今年の秋は、秋分の日と土日を合わせて三連休だった。ミサキは月曜日だけ休みをもらっていた。
土日をどうにか乗り切ったミサキは、月曜日に家に来て早々――朝に来て朝にダウンした。
ランニングと素振りを終えてシャワーを浴びていた俺は、リビングに出てすぐ座卓に突っ伏す彼女を見つけた。薬を飲んでもらい、意識の曖昧な彼女をベッドまで運んだ。
ミサキは俺に抱きつかなかった。だから俺に全体重がかかった。ミサキは死体みたいだったけれど、俺は彼女の重みにどこか安心していた。
「リビング戻るの」
ベッドに仰向けになったまま、ミサキは首をわずかに動かして俺を見上げる。力なく開かれた瞳から感情を読み取ることは難しい。
彼女が不安症というか、寂しがりの傾向にあることを把握し始めた俺は、寝室で勉強をすることにした。
課題や予習を済ませ、スマホでゲーム実況を垂れ流す。
そのうちにミサキが「見たい」と言い始めて、シングルのベッドに二人で寝転がってヘッドボードを見上げる。ミサキが再び眠りに落ちる。
キリのいいところでユーチューブを止めた俺は、ミサキの拘束を慎重に脱出して昼食を作った。やがて「いなかった」とぶーたれるミサキがのそのそとリビングに現れ、ちょうど出来上がった卵の雑炊を二人で囲んだ。
朝に飲んでもらった薬が効いたらしく、昼食をいつも通りに食べられるほどミサキは復調していた。薬を買っておいてよかったと思ったけれど、食事中にミサキは何度も居住まいを正した。
「どうして肉体って重いんだろうね」
泡のついたスポンジを見つめながら、ミサキが不意に声を上げる。実感がこもっていた。物理的な重さはもちろんのこと、生活の中で溜まっていく疲労や垢に苦しむ人の言葉だった。
肉体は魂が封じこめられている器だという話を、俺はときおりミサキから聞いていた。
「そうなー」と俺は言う。ミサキは手を動かし始める。
「もしも肉体が軽かったら、生きてるって実感がないのかも」
ミサキがちらと俺を見る。「どういうこと?」
「ゲーム実況とか、ゆっくり実況、ゆっくり解説、ボイスロイドとかの音楽でもいいや。姿が映らないとときどき『本当に実在しているのか』って揶揄されることがあるじゃん。コメ欄とかでさ。で、実写で何か動画上げると『本当にいたんですね』って流れになる。人は自分に限らず、肉体の重みを感じることで実在を感じるんじゃね」
「ふぅん」
言いながら、母はその重みに押し潰されたのかもしれない、と思った。芸能人は常に、重みを周囲に振りまかなければならない。
地球は重力によって塵芥を集め、惑星として成り立っている。それと同じように世間の塵芥を集めた母は、やがて崩壊したのかもしれない。俺が受け取っているものは両親のゴミであり、世間の塵芥だった。
ミサキはお湯を張った洗面器に手を入れ、小皿やスプーンを取り出す。そのたびに波紋が生まれる。やがて洗面器の外周に到達したお湯は跳ね返り、波紋とぶつかりあって消える。
「じゃあ、私の重みからは逃れられない?」
「俺の説が正しければ」
不思議な言葉だった。『私は重みから逃れられない』でなく、『私の重みからは逃れられない』。まるで他の人の重みからは逃れることができるのだと言っているみたいだ。彼女の足跡なのかもしれない。
「あ、でも、自分の重みを感じづらくなる方法はあるかも」
洗い物の泡を流していた動きが止まる。蛇口から出続けるお湯がミサキの手をうち、小皿に流れ、排水口に滴った。
動きを取り戻したミサキが水切りかごに次々と物を入れていく。俺はそれを拭いていく。
「方法って、どんなの」
「気になる?」
にやりとした俺に冷たい目を向けながら、ミサキは頷いた。
「これ拭いたらちょっくら外行こーぜ」
「……分かった」
「早く済ませるために拭くの手伝ってくれてもいいんだぞ?」
「女子の外出には時間がかかるから」
「楽しみにしてるわ」
俺の反撃にむっとした様子を見せたミサキがキッチンを離れる。
ユーチューブを垂れ流しながらすべて拭いて定位置に戻したころで、寝室からミサキが出てきた。
ミサキは半袖で丈の長いワンピースを着ていた。ミサキの肌に漆黒は映えていた。ブレーカーが落ちるように俺の思考が一瞬止まる。
このアパートにはクローゼットが二つあって、片方をミサキが使っているのだが、まさか攻城兵器が隠されているとは思いもしなかった。
ミサキは俺の前では動きやすさを重視する。人目につくときはシンプルさを重視する。そのどちらでもない外した格好だった。
ミサキは気だるそうに横を見ながら髪を耳にかけた。オレンジ色の星が揺れている。ものぐさ令嬢みたいだった。
「もらった」
俺が何かを言うよりも早く、ミサキが射抜く。
「おう」と俺は絞り出した。
学校に行くときに気分で使っているママチャリを引っ張り出して、ミサキを座席の後ろに乗せて――ちゃんとクッションを敷いたが座り心地は最悪らしかった――ペダルに足をかける。
「腰に手を回してくれ。わんちゃん危ない」ミサキは俺の腰に控えめに手を回した。「もっとがっしり掴まないと危ないぞ」腹に力を込めて言い、同時に力強くペダルを踏む。重いギアで自転車を漕ぎ始めるみたいだった。
なかなかきつい、と思った。顔はこらえきれない笑みによって歪んでいた。
いつもより重みの増した自転車はなかなかトップスピードに乗れない。ブレーキも利きづらい。下り坂を利用することでやっといい感じに風を切れた。
強い日差しが照りつける。熱い風が頬に吹きつけ、耳にまとわりつき、後方へ抜ける。
背後にぬくもりを感じて、今日は俺の知らない夏だと思った。
何かと比べることはできないけれど、俺たちは誰よりも何よりも早かった。
風でワンピースが靡き、膨らみ、ミサキが慌ててそれを押さえる気配がした。ミサキが慌てた声を上げるのは珍しかった。両足の膝をくっつけることで、間に挟んだ生地を無理やり押さえることにしたらしい。ちゃんと下に別のを穿いてるよな、と独占欲だか嫉妬だか判別のつかない気持ちがわく。
二人でよく歩く裏道を、カーブにも減速にも細心の注意を払った自転車が疾走する。顔を歪めながら、だらしなく汗をかきながら、みっともなく息切れしながら、ペダルを漕ぐ。
体も自転車も重いから、俺たちは生きていた。
何かに一生懸命になることによって、もしくは生きることとは別種のきつさによって、人は自分を見失う。
人通りの多い道を避けて進み続けた俺たちは、最終的に名前しか知らない町内にたどり着いた。
ミサキには自転車を降りてもらって、俺も自転車を押して進むことにした。
「さすがにつかれた……」
自転車に全体重を預けて老人のように歩く俺に、ミサキは呆れたような目を向ける。冷ややかな目を向けることすらアホくさいと思っているのかもしれない。
「なんだよ、その目」
「……馬鹿みたいだから」
「こう見えて学年一位だしー!」
ミサキは取り合わなかった。風によって乱れた髪を手櫛で丁寧に梳く。
俺はぜーぜーする息をなんとか整えながら、真下のアスファルトを見て歩く。そこでやっと、ミサキが普段は履かないサンダルを履いていることに気づいた。黒のサンダルだった。靴底が厚いのに、俺はミサキの目線の高さが変わったことに気づけていない。
上を向いて歩こうとか、俯いたままじゃいけないとかって言う人がいるけれど、下を見ることによってしか見つけられない奇跡があると思った。
「なんか、馬鹿すぎて、どうでもよくなった」
彼女はあまり笑顔を浮かべない。目の端に描く優しさが彼女なりの笑顔だった。ミサキは不器用だ。
何かを起用にこなす人を俺は信用できない。だから、ちょうどよかった。
「俺は疲れすぎてどうでもよくなってるよ」目を血走らせて言う。
「だろうね」とミサキはまたしても流す。
「家、どっちだと思う」
「道覚えてるから大丈夫」
「来た道引き返す散歩ってつまらなくない?」
じゃあ迷えって言ってんの? 正気? みたいな視線を向けられた。
「まぁ? 行きと帰りじゃ風景が違うなんてことざらにあるしぃ? ありだよねぇ?」
「行きで風景楽しめてないでしょ。帰りで楽しめば?」
「行きで息を切らしたからね!」
「どこかで引き返そう」
「はい……」
「今はもうちょっと歩いてもいい?」
「おん」
あてのない青の下を、二人はちびちび歩いた。視界には秋が広がっていた。
たくさんのアキアカネがいた。紅葉のような赤もくすんだ赤も、それぞれ違う赤を誇るように力強く宙を滑る。空に浮かぶ赤い星々は懸命に今を生きていた。
黄金の波がコンバインに飲みこまれていき、収穫され更地となった田んぼには木の杭が立てられる。稲はそこに干されていた。
黒くなった老人たちの背筋はしゃきっとしていて、イグサか何かで編まれた日よけを使っている。みな一様に膝下までの長靴を履き、土に足を取られずに動く。力強い動作をしていた。都会の老人もしゃきっとしているが、田舎のように肌が黒くないし、動作も力強くない。どちらかというと優美な気がする。両者の違いには人生が詰まっていた。良し悪しはないと思う。
「稲刈りの時期なんだな」と俺は言った。
「あれ、少し早いよ」とミサキがとなりから言う。
先ほどよりもゆったりとしたリズムで車輪が回る。重みから開放されたそれは軽い音を立てて俺たちと進んだ。
車がぎりぎりすれ違えるかすれ違えないかの一本道の両側を、黄金色の海が挟んでいる。
「コンバインって高いから、何人かでお金を出し合って使うのが普通。あの人たちは会社とかじゃなくて、近所で田をやっている人たちが集まって助け合ってるんだと思う。順々にやっていくんだろうね」
ミサキは稲刈りしている田を見てから、ゆっくりと首を動かして周囲を見渡した。ミサキの動きを目で追っていたので、自然と俺も周囲を見た。
「都会とぜんぜん違うなぁ。うちなんてとなりに誰が住んでいるのかも分からんかった」
「今だとそういう田舎もあるけどね。町内の結びつきなんていろいろあるし」
「どっちがいいんだろうな」
「どっちもどっちだよ。音楽と美術の選択授業みたいなもの」
「どっちも面倒くさい、ってことか」
ミサキは鼻を鳴らして話を終わらせた。ミサキの真意は分からなかった。
俺たちは適当な突き当たりで引き返した。帰りは二人とも静かだった。行きよりも穏やかな風に身を任せ、雲が空を漂うように足を進めた。
「小さなころに家族で行ったキャンプを思い出した」
二人でよく通る裏道まで戻ったとき、ミサキが出し抜けに言った。
彼女が自分の話をすることは、ほとんどない。茶化すのがもったいなくて「おん」ととなりを見た。
「あのころは自分たちの家族のことしか知らなくて、みんなそれと同じなんだって思ってた」
ミサキは遠い目をしていた。
保育園時代を詳しく覚えているわけではないけれど、確かに、小さいころの世界は家族が全てだったように思う。他の家庭が異国のように感じられて、その文化もまた異文化で、自分とはまざり合わないものだった。
高校に上がっても、俺は外国人があまり得意でない。
保育園のころはきっと、同じ年齢――うさぎ組や海組の人たちでさえ外国人だった。
小学生になり、中学生になり、精神が発達するに連れて、俺たちは自分の暮らしていた世界が一般的ではないことを知っていった。城郭都市が拡張していくみたいに広がる円の中で、中心には傾いた王城があって。
ミサキの幼少期の思い出に、俺は介入したいと思ってしまった。
「今から行くか。キャンプ。ついでだし」
ミサキは虚を突かれたように俺を見る。
「……なんのついでなの」
「今日の思い出のついで?」
「それっていらない記憶じゃない?」
「定食屋でご飯注文してさ、合わせで出てきた漬物の味が忘れられないみたいなことあるじゃん」
俺はあっけらかんとして言い放った。ミサキはため息をよこした。
「あなたはそうやって……屁理屈ばっかり言う」
「理屈が通ってるから屁理屈なんだぞ」
「ちょっと黙って」
ミサキは俺の家に戻るまでの間、険しい顔でむっつりと黙りこんでいた。ときおり顎に手を当て、首を傾げた。その判断が妥当かどうかよくよく検分するように。
黒のワンピースを着ての仕草は妙にちぐはぐで、俺はミサキを盗み見てはほほえましくなっていた。
家に戻ってからホームセンターの場所を確認する俺に向かって、ミサキは「たぶん必要なものがが運べない」と言った。残念そうには見えなかった。険しい顔だった。無理そうな事実に対して、なんの感情も抱かずに判断をくだす姿に、俺は少しだけ悲しくなった。
テントやクーラーボックス、チェアなどを積むにはママチャリはあまりにも小さい。俺は渋々ミサキの言葉に頷いた。
「でもやっぱ、残念だなぁ」リビングに響く嘆きに対してミサキは返答をしない。糸で縫いつけられたように、ずっと気難しい表情をして課題を進めている。
じいちゃんを頼ることも考えたが、ミサキと二人でキャンプをすることをどうやって伝えればいいか分からないし、何を言われるかも分からない。俺はミサキとの関係をうまく表現できる心を持たなかった。
夕飯の最中に、ミサキは「ログハウスなら問題ないかもしれない」と言った。ひととおり嘆息して諦めることのできていた俺は、しかしその言葉にぴくりと顔を上げた。
「聞いたことはある。でもよく分からん」
「洗い物しながら説明するよ。ずっとそうやって落ちこまれても、私もなんだか悪いことをしたみたいに感じるし」
「今日だけで俺だいぶ情緒不安定だよな」
「よく疲れないなって思う」
「疲れてるから毎晩ぐっすりだよ」
「お盆みたいなことになってないならいいんじゃないの」
二人で作った夕飯に味が戻ってきたと思った。朝から今にかけて、俺とミサキの間の空気はずっと変わらないけれど、それはミサキがそうなるように努めてくれているからだとあとから気がついた。
二人の間の空気は二人で作っていくものなのに、どうして一人分のハンバーグを分け合うようなことを強要しているのだろう、と思った。
感情の舵取りをしたいと思っているのに、うまくいかない。それを母のせいにしようとする自分は、たぶん母よりももっと浅ましい。
「一日一組限定とか、ログハウスにはそういうのがあるから、そこでならたぶんキャンプと似たようなことができる。バーベキューとか、星空の下で焚き火を囲むとか」
ミサキの言葉に「おぉ」と感嘆する。ミサキは手もとに視線を落としたままだった。慎重な手つきで汚れを落とし、お湯で洗い流したときにぴかぴかになるように祈る作業。洗い場にだけついた電気が、泡と同じくらい白くて清潔な手を反射する。
自分の家で家事をするミサキはどんな手つきなんだろう、と思った。自分たちの空間に収まるものはきれいであってほしい。そんな願いが手つきに現れていれば嬉しかった。
「山の中にある……個人で使える自然の家って言えばいいのかな」
「自然の家?」
「そう。小学校の高学年のときに泊まり学習みたいな名目で……もしかして行ったことない?」
「おん、ない。めちゃくちゃ楽しそうだな」
「ザリガニ釣りとか、レクリエーションとかをするの。どこでもできたのに、場所が違うだけでなんだか特別だったな」
ミサキは目を細めた。懐かしいんだと思った。思い出に身を預けているのか、それとも、家族の異常さに気づいていないころを哀れんでいるのか分からなかった。
ミサキがスポンジを動かす音だけがする。田舎の夕方は静かで、まだ虫たちは演奏会の準備をしているらしい。
ごし、ごしなんて音じゃなかった。子どもの頭を洗ってあげるみたいに、たくさんの泡をつけてわしゃ、わしゃときれいにしていく。
「子どものころってそういう特別が多いよな」
静かな声に、静かな「多いね」が返される。
全部に泡がついたのを確認して俺は蛇口をひねった。熱くなりすぎないように慎重に左にしていく。ミサキは律儀に「ありがとう」と言ってくれる。
細かなものが水切りかごに収まっていく。俺はミサキがスポンジを動かすのと同じように拭いていく。
「たくさんの特別を落っことしていくことが大人になるってことなんかな。でもそうしたら、結婚している人はみんな子どもってことになるよな」
「違うと思う。たくさん落として少なくなった特別を強く守るために結婚するんじゃない?」
「だといいな」
「うん」とミサキはこちらを見ずに頷いた。無表情なのにどこか優しい雰囲気だった。
「だから子どもが虐げられることもあるんだと思う。結婚相手が一番の特別だろうから」
「それはどうだろうな。子どもが一番の特別になることもきっとある。その特別ってのが、相手を守ることにつながるかは分からんが」
ミサキから俺宛てに、初めて作ったクッキーみたいに不器用な形の電波が送られてきていて。気づいた俺はゆっくりとした調子で、ミサキに返信を送った。
俺の両親は、確かにお互いを守りたかったのかもしれない。
二人でログハウスに向かったのは、紅葉が始まる一一月初週の平日だった。あらかじめホームセンターで買ったクーラーボックスなどを持って電車を乗り換え、すっかすかの運行表通りに走るバスを逃さないようにして、遠くまで運ばれていく。
ミサキは座りながら黙って外を見ていることが多かった。窓と座席のほんの少しの隙間に肘を窮屈そうに乗せて、あまり体重をかけないように頬杖をついて。授業中もこんな表情だったらいいのに、と思ったけれど、きっとそううまくはいかない。ミサキは今日だけの儚い無表情をしていた。
スーパーで飲み物や食材を買って、ログハウスまで歩いた。
地平線の先が白くなるほどよく晴れた日だった。稜線が前後に連なり、重なり、山脈の奥部は青く霞んでいる。青々とした木々が生い茂って、手前に行くにしたがって木々は緑色を取り戻す。ところどころに紅葉を迎えた気の早い葉があった。
思わず叫んでしまいそうなほど雄大な自然だ。田舎者が都会に来たらきょろきょろするなんてよく言うが、都会人が森に触れてもきょろきょろするらしい。
「あまりはしゃぐと転ぶよ」
「だってさー!」
後ろから注意が飛ぶ。どうやらかなり足早になっていたらしく、俺はミサキの到着を待った。
そうして再び、かさ、かさ、と土を覆い隠すほど積もった枯れた生命の上を進んだ。歩幅もペースもまるで違う。だから合わない。でもそれは何かの曲みたいに調和していた。
すげーすげーと連呼し、しまいに「平日だから余計に気分がいい!」と叫んだ。葉擦れをかき分けて遠くまで声が轟く。
ミサキは呆れているようだったが、俺の行動に何かを言うことはもうなかった。
「他の人たちが退屈な授業を受けている中でこんな……こんななんてさ!」
両腕を広げ、思い切り手を叩く。破裂音が響き渡る。
悪いことをしているみたいだった。背中がぞくぞくしてむず痒くなる。二人きりで屋上で弁当を食べ始めたころの感覚とよく似ていた。いつしか日常となり、薄暗い踊り場でご飯を食べるのも日常となった。
かつての特別を日常と思うように変化したことが、急に怖くなった。変化じゃなくて、変質だと思った。感情の質が、質量が変わっている。
思えば、ミサキと買い物に出かけることも、一緒に夕ご飯を作って食べることも日常の一部になっていて。それが切り取られた日には物足りなさを覚える。
好きが。特別が。日常に飲みこまれて価値を失う。気づいた瞬間が一番悲しい。でもコーヒーに溶けた砂糖はかんたんに取り出せない。
「どうしたの?」とミサキが俺を見上げていた。ミサキの瞳がよく色づいた紅葉みたいな赤色をしていることに、俺はたった今気がついた。今までは髪と同じ焦げ茶色だと思っていた。
「いや、なんでもない」
「そう」
歩き始めた俺の手をそっとミサキが握る。指は絡めない。
今日の始めてはいつかの日常。ミサキの瞳も、手を繋ぐことも、きっと。
寂しかった。悲しかった。苦しみながら喘ぎ喘ぎの息継ぎをすることが高校生の恋愛ではないのに、俺はそれしか知らないことが、悔しかった。ミサキに自分の感情が伝わらないように、華奢な手をそっと握り返した。
今日だけ二人のログハウスが、向かう先に小さく見えている。
少し周囲を歩いて、バーベキューをして、暗闇はすぐにやってきた。
四方八方の輪郭すらおぼつかない暗さなのに地平線――山の稜線と表したほうが正確だけれど――だけは分かった。星があるかないかの違いだ。
「朝に出てきたのにな~。あっという間すぎる」
「車があればもうちょっと楽に来れたんだけどね」
「そもそも車があったら近くのキャンプ場行くんじゃね。事の発端は荷物載せれないってことだったし」
ミサキは少し考えて「それもそうか」と言った。
焚き火をするにもバーベキューをするにも、ミサキの手際はよかった。自分が経験したことをミサキはよく覚えている。体から抜け落ちない染みは、彼女を魅力的にする装飾品だった。俺とは違っている。
焚き火の近くで椅子に座りながら、ミサキはぼんやりと前を見ていた。暗闇の中にある何かを見定めるみたいだった。
「生きるための手がかりを見失ってる」
こちらを見たミサキが眉を寄せる。「なにそれ」
「分からん。そんなふうに見えただけ」
「ふぅん」
どうしてこんなことを言ったのか自分でもまるで分からない。心のネジが緩んでいる。むりやり締めようとは思わなかった。気ままでいてもいいのだと思えることが心地よかった。
俺は不意に「あ」と音を出した。
「ミサキってちょくちょく、体は器とか、重いものを引きずって歩く意味が分からないとか言うだろ? そういうときってたぶん、生きるための手がかりとか目印を見失ってるんだよ」
ミサキは「ふぅん」と相槌を打った。しばらくしてから「みんな見えてるのかな」と言った。
見えてるとか、見えてないとかじゃなくて、そもそも考えたことがないんだと思う。かんたんに言えば、生きる理由と呼ばれるものを。考えれば考えるほど泥沼にはまってしまうから、そうなるまえに普通は脱出するのだ。
周りの人と話せばよく分かるけれど、社会は意外と適当だ。俺たちが考えすぎてしまうだけ。
思ったことを口に出す。ミサキは聞き続ける。
俺とミサキは目を合わせないまま、心を交差させていた。
視界の端で捉えていたミサキが背もたれに思い切り体を預けた。天に向かって大きく伸びをして、その拍子に上体が反って胸の膨らみが目立つ。上には星があった。
ミサキは闇との親和性が高い。生命の細さみたいなものが、闇に吸いこまれてしまいそうな印象を与えるのだと思う。
「不思議だよね。ライトって」
ミサキは優しく呼びかける。どうやら伸びを終えたらしい。
俺は目を大きく開けて続きを促した。
「私がほしい言葉をかけてくれないから、そういうところがいい」
「秒で矛盾してねーか、それ」
「ううん。してない」
ミサキは立ち上がり、ゆっくりと椅子を折りたたみ、俺の近くまで持ってきて広げた。枯れ葉を踏む音が焚き火にまざる。柔らかな音だった。
ミサキは丁寧に椅子を開いて腰を下ろした。
「ほしい言葉をかけてくれる人って、自分の言葉に責任がない人だから。ライトは自分にできる範囲の言葉をくれる。そういうところがいいんだよ」
言葉にまじって過去が香る。俺はこんなとき、どんなふうに言葉をかければいいのだろう。聞き出すことはきっと違う。俺とミサキはそれをしてこなかったから。俺たちはまだきっと青くって、自分たちを取り囲む環境の重みを受け止めることができないから、見えないふりをして歩いている。
周囲の闇は深い。そして濃い。地上の光源は焚き火だけだ。心の寒さに負けないように身を寄せ合いたい。でも、俺とミサキには距離があった。
考えるのが難しくなってミサキの手を握った。
「どうしたの?」
「分からん」
「ふぅん」
俺の片手は椅子を繋ぐ橋みたいに伸びていた。心もとないけれど、こうでもしないと繋がらない。繋がれない。
華奢な手をふにふにして遊んでみる。ミサキにそっと手を握り返される。
「あなたの名前」ミサキが不意に声を出した。夜空を見上げる目が一つの大きな明かりを捉えている。
「
「うん」とミサキが頷く。「大切なものを見失いそうな日は、
抱いてしまった淡い期待が、どうか星空に照らされませんように。ミサキを握る手の力が弱まる。その分強く握られる。
「ライトの名前は優しいとおもう。名付けた人がどんな願いを込めたのか分からないけど」
隠された真実には触れないように、迂回してくれる言葉だ。聞き出さず、詳細を話さず、手渡し合う。こんな関係をなんて呼ぶのか俺には分からない。
その夜、俺たちは別々に風呂に入って、別々に眠った。ともに夜を過ごすのは初めてだった。
間違いは決して起こらない。起こったら不正解だから、それは間違いと呼ばれたり、過ちと呼ばれたりする。