「――では頼んだぞ」
『はい。失礼します』
九月をすぐ目前にまで臨んだ八月終盤。
IS学園内に位置する、とある一室。
そこには、携帯電話を片手に一人の女性が佇んでいた。
はぁ。
溜め息を伴いおもむろに。携帯電話がその手を離され落下を始める。
それに合わせ彼女の身体も脱力からの下降を始め、電話と共にサマースーツに包まれたその身体はソファーの中に沈められた。
「……まったく。飲酒だと?何をやっているんだ、あいつらは」
その女性――織斑千冬は体重をソファーに寄せながら憤慨、いや苦悩していた。
いくら言葉にしようとも思考に掛かる面倒な靄は、いつまで経っても晴れはしない。眉間やこめかみを揉み試しても、同様に晴れる気配を見せない。
だがそれは当然の事だ。そのかかって消えない靄の存在は、身体ではなく精神にかかる物なのだから。
つまり、ストレスだ。
では、その物の解消をするにはどうするのか?
彼女にとってはあるとっておきの手段がある。
ソファーから身体を起こし室内の冷蔵庫へと手を伸ばす。手を掛け開け放たれた冷蔵庫の扉。ひやりとした冷気が溢れ、肌を撫でる。
しかし、何かを求めて進んでいたその手は、まるで冷気で涼むかのように空中で行動を停止させた。
止まったままで数秒。その手は動かない。
これは是か否かの選択の時間だ。右か左か葛藤の時。
やがて選択が為されたのか、その手にはそれが掴まれ再びソファーへと身体を投げ出していく。
どうやら選択された答えは、否、だったようだ。
はぁ。大きく深い溜め息がその口から漏れていく。
同時に室内に広がるのは、微少なアルコール臭。
それは、とっておきへの選択を否決させる理由でもあった。
『……千冬姉。いくら何でも飲み過ぎだろ?』
千冬の脳裏を駆け巡るのは、唯一の肉親である弟――織斑一夏の言い放った発言。呆れたようなあの表情を、彼女は未だに忘れていない。
確かに、普段から情けない姿を見せてしまっている自覚はあった。家事は基本任せきり、手伝おうにもむしろ足を引っ張る始末。
だが、その自覚と同じように、弟が幼い頃から誇れるような姉として、その役割を果たしてきたという自負があった。
家事は出来ない、しかし誇れるような姉でありたい。そのように千冬は日頃、己を律してきたつもりだった。
しかし、どれだけ強い力、高い能力を持ってしても、ストレスからは決して逃れられない。それは最強の人類と言われる千冬でさえも例外ではなかった。
国家代表操者としての期待、応援、悪意、嫉妬――そういった極多数の感情を向けられた時、信念を柱とする精神的頑強さを誇る彼女であっても否応にもストレスが蓄積していく。
その為に他人に当たりそうになった時もあった。全てを投げ出したいと思った時もあった。
このままでは弟に八つ当たりをしてしまうかもしれない。そのように思い、自己嫌悪をした時もあった。
そして、徐々に追い詰められていく千冬をある物が救う。
それは……。
『千冬姉、何か酒臭いんだけど』
……アルコールだった。
そう、アルコール。
彼女のとっておきの手段とはそれ以外の何物ではない。
しかし、そうでありながらも何故先程、ストレスに苦しむ千冬が日頃飲んでいるビールではなく果実入りの野菜ジュースを手に取ったのか。
それは実の弟――一夏によるかつての言葉があったからだ。
『なぁ、千冬姉?疲れてるのも分かるし、やっぱ大人って大変なんだろうけどさ。……俺、千冬姉にはあんまり酒に頼って欲しくないと思う』
ある晩、酔って帰って来た千冬を一夏は真摯な視線で迎えていた。
『俺、何でもするからさ。料理だってもっと上手くなる。疲れてたらマッサージだってする。だからさ……!』
そして、千冬はその姿に感銘を受けていた。
何で私はこんな大切な物を忘れていたのだろうと。
何があろうとも、何が相手になろうとも決して負けないと誓ったではないかと。
どうして、この弟の想いを無下に出来るのかと。
……結局はそうやってアルコールの摂取制限を設けられてしまい、今も律義にそれを守っている。
つまり、今日は夜まで同僚と飲んでいたので、千冬は野菜ジュースを手に取ったのだ。
「……甘いな、私は」
野菜ジュースを差したストローから飲みながら、千冬は自嘲する。
振り返るは今のストレスの原因となった事だ。
その電話はとある生徒達へと向けた物だった。
門限を過ぎても戻らぬ、その生徒達。彼女達が特別な立場にある生徒だという事も関係してくる。
国家代表候補。または天才の妹。
前者はただでさえ要人扱いなのに加え、次期女帝という早過ぎる肩書きを背負う生徒までおり。
後者は世界最重要人物とされる存在の親類である。
基本的に教育の下に生徒は平等ではないといけないが、彼女達においては政治的な問題も絡み例外という立場を取らざるを得ない。
そんな彼女達へ掛けた電話と千冬の頭を悩ます返って来た答え。
『……酔ってます』
酔ってしまいたいのはこっちの方だと千冬は頭を抱える。
さらに問題はそれに関しての対応だ。
例えもし彼女らの母国においては飲酒の出来る年齢であったとしても、学園外の領域では日本の法律による物とされている。
日本の法律で言えば、飲酒は二十歳以上。
しかし、彼女達はそれを門限と共に破ってしまった。
ただの門限破りであれば、ただ『早く戻ってこい』と千冬は説教だけで済ませただろう。
だが、飲酒などに関しては下手に人の目に触れればスキャンダルと化す。
マスコミの耳に入れば好き勝手に物事を書き立てられる事だろう。
それだけは避けねばならなかった。考えられるリスクは消去していかねばならなかった。
「……甘いな」
千冬は飲みやすいと同僚が好評していたジュースへの感想をも合わせているのか、再度同じ言葉を呟く。
甘さ、それは罰則に関してもだった。
門限破りへの罰則。しかも今回は飲酒の事があるにもかかわらず、説教だけで済ませようとしている。
正しく言えば、また説教だけで済ませようとしている。
それで構わないと思ってしまっている自分がいる。
示しが付かない。良くない傾向だと思いながらも千冬は再び呟く。
「やはり……」
「うんうん!やっぱり、ちーちゃんは甘いよねー!!」
呟こうとしたが正しい表現か。
ジュースを飲みながらの呟きは、閉じられた密室に現れた謎の声によって掻き消されていく。
「でも、それがちーちゃんの良い所というか、大好きな所というか……ちーちゃーん!結婚しよー!!」
「……おい、束。どこにいる」
それは千冬にとって切っても切れぬ縁を持つ存在の声であり、その主を探し千冬は部屋を周囲を見渡している。
しかし、見付からない。声は聞こえど、千冬にはその音源を特定出来ずにいた。
「ちーちゃん、こっちだよ、こっちー」
不意に彼女を直接呼ぶ声がする。
どこだと首を振る度に名前を呼ぶ声。
やがてそれはある一点で集約される。
「やっほー、ちーちゃん!一ヶ月ぶりー!」
それはテレビだった。電源入れていないはずの黒い画面であるべきはずの大型テレビ。
そのテレビの中に千冬の腐れ縁――篠ノ之束は何故か存在していた。
テレビの中で飛び跳ね手を振って。
「ふざけてないで出てこい」
千冬は何度もリモコンで画面を消そうとするも効果はなく、その奇怪現象をただの悪戯であると認識したのか視界からテレビを外し、再び周りを探し始める。
「出てこい?じゃあ出るよー!」
一方で束は千冬の言葉に反応を見せ、行動を開始する。
その姿が映り込んだテレビ画面、そこから、兎の耳を模したような髪留めが生え出していく。
髪留め、頭、顔、上半身……。
髪の毛を振り乱しながら手を伸ばし、四ツ這いの姿で画面の中から現れる篠ノ之束。
まさに奇怪現象。現代の科学では説明の付かないオカルトの領域。
「何だ、それは?」
だが、千冬は冷ややかにそれを斬って捨てる。
何の驚きもなく、ただ眉間に手をやるばかりだ。
「がーん……!何だって、ちーちゃん、演出だよ、え、ん、しゅ、つ!」
その冷ややかな声に束は演技を取りやめ、文句と共に勢い良く立ち上がる。
「やっぱり夏だからね!夏と言えばホラー!ホラーと言えばこれ!私ぐらいの天才ともなると登場演出にもこだわらなきゃね!!」
「こっちは疲れてるんだ、いちいち付き合ってられるか」
「ちぇっ、ぶーぶー、ちーちゃんのいけずー」
「だから、うるさいと」
「ふあぁ、ちーちゃんの愛が痛いっ!」
騒がしい束とそれを止めようとする千冬、しかし騒ぐ束。
この二人のやり取りは昔から変わらない。
出会った小学生時代を出発点として、中学高校と重ねた時間。それによって変わる物がある中、この二人の関係は各々の立場を変えても尚、変わる物ではなかった。
「うわ、ていうかちーちゃんお酒臭っ!うわ、うわぁ」
千冬にアイアンクローを喰らい始めた束が唐突に暴れ出す。
「相変わらず駄目か?」
「さすがの私でも、お酒だけはダメだからねー」
それがある種、万能と言っても良い束の唯一苦手とする物だ。
味も匂いも体質的なのかアルコールに対する耐性も、それら全てを考えても弱点と称して良い物なのかもしれない。
「ほいならばっ!そんなちーちゃんに私が救いの手を!」
漂うアルコール臭から逃れようとしていた束が鼻を押さえながらも何かを言い放つ。
「おい、何をしている?」
「ほら、ちーちゃん?じっとするじっとする」
宣言の後、束の付けた左右の髪留めからはコードのような物が伸び出し、その先端が千冬のこめかみ付近に触れた。
千冬はそれを疑念に思うも束の言葉に従い大人しく抵抗を止める。
そのまま数分間、過ぎゆく時間。
「はーい!もう良いよー?」
束の声と共にコード状のそれは掃除機のコンセントのように巻き戻っていく。それも生きているかのように自発的に。
またけったいな技術を。つくづくこいつには驚かされる。だが、それこそが束か。
千冬は表情には出さずとも、その幼馴染みの持つ技術に驚きの感情を持っていた。
しかし、それに慣れ過ぎたおかげで極平然としているように見える千冬の態度も、常人からすれば束レベルの驚きの対象である事を本人は知らない。
「ちーちゃん、身体の調子はどう?」
言われてみて、千冬はふと気付く。
あれだけ千冬を悩ませていた不快感が身体中から消えていた事に。
燻っていた靄もアルコール摂取による怠さもその全てが消え去り、もはや快調とも言える状態に身体がある事に。
「体内のストレス性物質の除去とアルコール分の分解、あとはちょこっーと乱れてたホルモンバランスの調整をしといたよ!」
ちーちゃんの為だからね!と事もなさ気に語る束。
それに感謝をしながらも、千冬は疑念を含めた視線で束を見つめる。
「だが、勝手に人の身体を調べるのは関心せんな」
「ありゃりゃ、バレちゃった?」
「何年の付き合いだと思っている?」
千冬にとってはそれこそ、事もない事だった。
長い付き合い。気を容易に置くと大変ではあるが、気の知れた友人。
そんな友人の事ならば、おおよそ大体おそらく多少は理解している。
常人の遥か斜め上をキープし続けるような存在だ、それだけ理解出来る事でもまさしく驚嘆に値する偉業だろう。
「だけど、ちーちゃん。いきなりだけど……最近ISに乗ったね?」
「さて、何の事だ?」
「ごまかしても無駄だよ、ちーちゃん。それこそ何年の付き合いだと思ってるの?」
しかし、それは束にとっても同じだった。
良き友人。良き理解者。
いつも物難しそうな顔をしていても、結局は情に従った行動してしまい、何かと危うく見えるその存在。
その危うさを極めて高い能力で捩伏せる事で今まで来ているのだ。
そして、今回も変わらない。束は千冬を見透かしていた。
「ちーちゃん。ちーちゃんはもうISに乗っちゃダメだよ」
「何を馬鹿な事を」
「ちーちゃん。じゃないと死んじゃうよ?」
見透かしているからこそ出来る発言だった。
縋るような瞳と態度。束は明るさを潜め、懇願にも近い眼差しで千冬に言葉を贈る。
「ふん、何だ?さっきの検査で私に病気でも見付かったか?」
千冬はそれを笑い捨てるように冗談を語る。
「ねぇ、ちーちゃん。ちーちゃんが世界で一番強い事を私は知ってるよ。ちーちゃんは今でも私のヒーローだからね。でも……」
だが、束は冗談を付き合わない。
全てを分かってしまっているのだ、天才故に。
結果を知ってしまっている。あらゆる手を尽くしても覆せないという事を。
だからこそ、その瞳には悲嘆が浮かび、その表情には諦観が刻まれ、その口で自らのヒーローに語るのだ。
「――ちーちゃんじゃ、絶対に勝てないよ」
警告。忠告。人にはまだ見えぬ、その結果を。
「勝てない、か。お前は今日、それを言いに来たんだな?」
千冬はそれを受けても動じた様子はない。
自らの能力への自信か自負か、動じるどころか逆に質問すらしている。
「……束。それがお前の言う“私が死ぬ”という事か?」
何を言っても答えない束に対して、千冬は少し声色を下げ核心へと触れていく。
「ううん、運が良ければ死なないかも。でも、ちーちゃんってばここぞって時にいっつもツイてないから」
それに対し、束の声は軽く明るい物だった。
けれど、千冬には分かっていた。束程世界を見通す目はなくとも理解できていた。
友人の言葉が何とか繕い合わせた言葉である事に。
「束、何があった?正直に話せ」
ただ真っ直ぐに千冬は束の瞳を覗く。
束にとってそれは、まるでいつしかの光景だった。真摯な瞳、決意、強い思い、決めた事。始まり。
もう懐かしい思い出を脳裏に浮かべながら、束は紡ぐ。
――そんじゃーね!
束は何も具体的でない抽象的な言葉を言い残すと、窓を開けては勝手に帰っていった。
束の消えた虚空を見れば、そこには月が見える。
今どこに拠点を置いているのか、そんな事すら知らない。
だが、月の兎。案外、月に基地でも作って……。
いや、馬鹿馬鹿しいと千冬は自嘲する。一体、何を馬鹿を考えているのだと。
酒のせいかと思っても、アルコールは全て束に抜かれてしまったから有り得ない。
だから、その理由はただ一つしか有り得なかった。
『――何にもないし、何にもあった。ちーちゃん……動き出すんだよ』
昂揚していた。
「……動く?動き出す?ははっ、やはりそういう事か!」
それは千冬と束にしか分からない会話だった。言葉だった。
何も知らない者が聞けば意味不明でしかない、抽象的な文字の羅列。
「それは私も望む所だ!私が死ぬ?例え死んだとしてもそれだけの価値がある物なんだよ、束」
だが、千冬には分かっていた。理解できていた。
その意味を。その真意を。
「それは悲願じゃないか。私がどれ程この時を待ち続けていたか、お前にだって分かるだろう?その為の私だ。その為のISだ」
だからこそ、昂揚している。
だからこそ、笑う。
その夜、月に向ける千冬の表情は、紛れも無い戦士の顔だった。
どくり。どくり。彼の心臓の音。もしかしたら、私の鼓動なのかも。
彼の一歩、一歩一歩。一歩と一緒に私の視界も揺れる。
暖かい。とてもとても。安心できる暖かさ。
――――?
彼が私の名前を呼んだ。
いつもの声、私の好きなその呼び方。
私もすぐに返事をしてみる。回した手と手に少しだけ力を入れながら。抱きしめながら。だって放したくないから。ずっとこうしていたいから。
すると、私を背負うその背中はびくりと一瞬震えて硬まって、触れ合って聞こえる鼓動の音が少しだけ早くなった気がする。
……――、――――?
それを彼に伝えてみると、少し恥ずかしそうなそれでいて不満そうな彼の指摘。
うん、そんなの分かってるよ。やっぱり私も同じ。分かってるもん。だからお揃い。私達一緒だね?
答えながらもっともっと抱きしめる。彼のうなじ首元襟元に、顔を埋める。
その暖かさを何度でも感じる為に。
彼がここにいる事を何度も何回も確かめる為に。
――――。
すると……あれ?彼の言う通り、何だか眠くなってきた。
だけど、どれだけ眠くても離したくないよ。
だって君は、こうして掴んでないとどこかに消えていってしまいそうだから。
だから、私は眠らない離さない。君をここに繋ぎ留めたいんだ。
――、――?
あれ?今度は気付くといつの間にか私は天井を向いていて、そんな私の頬に手が触れる。でこぼことした傷だらけの手。だけど、安心できる温もり。
安心。心安らかに。全部が全部、何もかもが気にならなくなって、瞼が自然に降りていく。
でも、まだ……まだ。眠いけど眠りたくない。まだ感じていたい。まだ一緒にいたい。離れたくない。どこにも行かないで。
――大丈夫、ここにいるよ。
声が聞こえる。彼の声。語りかける声。私の好きな声。大好きな暖かさ。安心。温もり。優しさ。心に響き染み込んでいく。
そして私は、彼の暖かさを感じながら意識を静かに手放していった。
「ん……ふぁう?」
カーテンの隙間から射す光と何だか慣れない寝心地に意識が揺り動かされた。
ぬくぬく温もり……ぽかぽか暖かさ……手での感触だけを頼りに、大切な続きを探し求めてみる。
「んん?……んー……?」
どこに行っちゃったんだろう?
ついさっきまで、ここにあったはずなのに。
シーツじゃなくて枕でもなくて。
手繰り手探り手を伸ばす。
――あ。
そして、やっと見つけた。指先の柔らかな感触。人の体温。
もっともっと、と両手で触れる。
だけど。
「……ふふふ、いきなり大胆だな一夏、我が嫁よ」
あれ?
「だが、兎が寂しいと死ぬというのは嘘だ」
えっと、違う。これはラウラ?
恐る恐る目を開けてみると、手の感触、その先にあったのは求めていたものではなくて、寝言を呟く親友の姿だった。
あれ?ここって、どこだっけ?
ラウラを見つけた後は、身体を起こして周りを見渡す。
見慣れない部屋のレイアウト。見慣れないカーテン。見慣れない光景。布団が敷いてあって、ラウラがそこにいるのは見慣れているけれど、全部が知らない場所。
……ここってどこだろう?
それに記憶があいまいになってる。
そう、確か昨日は。昨日、は?
私は確か、皆で一夏の家に来てて……お昼ご飯を作って一緒に食べて、彼と一夏が近くのコンビニに出掛けるって言って出掛けちゃって……。
二人がいない間に、鈴が一夏の部屋であるモノ――その、男の子なら当然持ってるってモノ――を捜索しようとしたりしていて、“彼はどうなの?”って聞かれて、私も知らないなぁって思って、その後も色んな事を話して、それで……。
うん?思い出せない。その後、何かがあった気はするのに。
飲んだジュースが美味しかった事は覚えてる。でも、それ以降の記憶が抜け落ちちゃってる。
だけど、何となく。私が眠る寸前まで彼が傍にいてくれた気がする。
もしかして、夢だったのかな?それでもやっぱり、彼の言葉が思い出せる。
何だか寂しくて。でも、“ここにいるよ”って聞こえて安心して。
……そうだ。彼は、彼はどこにいるんだろう?
毛布を足蹴にしながら寝ているラウラに、それを肩までかけ直してから立ち上がる。
そして、見覚えのない寝室?から廊下に出てみる。
廊下、そこは見覚えのある光景。どうやら、私達は一夏の家に厄介になってしまったみたいだった。
だけど、一夏にありがとうとかごめんって言う前に、今は階段を下りて、昨日の記憶が途切れた場所、リビングへ。
ドアを開ける。
明かりは落ちていて、カーテンの隙間から射す朝日を辛うじて飲み込んで、暗い空間が広がっている。
そこには誰もいない。
少し見ただけだと、そうとしか思えなかった。
でも。
――ぅ。
早朝の静けさの中で、ほんの小さな音が聞こえた。
あと、よく見るとソファーには影があって。
「……もう。こんなところで寝ちゃったんだ」
ここにいるって確証があったわけじゃないけれど、そこには確かに彼の姿があった。
ソファーに身を沈めて目を閉じている彼。横になっているわけでもなくて、何か作業をしていたのかもしれない。携帯を片手にソファーに座るようにしながら、そこで寝息を立てている。
「夏だからって何も被らずに寝たら風邪引いちゃうよ」
その姿を見て、気持ちだけを急がせる。
なるべく足音を立てずにさっきの寝室へと一度戻る。そうやって部屋から毛布を片手に戻っては、未だに安らかな寝姿を見せている彼の身体に肩までその毛布を被せていく。
うん。これで大丈夫。
出来るだけ起こさないように静かに動いたつもりでも、どうしても物音は鳴っちゃって……起きちゃうかなぁって思ったけれど、起きる気配も見せずに彼は今も熟睡中。
本当に気持ち良さそうに。
「少しだけなら……良いよね?」
その許しを求める言葉は彼に?それとも私自身に?
そんな幸せそうで無防備な姿を見ていたら、魔が差しちゃったのかもしれない。身体が勝手に動き出していた。
彼の眠るソファーに私も自身を委ねていく。
身体が埋まり、スプリングが反発を見せる。柔らかで適度な反発のあるソファー。もしかしたら高い物なのかも。少なくとも彼がこうして幸せそうな事だし、眠るにしてもその心地に問題はなさそう。
うん。彼の寝床を確かめたところで、今度はいよいよ本題。
目覚める素振りが全くない彼。その横顔をすぐ隣で眺めてみる。
すうすう。静かな寝息。穏やかな寝顔。無防備な姿。
横顔。規則正しい緩やかな上下のリズムを刻む胸の動き。呼吸。どんな夢を見ているのかな?本当に幸せそう。
ただこうやって見ているだけなのに、全然飽きてこない。
無防備。無警戒。ありのまま?
真面目な顔をしていると驚くぐらい大人っぽく見える時があるのに、今は全然そんな風には見えなくて。
そして、ふと思う。
日本に来てから、彼は歳相応の振る舞いになってるって事を。
ううん。もしかしたら、それ以上に子供っぽく。
……でも、きっとそれが君の本当なんだよね?
大人びた真剣な顔も、楽しそうにした笑った顔も、不満そうにした拗ねた顔も、今の無防備な少し幼い顔も……全部が全部、君なんだよね?
……何だか、こうして過ごす毎日が新しい発見の連続で、そんな姿を見る事があるとどんどん君との距離が近くなっていけている気はするんだ。
だけど、そう、だけど――私はもっと知りたい。
君の表情も悩みも、些細な事でも良いから、もっともっと君を知りたい。理解したい。理解してあげたいよ。
ソファーの上、彼の横。彼が無警戒なのを良い事に、投げ出された彼の手に触れてみる。
抵抗もない。だから次は大胆に。自分の手を置いてみる。表と表、手と手を合わせてみる。
見掛けと違って少しゴツゴツとした男の子らしい手の形、指先に感じる古そうな傷跡の感触。だけど、やっぱり暖かい。
そんな暖かさをもっと感じたくて、今度は眠る身体にそっと身を寄せてみる。ソファーの上にあった彼との隙間を埋める。
すると、触れ合って広がる彼の体温。さらにどくりどくり。振動。鼓動の音。彼の音?それとも私の音?ううん、きっと私の音。
そのハミングは私の心の中に、確かな熱と一緒に大きな安心を分け与えてくれる。君がここにいて、私もここにいるんだって教えてくれる。すごくすごく安心させてくれる。どきどきって心臓は壊れそうなのに。
心は落ち着いて、心臓が落ち着かない。
気付けばカーテンの間を縫って射す、光の影がその身を長くしていた。続いて壁に掛けてある時計に視線が向かう。
ああ、やっぱり。暗いわけだよね。
だってもうすぐ五時。夜を越えて日も出たばかり。だから、こんなに暗かったんだ。
でも、そうなると、きっと時間は大丈夫。これなら皆はまだ起きてこないはず。実は私も、ちょっとまだ眠気は抜けたわけじゃなくて。もしかして、そのお陰でこんなに大胆な事が出来ているのかもしれないけれど?
……うん。
という事だから。だから私も。今はもう少し――。
「おやすみ」
隣の彼にそう告げて。身を寄せるだけじゃなくて、毛布の中に潜り込む。
心地の良い場所。穏やかな場所。大切な場所。
その共有出来る温かさを確かに感じながら、今少しの時間だけ。
まだ少し重くなって来た瞳を自然のままに。その流れに委ねていく。
――そこには、いつもとは違う光景が広がっていた。
いや、目が覚めた時はいつもとほとんど変わりはしなかった。
見慣れた天井の模様。自分のベッドではないとは言っても自分の部屋。そうなればそこに違和感なんてありはしない。
まぁ、目を開けた眼前に、覗き込むようなドアップの箒がいた事を除けば、本当に普通と呼べる物だった。
その箒に関しても、古くからの幼なじみだし、IS学園の入学当初には同じ部屋で過ごしていた仲だったので、これもまた一応、日常の範囲内だと言えるだろう。
ただ。その際、気が付いた事があるとすれば一つ。
昨夜、ベッドに寝せた箒、そして布団を敷いて寝た俺とアイツ。この部屋に三人で眠ったはずなのに、今はアイツの姿が見当たらない。箒に聞いてみても「……そうだったのか?」と、逆に疑問を投げ掛けられる始末だ。
そして、その事に関しては深く考えず、俺達より早く起きたんだろうなと軽く思いながら、リビングに顔を出したそんな時――そこに、それが広がっていた。
「……何やってんだ?」
おはようの朝の挨拶より何より、先に湧いて出て来るのはこんな言葉。
「あら?おはようございます。一夏さん、箒さん」
「あ、ああ、おはよう」
挨拶をくれたセシリアを筆頭に、三つの頭がこちらへと向いた。
三つの頭。そこにいるのは三人。それはセシリア、鈴、ラウラの三人だ。
三人は、首だけは寄越しても体勢は変えずにソファーを囲むように立っている。しかも、立っているだけではなく、ソファーを観察していた。
「いや、だから、何をやってるんだ?」
「それは――」
「――セシリア。実際に見た方が絶対早いわよ」
「……そうですわね」
再度、尋ねてみると、口に人差し指を置いた『静かに』というジェスチャーで、ソファーに近付くように促される。
ソファーがどうかしたのか?
近付き歩きながら、そんな事しか思い浮かばない。昨日のあの騒ぎの中でも、ソファーは別に何ともなかったはずだ。
食べカスなんてなかったし、ジュースや酒だって零れてはいなかったはず。
それでも、もしジュースや酒が零れて染み込んでいたのなら、確かに落とすのは大変かもしれない。
でも、それにしては、生暖かく何かを示しニヤニヤとしたセシリア達の表情は不相応だ。それに今も携帯のカメラを向けている理由にもならない。
「ほら、見てみなさいよ?」
そうして、鈴の言葉を合図とするように、遂にソファーを見下ろす。
「ああ……なるほど」
見て一目で、セシリア達のニヤニヤ笑顔も、携帯を取り出している事にも答えが弾み出た。自明の理。その光景には納得せざるを得ない。
なので俺も携帯を取り出して、カメラのレンズにその姿を写していく。
――互いに寄り添って眠る二人。
というか、なんかいないと思ったら、こんな所で。
一つの毛布に二人が入って、身を寄せ合って寝ている。
ったく、ここを誰の家だと思ってるのか。一応、遠慮とか自重とか人の目は気にしてほしいんだけど。確かに昨日、ちょっと焚き付けたというか、からかったのは俺だけど。
まぁ、とりあえず、だ。……ごちそうさん。朝だというのに腹は一杯。見ているこっちが恥ずかしくなってくる。
そうやって、少し呆れた風味を否定できない溜め息を吐きながら、携帯の電子音を鳴らす。
ほとんど同時に鳴り出す複数の電子音。見てみれば、このソファーの二人を覗いた全員がカメラを二人に向けていた。この写真を本人達に見せたら、どんな顔をするのやら。物証、証人はもう十分。言い逃れはさせないし出来ないしなぁ。
ニヤニヤ。にやりにやり。
電子音を響き渡らせては自然とこう悪戯めいた笑みが浮かんでくる。加えてさらに、おまけとして一つ悪戯めいた考えも。
「なぁ、相談なんだが――」
暢気に寝息を聞かせる二名以外は俺の提案に頷いてくれた。
提案、それは……いや、先に準備を済ませるか。
考えるより先に、行動に移す。最近使っていなかったある物を取りに行く。
確か階段周辺に……と物を探すその後ろでは、賛成多数の号令の元、ソファーの前のテーブルが動かされていた。
それから、あまり時を置かずして、両手にそれぞれお目当てのモノを抱えていくと、ソファーの前にはスペースが生まれ、箒にセシリアに鈴にラウラがソファーの背後で既に待機している。
しかし、ソファーの上は相も変わらず。というか、いつまで寝てるつもりなんだ?この二人。
まぁ、それも、今からの事に関しては好都合だ。では早速と俺も準備に取り掛かる。
右手のモノが持つ三本の足を伸ばし、ソファーの前にセット。さらにその上に左手のモノを取り付け、電源を入れ、位置も微調整。丁度、ソファーの二人が中心に来るようにして……。
――これで準備は万端。
「よし……良いよな?」
そう尋ねてみれば、ソレのレンズが向くソファーの背後で四人の首が縦に揺れた。
寝ている二人には有無を言わさない。言えるもんなら言ってみろ。
少しの余裕を持たせ、タイマーをセット。
俺もソファーの向こう側へと移動する。
――残り三十秒。
声をどうするか、小さな会議を開催。
普通で良いでしょ、別に、という鈴の意見を採用。よし、オーソドックスに行く。
――残り二十秒。
あと少し。
ここまで来たら成功させたい。こうなったら、その時まで二人が目覚めない事を願うばかりだ。
――残り十五秒。
残り三秒で行くぞ、と呼び掛ける。
ばらばらにやるよりも息を合わせと、仕掛けた方が効果的だ。
効果は、よりあった方がきっと面白い。
――残り五秒。
顔を見合わせ、俺を含め全員が息を大きく吸った。
吸って一秒、止めて一秒。
そして、時の残りは予定の三秒に変わり――。
――起きろーッ!!』
何も知らず無防備な二人の耳元に、五人分の声を集中、炸裂させる。
「うわっ!?」
「ひゃう!?」
すると即座に、身を寄せ合った形から抱き合うような形になりながら、身体を跳ね上がらせる二人。
「痛っ……!?」
「あうっ!?」
その直後には御愁傷様、正直すまん。頭同士がぶつかり跳ね合い、体勢を密着させたまま二人は蹲っている。
次第に何だと顔を上げていく二人。二つの頭がせわしなく動き始め周りから情報を得ようとしている。
でも、頭が物理的に動き始めたと言っても、未だに正常とはいかないようだ。
それも無理はない。起きてすぐでいきなりの状況。俺だっていきなりこんな風に驚かされたら、そりゃ慌てるだろう。
まぁそれはそれとて?うん。それでは、さて。あっちはあっちでこっちはこっちだ。
混乱中の二人には申し訳なく、零割零分一厘程少し思いつつも、時間が時間なので行くとしよう。
夏休みの終わりが夏の終わりとイコールで結ばれないとは言え、これは夏の思い出としてはとびっきり機会だ。
騒がしくも楽しげなとある日の記録記憶。まさに俺達にとって相応しい物だ。
――はい、ちーず。
それを示す言葉。時が零となる一寸前、一言一応の一声掛け声。
愉快な二人をさておいて、皆がソレ――デジタル一眼レフのソレに面と向かう。さぞや面白い物が撮れるだろう。
そして、カシャリ。
混乱する模様をもフレームに納めながら、俺達の抑え切れない笑顔にフラッシュが瞬いた。