れなかった。
美容室を出たあと、そのままスーパーに寄る。
ミサキはどうやら虫の居所が悪くなったらしく、会話を嫌がった。
普段なら適当に会話をしながら野菜、肉、魚、冷凍食品と見ていく。しかし今日は会話がなかったせいで互いのペースが乱れ、カートを押すミサキのもとを俺はしょっちゅう離れた。そしてふらふら戻った。
もしかしたら俺は攻撃されることを恐れるあまり距離を取りたかったのかもしれない。
セルフレジで財布を出そうとした俺を制して、ミサキは一人ですべてを済ませていく。ミサキの財布は大人びたデザインの長財布で、うらぶれていた。高校生が使うにはあまりにも年季が入っている。小学生から使っていましたと言い訳するには大人びすぎている。
俺にはその財布が不気味なものに思えた。
会計を済ませたあと、帰り道で問題は起こった。
それぞれエコバッグを肩にかけて裏道を歩いていた。国道沿いを歩くよりも自然が多く、人通りが少ない。俺たち二人は自然とその道を常用していた。
初夏の風は爽やかだった。
葉擦れの音と、枝の上でさえずる鳥の声が耳に優しい。都会にいたときも聞こえた音だけれど、それはどちらかというと雑音の一部から頑張って抽出した音という感じで、気にしなくても自然と耳に入ってくるのは新鮮だった。
のどかな雰囲気のせいか、それともすれ違う人がみんな緩慢な速度で歩いているせいか、時間の流れが緩やかだった。暇な時間が引き伸ばされて感じるのとは違う。同じくらい引き伸ばされていながら一定の密度を保っている気がした。
「食費のことなんだけど」
機嫌を探るように、俺は慎重に話し始める。
ミサキは俺に一瞥を向けただけだった。目つきの鋭さから睨まれたように思えた。
「やっぱり俺持ちにしてほしいんだよ。今までずっと交互ってか、なあなあでやってたけど、お金のことだしさ。ミサキに手間かけてる分を返したいってなると、やっぱり俺が払ったほうが妥当かなーって」
俺の言葉は手探りで、さながら地雷を探すようだった。しかし、地雷は触れただけでは爆発せず、体重をかけた瞬間に爆発する。どうやっても逃れられない。
「いい」とミサキは言った。鋭かった。
「前にも言ったと思うけど、これは私の貸しだから。別に返さなくてもいいし、それこそ私が体調を崩したときに手間かけるだろうからって私が勝手にやってること」
「だけどさ」
「じゃあなに。ライトは私が体調を崩したとき、そのままほっといてって言ったらほっといてくれるの? 勝手にいろいろやるでしょ? それと同じ」
「そもそも」とミサキは口早に続けた。
「どうしてそんなに私のことを気にかけるの? 私はあなたにとって重要じゃない。いてもいなくても変わらない。そんなのに注意を払うなんて無駄」
ときおり木漏れ日が目を刺した。暴力的な光だった。
反論できないまま一方的に言葉を振り下ろされたあと、俺はだいたい暗い場所に逃げた。それは自室であることが多かった。きょろきょろとあたりを見回すけれど、外は健康的な自然光に満ちていて、俺はどうすることもできないまま、足だけを必死に動かして置いていかれまいとしていた。置いていかれたら、一人で電車に乗って帰る必要があった。
感情の代わりに言葉がこぼれる。反射的な反応だった。
「ごめんなさい」
俺の声は頼りなかった。
ミサキは遠いところにある標識を見るように目を細めたあと、「分かったならいい」と返した。
俺たちの間に横たわる沈黙の霧は徐々に薄れていった。自然が二酸化炭素を吸って酸素を出してくれるのと似ていて、悪い空気を吸っていい空気を出してくれているみたいだった。
気持ちを落ち着けた俺は、自分の金銭事情について話し始めた。
「俺んちさ、母親がかなり金を稼ぐ人だったんだよ」
ミサキは怪訝な目を俺に向ける。まだ少し不機嫌の残滓があった。
「でさ、ミサキってけっこう、食べる人なのかなって思ったんだけど。ほら、俺んちでご飯食べるときとか、俺と同じ分量けろっと食べてたし、そのあとお菓子も食ってるだろ? だから。なのにそんなに痩せてるってなんか、変っていうか、違和感があるっていうか。変に勘ぐってるわけじゃないんだけど。俺がずーっと貯めこんでおくくらいなら、こう、な? ってしたほうがいいと思って」
俺は地雷の海を千鳥足で歩くみたいにふらふらと話題を変えていた。酒に酔った人が頬を赤くするように、俺の目もとは赤らんでいたかもしれない。
父は半狂乱になった母と話すとき、いつも抱きしめて話していた。抱きしめることは、たぶん、我が家と世間では意味が違う。
両親にとって抱きしめるという行為は特別だったように思う。
世間と照らし合わせたとき、俺はミサキを抱きしめるわけにはいかなかった。我が家のルールを世間に持ちこまないことは生きていくために必須だった。
でも俺はミサキと息苦しいままでいたいわけではなかった。痛いと居たいが同居して、子どもが注意をひくために泣きじゃくるのと同じように、言葉を発していた。
なんにも参考にならなかったから、俺は自分独自の方法を探す必要がある。俺がしたことは、子どもが積み木をするとき、自分では考えて配置しているのだけれど、大人からすれば非効率と一刀両断できるような稚拙なものだったと思う。
ミサキが不意に言った。
「ライトって変なところ敏感で変なところ鈍感だよね」
「……そうか?」
そんな判断をくだされたことはなかった。母は機嫌によって評価を左右される人だったから、自分に敏感なところと鈍感なところが両立しているなんて考えたことがない。いつもどちらか片方と断じられていた。
「……苦労してたんだろうなって、思う」
「お互い様だろ、たぶん。だって、俺みたいな人を見て出てくる感想がそれなんだから。俺、こう見えてけっこう苦労してないキャラやってるから黙っててな」
ミサキは前を見ていた。意図的に俺と視線を合わせないようにしていたとさえ思える。
「私の家、まぁ、こういうこと言いたくないんだけど。あまり裕福じゃなくて」
ミサキの告白は唐突だった。俺がいきなり金銭事情を話し始めたのと同じかもしれない。
少しくらい見せてもいいと思ってもらえたのだろうか。だとしたら嬉しかった。
「だから毎月の生活もぎりぎりだったんだよね」
じゃあ、どうしてここに来たんだろう。一人暮らしはお金が余計にかかるのに。ミサキは俺に一瞥を向けた。焦げ茶の瞳には含みがあった。
「お金、か」悩ましげにミサキが呟くところを俺は初めて見た。
ミサキは上を見ている。色づいた葉かもしれないし、木漏れ日かもしれない。とにかく、人生のままならない問題にぶつかった人が「結婚」とか「就職」とかって呟くのと同じ感じだった。あまりにも問題が漠然としていて、輪郭が靄のように見えているのかもしれない。
とりあえず呼んだら振り向いてもらえるかなの希望が一割、無理だろうなの諦めが九割の声。
「じいちゃんの知り合いで、個人のスタンドやってる人がいるんだけど。さいきん腰悪くてタイヤ交換できないとか言ってた」
「……うん」
「ミサキってたぶん、車詳しい……よな? 掛け合ったら働けると思う」
ミサキは申し訳なさそうに言った。
「私、急な体調不良とかで休むことになりそうだから……たぶん迷惑かける」
「連絡すればなんとかなるだろ。じいちゃんの知り合いの店だし」ミサキはなおも俯いている。「よく分からんけど、たぶんミサキには甘いぞ、ここらへんの人。とりあえず連絡してみてもいいか?」
「……お願いします」頼り慣れていない人の上目遣いだと思った。不安と恐怖があった。
「きっと大丈夫なんて言わんけど、誠実にやれば悪いことが起こっても最悪にはならないと思うぞ」
ミサキはこくりと頷いた。ミサキはこうして何かの第一歩を踏み出した。道は長く、いくつも分岐している。だから、スタート地点はいつだって『とりあえず第一歩』くらいの軽さがあっていいと思う。
以前俺が「感情の舵取りはしっかりやってほしい」とぼやいていたことを覚えていたのか、その日の晩に謝罪のラインが来ていた。