夏休みは予想したとおりに過ぎ去った。
成績上位者用のカリキュラムで夏休みの最初一週間が潰れ、そのあと道場の合宿に行った。
一年生の夏休みだ、と思う。二年生からはもうちょっと補講が入るだろうし、三年生なんて言わずもがな。近い現実から目をそらして、俺は楽そうな大学生活を思い描く。なんて地に足がついていないんだろう。
暇を謳歌できるのは一年生までで、でも、暇なときは、暇なことが苦痛へと変じる。予定の詰まった夏休みがとても魅力的に見えるのだ。夏祭り、バーベキュー、どこかの家の催し、釣り、海、ショッピング、とか。どれも夜空に広がる星のようにきらめいて見える。それが宝物じゃないと気づけたのは、間違いなく母のおかげだった。
俺は曇り空が好きだった。そしてそれを分かってくれそうな人に出会うことができていた。
夏休みの暇なときはとりあえず道場に行こうかなぁと考えていた。のだけれど、今日は気力がなくて、床に寝そべって天井を見ていた。床も部屋も冷たい。心だけはあたたかい。ミサキを迎える準備はばっちりだった。
そろそろ時間かな、と思ってスマホをつける。無機質なロック画面に通知が浮かぶ。
『今終わった』
『おつかれ』
『買い物はしていかなくてもいい?』
『明日だか明後日だか、ミサキが休みのとき行かね?』
『でも何かあったっけ? カップラーメンとかパスタとかしかなくない?』
『たまにはそういうのでもいいじゃん』
『スーパー寄っていく』
『待ってる。ハンバーグ』
『お肉が安かったらかな』
ミサキの服は毎日違っていた。俺としか会わない日は、半袖やホットパンツ姿が多かった。そんなふうに観察してしまうほど浮かれているのだと、遠くから自分を観察するような心が冷ややかに告げる。
俺は、自分と歩いてくれる女の子が服に気を遣ってくれていることに優越感を覚えていた。自分と合うときに肌を見せてくれることを嬉しく思っていた。母だってその手法を使っていたのに、衝動は抑えがたかった。
俺は自分を明確に嫌悪していた。浅ましい期待と、本能に屈する心からだった。
そこに気恥ずかしさや緊張が合わさり、毎日それなりに疲れていた。
暇だったので「ハンバーグ」と叫び、録音し、ミサキに送る。声量は調節したつもりだった。
『今もうスーパー』
そのあとにいくつかの、赤い怒りマーク――といっても絵文字じゃなくて赤く湾曲した四本の線――が送られてきていた。
『暇だった。
すまん』
『素振りでもしたら。少しは気が
『そうする』
自分の録音を聞いてみたけれど、鬱屈とした感情を読み取ることはできない。ミサキが何をもって「晴れる」と表現したのか分からなかった。
近くの公園には誰もいない。都会にいたころは、田舎の夏休みはきっとみんな外に出て遊んでいるんだろうななんて思っていたけれど、それは幻想だった。令和の夏休みだと思った。
煩悩に塗れた素振りの音は鈍い。刃筋が立たない。姿勢が崩れる。変なところに力が入り、変なところが脱力する。気に食わなかった。感情に振り回され、姿勢がどんどん崩れていく。
「姿勢の違い、やっぱり分からないね」
「正座と胡座ぐらい違う」
「前は立ち膝と胡座って言ってた」
「おん」
ミサキは後ろから声をかけてきた。俺は部屋着のジャージ姿のまま、振り返って彼女を認める。
少し大きめの半袖Tシャツにタイトなアンクルパンツを着ていた。今日は暑かったらしく、短い髪を後ろで束ねていた。白いうなじから制汗剤が香った。
買い物袋を提げていた。外側に刺繍されたクマが商品によって押し出され、歪に膨らんでいる。
「持つ」「ありがと」俺たちの足は自然と家に向かった。
公園を抜ける途中で竹刀袋を回収し、太陽に焼かれるアスファルトを進んだ。
それから夕ご飯を一緒に食べて、ミサキを家まで送った。
互いの生活を溶け合わせ、実感が甘い毒となり、徐々に精神を蝕む。親もとを離れた俺は、宿主を変えた寄生虫となんにも変わらないんじゃないか。ふとした瞬間にわき出た思いはこびりついて離れなかった。
眠れない夜は好きなゲーム実況者のシリーズ物の再生リストを流すに限る。途中で何度も『視聴を継続しますか?』と言われ、そのたびに青白い光を見つめた。睡眠薬は飲まないと決めていた。暗闇はいつも俺を抱きしめて安心させてくれた。
ミサキの前では普段どおりを装ったけれど、もしかしたら、本人が日常を演じているのだから触れないでおこうという優しさに甘えていただけかもしれない。
ミサキが帰省したのは、そんな、自分への不信感と失望に息が詰まり始めたときだった。ここでちゃんと生活できたら俺は自立できている。決意だか期待だか分からない心は、初日から早々に引き裂かれた。
心に体が引きずられる。ゲームのスキップ機能を使ったときのように、暗転したままお盆は過ぎていった。
てんてんてれれん、てんてんてん。
てんてんてれれん、てんてんてん。
ユーチューブの画面が切り替わり、すっかり馴染んだ音が耳にる。低空飛行を続けていた意識が浮上する。
「どうした?」自分の声には寝起き特有のがらがら感があった。
『……寝てた?』
「おん」
『ごめん。てっきり置きてると思ってた』
「まぁまだ……八時だし、普段なら起きてるからな」
ケータイだけが発光していた。部屋の電気をつけると、その眩しさに目が細くなる。明順応していく視界に取り残されたミサキの私物が映る。ミサキがキッチンを歩き、戸棚にしまってある大皿を取り出すのが幻視できた。そういえばエプロンを着ているのを見たことがない。
『ちょっと、その、寂しくて』
「同棲してて朝いつもより少し早い時間に起こされたみたいだな……」
ミサキの返答までには時間を要した。きっと白い目でスマホを見ているんだろうな、と思う。
『なにそれ。水でも飲んできたら』
ミサキの声はいつも通りの冷ややかさをまとっていた。
「そうするわ」と言ってスマホから離れた。
田舎に引っ越してきて一番驚いたのは、水道水を直で飲めることだった。水道の蛇口を回し、水が冷たくなるまで待つことすら億劫だったので、生ぬるいまま飲んだ。
ミサキの実家を思った。寂しい、とミサキは口にした。
「実家って居心地悪いよな。水飲んだあとの第一声がこれなのもどうかと思うんだけど」
『うん』とミサキは言った。唇を動かさず、喉だけで甘く鳴いたような声だった。
『日中はみんなといるからいいんだけど、家に戻ると、あぁ、いないんだなって』
「あ? んぁ~……」
『なにその分かってないような声』
「外出てないから」
『ふぅん』
通話越しに犬の鳴き声が聞こえた。スピーカーに変えていたので、アパートの外から聞こえてくるみたいだった。
「友だちと何してんの?」
『いろいろだよ。そっちはどうとか話したり、公園で花火したり、買い物行ったり。昨日は夏祭りに行った』
「おぉ……いいじゃん。花火かぁ。したことないな」
「今度やろーぜ」と言いかけて、「でも片付け面倒くさそうなイメージあるなー。不法投棄するわけにもいかんし」と愚痴る。
お盆期間は道場も閉まっているし人から遊びに誘われているわけでもないしで、久々に人と話したせいか俺は饒舌になっていた。
「お土産は片付けが楽そうなもので」
『なにそれ、食べ物とか?』
「食べ物はな~……記憶にも思い出にも残らないじゃん。お土産を渡すための事実を作るって点では優秀だけど」
遠出から帰ってきた母はよくの名物の食べ物を買ってきた。具体的な名前を一つも出すことができず、どんな食べ方をしたのか、何人で食べたのか覚えていない土産を買ってきた。残っている間は記憶に残るけれど、それがすべて胃に収まった瞬間、脳が無駄なものと判断して記憶から消してしまう。
「だから……記憶とか、思い出に残るものだといいかもしれない。キーホルダーでもいいんだけど、たしかそっち、とんでもない田舎だったよな?」
「うん。ゆるキャラのキーホルダーすら近くにはないと思う。わざわざ街まで行かないと変えないだろうし、明日帰る途中で寄る時間もないだろうから」とミサキは歯切れ悪く言った。
「そうかぁ」
天井を見つめ、息を吐く。築年数が少ないからか天井に目立ったしみはない。家の壁や天井の模様を覚えている人は少ないと思った。食べ物の土産と同じで、不必要だから、どんなに身近でも切り捨てられる。
「じゃあ――」どうしようか。千切れた言葉よりも鋭い、男女の諍いの声がした。
俺とミサキのため息が重なる。「ごめん」「おう」と通話が切れる。気をつけてな、なんて言えるはずもなくて。
ミサキの体を思えば言ったほうがいいだろう。
でも、心を思えば言わないほうがいいだろう。
自分以外の人間から家族を貶されると腹が立つ。両親がどんなに救えない人たちでも、それを貶していいのは子どもだけだ。
一人は唐突に訪れた。俺は暗闇に帰り、翌朝、ミサキに『帰れそうか?』と送った。懊悩のすえの短文だった。
『ぎりぎり間に合うと思う』
『白馬に乗ってお迎えにあがります』
『じゃあちゃんと王子様のコスプレしてね』
ぐ、と返事に詰まった。ミサキから追撃の『それとも道着と袴を着て江戸時代っぽくする? 竹刀もあるしちょうどいいんじゃない』と送られてきて、俺は白旗を振るスタンプを送った。
泣き喚く絵文字とスタンプを連投し、しまいに『裸の王様のコスプレをします』と送ったら、面倒くさくなったらしいミサキから電車の時間を告げられた。
久しぶりの外はむせ返るような暑さだったけれど、都会のように、人の熱やビルの無機質な熱ではなく、自然が放つ瑞々しい熱みたいなのを感じた。
キャリーケースを引いて改札に現れたミサキはとても浮いていた。ゆったりした帽子を目深に被っており、芸能人がお忍びで旅行に来たみたいで、心の内側を怪しい快感が這い回った。けれど長袖長ズボンだったことに
いつも通り夕食を取っているとき、ミサキは俺に、翌日に近くの公園に来るよう言った。
翌日、時間通りに公園を訪れると、すでにミサキは待っていた。半袖の白シャツに水色のジーンズを合わせている。周囲に人影はなく、田舎と令和が合わさった公園は過去に取り残されているみたいだった。撤去してくれる人すらいないから、寂しさがある。
腕を凝視した俺はひとまず安心した。
「待った?」と無駄に爽やかに言ったところ、ため息を返された。
「ううん、いま来たところ」とエッジのないかわいい声で、かつポジションも変えながら――さながら男女が向き合って話すように――言うと、「一人二役の自撮りを見たときみたい」と言われる。
「してミサキさん、公園なんて縁のない場所に何用で?」
「ちょっと……まぁ」
俺はミサキの持っているビニール袋を見下ろす。ミサキは俺が見やすいように肩の高さに掲げた。袋越しにカラフルな円筒がいくつも入っているのが見える。
「なんだそれ」中に手を入れて適当に一つ掴む。取り出す。こうもり傘のハンドルみたいな太さで、シャーペンよりも短い。上にプラスチックの蓋がついている。
「あとこれ」ミサキはストロー状の円筒を俺に手渡した。
手にした二つを見つめながら、俺は固まる。謎解きゲームでとりあえず二つ選択したところ、それが見事に一つの道具になり、使い道に困ってしまった主人公のようだった。
ミサキはそれを得意げに眺めたあと「やっぱり知らないんだね」と言った。穏やかな表情だった。
「シャボン玉。したことないんじゃないかなって思って」
太陽光が雪肌を焼いている。ミサキはビニール袋を片手に提げて、もう片方の手で肘を抱いていた。
「へぇ」と俺はプラスチックの円筒を太陽にかざした。
「しゃぼんだま。屋根まで飛んでいくやつ?」
「そう」
シャボン玉とんだ。屋根まで飛んだ。屋根まで飛んで、壊れて消えた。
いつ覚えたのか分からないけれど、確かに覚えている童謡。みんな知っている童謡。愛という単語とよく似ている。自分の中にある明確な形は分からないのに、みんながその単語を熟知している。
「これのせいで新幹線に乗り遅れるところだった」
「何してんだよ」
ミサキが淡々と言ったから俺も同じように返した。でも、嬉しかった。無茶振りしたかもしれないという申し訳なさが真夏の風に乗って転がっていく。木の葉が優しい笑い声を上げている。
「これどこで買えんの?」
「買うっていうか……駄菓子屋でもらった」
「駄菓子屋……!? 何その夢の詰まったワード。え、物々交換とかしたってこと?」
「ううん。説明したらあげるって」
「かわいさのカツアゲ」
「ちょっと黙って」
ミサキが俺のとなりまで歩いてくる。そして洗濯したばかりのような青空を見た。
白い頬が、遠くに霞んだ空と同じくらい透き通っている。ミサキの目が一瞬だけ俺に向けられる。ルビーが光を反射して輝いているように見えた。
「間に合わなくても迎えが来てくれるみたいだったから、最悪乗り遅れてもいいかなって少し思った」
「新幹線の距離をむりやり移動したら馬潰れるわ。あと馬ってアスファルト走ったら蹄やっちゃうからな?」
「……私、馬肉って食べたことない」
「捌くな。いつか食いに行こーぜ」
「うん。でもこのあたりにはきっとないよね」
「店か? まぁ……街のほう、県庁所在地あたりの規模ならわんちゃんくらいじゃね。いつ行くよ? ちょっとしたお祝いとかのほうがいいか?」
いつか果たされるかもしれない約束を風に流して、俺たちはプラスチックの蓋を取った。
花火にうるさい都会は、シャボン玉にもうるさそうだった。心に残るものよりも実利を取るところが虚しかった。窓や洗濯物が汚れたらクレームが来ると思って周囲を見渡して、何もないことに気がつく。話すとミサキはわずかに口角を上げた。
ミサキは静かに、今日の空の色と同じ色の円筒にストローの先端を浸した。少しだけ液を切って小さな口で咥える。やがて虹の泡が飛んでいった。
下ばかり向いている俺の顔が自然と上を向いた。なんの価値もない泡なのに、それが自由に宙を舞っているだけでどうしてこんなに心が踊るのか分からなかった。
「ライト」
名を呼ばれ、視線をミサキに戻す。虹の泡を出しながらミサキが俺を流し見る。ほら、やってみてと言っている。
俺も咥え、ミサキの口もとを見た。ちょうど液がなくなったらしく、ストローを浸したミサキは口を少し窄めた。雑炊をふーふーするときみたいだった。
まねしてみると、確かに出る。おお、すげえ、と思った。ひと通り出して、シャボン玉の大半が空中で割れてからミサキを見る。ミサキは目を細めて、俺の後ろにあるものを透過して見ていた。
「本当は昨日、ライトの話も聞きたかったんだけど、できなくて」
「俺の話?」
「うん。最近ちょっと元気なさそうだったから」
「心配してくれたのか」
「最初会ったとき、ライトも私のこと気にかけてくれたでしょ。だから」
「いいよ。無理にしなくても。一人でもなんとかなるから」
心に引きずられようが、体は動く。動かせる。小さなころからそうしてきたのだから、学校が始まれば、社会と関わることを強制されれば、俺は心と体を切り離して動くことができる。
「今は私がいるって知ってほしいだけ」
無数の泡が空を彩った。ミサキは特別な表情を浮かべていなかった。あなたのそばにいる私は、いつもの延長線上にいるだけ。そんなふうに言っているのだと思った。
その言葉はどうしようもなく沁みた。
「昨日、さ。言い合いが聞こえたんだよ」
軽い虹が風に運ばれてどこかに行くみたいに、今から自分が話すことも軽く流れていけばいい。誰かに何かを託すわけじゃなくて、自分で抱えきれなくなっているものを、ほんの少しだけ見ないふりするために流すのだ。
母方の祖父母は都会に住んでいた。母方の家は、愛に暴力がオプションとしてついていた。母自身、それが異常なことだと思っていたのだと思う。でも自分はそれ以外の愛を知らないから、見様見真似で他の人の愛を真似するけれど、結局自分が受けてきたものに立ち返る。その不安定が俺に降り注いだ。
見過ごされがちなほんの些細な怪我が、長い間一緒に過ごしたせいで腹の中に降り積もり、熟成され、ふとした瞬間に嫌いとなってあふれ出る。
口論は、いつだって腐卵臭を伴った。臭気にえずき、光景に絶望し、互いを罵り合う声に窒息した。ときおり、触覚に打撃が与えられた。穴のあいた壁を見るたびに、自分に穴が空いたような気がした。痛みはない。けれど、風が通り抜けて、冷たさが悲しかった。
小さなころの記憶をかいつまんで話しただけなのに、シャボン液はずいぶんと減ってしまった。
「昨日、通話したとき、だからすごく怖かった」空を見たまま続ける。「特別な思い出なんてあるわけじゃないんだけどなぁ」
しばらく中空に佇んでいた泡が色彩を失い、膜がしわだらけになり、萎んだ。
相槌を打ちながら、ほとんど黙って聞いてくれていたミサキは「能力が高いことは、決して幸福なことじゃないと思う」と言った。
空色を燃えるゴミに捨てるとき、「人を頼れないからこそ不幸になる人もいるんだよ」と最後につけ加えた。