ミサキは車に詳しい理由を、「お父さんがそういう仕事についてたから」と説明した。淡白な調子だった。彼女の無表情は普段の色を変え、なんの感情も乗せたくないと訴えていた。
バイトを初めてから、ミサキの肉付きはよくなっていった。それでもまだ細く、ラフな格好をしたときに見える肢体は、かろうじて痛々しくないというものだった。
それからミサキは俺のアパートのシャワーを借りるようになった。薄い色調の俺の部屋にはだんだんとモノトーンが増えていって、ときおりかわいらしい小物も出現した。段々とフィールド探索型のゲームで色違いモブを探すみたいになっていった。
家にいるかどうかの確認が面倒くさくなった俺は、ついにミサキに合鍵を渡した。
スタンドへ将棋を打ちに行っているじいちゃんの話を聞く限り、ミサキはうまくやれているようだった。作り笑顔が苦手な彼女は、車への深い理解と実直な対応によってファンを増やしているようで、あとはやはり、かわいい――俺からすれば美人だが、高校生という点でかわいいのだろう――のが大きいらしい。
「昔のばあちゃんみたいだ」と言ったじいちゃんは、「それだとミサキちゃんに惚れることになるだろう」とばあちゃんから予言されていた。結婚しているのに他人に惚れることを許す二人の感情の形態は、俺からすれば未知だった。
「これ、もらった」
ミサキはビニール袋を座卓に置いた。
俺はノートから顔を上げる。
「またか? 今度はなんだ」
「ばなな」
「ばなな……」
「なーなーななな~」と歌い始めた俺を無視し、ミサキは浴室へ消える。
冷房の効いた室内は心地いい。窓が閉め切られ、ほとんど二人きりの空間だった。リビングにいるとき、俺たちは特別な言葉を交わすことはない。適当に話し、適当に冗談を言った。
なんでもない夏。学生のうちは後悔がついて回るけど、社会人になったら『あのときは贅沢な時間の使い方をしていたよな』と笑えそうな夏。
決して母とは分かり合えないであろう夏。
前期期末考査が近づいていたこともあって、俺はずっと勉強していた。と、浴室の扉が開いた。ほんのり頬を色づかせたミサキは「ありがとう」と俺に言った。
タンクトップにショートパンツを合わせていたミサキはすぐさまカーディガンを羽織った。
「髪、少し変わった?」
「少し前に切りに行った」
ぺたぺた歩くミサキは、勉強道具を俺の斜向かいに広げる。
「それもそうなんだけどさ。髪の長さ以外になんかこう、髪質? が変わった気がする」
今までは湿気で爆発していたけれど、今日のはさらさらしている。
俺の顔をまじまじと無表情で見たミサキは「よく気づくね」と言った。六月分の給料が入ったのでシャンプーやヘアアイロンを見繕ったとのことだった。
ミサキは少しだけ得意げな表情をした。聞いているこちらまで嬉しくなった。
二人で勉強している間、俺はことあるごとにミサキに目を向けた。
「いいな」と不意に言葉がもれ、ミサキは髪を耳にかけ直しながら「うん」と言う。水色の花形のピアスが光っている。
以前「今日のは黒じゃないんだな」と言ったとき「ここに来る前にもらった」と教えてくれた。口ぶりからすれば複数人で、その人たちがミサキの友だちらしかった。
「よく気づくよね、ライトって」
「何に?」
「んー……変化?」
ミサキは下唇にノックを当てて首を傾げる。俺の身振り手振りがうるさいせいか、最近はミサキにこういうところが移っている気がする。
「おーん」と相槌を打った。
「女子の変化にはよく気づけって教えられたから染みついてるんだろうな。油汚れはしつこいから、なかなか染み抜きできん」
「……、油汚れもおしゃれに変えれば?」
「そりゃミサキみたいに素材がよすぎればいけるだろうけどよ」
俺だって素材はそこそこいいが、ミサキには遠く及ばないという確信があった。もしも母に見つかっていたら、ミサキは間違いなく芸能界へ誘拐されただろう。
不服そうな顔で問題に向き合い始めたミサキはぼそっと言う。
「ライトもいいと思うよ、素材」
「えっほんとに~? やだぁ照れちゃう。チャームポイントはぱっちり二重!」
水を得た魚とばかりにエッジをなくして捲し立てる。ミサキは褒めたことを後悔するように冷たい表情をした。
ずいっと顔が近づいてきた。
「ほんとだ、二重なんだね。あんまりちゃんと見たことなかったな」
「ミサキ、まつげバッサバサじゃん」
「なにその鳥みたいなたとえ」
「その鳥すげー毛羽立ってそうだな」
ミサキが眉間にしわを寄せたので「まつげが毛羽立ってるなんて言ってねーよ」と言う。
「まつ毛長いしたくさんあったから」
ミサキは不思議そうな表情で目を少しだけ上にやって、自分のまつげを見ようと頑張り始める。気の抜けた顔だった。
ミサキは何回か、目を閉じて指で触ろうとしたり、リュックの中から手鏡を取り出して顔の前にやったりしていた。これらはすべて、俺が料理を作っているときや飲み物を取るために立ち上がったときにおこなわれていた。
夏休みが間近に迫った考査期間のことだった。その日は雨がひどく、アパートの壁をぶち破るような勢いで雨が壁や地面を打つ音が聞こえていた。また、ミサキの顔色は朝から悪かったが、彼女はあくまで平生と変わりないと言いたげな振る舞いをしていたので、俺は特に触れなかった。
電気をつけても湿気のせいで薄暗く感じる。水分の多いノートはシャーペンが上手に走らない。いつもより字が薄くなり、黒が滲む。俺とミサキは最終日の科目を勉強していた。
「夏休みの予定、どうなってる」
式の見づらいノートに顔をしかめながら、俺は言った。ミサキは「ん」と思案した。
「お盆に一回、実家に帰る。ライトは?」
「帰らんな。ただ、七月最後の土日に合宿が入ってるし、平日も道場に行こうとは思ってる」
「合宿?」
「おん。剣道。なんか社会人の先輩が、誰とも遊ばない夏は嫌だって駄々こねて」
「なにそれ……」
高校にも剣道部はあったが、俺は社会人の同好会に参加していた。今までの生活からすれば、夏休みに入ってからも夕方以降は二人揃って空いていることが多いようだ。
「夕食は一緒でも大丈夫か?」
「そう、だね。バイトのシフト次第だけど、たぶん」
「多めに入れるのか?」
「うん。夏休みが稼ぎどきでしょ」
「無理すんなよ」
ミサキのシャーペンが止まった。彼女は優しく息を吐いて「うん」と言った。
考査期間中は基本的に午前下校となる。テスト教科の数にもよるが、今日はたまたま早めに終わる予定だったので、俺たちは一緒に帰って勉強し、昼ご飯を食べた。このまま夕ご飯まで一緒にいるつもりだった。そんな日は、大皿料理で済ませることが多い。
大味の焼きそばをちびちび食べるミサキは食欲がないようだった。食事中の彼女は間断なく料理を食べるが、いかんせん一口が小さいので時間がかかりやすかった。時間をかけて食べ上げるはずの彼女は、今日ばかりはギブアップした。
小皿に取り分けた焼きそばすら残してラップをかけている。
「やっぱり体調か?」
「うん……あとはライトが食べていいよ」
「って言ってもなぁ。俺ももう十分だし」
「ちゃんと食べないと筋肉つかないよ」
「頼むから鏡見てくれ。心配になるレベルだから」
「……最近ちょっと増えたんだけど」
「違う。それは増えたでも肥えたでもなく正常に近づいてるだけだ」
ミサキは不服そうに唇を尖らせただけで何も言わない。
ミサキがリュックから常備薬を取り出すのを見て、そういえばこの家に薬はあっただろうかと思った。
薬をまとめてある戸棚を探してみる。じいちゃんからもらっていた薬は期限が三年ばかり切れていた。
「なぁ、これ効くのかな」薬を飲み終えたミサキに解熱剤の箱を渡す。
ミサキは気難しい顔で箱に書かれてある期限を探し当て、表情をより険しくする。爪が艷やかに光を反射した。
「効く……とは思うけど。使うなら新しいの買ったほうがいいと思うよ」
「大量に飲んだら薄れてた効果がちょっとはマシになるみたいなことはない?」
「オーバードーズだよ、それ。あとこの解熱鎮痛剤は飲みすぎると胃腸が変に緊張した感じになるからやめたほうがいい」
「ほーん。胃腸薬は?」
「お腹が緩くなって大変」
俺は深いため息をついた。ミサキから返された解熱剤の箱をもとあった場所に置く。
脚が重い。冷房のせいか体が冷えている。エアコンの表示を見たけれど、ミサキに合わせた室温調整だった。
徐々に冷たくなっていく焼きそばを俺がちまちま食べている間、ミサキは勉強もせずに黙って横座りしていた。機械が異常をスキャンしているみたいに慎重な雰囲気だった。
かけるべき言葉を持たない俺は、咀嚼された糸くずのような焼きそばが胃に落ちていくのを感じているだけ。焼きそばのソースの味も、青のりの風味も分からない。鮮血にも似た紅生姜の色と刺激的な香り、味ばかりが現実を感じさせる。
ミサキのまぶたがゆっくりと開閉している。だんだんと閉じている時間が長くなる。眠いのかもしれない。
「昔、俺の母親が抗鬱薬を飲んでいる時期があってさ」
「ぅん」とミサキは俺を見た。いつも通り、大きな目を見せびらかすことが犯罪だとでも思っていそうなほど、中途半端に開かれた目をしていた。今日は眠気を帯びていた。
「セロトニンを増やすやつ?」普段は険のある口調だが、今はゆったりとしている。栄養ドリンクのように怪しい甘みがあった。
「やっぱり知ってるんだな」と俺は言う。紅生姜すら分からなくなっている。
ミサキは自嘲するように鼻を鳴らして続きを促した。
「飲みすぎると、あれ、二日間くらい寝込むんだな」
「……そうだよ。副作用として眠くなるから」
俺は肺の中身をすべて出すほど長い息を吐く。ミサキと目を合わせることができなかった。自分の小皿と大皿にもラップをかけ、ミサキの分も合わせて冷蔵庫に押しこんだ。
自分の分をしまってくれたことに静かに礼を言ったミサキは勉強道具を広げ始める。俺も同じように勉強の続きをやろうとした。
座卓に両手を重ねる。その上に額を置く。水分の多いノートは、誰かの涙を吸い取ったようだった。
「やっぱり、かぁ……」生まれたての子鹿が言葉を発したみたいに、俺の声は頼りなく震えていた。
「今はもう通院してないよ」
「それはだいぶよくなったからだろ?」
鬱に終わりはなく、完治もない。鬱は脳病だ。そして一度変質した脳は、心は、もとに戻らない。
「うつ」という俺の呟きに、ミサキは「ううん」ゆっくりと首を振った。ダメージを負った脳をできるだけ揺らさないような動きだった。
「私は鬱じゃないよ」
「よく……ないのかもしれんけど、よかった」
「うん」
お互いに、何も言わない。語らない。無理に共有しなくても、相手がいつか話す気になったときに話すと思うから。俺たちは過去を匂わせながら、自分の痛みは自分のものだからと不器用に歩き続けるしかなかった。
やがて座卓に頬杖をつきながら寝息を立て始めたミサキを寝室まで運んだ。リビングには焼きそばの香りが残っているが、俺はそこで勉強を続けた。
俺の知る限り、ミサキは授業中に寝ることがない。口もとに手を当てるかわいらしい欠伸をすることはあるけれど、そのあとの彼女は決まって外に目をやる。この広い空の下で、ちっぽけな自分は今なにをしているのだろうと考えるように。
不意に扉の開く音がした。ぺた、ぺた、と素足が床を踏み、ラグの上で音が消える。「お目覚めか?」と振り返る前に首の後ろから手を回された。一瞬遅れて、抱きつかれているのだと気づいた。
「ありがとう」
「おん」
耳もとでミサキが声を発する。媚薬みたいだった。
カーディガンの上から細い腕を触り、首に巻きついているのを剥がそうとするけれど、その手は強固だった。
「体調はまだ悪いか?」
顔を俺にくっつけたまま、ミサキはくぐもった声で肯定する。「水を飲みに来ただけ」と続ける。
「俺は水じゃないぞ。取ってきたほうがいいか?」
「そうしてもらえるとありがたいけど、今はもう少し」
ミサキはそこで言葉を区切る。俺は何も言わずに勉強を再開した。
先ほどまで意味が分かっていた英文の読解がとたんに難しくなった。まとまっているはずの一つひとつの単語がばらばらになり、なんとか集合させるけれど、再び離散して。アルファベット一文字ずつが頭の中でそれぞれ孤立している。家族みたいだ、と思った。
揺れる命は忙しない。どちらのものだか分からなかった。
「ライトから与えられてばっかりだな」不意にミサキが言う。声は沈んでいた。体調のせいなのか精神の不調のせいなのか分からない沈み方だった。
柔らかな手に、マメが何度も潰れてかたくなった手を重ね、撫でる。
「人から無償で与えられると、私はいま人から奪っているんだなって思う」
「普通子どもってのは無償で親から与えられて育つはずなんだけどなー」
天井を見るために頭を動かすと、こつん、とミサキの側頭部に当たる。
世間一般の言葉で言えば、愛とかが最たる例で。決して口には出さない。たった二文字がミサキの心をどれだけ抉るのか分からないから。
こうやって体を預けられたとき、不用意に相手の意に反することをすれば機嫌を損ねることを知っていたから、俺は特別な動きを見せなかった。
「いつか必ず返すから」とミサキは言った。弱々しい声だった。
「返さなくてもいいよ。返してもらうためにやってるんじゃないし」
「でも、悪い」
知らぬ間に、記憶の中の父親と同じ言葉をつかっていた。聞いたことはないけれど、父と母の馴れ初めに近いんじゃないか、と思った。
「やっぱ今のなし。気長に待ってる、返されるの」
「……どんどん溜まっていくと思う」
「じゃあ」
俺は言い淀む。なんと返そう、と。空気が軽くなるようなことを言えたらいいけれど、こういうときに限って思考にはデバフがかかっている。
思いつけ、思いつこう、何かないのか、と靄の中で必死に手を振り回す。そうして加減もできないままぶつかったものが鉱脈でなく、相手の心である可能性に思い至り、俺は靄の中で立ち尽くした。
話の接ぎ穂を失い、「じゃあ」を機械みたいに繰り返す。ネタが飛んでしまった芸人が舞台上で慌てているみたいに、思考にも周囲の空気にも黒い沈黙が広がる。そのせいで余計に焦る。
抱きしめるミサキから伝わる確かなぬくもりを感じ続けた。
やがてミサキは寝息を立て始めた。俺はミサキの機嫌を損ねなかったことに安堵の息を吐いて、彼女を寝室まで運んだ。そのあと水を座卓においた。
父は母を愛していたし、母も人を愛そうとした。
人がこぼした感情の欠片みたいなものを拾い集めて、俺は気持ちを定義している。だからおそらく自分の心なんてものはなくて。
両親が落としてくれたごみを、パズルのピースをはめるようにしてぺたぺたと貼りつけている。報酬がランダムな宝箱から出てくるお宝があらかじめプログラムされたものしか出てこないように、俺から出てくる言葉はどうしても両親の言葉だ。
悲しいと思うことも、悔しいと思うことも、すべて両親から出てきたものなのだろうなと思うととたんに白けて価値を失う。
シャーペンを握る手に力が入る。物に当たるのは浅ましい。
次の日のテスト後、帰宅途中で出来を話すとどちらとも「最終日が一番悪そうだよね」と一致していた。それは事実だった。それでも俺たちの順位は高かった。