Suicide Outside   作:ぞんぞりもす

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八話

 俺たちの関係は変わった。色づいた紅葉が風邪をひいてしまいそうなほど寒い秋のことだった。

 酷暑が終わり、入れ違いにとんでもない寒波がやってきて、気温差にミサキはやられたらしい。加えてタイヤ交換のシーズンで疲れが取れていないのかもしれなかった。

 

 一限目は数学で、指名されたミサキは立ち上がったときに立ちくらみを起こして倒れた。俺は担当教師が保健室まで付き添うだろうと思って、また席がそんなに近くなかったこともあって、ワークから頭を上げなかった。

 

「おい、黄海」と呼ばれ顔を上げる。教師自身ですら、俺を呼んだことに驚いているようだった。周囲からも視線が注がれている。俺はおおよそを察した。

 

「分かりました。付き添います」

 

 教室が静まり返っているせいで俺の声が通る。椅子を引く音にすら全員が耳をそばだてている気配がした。俺たちはただの図書委員として思われていたようだった。

 

 ブレザーの内側が熱をもっていた。机の間にある狭い通路を、まるで縁石から落ちないようにするみたいに慎重に歩く。歩道に落ちても車道に落ちても大事故になる気がした。

 

「ごめん」

 

 教師から肩を借りてよろよろと立ち上がったミサキが小さく謝る。ミサキはするりと教師から離れて俺に近づいてくる。意図を察して肩を貸した。

 教室の後方にある、ロッカーと机に挟まれた広めのスペースまで歩いたとき、再びミサキがよろめいた。

 

「階段でそうなったら危ないな」

 

 ここは四階で、保健室は一階だ。

「うん」とミサキは頼りない声で返事をした。

「運ぶ」すぐさま身を落とし、厚い黒タイツに覆われた膝裏に腕を回す。

 ミサキの体調が悪いとき家ではいつもこうして移動していたから、俺たちの動作は手慣れていた。それが逆にまずかった。ここは教室だった。俺たちは家にいるときのように話した。

 

「白馬」とミサキが言う。

「俺は王子様じゃない」

「ううん」俺の首に手を回したミサキが身を寄せる。

 

 淡い色の唇が「私の王子様」と音を発した。教室は相変わらず静まり返っていた。授業が滞った。

 

 あぁ、サン・テグジュペリって返せばよかったなぁ、と階段を下りながら思った。ミサキは安らかな顔で運ばれている。

 

 

 保健室のベッドに彼女を寝かせてから、俺はどんな顔で教室に戻ればいいのか分からなくなってフリーズした。椅子に座ったかと思えば立ち上がったり、壁面に沿って歩くように設定された敵モブのように歩いたり、テーブルに手をついて肘を曲げたり伸ばしたりした。一連を怪訝そうな顔で見ていた先生から「早く戻ったほうがいいんじゃない?」と三回言われ、やっと戻った。

 

 俺のあだ名は決定した。それはミサキがいないところでのみ囁かれた。一方で、ミサキにどう接すればいいのか分からないというのが学校の総意だった。

 

 

 再びの転機が訪れたのは、俺とミサキが好奇の目を向けられなくなった冬のこと。俺が冬合宿のために遠出をしたときだった。

 いきなり通話がかかってきたので、談話室で雑談していたのを抜け出し、寒い廊下に出る。ミサキからの着信だった。通話するときはメッセージで確認してからが多いのだが、何か緊急の用事だろうか。冷蔵庫のものは消費したよな、掃除はこまめにやってたよな、食器類は出しっぱじゃないよな、と注意はされないがミサキが自然と動いてくれそうなことを一つずつ思い浮かべていく。

 

『ちょっと声が聞きたくなって』

「あぁ、おん」

 

 予想外の内容に口ごもる。

 

「びっくりした。てっきりなんかやらかしたっけって思ったわ」

『……ほっといてる』

「勘弁してくれよ。ちゃんと事前に説明はしたぞ?」

『そうだけど』

 

 クリスマスの夜は二人で過ごせそうだけれど、イブは厳しい。ミサキとシフトの話をしているときにあらかじめ伝えていたことだった。

 

『そっちの練習はどうなの。やっぱり寒い?』

「そりゃもうやばい。凍結する。休憩時間はみんなでストーブ囲んでるよ。……ミサキならきっと耐えられないな」

 

 ミサキは冷え性だ。なんとなく想像はついていたのだが、末端ではなくガチの冷え性だというのがミサキらしい。

 

「そういえばあんまりちゃんと聞いてなかったんだけど。スタンドって外待機なのか? そのうち倒れるんじゃね?」

『ううん。夏場もそうだけど、最近だと中にいても大丈夫だよ。うちお客さんあまり来ないから、事務作業したり課題したり。雪寄せもあるかな』

「ほーん」

 

『最近、売上大変らしいけど』とミサキが呟く。地域密着型の個人店だと、高齢化に伴って車を運転する人が減ってしまうから、単純にお客さんが減ってしまう。若者はほとんど来ないらしかった。だからミサキはクラスメートからばれていなかった。

 

 雑談をしながら自室に向かい、暖房をつける。ちょっと高めの温度設定にしてしまって、慌てて下げた。

 ベッドに寝転がってそのまま雑談を続けた。

 

「クリスマスって特別だと思うか?」

 

 話して三○分が経とうとしたころ、ふとした沈黙で疑問をぶつけてみた。ミサキは悩ましげに喉を鳴らしてから答える。

 

『私の家では毎年祝ってたかな』

「俺んちも。ホームパーティー行ったりしたな。疲れるよな、ああいうの」

『うん』

 

 どちらともなく、今年のクリスマスは穏やかに過ごせそうだね、という雰囲気をもらす。ケーキは予約済みでミサキが取りに行ってくれるらしいし、料理も作ってくれるそうだ。

 俺仕様のキッチンは季節が移ろうにつれて二人仕様に変わっていった。

 

 日常という泥の中に奇跡は沈んでいる。重く、汚く、まとわりついてくる邪魔なものの中から、光り輝く欠片を一緒に掬い上げてくれる人がいることが嬉しかった。きっと二人とも頬や髪の毛を汚していて。それでも決して嫌じゃない。

 

「楽しみだな」と呟いたとき、どんどんどんと激しいノックの音がした。返事も待たずに扉の開く音がする。廊下の突き当たりにまで響くような音だが、今日は剣道の同好会で貸し切りとなっていた。

 

「ねぇねぇライト寝ちゃったの!? みんなで七並べしよーって話になったんだけど!」

 

 狭い一本道を突っきり花澤さんが現れた。合宿の責任者であり、いろんなイベントを計画、実行している女性だ。はっきりした目鼻立ちで、高い位置にあるポニーテールと合わさってとても活動的な印象を与える。夏の合宿もこの人が立ち上げた。

 

 うつ伏せでスマホを覗きこんでいる俺を目にした瞬間「あ」と小さく声をもらす。手遅れなのだが、口もとを手で覆った。俺を見下ろすまっくろな瞳が揺れた。

 

「いいっすよ、俺もなんも言わずに抜けてきちゃいましたし」

 

「わりぃな、ミサキ」と同好会のメンバーに言うような口調で、でもどこか穏やかに俺は呼びかけた。

「うん」と返事が聞こえたのを確認してから通話を切る。直後に雷のような驚き声が聞こえ、ごまかすのに苦労したのだが、花澤さんは他の人がいるところでは一切その話題を出さなかった。

 その代わり、俺の出したいマークや数字がやたらと閉鎖された。

 

 

 翌日の夜のこと。なんだかミサキに悪いことをしたと感じて、俺はコンビニで適当なホットスナックを買ってから自宅に戻った。

 

「ただいまー」

 

 この挨拶を言うようになって久しい。ずいぶん遠いところまで歩いてきたんだな、と頬がわずかに緩んだ。

 ところが、いつもは「おかえり」と歩いてきてくれるミサキが来ない。もしかしたら料理の手が離せないのかなと思ったが、キッチンに立っていない。きれいに片付いている。妙な胸騒ぎがした。

 寝ている? ありうるが、ミサキから体調を崩したという連絡は来なかったし、眠いから早く来てと急かすようなメッセージもなかった。

 

 

 リビングには誰もいない。出来上がった料理が座卓の端に寄っている。焼けた肉の香りと何らかの香辛料の香りにこのとき初めて気がついた。ミサキの定位置にはノートが広げられ、その上にシャーペンが転がっている。

 寝室にいる可能性が低いと分かっていながら、俺は縋る思いで足を運んだ。予想通り、いない。ミサキの上半身くらいあるクマのぬいぐるみが、ベッドの上で壁に立てかけてあった。何かに身を預けていないと倒れてしまうところが俺とよく似ていた。

 

 ここに来て、もしかして外出しているのではと思い至ったが、彼女の靴はすべてある。

 

 残るは脱衣所、浴室のみだった。脱衣所の扉をノックしても返事はなかった。慎重に開ける。もしものときに裸体を見ないよう俯いた。床がパステルカラーの不規則な模様になっていることを初めて知った。

 でもいなくて、顔を上げて、俺はすりガラス越しに服の色を見た。ミサキは床にぺたりと座りこんでいる。

 

「ミサキ……?」

 

 浴室の扉はいやに冷たかった。

 絶望に飲まれているとき、人の鼓動は早くなるらしい。鼓動のたびに押し寄せる痛みが思考をかき乱す。

 

 扉を開けた瞬間に、「母さん」と俺は呼んでいて、ごめんなさいと思っていた。

 生臭い香りを引き金に実家の浴室がフラッシュバックする。俺は膝からくずおれていた。立とうにも足に力が入らない。焦点の合わない目で捉える現実が滲む。歯を食いしばってこらえた。顔を上げて、負傷兵みたいに四つん這いで進んだ。

 

「ん……らいと?」

 

 ミサキは振り返り、俺に虚ろな目をよこした。焦げ茶色の目だった。

 母さん、母さん、と何度か口走って、両手で口を押さえ、タイルに額をつけた。過呼吸に陥っている。両目はちゃんと開いているのに、何も見えない。耳も鼻も触覚も、心がすべての接続から絶たれ、過去に引きずりこまれている。

 

 どのくらいの時間、自分がそうしていたのか覚えていない。

 傷の手当てをして着替えたらしいミサキから抱きしめられ、徐々に俺は自分を取り戻していった。ミサキは何かを言ってくれていたけれど、俺は上手に理解することができなかった。

 

「たぶん、もう立てる。ひとまず場所変えてくれ、頼む……」

 

 懇願するような調子で言った。ミサキが「うん」と頷いたのが分かり、同時に体から重みがなくなる。自分だけの重さになる。

 手をついても足が震えるせいで立ち上がれない。しばらく俺は格闘していた。ミサキが一度手伝ってくれようとしたけれど、包帯の赤が長袖の隙間から覗いた瞬間に取り乱してしまった。

 

 どちらが深く傷ついたのか分からない。

 どちらも傷ついたことは間違いない。

 どちらが傷つけたのか分からない。

 

 凍えるような闇にすべてを溶かして、うやむやにしてしまいたかった。

 

 泣いていないのに泣きつかれたような顔で、俺とミサキは寝室にいた。ベッドに並んで腰掛けていた。

 電気は常夜灯のみついている。最初は明るくしたけれど、俺がゆるく首を振ってしまったせいでミサキが動いてくれた。

 

「自傷行為」俺はベッドに仰向けに倒れこむ。スプリングが軋んだ。

 自分に命が宿っていることを確かめるように、大きく息を吐き、吸う。鼓動のたびに胸が痛んだ。この痛みは、赤い血とともに引きずり出された過去の痛みだ。ずっと悶えているわけにはいかないのに、体は動かない。

 

「久しぶりに……その、そういう」

 

 ミサキは顔をそらし、歯切れ悪く釈明する。ミサキの声は小さかった。けれど彼女の中でそれが何度も反響し、大きな幻聴のようになっていることは想像できる。

 手を挙げるとミサキの肘に触れた。

 

「いい、無理にはしなくていい。それで自分を傷つけたら元も子もない」

「でも、説明する責任がある。私はライトを傷つけた。それをそのままにしていたくない」

 

 二人の言葉はぶっきらぼうだったが、譲れない一線の上に立っているから、真心がこもっている。そして引けない。

 

「話はいつかでいいよ。お互いに傷つく余裕のあるときにしよう。これ以上傷ついたら、きっと二人ともよくないほうに行く」

 

 ミサキはむっつりと黙りこんだ。一理あると思ってくれたらしい。

 

「今は黙ってくっついてようぜ」

「その前に、一つだけ」

 

 ミサキはやっと俺の顔を見た。薄暗い室内でミサキの輪郭だけが鮮明になる。オレンジ色の光を背負った彼女は内装のすべてから孤立していた。

 

「知ってた?」

 今度目をそらすのは俺の番だった。「想像はしていた。でも」

 

 考えないようにしていた。雪肌に変色があったら目立つし、それが両手首。当時、見た瞬間に黒い予感が足裏から背筋を這い上がって脳をまっしろにした。でもなんらかの事故の可能性も捨てきれなくて、自分には聞く勇気もなくて、意識を向けたら仕草に出るから、そもそも意識しないようにしていた。

 

 どうしてとか、つらいとか、悲しいとかじゃなくて、痛かった。体内で跳弾した過去が脳や心臓に穴を開け、隙間風が吹いた。ぐちゃぐちゃだった。

 血があまり得意じゃないというより、浴室に血が合わさると化学反応を起こして毒になる。確殺のコンボだった。

 

 ミサキは俯いたまま説明を聞いていた。おかげで俺とは目が合わない。

 

「ごめんなさい」とミサキは言った。「あなたは傷を必死に隠しているのに、私がそれを抉るようなまねをするから痛みに苦しんでしまう」

「そうしてミサキも苦しんでちゃ意味ないだろ」

「でも私が原因だから、あなたの分まで苦しまないと」

「なんでだよ」

 

 苦しみは二人で分かち合うと半分になるなんて大嘘だ。俺が苦しみ、苦しめたのは自分だと思ってミサキが苦しくなり、そしてミサキが苦しんでいる事実に俺が苦しむ。緩やかな下り坂を並んで歩く関係性では、苦しみが連鎖する。

 

 楽しさや幸福を分け合うことができても、大きくなる苦痛に際限はないから延々と傷口が開き続ける。

 

「みさき」と優しく呼びかける。「こっち」両手を上にやる。広げる。「ほら」と急かす。ミサキはのっそりと移動して、ゆっくりと体を倒してきた。

 彼女は軽かった。意識があるからこそ、相手を気遣うからこそ、全体重をかけていない。死んでいる重さじゃなくて、生きている軽さだった。俺とミサキは、もしかしたら二人でいるときだけ軽くなれるのかもしれない。

 

 俺はミサキを抱きしめた。「あ」という呟きを境にして重さが俺を襲う。熱のこもった吐息が耳に当たる。二人の体は重力に引かれ、ベッドに重りとして乗っていた。

 

「ミサキは生きてる」

「ねえ、その。あなたのお母さんは」

「生きてるよ。死んでない。でも、心を壊して、薬で捕まって、どうなってるか分かんない。運がよければ釈放されて精神病院にいるかもしれない。考えたくない」

 

 俺の声は徐々に暗くなった。母に生きていてほしいのか、それとも逆なのか判然としない。ぐちゃぐちゃに絡まった糸がどこを向いているのかは分からないし、解きほぐすことだってできない。一本の糸だとも限らない。

 毛玉みたいになった糸の集合体と格闘しても徒労に終わるだけだろう。

 

「いずれにせよ、どうなっていても父親が面倒を見ているはずだ」

 

 話してくれてありがとう。

 話させてごめんなさい。

 

 ミサキはどちらも言わず、俺の頭を抱いた。服のにおいが俺とは違っていて、それを残念だと感じてしまった。

 

 しばらくの間、闇と沈黙が俺たちを包んでいた。秘密基地の暗闇に人を招いているのだと思ったら、シャボン玉みたいな気持ちが胸からせり上がってきて、音になる前に弾けて消えた。

 

 

 重なっていた俺たちはやがて離れ、端座位で上半身を倒したような姿勢で揃って天井を見上げる。室内が暗いせいで、となりにある生命の気配は薄い。

 

「草原に寝転がって天体観測をしているみたいだ」

「……曇ってるよ。星も月も見えない。常夜灯だけ」

「心のなかに星を思い描いたら暗闇の天井も銀河になる」

「もう、なにそれ」

 

 ミサキの胸に手を当てるのはなんか違うと思ったので、俺はミサキの手を取って自分の胸もとに当てた。親しい人の心音を聞くと落ち着くのに、自分が聞かせるとなると気恥ずかしい。

 太くて短い蝋燭で十分なのに俺たちの蝋燭は細長くって。そよ風ですら消えかけてしまうのに、小さな火は懸命に揺れている。

 

「もうするな、とは言わんけど。ミサキが痛い分、俺も痛いんだよ。痛みの強さは違うし、種類だって違うけど、痛いもんは痛いんだ。それを分かってもらえたら嬉しい」

 

 母を抱きしめた父が言わなかった言葉が口から滑り落ちる。ミサキといることで変われたのかな、と思った。安心からか力が抜ける。ミサキの存在が遠くに飛んでいってしまうと思って、再び強く手を握った。

 

「気分が沈んでいるとき」

「うん」

「あなたは私を笑わせようとしてくれるか、そばにいてくれるのが当たり前だったから、それがなかった分だけ余計に一人を強く感じてしまって」

 

 ごめんなさい、とミサキは続けた。

 

「その他にも少し理由はあるけど、大きいのは、やっぱり一人だったこと」

「いつも一人のイメージがあったんだが、意外と苦手なのか」

 

 会話に穴が空いたけれど、俺の心臓の鼓動は忙しなく、空白をちゃんと感じられなかった。

 

「一人でいるのは好きだけど、ときどきどうしても寂しくなるときがあるでしょ」

「……分からん」

「そっか」

 

 再びミサキが俺に覆いかぶさってきた。力強く頭を抱いてくれる。どうして力を込めてくれるのだろう。理由の分からない満足感が広がって、慣れない感覚に恐怖を覚えた。

 子どものころから心の満足を知らないからこそ、俺は寂しさを覚えられなかったのかもしれない。俺の境遇がミサキにとって何かしらのつらいことに映ったのだと思った。

 

「ねぇ」

 

 上体を少し反らせてミサキが言う。

 薄暗闇で俺たちは見つめ合った。整った顔が近くにあった。自然と唇が近づいていった。

 心まで舐め取ってきれいにするような貪るキスが、二人の初めてだった。

 

 

 ミサキと同じベッドに寝ていた俺は、まず布団をがばっとめくり、ちゃんと服を着ていることに安堵した。スマホのライトを頼りにゴミ箱を漁ったがそれらしい痕跡もない。

 音で目を覚ましたらしいミサキがうめき声をあげた。俺はミサキの顔を覗きこんだ。カーテンの隙間から入ってくる細い白線だけが明かりだった。ミサキの顔は青白い。

 

「どうした?」

「……たぶん、熱出た」

 

 俺に? と言いそうになってぐっとこらえた。これはからかっちゃいけない一線だ。俺が変に黙ったせいで奇妙な沈黙が広がった。

 

 ミサキは昨日の一件で服が濡れてしまったことや、浴室が寒かったことを理由に挙げたあと、俺に謝る。

 世間はクリスマスだけれど、俺とミサキは二人きりで過ごす予定だったから問題はない。

 

「強いて問題を挙げるとすれば、俺だけ大食い大会になってることだな」

「……どういうこと?」

 

 ミサキは怪訝そうな声を出す。

 朝の光が入りこむ薄明るい部屋から、俺はキッチンを指した。

 

「料理、そのままだろ?」

「あ」

「大晦日までにはなんとか消費しないとな」

「だね」

「誰だよホールケーキ買おうって言ったやつ」

「特に深い意味はないんだけど、この部屋に姿見ってないんだよね?」

「ミサキの誕プレが決まったな」

 

 大晦日には別のオードブルを頼んでいる。まずはリビングを掃除して、それから食べることにする。

 ホールケーキを買ったせいでコーヒー豆を補充しなければならなくなった。外に出るついでにゼリーも買ってこよう。

 

 熱が出たと言いながらもミサキは元気そうだった。食欲が減ったことと睡眠時間が長かったことだけが、彼女の不調を俺に教えてくれた。

 慎ましやかなクリスマスは初めてだった。他の人にとって味気ない聖夜は俺にとって新鮮で、できればミサキにとってもそうであれば嬉しいと思う。

 

 

 深夜のことだった。何かが動いた気配を感じて目を覚ました俺は、その原因らしいミサキから声をかけられた。

 

「……起こした?」

「おん。なんかあったのか? 水とか?」

「いや、なんか目さめちゃったら寝つけなくて。ごろごろしてた」

「ほーん」

 

 ミサキの声には寝起き特有の雑味がない。しばらく眠れていないことが予想できた。

 

「日中に十分寝たからかもな」

「そうかも」

「なんなら話につき合うけど」

 

 一応鍵はもらっているけれど道場はしまっているし、ミサキだって年明けまでは休みをもらっていたはずだ。クリスマスや新年で外出する人の多いうちに家にこもり、早めに課題を済ませておこうという話になっていた。夜ふかしはできる。

 

「じゃあ、お願い」

 

 ミサキは俺の頬に顔を近づけて、それから慌てたように背を向けた。どうやら自分が病人だということを忘れていたらしい。

「もうちょっとくっついていいだろ」拳一つ分をあけた薄い腹に手を回し、軽く抱き寄せる。ミサキは最初渋っていたが、やがて俺に体を寄せてきた。体調のせいでミサキは風呂に入っていないから、髪には汗のにおいが混じっている。言ったらきっと離れたがるから言わなかった。

 暗闇には確かなぬくもりだけが灯っていた。

 

「クリスマスプレゼント、渡し損ねちゃった」

「そういえば俺もクローゼットの中に入れっぱだったな……。年明けにでも交換するか?」

「それもいいけど、でも、私のやつ冬にしか使えないから、できるだけ早めに渡したいな」

 

 願いを込めるために、間を置いた。

 

「そうだとしても、すぐじゃなくてもいいと思うけど」

「来年もあるから?」

 

 ミサキは即座に察し、優しく言った。俺はなんと返せばいいのか迷って、小さく「おん」と言った。心が弾けて、でもミサキがどう思っているかは聞けなくて不安になって、身動ぎした。

 

「ライトって意外と初心なところあるよね」

「……うるさいぞ」

「静かな声で言ったんだけどな……うるさかった?」

 

 不安そうにミサキが尋ねてくる。その聞き方はずるいのに、分かっててやっている。

 

「そういうことではなくて」

「塞いでもいいんだよ」

 

 ミサキが振り向いた気配がした。暗闇の中で視線を交差させたと思った。手をミサキの後頭部に回して、距離感をなんとなく探って口づける。艷やかな唇を割ってヘビの交尾みたいに舌が絡まる。

 水音が止んだとき、不意にミサキが口を開いた。

 

「自分を傷つける行為でそれ以上に傷つく人がいるなんて思わなかった。本当にごめんなさい」

 

 後頭部に当てたままだった手をミサキの背中に回してさすった。

 

「今日は向き合ったまま寝ようぜ」

「うつっちゃうよ」

「何気にミサキに看病されるのは初めてだな」

「……私、ライトからさらに風邪もらったりしないよね?」

 

 俺たちは何も言わない。けれど、相手が傷つかないように、砂糖菓子を作るみたいに、会話に過去を溶け合わせる分量を慎重に調節している。一歩間違えば大変なことになるから、慎重に、丁寧に。

 風邪をうつされた俺はミサキに看病してもらい、そうして新年は過ぎ去った。

 

 こうして俺たちはマフラーを手にして、寝室に姿見を置いた。

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