Acxis   作:ユ仲

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Chapter3-6

 日々の喧騒。行き交う人々。

 世間ではもう夏休みに入っているはずなのに、たくさんの人が駅を訪れている。

 

 学生さんに、サラリーマンの人に、おじいさんおばあさん御年配の人……。

 学生さんには頑張れ。サラリーマンの人にはお疲れ様です。御年配の人には暑いので気をつけてくださいね。と目に入る人達、皆に応援をしたくなってしまう。

 中には家族連れ、友達連れ、もしかしたら恋人同士の人達も。そんな彼らには、お互い今日を楽しみましょう!と内心の声をかける。

 

 本当に楽しみ。楽しみでしょうがない。

 

 ラウラと一夏、私と彼……。

 なんと今日は動物園に行く予定!

 動物園での、だ、ダブル……じゃなくて、ラウラと彼の初動物園の案内。

 だから、あまり意識し過ぎないようにしないといけない。変な風に思われたくはないから、いつも通りいつも通りに。

 だけど、意識とかそんなものを差し引いてみても、やっぱり楽しみな事に違いはなくて、こうして待っている間でさえも何だか楽しみになってくる。

 それは、気を抜いたら頬が緩んじゃいそうなぐらいに……全部は本来だったら~の話になるんだけれど。

 

「ねぇ、俺らと」

「外国の人っしょ?どうせなら案」

 

 そう、本来。

 さっきから断ってるのに、ずっとしつこく誘ってくる二人の男性。こういう人達がいなかったら、本当に。

 正直、失敗しちゃったんだと思う。

 相手が日本人だったから、話し掛けられた時にそのまま日本語で返しちゃった。

 フランス語や英語で返事をしておいたら、こうもしつこくはされないはずなのに。

 

 ……もう、早く戻ってこないかなぁ。

 

 彼への文句を心の中で呟きながら、しつこい彼らには言葉の代わりに視線を外す事で返事にしてみる。つまり、うん。気にしないでおく。

 

 視界は道行くたくさんの人達へ。

 そこには私みたいに待ち合わせをする人達の姿。

 あ、さっきまで待ちぼうけだった人が手を振って笑顔を浮かべてる。

 笑顔の先に見えるのは、私や彼よりも少し年上っぽい大学生らしい男の人。

 やって来たその人に、待ちわびていた女の人は少し冗談っぽく文句を言っていて、当の男の人はその冗談に合わせるようにしながら、どこか少し大袈裟なしぐさで応えている。

 えっと、何でだろう?じゃれあうみたいな楽しそうな二人の光景に思い出してしまう、こんな事。

 

『シャルはお嬢様だからね』

 

 とか色々。他にもいっぱい。

 よく思い返してみると、それはいつも笑いながら。口元に小さくだったり、顔全体に大きくだったり、大小の違いはあってもやっぱり笑顔。

 私の境遇とかを絶対分かっていながら、そうやって言って色々手伝ったりしてくれる。

 

 もう。からかうみたいに言う事で私を気遣ってくれるのは確かに嬉しいよ?

 だけど、お嬢様扱いしてくれるならそれこそ、こういう時、傍に居てくれないと困るのに。

 

 ……本当、どこまで行ったんだろう?

 

 何となく、気になってくるそんな事。彼なら大丈夫だなんて分かり切っている事だけど。

 それでも何だか無性に、不安や心配みたいなものが湧き上がってきてしまう。浮かび上がって来てしまう。

 飲み物を買ってくるよって行ったまま、もうずいぶんと経っている時間。

 一夏達を待たないといけないから、私が待ち合わせ場所に残ったんだけど、それでもやっぱり……遅いよ。

 

「ほら、いいじ」

「ね?俺た」

 

 ……ホント、まだかなぁ。

 

 それと今日が本当に楽しみである事に加えて、一つだけ聞きたい事もあって。

 聞くのは怖いけど、ちゃんと今日こそは彼自身から聞きたいと思う。

 あの時、不意に聞いてしまった事を。あの言葉、その意味を。

 

 だから、今日は楽しむと同時に、より一層の……。

 

「――まったく、見苦しいですわね。嫌がる女性に二人掛かりで付き纏うなど」

 

 ……気合いを入れなきゃって、え?

 

 ふとそんな時、私が今日こそはと意気込んでいると、どこからともなく突然に、しつこかった二人に対しての声が聞こえて来た。

 

「あ?」

「何だ、あんた?」

「あなた方には、自身への誇りすらないのかと言ったのですわ!」

 

 それは何だか浮世離れしたような、それでいて聞き慣れたような、丁寧ながらも険のある若い女の人の声。

 一方で、いきなり降り懸かった忠告とも取れる言葉に驚いたのか、それとも元々自覚があったのかもしれないけれど、男性二人は何だか不快そう。

 

「つまり、何?」

「君も相手してくれんの?」

「はぁ……、言葉すらまともに通じぬ方達でしたとは」

 

 やっぱり不機嫌な雰囲気が示す通り、言葉を聞こうみたいな態度とか様子はどこにもなくて、二人は忠告に反して食い下がっていく。

 そんな少し挑発的な二人組みに対して女の人が返すのは、わざわざ聞こえるように話すわざとらしい態度。失望をあらわにする大きくて深い溜め息。

 

「……そういう事でしたら、改めて分かりやすく、単純明快に言って差し上げましょう。そのような浅ましい言動と行動――恥を知りなさい!」

 

 そこに続いていく、溜め息から一転の芯の通った意志と強い語気。

 

 やっぱりどう見ても中々穏便な雰囲気ではないけれど、この人は二人に対して一歩も引かないで私を助けてくれようとしている。

 しかも、相手は男性二人。体格だってスポーツをやってるのか悪くはない二人。普通だったら、怖かったりして出来ない事。やろうと思っても中々出来ない事。

 それでも、この人は男性二人に堂々と立ち向かえるだけの大きな勇気を持っていて、正直に凄いなぁって思える。本当に、羨ましいぐらい凄いなぁって。

 

 ……声とか口調は、どこかで聞いた事があるような気はするけど。

 

「――さんを見習って欲しいものですわね」

 

 うん、やっぱり。ほら、やっぱり。

 うまく聞き取れなかったはずなのに、ぼつりと小さく呟かれた言葉でさえ、絶対に聞き覚えがある。

 

「とりあえず、お怪我はありませんか?本当に災難でしたわね」

 

 そうして、こちらとの間に大柄な障害を挟みながらも私を心配して気遣ってくれる女性。

 今のままだと間の二人の影響で白いパンプスしか見えないので、感謝の言葉はちゃんと顔を見ながらじゃないと失礼だよねって思ったりも。

 すると、私がいざ動こうとするその前に、男の人二人が何かに気圧されるようにその間を大きく開けて、えっと、退いて?

 とにかく、おかげでようやく、その人の表情や顔がきちんと目に入ってきてくれた。

 

「ですが、もうご安心を」

 

 でも、見えてきたその姿、手入れのよく行き届いた綺麗な金色の髪とかは何だかやっぱり見覚えがあるもので。

 

「このわたくし、セシリア・オルコットが来たからには――」

「あ、おはよう、セシリア」

「ええ、おはようございます、シャルロットさん……って、シャルロットさん!?」

 

 うん。道理で見覚えも聞き覚えもあるはずだよね?本当に。

 予想外ではあったけど、もしかしてとかそんな考えは持ってたよ。

 お嬢様言葉って言うのかな、セシリアの口調ってば珍しいから。

 

「え?何々?知り合」

「だったら、ちょう」

 

 彼らにとっての障害、つまりセシリアが私と知り合いだと分かると、例の二人は態度を一変。戦々恐々から興味津々に姿を変えて、私達の事をやっぱりしつこく窺って来る。

 でも、今はとりあえず、しつこいこの人達の事は置いておいて。

 

「な、なぜ、貴女がここに?」

「それは、私が聞きたいんだけどなぁ」

 

 そう驚きながら聞かれても、私だって十分に驚いてるんだよ?

 

 いや、それにしても、この場所、この時間、本当に偶然なのかな?偶然にしてはあまりに出来過ぎているような気がする。

 普段でも、セシリアはあまりこっちの方には出掛けてはなかったと思うし、こう何だか、必死な様子で私に詰め寄ってくる姿はど事なく怪しいものでもあるし。

 うーん……やっぱりどうしても、この状況が出来過ぎてるよ。もしかして、偶然じゃないとか?でも、そうすると、どうなんだろう?

 

「シャルロットさん、ちゃんと聞いていますか?」

 

 些細な疑問点についてほんの少し思考。思案。考え中。

 でもその考えは、一層私に近付いて顔を覗き込むようにして見るセシリアに遮られてしまう。

 少し不満そうに、それでいて不安そうに眉を寄せるセシリア……さっきの驚きが焦りみたいにも思えて、やっぱりのやっぱりで何だか怪しい。

 

「もちろんだよ。でもね、私にも少し聞きたい事が……」

 

 それでも、ううん、怪しさいっぱいのセシリアだからこそ、私も私で逆に尋ねてみようとしたのだけれど。

 

『おっ巡りさーん!こっちでーす!』

 

 また別の誰かの声が私の声を遮って聞こえてくる。

 

「んげっ、まじかよ!?」

「やっべ……!」

 

 今度のそれは、いかにも警察の人を呼んだように聞こえる声。

 あれだけしつこかった二人も、まさか警察を呼ばれるなんて思ってもいなかったのか、私達には脇目も振らず酷く慌てて退散していく。本当の一目散に、一度も振り返らないで、どこかへと走り出していってしまう。

 

「ふふっ」

 

 遠ざかって消えた二つの背中。やっと無くなってくれた煩わしさ。

 起こった目の前での出来事には、思わず口に手をあてがう。誰にも見えないように口を手で軽く押さえていく。

 その理由は笑いが口元に浮かんじゃっていると思ったから。そうなってるだろうなぁって思ったから。

 だけどそれは、別に素早く即座に走り去っていった二人を馬鹿にして笑ってるとかそういう事じゃなくて。

 単純に、聞こえた声とかこんな今の状況に対してなんだ。

 

「ごめん遅れた。大丈夫だった、シャル?」

 

 だって。

 聞こえて来ていたその声は、警察の人とか助けを求める誰かの声なんかじゃなくて、明らかな適当加減の気を抜いた彼の声だったから。

 

「もう、ホントだよ。いったいどこまで……」

 

 待ち望んだ声。

 やっと来た私の待ち人、今日の大事な主賓である彼。

 近付いて聞こえるその声に対しては、さっきの待ちぼうけの女の人みたいにちょっとの不満と一緒に振り返ってみる。

 

「……行ってた、の?」

 

 イメージは楽しそうだったさっきのやり取りで。

 ああいうやり取りって周りの人からは、どんな風に見えるんだろうなぁって思いながら。

 でも、振り返った今は言葉もイメージもそこで途切れてしまって、振り向いた目の前には予想外や違和感がただただ広がっていってしまう。

 

「あれ?」

 

 目の前――私の正面には、ミネラルウォーターのペットボトルを両手に持った彼がちゃんといる。見つめる私に首を傾げる彼がいる。

 だけど、問題はそんな彼ではなくて、「おーい」と水を掲げている彼の斜め後ろ。

 男の子としてはあんまり高くない彼と同じくらいの身長をした見慣れた姿。

 

「な、なな……」

 

 聞こえてくる、意味を持たない声と震えて揺れる艶のある黒髪――羨ましいぐらいに綺麗なロングヘアーとそれを纏めた二股の少し変則的なポニーテール。

 

「何故、何故だ……セシリア、何故、お前がここにいる!?」

 

 うん、つまり、彼の言うところのサムライガール――私の友人である箒が、こちらを指で差しつつ肩を震わせながら、あんぐりと大きな口を開けてそこに立ち尽くしていた。

 

「箒さん、それはわたくしの台詞ですわ!」

 

 セシリアと箒、二人の争い。

 一方で私達も私達で、そんな二人に呆気に取られて、つられるようにして顔を見合せてしまう。

 

 ――ねぇ、一つだけお願いごとして良いかな?

 ――大丈夫、オーケー。任せといて。

 

 視線でお願いをしてみると、彼もそれを察してくれていた。

 首肯と一緒に、携帯電話を取り出しながら少し離れた場所へと歩いていく彼。

 

「セシリアっ!」

「箒さんっ!」

 

 一方でさらに白熱していく二人のバトル。

 だけどそれは、私にとって……ホントにまったくの事で。

 今まで感じていた疑問も違和感も、これで全貌が見えて来てはっきりとしてくれた気がする。

 気がするというよりは、二人がここにいる以上、それは元からほんの少し見えていたものだから、これは確信なのかな?

 うん、きっとそう。たぶんよりきっとより確実に、事の原因、全ての元凶は――。

 

 

 

 それから、とりあえず場所を移した動物園の入口前。

 

 ……夏だなぁ。

 

 青い空を見上げてみると、そこにいるのはさんさんとした太陽。照り付ける熱。やっぱり今日は一段と陽射しが強い。

 今みたいに日陰にいたとしても、熱せられたアスファルトが太陽と協力しながら周りの空気を温めてくれていて、こうして見ているだけでも何だかやっぱり暑いね。

 

『あは、あははは、ははははは……!』

 

 そんな日陰から空を仰ぎ見る私の近く。耳に飛び込んでくるのは夏虫の鳴き声じゃなくて、どこか虚ろな笑い声。

 ……うん。じゃあそろそろ、現実逃避はやめておこう。

 

「そうよね、そうなるわよね。一夏だもの、こんな事だろうとは考えてたわよ、思ってたわよっ!ハハ、ハハハ、ハハ……はぁ……」

 

 駅と違って親子連れの家族が目立つ、とりあえずの入口前。私達を元気に照り付ける真夏の陽射しの下。

 ヤケになった鈴が、頭上に浮かぶ白い雲を見上げながら悲痛な笑い声を響かせている。

 とは言っても、声のボリュームは少し小さめで。それでも、さめざめと涙を流すような鈴の心の叫びは動作とか雰囲気とかから明らかなもので、その気持ちは見ているだけでもよく伝わってくる。

 

「……鈴さん。お気持ちは十分に分かりますわ」

 

 けれど、そんな傷心の立場にあったのは鈴だけじゃなくて。

 

「だから、そう気を落とすな。お前だけじゃない、私達も一緒だ。それに私達はライバルとは言え、その、なんだ……な、仲間なんだからな?」

 

 思いを一緒にする心強い友人と仲間がいて。

 

「セシリア、箒……!」

 

 どんなに落ち込んで傷付いたとしても、いつだって一人じゃない。支えてくれる誰かがいた。

 今の鈴にとってのそれは、セシリアと箒。

 二人が励まし合うように声をかけながら、そのがっくりと落ちた肩に軽く優しく手を添えている。

 

 感動的なシーン?麗しい友情?

 

 二人の思いに喚起されたのか、激励に顔を上げた鈴は慈愛顔のセシリア達と目を合わせ、綺麗な笑顔で一度頷くと。

 

『はぁ』

 

 二人の背中に手を回して肩を寄せ合って。

 そのまま頭を落として気も落として、同時に深く息をも落としてしまっている。

 

『……はぁ』

 

 聞こえてくる、深く重い溜め息の三重奏。

 確かに皆からすると、夏だ!勝負の時だ!チャンスだ!みたいな期待の気持ちが大きかったから、その落胆ぶりもまた大きかったんだと思う。

 上げて落とす。そんな意図もしない形で皆を落ち込ませてしまった今日の動物園なんだけど、やっぱりこれには今回の立案者である私もまた少しの責任を感じる。

 

 ……ごめんね、皆。私もまさか、一夏があんな行動に出るだなんて考えもしなかったんだ。

 

 そう、本当だったら、ラウラと一夏、私と彼で来る予定だった動物園。

 それなのに、セシリアがいて箒もいて鈴もいる今の状況。

 この予想外の状況を作り出したのが他でもない一夏だった。

 “ラウラを誘ってね”って私が言ったのは事実だけど、一夏はラウラ以外にもセシリア達にも声をかけてしまっていて……しかも、皆にはその事を知らせてなかったんだろうね。

 自分だけが誘われたと思ってやってきた皆は、今日ここで初めて真実を知って、そのおかげで今の混乱気味の状況が出来上がっちゃった。

 

 でも、本当はラウラ達と私達で来る予定だったから、そういう意味では皆からするとラウラの抜け駆けを防げたとも言えるはずで。

 一人だけリードされるのとリードは防げても結果的に大きく落胆するのと、皆にとってはどっちが良かった事なのかなぁと少し気になったりもする。

 一番の被害者がラウラである事に間違いはないんだけど。

 

「おーい、聞いてるか?」

 

 今回の出来事について考える中、次に耳に入って来たのは、ラウラとは立場が反対の今回一番の加害者の声。

 あ、でも、ごめん。全然、聞いてなかったよ。

 

「おい」

 

 正直に返してみれば、そこにあるのは唖然憮然という表情。

 えーと、そういえば、今の私は事情聴取の真っ最中だったんだっけ?

 

「……おい」

 

 私の冗談にもっとひどい顔をする、被疑者一夏。

 冗談、そう冗談。本当はきちんと話も聞いてるし、状況の理解もしてはいるよ?

 ただ一夏には、皆が今どんな気持ちでいるのかを知って欲しくて、感じて欲しかったんだ。

 本人は意図的でもないし悪気もないにしても、女の子の純情を弄ぶなんてまったくもって酷い事なんだから……ホント、まったく。

 

 うん、それじゃあ、話を元に戻すとして。

 

 つまり、今回は先の事を考えた、“皆の思い出作りの為に”って事でいいのかな?

 

「あ、ああ。やっぱり、こういうのはやれる時にやった方が良いんじゃないかって思ってな」

 

 だから、ラウラだけじゃなくて、セシリアや皆の事も誘ったの?

 

「まぁ、その通りだな」

 

 一夏の答える表情は真剣そのもの。

 語る言葉には、陰も後ろめたさもどこにも見えなくて、嘘じゃないというのも間違いじゃないと思う。

 さっきも言った通り、悪気なんてどこにも感じられない。あの一夏だから、それは当たり前とも言えるけど。

 

 ……だけど、それにしても。いや、だからこそ。

 

 なにぶん、自分だけでなく皆の事を考えての行動だから、たちが悪いよ。

 セシリア達も自分達を思ってくれての事だから中々反論が出来ないし、責められないし、ラウラにいたっては『くっ、なるほど。悔しいがその気遣い、さすがは私の……!』って、怒るどころか、何だか逆に関心しちゃってるし。

 

 私個人としては、ラウラが喜ぶ姿を見れなかった事に少し不満はあるけれど、ラウラ本人がそういうなら口出しは出来なくて、それに何より……。

 

「レイヴン。パンダというものを知っているか?」

 

 ……それでも、当のラウラは今日を楽しみにしてくれているみたいで。

 本当は一夏と一緒にいる事で喜ぶ姿を見たかったのだけれど、方向性は違えどこうして喜んでくれているなら、これでも良いのかなとも思えてきてしまう。

 ラウラのチャンスだって、まだまだ完全に潰れたわけじゃないんだから。全然、これからなんだから。

 

「パンダ?ええ、もちろん、知っていますよ」

 

 そのラウラの今現在。話す相手は彼。

 何だかこの二人は波長というか気が合うらしくて、こうして会うと話し込んでいる姿をよく見る気がする。

 話している事自体はほとんどが銃だったり刃物だったりのどこか物騒で不穏な事だったりするんだけど、今日に関してはとびきりの普通で穏やかな話。いつもの二人のイメージと違って子供っぽい話。

 そうやって感じるいつもとのギャップの大きさは、それだけ二人が今日を楽しみにしていてはしゃいでるって事なのかな?

 

「パンダって、白黒のクマ、ですよね」

 

 そんな、ラウラの言葉に答える彼。浮かべているのは、知ったかぶりの少し誇らしげな表情。

 アメリカ滞在時にパンダを見に行こうと話題に出して以来、インターネットや本とかでも調べないでおくって言ってたから、その知識はアメリカでのあの会話以来ずっと変わらないままだと思う。

 

「レイヴン、甘いな。その認識は浅く……やはり甘い」

 

 そして、彼の拙い知識から来る自信みたいなものは、ラウラによって打ち砕かれていく事になる。

 

「甘い、ですか?」

「ああ、甘い。甘過ぎる。では、それを示す証拠として、一つの問いをさせて貰おう」

「問い……一体、何を?」

 

 不敵なラウラと困惑する彼。

 すると、ラウラはにやりと一段に瞳を光らせて、自信満々の様子で言葉を告げた。

 

「パンダは漢字で大熊猫と書く。それが何を指し示すのか……レイヴン、分かるか?」

「おおくま、ねこ?……くっ、確かに僕の知識はまだ浅い。でも、ラウラさん、それが一体何を示しているというのですか?」

「ふっ、聞いて驚け。漢字とは意味を持つ文字の組み合わせ。つまりだ……大熊猫すなわちパンダとは、クマではなくクマの荒々しさを持ち合わせた大きなネコなのだよ!」

「そんな、まさか!?」

 

 …………。

 

 謎の受け答え。問答。

 ふふんと自慢げに胸を張っているラウラと関心や驚きの混ざった様子でラウラを崇めている彼。

 きっと、私達の中では世間知らずツートップの二人。

 本当におかしな勘違い。パンダはパンダで猫じゃないのに。あんまり詳しくない私にだって分かるのに。

 それでもこれは、二人にとって大真面目な話なんだろうね……きっと。うん、きっと。

 

「……、あー」

 

 そんな、どうしても聞こえてきてしまう二人によるおかしなやり取りは、さっきまでは真剣な面持ちだったはずの一夏の表情をも切り崩してしまう。

 それは一夏の行動が私達にとって予想外だったように、二人の会話やその内容が一夏にとっての予想外だったみたいで。

 一度崩れた表情は呆れとかそういったものを越えて、どうしたものかという悩みの領域にまで達してしまっている。

 

「皆さん。わたくしから提案が」

「奇遇だなセシリア。私も一つ言いたい事がある」

「……考えるのが馬鹿らしくなってきたわ」

 

 加えて、互いの友情を確かめ合っていた三人も、いつの間にか気を取り戻してこっちに近付いて来ていて。

 ははは、ふはは、と今度はのんきに笑い出したツートップの二人を背景にしながら、一夏とセシリア達の目には使命感を思わせるような炎が灯っていて。

 

「さぁ、シャルロットさん?」

 

 何だか慈愛心に満ちたセシリアの声を皮切りに、四人の視線が私を襲う。じっとじじっと私を見てくる。

 

 ……うん、皆が何を言いたいのかは分かるよ。

 

 皆の事を見渡してみると、そこには不満も文句も何もなくて、ただ一つの事だけを瞳は主張していた。

 主張、願い、想い、そんなもの。

 

 私も返す視線には意思を込めて、皆を見ながら頷いて返す。そうすると、皆も私の意思を理解してくれたのか無言でありながら力強く頷いてくれた。

 

「おーい!シャルー?みんなー?」

「お前達、何をしている?さっさと行くぞー?」

 

 そのタイミングでやってくる、彼とラウラの私達を呼ぶ声。

 待ち切れないって言うみたいに、興味津々と瞳を輝かす二人。周りの子供達に溶け込みそうなぐらい、いつもより子供っぽい二人。

 こんな二人だからこそ、これ以上待たせるのも可哀相だね。

 

 だったら……皆の期待にも二人の期待にも今、応えよう。

 

「それじゃあ、皆?」

 

 さっそく行こうか?

 そうして、皆で楽しもう?

 

 わくわくの好奇心を身体で表す、先を行く二人。

 そんな二人に負けないように、私達は二人を追って目の前のゲートを潜っていく。

 

 

 

 ――パンダの場合。

 

 白と黒、愛嬌のある動き。可愛い、やっぱり可愛い。

 

「クマなのに、クマじゃない?」

「ネコ、これがネコだと?……まさか、そんな信じられん」

 

 だけど、もう。二人ってば、なんでそんなにショックを受けてるのかな。

 パンダはパンダなのに。クマでもネコでもない、可愛いパンダなのに。

 

「し、シャル、こいつクマ、だよね?」

「シャルロット、こいつは本当に……本物か?」

 

 だから、この子はパンダ。れっきとしたパンダだよ。クマじゃないよ。

 それにラウラ?そうやって偽物扱いなんてしたら、動物園にもパンダにだって失礼だよ?

 

「ぬ、大熊猫……ネコ……」

「……クマの色違い」

 

 ホントにもう。しょうがないなぁ。

 

 

 ――クロトキの場合。

 

「アイビスだって」

「エジプト神話だと守護者で」

「キリスト教だと不浄の鳥なんだね」

「何だか、忙しそうな鳥だ」

「そうだね。見た目はこんなにおっとり系なのに」

 

 

 ――ライオンの場合。

 

「おお!久しぶりに見たよ」

「あれ?見た事あるの?」

「うん。昔、とある邸宅に忍び込んだとき、すぐ目の前でね」

 

 え?

 

「でも、あのたてがみ、何だかシャルみたいだ」

 

 む、何だか気になる事もあった気がするけど、今のはちょっと聞き捨てならない。私的には聞き流しちゃいけないと思う。

 

「痛っ!って、え、何?シャル、いきなりどうしたのさ?」

 

 彼にとっては褒めてるのかもしれないよ?でもね、私は雄じゃないんだから。

 そんな少し失礼な物言いには、お腹の横を少し強くつねってお返し。

 

「だから、痛いって!……おーい、シャルってばー?」

 

 ふん、だ。知らないんだから。

 

 

 ――トラの場合。

 

「おお?久しぶりに見たよ」

「えっと、見た事あるの?」

「うん。昔、とある邸宅に忍び込んだとき、こいつもすぐ目の前でね。いや、あの時は危なかった」

 

 ……一体、何があったんだろう?

 

 

 ――ワニの場合。

 

「おお、久しぶりに見たよ」

「もしかしてなんだけど……これも?」

「うん。昔、とある邸宅に忍び込んだんだけど、そこの池に何匹か浮かんでた」

 

 ……そもそも、どんな家だったんだろう?

 

 

 ――ペンギンの場合。

 

「……和む」

「……うん」

 

 

 

 

 ふわふわもこもこ、柔らかそうな胡桃色の毛並み。小さな身体。

 それに、つぶらな瞳。特徴的な大きな耳。

 何かを探すように鼻先をしきりに動かすそのしぐさは、パンダとその可愛さの種類は違っても、きっと誰もが愛らしく感じると思う。

 その証拠に今の私の周りには、子供がはしゃぐ楽しそうな声とお父さんお母さん保護者の人の諌めるようなそれでいてやっぱり楽しそうな声が満ちている。

 中には友達同士や恋人同士みたいな人達もいて、皆が皆、羨ましいぐらいに穏やかで和やかな空気を溢れさせている。

 

「……どうしよう」

 

 そんな場所での私というと、さっきまでの意気込みとは正反対に、大きな弱音が出てばかり。

 

 ねぇ、どうしたら良いのかな、うさぎさん?

 もぐりもぐりと口を動かす小さなうさぎに尋ねてみても、この子はただただ自然にそのままで答えてくれるはずもない。

 答えの場所は、目の前、隣、すぐそこなのに。それを分かってはいるのに。

 

 だけど出来ない。聞けない。聞けなかった。

 昨日も今日もさっきも今だって、聞こうと思えば聞けたはずなのに、それでも。

 ここを出て行っちゃうの?なんて。それが本当かどうかなんて。

 

 ずっと楽しみにしていた今日。楽しむぞって考えていた今日。それなのに、楽しみ以上に強く私を襲う悩み事。楽しみと一緒にずっと頭にあった悩み事。

 悩みの原因となったのはつい先日の事。

 ラウラと一緒に遊びに出かけた日の出来事。

 

 その日は、ラウラがドイツから帰って来てからの最初のお出かけで。

 街に二人で遊びに行って、ラウラの服を見てたくさん買って、ご飯を食べて帰った、いつもの穏やかな日で。

 立ち寄った喫茶店でいきなりお手伝いをする事になったり、ちょっとしたハプニングはあったけれど、それを考えてもやっぱり楽しかった普通の日だった。

 

 全部が全部……そのあとの彼の言葉を聞いてしまうまでは。

 

『――北アフリカの方にまた行こうと思ってたりするけど』

 

 キサラギを訪れていた一夏と彼の食堂での会話。彼の言葉。

 こっそり近付いて驚かせようと隠れていたら、偶然聞いてしまった。聞こえてしまった。

 

 正直、そんなのは初耳。

 今までに一言だって、彼はそんな事を言ってくれていなかった。

 私が将来、ここに残りたいなぁって思っているように、彼もまたクレストやキサラギに残って一緒にいられるんだと思っていたのに。それなのに。

 

 ……もしかしたら、旅行感覚で言っていた事かもしれない。

 西アジアとか中東アジアとか色んな国を巡った経験があるって話だから、もしかしたら、コンビニに行くような手軽さで言っていた事なのかもしれない。

 そういう事だったら、普通にそうなの?って聞いてみて、私も行きたいなぁって笑い話に出来るような事なのかもしれない。

 でも私は、臆病になってしまっていた。そんな事にさえ躊躇ってしまう程に。

 

 思い出すのは七月。シルバリオ・ゴスペルと戦った、あの日。

 

 私を守る為に両腕を失くして所々から火花を散らす、重厚だったはずの機体。試作機体、第三号機“ガイア”の溶解した正面装甲。

 見るも無惨な姿ではあっても、ただそれだけならまだよかった。問題はそのあと。

 突然に途切れた彼からの通信と異常を示して段々と弱くなっていく彼のバイタルサイン。

 急いで開けたコクピット内の惨状。

 まっさきに感じた鉄のにおい。焼けた計器……コクピット内。私の手を濡らした赤い色。シートを染める赤い色。

 どれだけ声をかけても返事のない、力の抜けた彼の姿。

 ……お腹からたくさんの血を流したまま、まったく動いてくれない彼の姿。

 

 本当に。本当に怖かった。

 本当にどうしようもなく、彼が死んじゃうなんて事を想起させるものだったから。

 力のない彼の姿は、否応なしに、母さんの最期を思い出してしまうような状況だったから。

 だから頭には最悪のケースが浮かんでしまって、目の前に“死”を突き付けられた気がして、心配や不安、強くて深くて暗いそんな気持ちで胸がいっぱいだった。

 

 その後、私が彼を無我夢中で病院に運んで、彼は緊急手術を受けて、そのまま入院をして、それからもずっと眠ったままで。

 お見舞いに行っても、彼はチューブに繋がれたまま返事も何もしてくれなくて。

 もう彼の声が聞けないんだって彼の笑顔が見れないんだって、そんな事を一度でも思ってしまうと、胸にまるで大きな穴が空いてしまったように、大きな喪失感が心にぽっかりと出来てしまって。

 悲しくて辛くて苦しくて、どうしようもなくて。

 

 それでも彼は結局、何事もなかったかのようにけろっと起きてくれて、本当の本当に嬉しかったけれど。

 彼が元気でいる今になっても、心配や不安にも似ていてまた違う、そんなモノがずっと心に残ったままでいる。

 自分でも分からない暗い気持ちがずっとひそかに、確かに胸に残っている。

 もし、この感覚が恐怖なのだとしたら、私はやっぱり臆病になってしまっていて。

 今までは何とか紛らわせていられたはずなのに、何とかもう大丈夫だと思っていたのに……そこに彼の言葉が訪れてしまった。

 

 聞けない。どうしても聞けない。

 本当に行くって、彼に答えて欲しくないから。

 もしそうなった時“行かないで”なんて彼に言う資格が私にはないから。彼を引き止める権利がないから。

 ……ううん、権利とか資格はあるのかもしれない。でも、彼を引き留められる自信が、私にはない。

 自信がなくて、引き留めようとしても彼を引き留められない私……そんな自分が怖いんだ。

 きっと、彼が本当に行ってしまう事と同じぐらい、彼に対して無力な自分が怖いんだ。

 

 今の私は彼の友達で。彼の家族で。それでも彼は『契約が……』ってあの時、一夏に言っていた。

 ……契約が切れる。もし彼が今の仕事を終えたとしたら、私達ってどうなっちゃうんだろう?

 それはもしかしたら前みたいな、臨海学校の時みたいな一時の別れじゃない、本当のお別れかもしれなくて。

 

 友達でいられなくなっちゃうのかな?

 家族でいられなくなっちゃうのかな?

 彼は本当に、いなくなっちゃうのかな?

 

 嫌だ。そんなの嫌だ。

 そんなの、彼がどこかにいなくなっちゃうなんて、もう会えなくなっちゃうなんて、本当に、本当に嫌だよ……。

 

「シャル?」

 

 しゃがみ込みながらうさぎを眺める私に降り懸かる、柔らかな声。

 同時に、頭には何かを被せられる感触があって、空から降り注いでいた熱はそれによって遮られていく。

 

「どうしたの、大丈夫?」

 

 心配そうな再度の声。

 だけど、声に振り向いてみても、思い浮かべた声の主の姿は見えなくて。

 ただただ目の前は編み目のある小麦色でいっぱい。

 

 ……帽、子?

 

 そう、それは確かに帽子。

 帽子。彼の帽子。麦藁帽子。彼の被っていた麦藁帽子。

 それが今、私の視界を塞ぐように、少し乱雑に私の頭の上に乗せられている。

 

「体調が悪いんじゃないかなって思ってさ。こうも陽射しは強いし、暑いしね」

 

 彼と私との間を妨げてしまっている小麦色。

 少し大きめのつばをずらして見てみると、彼は眩しそうに右手を掲げて、仰ぐようにして空を見上げている。

 ――まぁ今は、こんな陽射しはともかくとして……。

 一言の呟き。自分に向けられた視線を感じ取ったのか、空から私に移る視線。

 

「少し、休もうか?」

 

 見つめる瞳と声には、心配の色。

 でも、別に私は体調が悪いわけじゃないんだよ。確かに暑いとは思うけど、それは私の悩みとは別のものなんだから。

 だから、大丈夫。

 

「いや、やっぱり休もう。『大丈夫』なんて言葉はさ、病人がよく言う決まり文句みたいなものなんだから」

 

 本当に大丈夫だって言ってるのに、彼は頑固一徹?一向に聞いてくれない。

 それに、こうは言っても彼自身、退院直後から無理な運動ばかりしてたから、人の事なんて“絶対に”言えないはずなのに……。

 

「そ、確かに言えないな。でも、だからこそ経験者は語るってね?」

 

 もう。自分の事は棚に上げて完全に開き直ってる。

 私がどれだけ心配したのかとか、それを知らないはずもないのに……反省の色も悪びれる様子も全然ない。全然見えない。

 その代わりに彼が見せてくるのは、子供みたいなどこか悪戯っぽい笑い。

 

 でも、前の彼と今の私、前の私と今の彼。彼からしたら……もしかしたら私からしても、どっちもどっちの事?

 もしそうだとすると、私が前の彼に言っていたように、私は今の彼に従うべき?

 

「まぁ、とにかくさ。約束の時間にはまだ早いけど、行こうよ?」

 

 どうしようと考えるふとした時間、その間にも彼が動き出す。

 有無も言わさぬといったように、彼の手が私の手を掴んで、立たされて引かれて足が進む。

 もちろん、広場から外に出る際には、きちんと手を洗ってから。

 それでも、手を洗い終えた後も、彼は私の手を引いていて、さっきまでうさぎといた広場から園内へと場所が移って変わっていく。

 

 引かれる手。少し強引な行動。

 今までに手を繋いだ時はあっても、その時は軽く手を引く感じだったり、私が引いたりだったから、今日の彼は何だか珍しいのかも。

 本当に珍しい。言い換えるなら、何だか新鮮?

 そんな驚いたほんの少しの気持ちを胸に抱きつつ、落ちないように帽子を支えて目の前の背中を眺めながら、彼から遅れないように歩み付いていく。

 

「涼しいねー?」

「……うん」

 

 引かれて歩いて入って、そうして着いた休憩所。

 外とはうって変わった屋内。冷房の行き届いたひやりとした空間。

 

「気持ちいいね?」

「……うん」

 

 確かに気持ちいい。

 彼も言う通り、とっても気持ち良く感じる。陽射しに熱せられた身体も少し火照った頬も、じりじりと私達を睨み付けていた太陽から逃れられたおかげで休まっていくような心地がする。

 

 でも、やっぱり気分はまだ晴れてはくれない。それに帽子は……返した方が良い?

 

「いや、帽子はそのままシャルが使ってて良いよ。僕ぐらいにもなると、あんな太陽なんてただの友人に等しいんだから」

 

 からりとした屈託のない笑み。

 何だか楽しそうではあるんだけれど、その口から出る言葉には説得力が全然ない。

 夏に入ってからは暑い暑いって嘆いてる姿をよく見てるし、この間だって一緒に勉強する時に、わざわざ冷房の聞いた部屋を借りたりしてたのに。

 今だって、太陽は友達って言いながらも、その顔をふやけるようにさせながら涼んで安らいでるし。ここは楽園だ、みたいに言ってるし。

 

 もし暑さなんて平気だって言うなら、そんな事もないはずだよね。

 

「……」

「ど、どうしたの?」

 

 そんな気持ち良さそうに安らぐ彼を眺めていると、急に彼は黙り込んで私をじっと見つめてくる。

 その絶対に見逃さないぞとでも言うような少し強い眼差し。あまりにいきなりだったから、少しだけ身を竦めて驚いてしまう。ちょっとだけたじろいでしまう。

 

「――うん」

 

 やがて大きな頷き。満足そうな笑み。

 えっと?一人で納得されてもわからないよ。

 一体、どうしたんだろう?それとも、何か私、変なのかな?

 

「いや、本当に体調は問題なかったんだなって。口数も戻ってきたしさ、まぁ、少し安心したよ」

 

 ……心配してくれてたんだ。

 あまりに真剣にまじまじと見てくるものだから、少し驚いちゃった。

 そんな何だか少しの緊張の後、小さくほっと息をついていると、彼の柔らかな表情が悩ましげな色に染まっていく。

 

「でも、問題が体調面ではないとすると……もしかして、僕一人ではしゃぎすぎた?それで気を悪くさせちゃってた?」

 

 眉を寄せた、いかにもごめんねと謝るような視線。

 だけど、そうじゃない。君に気に入らない事があったわけじゃないんだよ。

 今日は私が勝手に悩んで勝手に落ち込んでただけ。あえて言うなら、自分自身が気に入らなかった?

 

 うん?だけど、さっきの口数って?

 

「え?いや、だって今日のシャル、途中から口数が少なかった所か無口状態だったよ?何を言っても動物とか空をぽぉーっと眺めてるか、時々こっちをじっと見てるかでさ。皆も皆で心配してたし」

 

 そう、だったんだ。

 私、全然気が回ってなかった。そんな事さえ自覚出来てなかった。

 せっかくの動物園、彼と一緒の動物園。彼にとっては初めての動物園。

 本当なら今日をもっと楽しんでもらいたかったのに、どうしようどうしようって焦っちゃって、余計な気を使わせちゃった。

 

「いや、それはそうとしてもだ」

 

 そうしてまた落ち込んでいると、彼はテーブルに身を乗り出すようにして、少し落ちた私の視線を軽く覗き込んでくる。

 

「体調が悪いわけでも僕に怒ったわけでもなかったら、一体今日はどうしたの?もしかして困った事とか悩みでも、ある?」

 

 私を映し込む彼の瞳。力になるよという彼の意思。今の私にとっては、どこか誘惑にも似た彼からの気持ち。

 ……本当の本当に、とてもありがたくて、とっても嬉しい。

 だけど。

 

「それは……」

「僕には、話せない?」

「……ごめん」

 

 本当に、ごめん。誰でもない君に直接、話をしたいし聞きたい。聞いてみたい。

 けど、やっぱり私は怖いんだ。怖くてどうしようもないんだ。

 

「そっ、か」

 

 私の短い返答に対して、静かに席へと身体を戻していく彼。

 さっきとは対照的なその力の無い様子には、また少し罪悪感が湧き上がってくる。

 

「……まぁ、僕に話せないって事なら無理強いはしないよ。でも、ラナさんやシゲさん、ラウラさんやセシリアさん達、もしくはさ」

 

 それでも、彼は引き続いて力になってくれようとしてくれている。

 言葉と一緒に浮かべる笑顔。浮かんだじゃなくて、浮かべた笑顔。私の為に作ってくれた笑顔。作ってくれていた笑顔。

 

「ジャックさんや一夏にでも、ちゃんと相談した方が良いよ…………良いんだよ、ね?」

 

 作ってくれていたはずの笑顔。

 

 途中で何かに気付いたように自問自答へと変わった言葉。それと一緒に笑顔は萎んで急速に失われていく。

 消えていく笑顔、だんだんと彼を占めていく曇り色。それはまるで、私のどんより色が移っちゃったみたいに。

 

「いや、良いはずなんだ。良いはずなのに、どうして?」

 

 今度は彼が悩み込む。

 深刻そうな険しい表情を浮かべて。

 

 私はそんな彼に何をしてあげる事も出来なくて、ただ彼の様子を見ているだけ。

 でも、それが私のせいなんだというのは分かった。

 そう、きっと私のせい。彼の厚意を無下にしたから。断ってしまったから。

 だから、彼はこんな風に。

 

「本当に、ごめ……」

「いや、シャルのせいじゃない」

 

 だけど、謝ろうとした再度のごめんの一言は、彼によって遮られてしまう。

 

「でも!」

「本当にシャルのせいじゃないんだ。ただ、ちょっと自己嫌悪してただけで」

 

 私の反論も許されず、彼はいつの間にかの苦笑いで自分自身を嘲るように言う。

 でも、自己嫌悪?何で、何でだろう?純粋にそう疑問に思える。

 だって、彼は心配してくれて励まそうとしてくれて、そこに落ち度なんてどこにも見当たらなかったのに。

 

「……ホント、呆れるよ。馬鹿みたいだ」

 

 額に手を当てて、俯きながら小さく左右に首を振る。

 本当にどうしたんだろう。気になるけど、何があったのか言ってくれないと分からないよ。

 

「ん、いや、たいした事じゃ、多分ないんだけどさ」

 

 彼自身も分かってない様子。自分自身に戸惑ってる?

 

「さっきは、一夏とか皆に相談した方がって言ったでしょ」

 

 戸惑いながら静かに話し出してくれる。

 内容は、一人で悩まないでって彼自身がついさっき私に言ってくれた事。

 

「でも……僕には秘密で一夏には話すのかって、そんな事を考えたら何だかあまり良い気分じゃなくて」

 

 溜め息混じり。

 自分に何があったのか、一体それがなんなのか、今もそれが分からないみたいで、眉を寄せて考えながら口から言葉がこぼれていく。

 

「一夏は友人で、一緒に遊んだりしたし良い奴だって事を僕は実際に知ってる。それなのに、何か気が気でないって言うのかな?こうホント何だろ、一夏に向いた悔しさみたいな変な気持ちが湧いて来て」

 

 彼が抱いていたプラスと抱いたマイナス、一夏への感情。

 彼には覚えがない?それについて考え込むその表情は真剣で深刻そう。

 

「大体さ、さっきまでシャルの力になるとか思ってたくせに、その直後には、自分勝手に一夏を恨んじゃいないけど変に思ってるとか……こんなの有り得ないでしょ?」

 

 変わって、また苦笑い。溜め息付き。

 やっぱり、自分について分かってないみたい。

 真剣に真面目に悩んでいても、彼はまだ答えを見つけ出せずにいる。

 

「……ん、とにかく、シャルが悪いわけじゃないから気にしないで?というか、忘れて?うん、忘れてくれると、色々嬉しい」

 

 そうして、彼は依然として元気のない様子でそう言うと、座りながら礼をするように頭を下げていく。

 すると聞こえる、ごんって少し痛そうな音。きっとおでこをぶつけた音。

 そんな痛そうな音も今の彼には何のその。そのまま何を気にする様子もなくて、あー、とほんのりの小さな声を出しながら、彼はテーブルに突っ伏してしまった。

 

 ……さっきのって、嫉妬、だよね?

 

 彼の話を聞いて思う事。顔を伏せたままの彼を見て思う事。

 今の状況で、そんな事を考えてしまう私は浅ましい人間なのかもしれない。

 でも、それがどれだけ浅ましい事だとしても、私の感想とか思った事は変わらない。

 それだけ、彼の言った事は珍しくて、本当に珍しくて色んな意味で衝撃的だったんだから。

 

 彼がしてくれる普段の心配とか手伝ってくれる親切さとか優しさとか、そんな日常から見える心。彼から感じる気持ち。くれる気持ち。

 だけど、今さっきの新しい一面は今までになかったもので、彼の心のちょっと奥を見れた気がして、彼自身の秘密を教えてもらえた気がして、それが何だか驚いた以上に嬉しくて。

 

 しかも、嫉妬してくれたって事はだよ?

 

 きっと、その、方向性とか色とかベクトルとかは違うかもだけど、少なからず彼が私を思ってくれてるって事のはずで、期待しちゃって良いのかなぁって思えたりもしちゃって。やっぱり、それは嬉しくて。

 何だか、宙に浮かぶような気持ち?

 ほわほわって、まるで浮いてるみたいに。ふわふわって、羽が生えたみたいに。

 

 何だろう、私、少し舞い上がっちゃってる?

 

 ……あー、もう、違う。今はそうじゃなくて!

 今はそんな期待感より、私の不安より思う事があるんだ。

 だから、動こう。動かなきゃ。行動しよう。行動しなきゃ。

 

「ねぇ?」

「んー?」

 

 顔を伏せる彼に声をかけると、その伏せた体勢のまま顔だけをこちらに向けてくれた。

 だらしない格好、少しふて腐れたような落ち込んだ表情。今の彼らしいと言えば彼らしいけど彼らしくない様子。そうあって欲しくない様子。

 だから私は彼の為に、手を伸ばして攻撃を加えてみる事にする。

 

「んな……」

 

 張りと柔らさの調和性?彼の驚く声と一緒に感じる、指の先での心地良さ。

 加えて、驚きも混じった彼の変な顔……じゃなくて不思議な顔。

 

「なにふるのさ(なにするのさ)」

 

 彼は横に伸ばされた顔でそう言うけど、基本は無抵抗主義。視線で批難はしてくるけど私の為すがままになっている。

 そう、彼の頬を摘む事、それが私の攻撃。

 

「そんなに落ち込まないで?」

 

 そして、これが私のやるべき事。思う事……。

 

「君にまで落ち込まれたら、私は元気になれないよ」

 

 ……彼を励ましたい、そう思っての事。

 

 でも、それは決して私の言える言葉じゃない。発端は私でそのせいで彼はこうして落ち込んでいるのに。

 本当に身勝手で我が儘で。彼に“私を元気にして”“励まして”って、そんな事を要求するみたいな図々しい言葉で。

 

「だから、元気出して?」

 

 でも、それは私の本音から出たものでもあるんだ。

 君のそんな顔は見たくないから。君には元気でいてほしいから。私を励ましてほしいから。

 だって、私はそれだけで良いんだから。君が元気でそこにいてくれれば。ただ君が隣にいてさえくれれば。

 

 ……そう、君がいるだけで私は良い。

 そして今、ここに君がいる。いるんだよね?

 こうして摘む指の感触。君の感触。

 今は落ち込んでしまっているけれど、君は笑ってここにいてくれた。励ましてくれた。

 君は今、ここにいてくれた。

 だから、先の事が将来の事が不安で心配でどうしようもなくても、私と君がいる今のこの時間を心配する必要なんてどこにもなかったんだ。

 だって、私と君はここにいる。一緒にこうしているんだから。

 

「いきなり突然なんだけど、良いかな?」

 

 だからこそ、本当に小さくだけど、前に一歩を踏み出せる。

 

「ん、ひいよ(ん、良いよ)」

 

 凄く軽く簡単にそのまま、彼は首を縦に振ってくれた。

 うん、ありがとう。感謝を心の中で呟いて気持ちを整えながら、私は小さな一歩を彼へと向ける。

 

「私ね、君に聞きたい事があるんだ。お願いって言い換えても良いのかもしれない」

 

 聞きたい事。今までは聞けなかった事。

 

「ん、何でほ言っへよ?(ん、何でも言ってよ?)」

 

 君ならそう答えてくれるって分かってたよ……でも。

 

「でもね、今の私にはそれを聞く勇気がないんだ。心の準備がまだ出来てないんだ」

 

 うん。私はまだ臆病なまま。

 怖くて不安で心配で、どうしようのないまま。

 

「だから、それまで待っててくれるかな?絶対、絶対に君に聞くから。誰かじゃなくて他の誰でもなくて、君に絶対聞くから、だから」

 

 だけど、私は前を向けた。

 先はまだ遠くて見えないけれど、それでも目の前に一歩を踏み出せた。

 

「……うん。よふわはらなんへぼ、ひゃるが話ひてふれふまへ僕は待ふよ(うん。よく分かんないけど、シャルが話してくれるまで僕は待つよ)」

 

 今日の一歩――お願いする事のお願い。それを彼は普通に快く了承してくれる。

 時間は限られているけど、彼の答えがどうなるのかなんて分からないけど、それでも。

 

 ……良かった。

 何も解決はしていない。けれど、踏み出せた事には、素直にほっと息を吐く。

 でも、その安堵の後ろ側で思ってしまう事もある。

 

 踏み出した一歩――これはもしかしたら、逃げているだけなのかもしれない、なんて。

 解決していない。つまり、問題を先送りにして、見える事実から逃げ出している。

 ただそうやって、怖いから目を閉じて耳を塞いで隠れるだけ。そうしたいだけ。今、聞かずに、今、聞けずに、後で聞くなんて言って本当に。

 ……それは本当に逃げているだけなのかもしれない。

 

 だけど、本当にだけど、今に解決が出来なくてもきっと私はやってみせる。

 頑張って頑張って、ちゃんと君に聞けるぐらいの自信を持ってみせる。勇気を持ってみせる。

 ううん、違う。欲張りな私だからもっとそれ以上。

 私が君を引き止めるんじゃなくて、私が君にいてもらうんじゃなくて、君自身に“行きたくないよ”って言わせるぐらいのそこまで頑張ってみせる。

 

 そうすればきっと、その逃げ出した一歩だって前に進んだ一歩として誇れるんだって、そう思えるから。

 

 ねぇ、だから覚悟してね?私は絶対に君を……。

 

「ひゃむ」

 

 ……もう。せっかく頑張ろうと気合いを入れてたのに、何だか格好が付かないなぁ。

 

 何だかいきなり気が抜ける。思わず出ちゃった変な声と一緒にどこかに抜けていっちゃった。

 両頬に感じるのは指の感触。犯人は目の前、してやったりの顔の人。

 

 ――お返しだよ。

 

 鳶色の瞳が悪戯っぽく私にそう告げている。

 うん。でも確かに、正当な反撃かも?

 今の私は彼の頬っぺたを摘んでいて、今の今までずっと摘んでいて。

 しかも、そもそも私の手が届くという事は彼の手もまた届くという事で。

 

「……まっはふ、ほう(まったく、もう)」

 

 文字通りの言葉にならない言葉を返しつつ、改めて自分の指を動かしてみる。

 むにむにって音が本当に聞こえてきそうなぐらい、柔らかな彼の頬。

 指でつまんでこぼれた彼の肌色が、私の動きに合わせるように自由に形を変えていく。

 

 反対に私の方でも同じような状況が?あ、でも、少しだけ違う。

 自分では見えないから確認はできないけど、私がぐにぐにって解すように動かしているのに対して、彼の指は私の頬を、ぐにーん、と少し伸ばしてみたりして、感触を確かめている感じ。

 

「あ、あとへ(あとね)」

 

 と、忘れちゃうところだった。私がこうやってぐにぐにやってるのは、ただ彼にお返しのお返しで悪戯するためじゃなくて、ちゃんとした理由があっての事なんだから。

 ……うん、本当に。きっと。

 

「今日は、ごへん。あとへ、はりがほう(今日は、ごめん。あとね、ありがとう)」

 

 とにかく。

 それはやっぱりの彼に対する謝罪と感謝のために。私はもう大丈夫だよって、そうきちんと伝えるために。

 どう見てもきちんとじゃないかもしれないけれど、形はどうあれ、それでも彼になら感じ取ってもらえると思うから。

 

「そんなほ、いいほべふに。おはいこだからは……だはら(そんなの、いいよ別に。おあいこだからさ……だから)」

 

 彼が返してくれる言葉。

 うん、だから。その続きはきっと……。

 

 ――今からは、ちゃんと一緒に楽しもう?

 

 ふにふにむにむにと互いの頬っぺたの感触を言葉にするかのように、その柔らかさを味わいながら話し合う。

 お互いに何を言ってるのかというのは、何でだろう?頬っぺたを通した新しいコミュニケーション?不思議と理解ができた。よく分からないけど、分かってしまえた。

 

「はむ?」

 

 そんな不思議な会話の最後は視線でのコミュニケーションを交えながら。彼への大きな頷きで締めてみる。

 

「……はむ」

 

 彼も意図を理解してくれたのか、返ってくる同じように大きな頷き。うん、意見交換完了。

 という事で、この不思議なコミュニケーションもここでおしまい。

 何だか名残惜しいけど、これを合図にして、彼と私、お互いにつまんでいたお互いの頬っぺたからお互い同時に手を離していく。

 

「……もう。少し強く摘みすぎだよ」

「シャルの方こそ。というか、いきなり仕掛けてきたのはシャルの方でしょ」

 

 会話を終えたら、今度は反省会。

 摘まれていた頬を今度は自分で触りつつ、互いの不満や文句を言い合ってみる。

 彼の表情は眉をひそめて不満げ。私の表情もきっと今は同じような様子なんだと思う。

 

「……む」

「……むむ」

 

 その表情のまま睨み合い。

 きっとこれは先に目を離したら負けの勝負。だから、じっと、むむむと彼と視線を合わせ続ける。

 

「……ふふっ」

「……ははっ」

 

 やがて不意に溢れる笑い。勝負は引き分け。

 ううん、彼の口は始めから笑いをこらえてたみたいだったから、彼の負け。

 でも、もしかしたら、それは同じように我慢していた私が先なのかもしれないから、私の負け?えっと、やっぱり引き分け。

 

「ったく、何やってるんだ僕ら。よく分かんない」

「うん、まったく……何なのかな?」

 

 本当にね……でも、分かる事もあるんだよ?

 

 お腹を丸めて明るく笑う彼を眺めながら、自分の胸元に、心臓の上にそっと両手を置いてみる。

 手に感じる確かな振動。自分の奥で聞こえてくる、どく、どく、という早くて強い心の鼓動。

 ぽっかりと空いていたはずだった胸の隙間での反響音。

 彼がいてくれたんだってそう意識した時ぐらいから、それが生まれていた。

 

 やる気?元気?小さな熱。

 

 それは確かに小さいけれど、それのおかげで隙間の中に暖かさが生まれている。

 まだ彼に聞けない程の勇気がなくて、怖くて不安なはずなのに……ううん、怖くて不安だからこそ、より一層にとても暖かく感じる。その暖かさが私に力をくれる。

 

 ほのかだけど確かな暖かさ。まだ小さいけれど、力は力。

 小さいのに何だか凄く心強くて、頑張ろうって、頑張るぞって、改めてそう思える。思わせてくれる。

 

「――ねぇ、シャル。一つお願いがあるんだけど」

 

 ふと気付くと、そこにはついさっきとは打って変わった、彼の真剣な神妙な表情があった。

 しかも彼ってば、またテーブルに身を乗り出すみたいしてるから、その表情が私のすぐ目前に。

 

「え?えっ!?……な、なに?」

 

 本当にいきなりだったから、慌てちゃっても仕方はないと思う。

 それでも、やっぱりおかしく思われたくはないから、平静を頑張って粧って、急いで何とか返事をしてみる。

 

「もう一度、シャルの頬っぺた触ってもいい?」

 

 だけど、真剣な表情を決めた彼の口から出て来るのは、真剣とか緊張とは大きく掛け離れたこんなお願い。我が儘。

 

「……ダーメ」

 

 対する私はそれを拒んでみる。

 本当は別に構わないかなぁって感じてたりもしてるけど。

 でも、ちょっとした遊び心と悪戯心から彼の言葉を断ってみる。

 

「ふーん、じゃあ……」

「えっ、と?何なのかな、その指?」

 

 すると、断られた側の彼の目に怪しげな光がきらりと輝いた。

 うん、見た事あるよこれ。彼が何か良からぬ事を考えついた時の目。

 ついさっき開催された頬っぺた時間じゃ足りないと言わんばかりに、わきわきと動かされた彼の指がそれを明確にしてくれる。

 

「最後通告だ、シャル」

「そんなの効かないよ。ダメなものは、ダメ」

 

 彼曰く、どうなっても知らないぞ。

 私曰く、知らないからってどうなるの?

 

 彼の念押しと攻撃体勢には、私も防御体勢。

 狙われた両頬にそれぞれ片手ずつを置いて、彼から見えないように覆い隠してしまう。

 これなら、彼の手も頬っぺたに届かないから安心安全。完璧なセキュリティ。

 そうして、ほんのちょっぴりの自信を持って、彼の表情はと窺ってみると、

 

「……甘いよ」

 

 そんな一言を呟きながら、したり顔の彼は私に向かって手を伸ばしてくる。

 

「あ!」

「シャルの鼻、もーらいっと」

 

 伸びてくる彼の右手。つままれた私の鼻。

 そのまま彼は、本当に楽しそうに顔をほころばせながら、自分で言っていた最後通告に続いて交換条件を出してくる。

 

「さぁ!離して欲しかったら、頬っぺたを僕に解放するんだ。さもないと……」

 

 さもないと?さもないとどうなるんだろう?

 私がされてる事なのに、彼の表情につられて私もなんだかちょっと楽しみ。

 

 そう、楽しみになっていたんだけど。

 

「ふっふっふ、さもないとシャルの鼻はこうやってずっと……」

『おーい』

「……って、あれ?」

 

 彼による肝心の解説が、呼びかけられた声によって遮られてしまった。

 その声、その方向。声に意識が向いていく。

 向けた視線、声の元、そこは私達のいるテーブルのすぐ横で。

 そして、そこには腕を組みながら私達を見下ろす見慣れた友人の姿。

 

「一夏?」

「ここにいるって言うから来て見たんだが……ったく、一体、二人で何をやってんだ?」

 

 私達の方を見て呆れ顔の一夏の姿。

 

「何って、見ての通りさ?」

「見ての通りって、何だよ?」

 

 彼の言葉に訝しげな一夏。

 うーん?だけど、いきなり何だよって聞かれても。

 

「ね?」

「うん」

 

 彼に確認を取ってみても、彼もまた同じように思ってくれてるみたい。

 一夏に対して、何を言ってるんだかという表情を浮かべている。

 

 でも、それもそのはず、だって……。

 

「僕はシャルの鼻を摘まんでる」

「私は鼻を摘まれてる?」

 

 本当にそれだけの状況なんだから。

 

「だよね?」

「まぁ、そうだよね」

 

 ほら、やっぱり。

 迷ったり悩んだりする事なんてないままに、彼もこう言ってる。

 まったく、どうして一夏にはそれが分からないのかな?

 不思議なぐらいだよ。

 

「……はぁ」

 

 私達の短いやり取りを見ていた一夏が、少し痛そうに頭を抱える。動作に付随するのは深い溜め息。

 

「いや、分かった。いやいや、やっぱり、まったくもって何をしてるのかはよく分からねえけどさ。……それは一先ず置いといて、だ。まぁ平常運行、何よりだ」

 

 尚も一夏は混乱中。だけど、最後の心配にはありがとう。

 気にすんな。私の言葉に一夏はそう言って軽く一度手を振った後、テーブルを挟んだ斜め前、彼の隣に腰を下ろす。

 

 ――ふぅ。身体の疲れを吐き出すようなダラけ状態の彼みたいな大きな吐息。

 でも、それも一瞬。すぐに一夏は表情を少し引き締めると私達の顔を見回して、テーブルに両肘を置きながらまるで宣言をするみたいな言葉を続けた。

 

「それじゃまぁ、あいつらもすぐ来るから、揃い次第、飯にしようぜ?」

 

 

 こうして、私が勝手に暗雲を漂わせていた彼との今日という日は、午前の時間を消化した事でようやくちゃんと本当の意味で始まっていく。

 午前と少しの午後が悩んでいる内に過ぎちゃった事は凄く凄く惜しい事なのだけれど、時間的に今はまだ折り返し地点。

 今日という日はまだまだ続くので、頑張ってじゃなくて、一緒に目一杯、今日を楽しんでいこうと思う。

 せっかく心も暖かくて調子が良くて、やる事も見えてやる気だっていっぱいなんだから……うん、だから本当に。

 

 彼と一緒の今を楽しもう、楽しみたいってそう思えるんだ。

 

 

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