冬が過ぎて、春が来る。俺たちの学年が一つ上がる。自然の流れには抗えない。
俺とミサキは文系の進学クラスに進んだ。ミサキが希望を伝えたとき、担任はあらかじめ決まっていたことを了承するように頷いたらしい。俺もそこまでは一緒だったのだが、ミサキとの関係を機密事項でも尋ねるかのように質問され、濁した。
いかにも言いづらいことですよと伝えるように顔をひきつらせて黙りこめば、大抵はスルーされる。まさか本当のことを言うわけにはいかない。恋人でもないくせに家に入り浸る関係など。引く一線の位置は間違えているが、俺とミサキは明確な一線を設けていたように思う。
それを他人からとやかく言われる筋合いはない。しかし、人間社会で生きようとすればどうしても他人の目にさらされる。俺はミサキとの関係を説明するための手軽な記号を探していた。
「ミサキ」
「ぅん?」
ベッドで丸くなっている女子の名を呼ぶ。
半分寝ぼけているらしく、うっすらと開かれた目が俺を捉えたまま動かない。
なんとなく片手を伸ばすと、ミサキはそれを両手で包みこんで頬に持っていった。布団を掛けているせいで熱いのか、それとも熱っぽいのか分からない。
周囲からそう思われているからといって、俺たちがそう思っているとは限らない。
「体調はどうだ」
「ん~」とミサキが喉を鳴らす。間延びした口調で続けた。
「ライトも一緒に休もう」
「もう昼だぞ。昼ご飯はどうする」
「夜にまとめて済ませようよ。午前からずっと勉強してるし、休憩も必要。パワーナップとか」
「三時間くらい寝るのはパワーナップじゃなくて昼寝っていうんだぞ」
「集中力は回復する」
「するけどさあ……」
体調が悪いとき、こんなふうにミサキは甘えてくるようになった。
病人にしてはやけに強い力で引っ張られ、勢いのままベッドに連れこまれる。ミサキの上に乗らないようにしたら体勢が変になり、すかさずミサキからがっちりと腕をホールドされる。持っていたシャーペンが座卓に落ちて音を立てている間の、わずか数瞬の出来事だった。ベッドが弾んだせいでバランスを崩した巨大なクマで、視界がまっくらになった。
「昼はまだ長いから」
常に一定の明るさと室温を保つ飼育用の部屋みたいな、時間の流れを感じさせない二人だけの空間で、ミサキは再び眠りに落ちていく。
今夜は絶対に寝かせないぞ、というムーブなのだが致命的にいろいろと間違えている気がした。スマホが手の届く場所にないので俺も寝るしかない。
掛け布団のほんの少しの隙間から、ミサキの体温と香りが凝縮された空気が流れてくる。一人で寝るときは意識しないように努めているけれど、実際に人がいるとなるとわけが違う。ブラジャーのかたい感触が余計に生々しい。
最近の困りごとは、ミサキが腕だけでなく足を絡ませるようになってきたせいで、俺が足を動かすと悩ましげな吐息がもれることだった。
春休みは特に予定のない土日の連続だった。
「今日の分、終わった」
「明日の分もやったらどうだ?」
今までは聞き流していたことを、なんとなくいつもと違うふうに提案してみただけだった。
ミサキからの返答はない。俺は顔を上げた。
ミサキは「ぁ」と言って俺から目をそらし、視線をさまよわせたあと俯いた。
「あの、それは」
「すまん。明日の分は明日だな。無理に先取りしなくてもよかった」
心の宝石に触れた気がして、できるだけ穏やかな調子で言った。ミサキはこくりと頷いた。
ミサキは慎重な手つきで勉強道具を片づけて、床に四つん這いになって腕を伸ばす。そうして自分用の一角にワーク類をひとまとめに置いた。
とても緩慢な動作だったけれど、机の外周をはいはいで移動する様子に、犬みたいだ、と思った。
近くまでやってきた少しだけ低い位置にある赤い瞳を見下ろす。
言うか迷ったすえに「おかわり」と左手を出してみた。
ミサキは俺と左手とを何度か交互に見て、飛びかかってきた。犬のじゃれつきのつもりだろう。ミサキに押し倒されたものの、俺の後頭部はしっかりと手で守られていた。
抱きついていたミサキの体が不意に離れ、俺に影が差し、ゆっくりとミサキが視界を覆う。
互いの口を貪って息が荒くなった。「ん」とミサキは何度も甘い声を上げた。舌は弾力があり、ぬめっていて、熱がある。何度も絡めた。口の隙間から水音がたびたびもれた。二人して犬みたいな呼吸をした。
しばらくして口が離れた隙に俺は口を開く。
「勉強続けていいか。もしくはユーチューブ見るか?」
「続けていいよ。私はもう十分」
ミサキは身を低くして、俺の耳もとで生々しく喉を鳴らした。
「あのなぁ……」
俺の呆れ声を「なに」と流して、ミサキは俺の上からどいた。
俺は胡座をかいてワークに向き直った。ミサキはなかなか寝室に行かない。いつもなら寝室に直行したり、俺を引きずっていこうとしたり、一緒に寝ようとしたりするけれど、今日はそのどれでもなかった。
俺は先ほどまでの熱を失い、機械的に数式を解いていった。ページをめくろうとしたときになかなかめくることができず、どうしてだろうと思ったら、液体が紙面についていたせいだった。ティッシュで軽く拭き取り放置する。
二人分の唾液がついたワークをチェックする担当教師を想像し、少し面白くなる。胸の中で黒い快感が這い回っていた。
ミサキはなかなか口を開かない。くっついてくるわけでもなく、じっとしている。
ちらと横目で見てみる。
ミサキは「ねぇ」と蚊の鳴くような声で言ってから、さらに聞き取れるかどうかぎりぎりの声で「膝枕」と言った。
「興味あるのか」
「興味っていうか」部屋の隅に目をやり、きれいな眉を寄せる。「興味とかなの、こういうのって」
「どうだろう。まあやってみようぜ」
試行錯誤のすえに、俺が足を伸ばしてミサキが太腿に頭を乗せるというのが一番よかった。いいらしかった。
「ねぇ」
ミサキは俺の片手をふにふにして遊んでいる。
俺は片手で紙面を押さえられないので、両開きのワークの中央近くでは明確に字が乱れた。それですら面白かった。俺にしか分からない、二人きりでいることのちっぽけな証明だ。
「好きじゃなかったら恋人にはなれないのかな」
ミサキは静かに言った。
リビングには夕日が差しこんでいて、暖色のベールに覆われた部屋は人の死からかけ離れている。でも、なんだかとても冷たかった。底冷えのする床から冷気が這い上がり、本当は相容れないものが、二人の間でぐちゃぐちゃにまざり合っているみたいだった。
もしかしたら俺とミサキの生活もそうなのかもしれない。
「利害関係とかで付き合うってこともありそうだけど、それは恋人なのかどうか分からんしな」
「うん」
「恋人って、よく分からんよな」
しばらくの間をおいてミサキは頷いた。
恋とか、愛とか。子孫を残すという本能によって定められたものでしかないのに、人間は二文字に大きなものを背負わせる。飾って美化して語り継ぐ。
俺が今、愛をここまで嫌悪しているのはおそらく、両親のものしか知らない哀れな自分から目をそらすためだ。嫌って知らないふりをしていれば、自分のは偽物なんだって苦しまなくて済む。
「哀れだな」
眠りかけていたミサキがわずかに目を開き、俺を横目で見上げる。夕日が目に入ったらしく目をぎゅっとつむる。
「だれが」ミサキの声はひどく幼く聞こえた。
「俺が」と返す。
俺の手を包みこんだままだったミサキは、優しく甲をさすった。さっきまで手のツボを押して遊んでいたとは思えないほど穏やかな手つきだった。
「一緒にいよう」
「今は、か」
「うん」とも「ううん」ともつかない言葉が返される。静かだった。人生によって傷つけられた人が他人に振りまく悲しい優しさを帯びていた。
「私は哀れじゃない」
とん、とん、と俺の手を叩きながら、ミサキは丁寧に綴る。
「そうなのか」よかった、と思った。シャーペンを置いて頭をひと撫ですると、猫がそうするみたいに首を動かしてこすりつけてきた。ミサキと目が合う。満足げな表情をしている。
「あなたがいてくれるから」
どうしてそういうことを言うんだろう。
このまま話していたら自分の何かがおかしくなる。ミサキが核をさらけ出してくれていることに、触れている俺が痛みを覚えている。
ほんのちょっと力んだだけで壊れてしまいそうな関係が憎い。でも、それに名前をつければ、俺はきっと少しずつ心を崩していく。
「ひとまず寝ろよ。程々のところで起こすから」
「ご飯食べていけるくらいの時間がいい」
「おん」
二人乗りの自転車が風を切ったときはとても心地よかったのに、と思う。
後悔とか、憐憫とか、羨望じゃなくて。回想に感情がなかった。
今の気持ちを考えてみる。なんの感情もわかない。でも、その空っぽは夕日によってあたたかく色づいていた。
緩やかに破滅していくような、優しいやさしい下り坂の時間は過ぎていった。
体育祭にはパフォーマンスがつきもので、練習もまたつきもので。
新入生を歓迎するように、入学式のすぐあとに体育祭の練習は始まる。縦割り班だから、一年生が学校に馴染みやすいようにという配慮なのだろう。
去年は赤色だったけれど、今年は青色で、ミサキには青が一番似合うよなーと思っていたところにドンピシャだった。
去年と同じように俺たちには昼休みの練習がなくて、図書委員の活動をしたり二人で昼ご飯を食べることができた。
放課後のことだった。俺は運動神経がいいことと人当たりがいいことを買われて、一年生の指導に当たっていた。
「あ、ちょっと前のステップ違うぞ」「腕の動きと足の動きがちぐはぐだから、みんなとずれるのかも」「うーん……振りつけは覚えような? ラインのグループに動画あっただろ?」
母譲りの整った顔と父譲りの穏やかな雰囲気。
俺は血の気の多い女子を惹きつけるのに最適な装備をしていて、休憩時間に後輩の人だかりができる様は、誘蛾灯に虫が寄ってくるみたいだった。ああ、こんなこと思っちゃいけないな。
「あんま引っ張るなって。服伸びるから」
体操着を引っ張られたので適当に言う。
かしましい声がする。
自分の周りに結界を張ることでなんとか息継ぎできているけれど、常に結界を張っているせいで酸素が薄くなり、空気に淀みが生まれていた。
今何してるのかな、とミサキに目を向ける。
一階分上からの眺めを懐かしむように窓縁に肘を乗せている。ミサキはやっぱり高嶺の花で、後輩は、先輩は、クラスメートでさえ、許可証を持たなかった。
「ほら、休憩終わりの時間だから、一応静かにしておこうな? こわーい先輩方に怒鳴られるぞー」
「一番怒鳴られるのはお前だからな!」
ツッコミによって起こった笑いに、ミサキの息遣いはなかった。
「人気だね」
練習が終わるのはいつも夕方で、今日は下校ついでにスーパーに寄ろうとしていた。前までの俺とミサキならこの時間のスーパーには行かなかったけれど、関係が腫れ物のようになってからはもう開き直って出没していた。
その、暮れ合いの道中のこと。
「おん」と頷いてとなりを見る。ミサキは道の先を見たままだったから、整った横顔が無表情を貫いているのが分かった。
「一年生はフレッシュだな。自分たちが少し前まであんなだったなんて信じられん」
「二年も三年も似たようなものだよ。ライトにべたべた、べたべた」
「お、なんだ、嫉妬か?」
声に不機嫌を読み取った俺はミサキを見た。
ミサキはそっぽを向いて「ふん」と鼻を鳴らす。彼女の見ている方向には緑が広がっている。新緑の爽やかさには奥行きがあって、何層も葉が重なったせいで黒に近い緑もあった。
「どこにも行きやしないんだがな」
ミサキの顎をそっと撫でる。上を向いたミサキが喉もとをさらけ出す。周囲に人はいなかった。顔を寄せ、貪るようにキスをした。
手を繋いだり腕を組んだりしないのは動く邪魔になるからで、けれど俺たちは、人目につかない場所で互いを深く求め合う。やはり俺とミサキは一線を引く位置を間違えていた。悪い気はしなかった。世間一般で不健全と言われるべき俺たちの関係に、世間が入りこむ余地はない。だからこれでよかった。
「けっこうあしらってるんだが、どうにもうまくいかん。人気者だ」
「うん」
「――パニックぱにっく、パニックぱにっく、慌ててる」
そう言って歌い始めた俺を横目で見て、歌が終わった頃合いを見計らってミサキは「なんの歌?」と聞いてきた。鳥のさえずりに混入するにはいささか不適切な歌だった気がするけれど、咎めるものはいない。
「オラはにんきもの、だったはず。クレヨンしんちゃん」
「ふぅん。意外と歌聞くよね」
「実家いるときだいたいイヤホンはめて音楽聞いてたから、その名残だろうな。今度カラオケでも行くか?」
「私は歌わない」
ここぞとばかりに「え~?」とエッジをなくし、声のトーンを上げる。場違いな声量が閑静な裏道に反響した。
「ミサキちゃんのエンジェルボイス、らいときゅん聞きたいぬゎぁ~!」
「気持ち悪いんだけど」
「らいときゅんのエンジェルボイス、お披露目したいぬゎぁ~!」
「勝手にしてればいいじゃん……」
鬱陶しそうな表情で顔を背けるミサキの反対側に回りこんでみる。険しい顔で呆れられた。
ミサキは表情が豊かなのに、周りの人たちがラベルを剥がそうとしないのが腹立たしかった。しかし後ろめたい喜びもあった。
先ほどまでミサキが見ていた黒緑のさらに奥に泉があったとして、俺はそれを独り占めしたいと思ってしまう。優越感からだ。自己嫌悪しながら、それでも法悦に逆らえないところに自分の血筋を感じる。
日常生活を営む上でどうしても行く必要がある場所に、俺たちはよく行く。一方で娯楽施設にはほとんど行かない。俺もミサキも特別な思い出を欲していないのだと思う。
特別な思い出がなくても生きていける人のことを、淡白とか冷淡と言うのかもしれない。
そういうカップルもいるのかなと思考が脇道にそれる。そもそも俺たちはカップルじゃないのかもしれないと、何かから心臓を掴まれて正道に戻される。
裏道を歩き続け、誰もいない赤信号で足が止まった。反対側に渡れる横断歩道から鳥の鳴き声が聞こえる。
「ミサキが誰か他の人と話してたら、俺はたぶんミサキよりも嫉妬に狂うんだろうな」
「自分から話しかける異性はあなただけで十分。あとはもういい」
「俺はダイヤモンドじゃなくて紛い物の石ころかもしれんぞ」
「河原にある石ってきれいだよ。丸くて、すべすべしていて」
「石がきれいでもドブ川じゃ駄目だ」
「拾い上げたあとに洗うからいい。一緒にお風呂入る」
「……俺はダイヤモンドよりも価値が上か」
「身の丈ってだけ。私はダイヤモンドを身に着けたいと思わない。だからといって、ライトの価値を低く見積もっているわけでもない。枕詞みたいなセット」
ミサキは上品にくたびれたブレザーがよく似合う表情をしていた。一七歳にしてはずいぶんと大人びた雰囲気だったけれど、実は彼女の表情がころころと変わることを俺だけが知っている。
「たらちねの」
「母」
歩行者用の小さな信号は年季のせいで薄汚れていた。電子音は少し音割れしている。そんなでも、お前たちは進んでいいのだと、俺たち二人に道を作ってくれている。
消えかかった白線に向かって、ミサキは先に一歩を踏み出した。
体育祭を目前に控えた日、ミサキはやたらと後輩の男子から話しかけられていた。人当たりのいい演技を近くで見続けたことと、接客の経験が手伝って、ミサキの対応は以前よりも冷たくなかった。
九○分の放課後が、大きさの合っていない他人の靴で見知らぬ道を歩かされるみたいに、気持ちと居心地の悪い地獄に感じられた。
練習が終わってすぐの帰り際、ミサキは俺のもとにまっすぐ歩いてきた。
「帰ろう」と言って俺の手を引き、目を丸くする周囲など気にも留めずに扉まで向かう。サッシに足を乗せた瞬間、体当たりじみた勢いで腕を絡ませてくる。それが演技であることを俺だけが見抜いていた。
制服でなく体操服な分だけ、やわらかさを直に感じた。
「嫉妬してたでしょ」
腕を絡ませたままミサキが小声で振ってくる。俺はバツが悪くなって顔をそらした。背後からは事態を知らない人たちの笑い声が聞こえてくる。
四角く区切られた窓から澄み渡った春空が覗く。踏んだら負けと言うみたいに、長く伸びた影を避けて進んだ。
開いた窓からそよ風が吹いてきた。頬を左から右へ流れ、廊下を横切って喧騒に飛びこんでいく。
俺は世界から排斥されたような気がしていた。ミサキが腕を強く抱いてくれて、四人分の幅の廊下を半分も使わずに進んだ。
「割り切りたくても割り切れない気持ちは、正直、分かるよ。自分の知らない人間関係の輪に――」
ミサキはそこで言葉を区切り、苦しげに唇を引き結んでちらと俺を見る。
「ライトが入っていて、そっちに比重が傾いてしまったら、私に対して割ける時間や重みが変わってくるから。ライトなら大丈夫かもしれない、私は一人でも平気、って思おうとすればするほど沼にはまって、足掻くとさらに沈んでいって抜け出せなくなる。だから、精進が必要だよ」
「……はい」
ミサキの口調は注意深かった。自分にも言い聞かせていた。
「どうやって沼から抜け出せばいいかは分かる?」さらに身を寄せてミサキは囁く。
俺は暗い声で謝った。どこかの教室で爆発した声が廊下を突き抜けていった。
くいくい、と抱きすくめられたままブレザーを引かれ、視線を向ける。ミサキは自信ありげな表情をしていた。
「ディスカバリーチャンネルを見るといい」
「なんでだよ」
反射的に突っこんでしまって、心と空気が軽くなったことに喜ぶ裏で、ああ、気を遣わせてしまったなと内省した。
人間関係をなあなあで済ませてきた分、おそらく俺はミサキよりも感情の処理が苦手だ。諦めによって覆い隠すことに慣れていない感情――とりわけ嫉妬の処理が苦手だと思う。
教師や生徒がぎょっとした顔で道を開けていく中、ミサキは優しい表情で、前だけを見て足を進めた。
「今日、ライトの家に泊まってもいい?」
当たり前のように言われたことは、初めての内容で、一線を引き直す内容で。
スニーカーを履いていた俺は踵の内側に指を引っかけたまま固まった。ミサキは先に歩き始めた。ごち、こちと固い音を立ててローファーが遠ざかる。
慌てて追いかけた俺のスニーカーからはほとんど音がしない。心情的には絶対に逆だと思った。
「俺はリビングで寝るから」
「二人とも痩せてるからシングルでも収まるよ」
「話聞けや」
するりと動き出したミサキが腕を絡めて歩き出す。最近ベッドに仲間入りしたかわいいイルカのぬいぐるみみたいな色の空が、東と西から取り残された中途半端な場所に広がっていた。
青色は優勝した。記念に写真撮影をしよう、と各学年が応援席で固まっている。撮影の順番待ちをしていると、不意に手首を掴まれた。顔を向けた瞬間ぎゅっと身を寄せられ、細い手が上に伸びたのが分かった。
表情を変える間もなくシャッターが切られる。俺が目を丸くして何も言えないでいるうちに「二年いいよー」とがらがらの声が聞こえてきた。
「写真、ごめん」
ミサキがそう言ったのは下校中のことだった。一斉に学校から吐き出された生徒が道を違え、銘々に進んだ先の二人きりで言った。
日差しは弱く、風は心地いい。新緑がのびのびと視界の上に広がっている。日焼け止めを塗ったミサキの肌は雪のような色を保っていた。まだ春の残る初夏だった。暖色の淡いベールがかかった世界は、となりを歩く人の優しさに振れる心みたいだ。
構わんぞ、と答える前にミサキが続けた。
「ライトって意外と写真を避けてるから」
「……ばれてたか」
うまく隠しているつもりだった。
もしかすると他にも気づかれているかもしれない、と思った。俺は自分から話すつもりはなくて、ばれたら詳しく話そうと思っていた。
言いたくないわけじゃない。ただ、傷をひけらかせばひけらかすほど、自分の痛みに敏感になっていき、他人の痛みに鈍感になっていきそうで怖いのだ。
一本の矢に痛がり、他人に無数の矢を射かける母のようになりたくない。
期待と称賛にさらされて変質した母のようになりたくない。明確な悪意がないのに、人は壊れることがあるらしい。
「クラス写真を撮るとき、いつもまんなかに連行されてるから。しょうがないなーって装いながら、それでもライトは、初めに端を陣取る。普通なら学んで最初からまんなかに行くはずなのに」
それをしないのは、そういうことでしょ。ミサキは前を見たまま全方位を塞いだ。
二人の間でスマホのギャラリーを見せ合うことはなかったから、てっきりミサキも写真を嫌っているのかなと思っていたけれど、気を遣ってもらっていたのかもしれない。
「母親が、カメラの前では豹変する人だったんだ。どれだけ機嫌が悪くても、カメラが向いた途端すーぐに、にこ~♪ って。きゃぴ☆ って。怖かったんだよ」
痛々しいくらいにエッジのない透き通った声と浮かぶピースサイン。少しでも軽く話そうとして、月から落っこちたウサギみたいに悲しくなった。
「だから、苦手だ。今となっては何が苦手なのかも分からんが」
ミサキは俺を見て、息を呑んで目を丸くして、しばらく固まった。数歩分の距離をあけて立ち止まった俺は、首をゆっくりと左右に振るミサキを見た。
「どうした?」
「ううん。なんでもない」
心なしか揺らぐ声。たった、と駆け寄ってくる拍子に制汗剤が香る。今度は俺が首を傾げて立ち止まったままになる。振り返ったミサキが手を伸ばして俺の手首を掴んだ。
並んで歩いているとき、不意にミサキが口を開いた。木々の長い影に俺たちの影も溶けている。写真加工のフィルターを通したみたいに、世界がほんのり優しく色づいている。
「大切な人との時間を残したいって思うのはおかしなことだと思う?」
「思わんけど、思わんけど……」
橙色に染め抜かれた空に鳥の群れが見える。二羽だけはぐれて別の方角に飛んでいった。
「もしも関係が終わったら、寂しさが残るだけじゃないか? 見るたびに心が痛くなる」
「そうかもね」
ミサキは穏やかな調子で言った。「でも」と首をゆっくりと振る。毛先が遅れて舞う。
やがて二羽は一羽と一羽に別れ、遠く離れた。力強い羽ばたきで、どこだかも分からない先に向かって飛ぶ。
「最近、感情の波が立たない過ごし方は、楽だけど楽しくないのかもしれないって思うようになったんだ。どうせ終わるなら、楽しく疲れ果てたいかなって。楽なのに疲れて終わるって最悪だと思わない? だから、見返すたびに苦しくなっても、もういきなり死別するのは構わないってくらい覚悟決めようと思って。それなら、どんどん残したいって思うでしょ?」
ミサキは俺のほうを見なかった。ミサキはいつも、俺より先を歩いている。影の下を歩くミサキは全体的に暗く、血色が悪く、輪郭が際立っていた。
ラインに送ってもらったツーショットは、こうしてロック画面に設定された。