「お疲れ様ーーー! はあ、やっと終わった……」
私はそう言いながら店の外へ出ると、まだ店内に残っているお客さんや柴大将の迷惑にならないよう、ゆっくりとガラス戸を閉めた。
辺りはすっかり日が暮れ、道路沿いに立つ街灯や周囲の建物から漏れる明かりが、夜の街をぼんやりと照らしている。
そんな街並みの中を、私は一人、自宅へ向かって歩き始めた。
いつもの帰り道なら、アヤネちゃんと一緒になることが多い。学校のことやバイト先での出来事をおしゃべりしたり、時には気になるお店に寄り道したり。
けれど、今日は一人だ。
隣で話す相手もいないせいか、自然と頭の中では、今日一日の出来事がぐるぐると巡り始めた。
「……目まぐるしい一日だったわ。それにしても、みんなで来るなんて……騒がしいったらありゃしない」
やっぱり、思い出されるのは昼間のことだった。
まさか、ヒトミ先輩が私のバイトのことを知っていたなんて。
そのうえ、みんなを引き連れてお店に押しかけてくるなんて、思ってもみなかった。
……おまけに、あの大人まで一緒だったし。
先生。
突然アビドスにやってきたかと思えば、自分は先生だから、私たちの力になりたい――なんて言い出した、よく分からない人。
「なによ……。シロコ先輩もノノミ先輩も、みんなして先生、先生ってチヤホヤしちゃって。こっちは働いてるっていうのに、ほんっと迷惑」
思わず、口から不満がこぼれた。
……どうせ、私と先生を仲良くさせようとでも思ったんでしょ。
ヨルハ先輩は、そういう人とのつながりを大切にする人だから。
先生がアビドスの力になりたいと言っているのなら、私たちも一度くらい話を聞いてみてもいいんじゃないか――きっと、そんなふうに考えたに違いない。
でも……。
ぎゅっ。
気づけば、手に持った鞄を強く握りしめていた。
……ふざけないで。
私が、そう簡単に折れると思ったら大間違いなんだから。
アビドスの問題は、私たちが何とかしなきゃいけない。
私たちの学校なんだから。
私たちだけでも、学校を立て直さなきゃいけないんだから。
誰かに頼るんじゃなくて、自分たちの力で。
だって、そうじゃなきゃ――。
私が…………。
私だって……。
「やっほ。セリカ」
「うひゃあっ!?」
突然、すぐそばから声をかけられ、私は思わず肩を跳ねさせた。
「ひ、ヒトミ先輩!?」
慌てて声のした方へ振り向くと、そこには、先に帰ったはずのヒトミ先輩が立っていた。
こちらに向かって、ひらひらと手を振っている。
「ちょっと! ヒトミ先輩、いきなり声をかけないでよ! びっくりしたじゃない!」
突然驚かされたことへの抗議と、情けない声を聞かれてしまった恥ずかしさが入り混じり、私は思わず声を荒らげた。
「ごめんごめん。まさか、そんなに驚くとは思わなくて」
けれど、ヒトミ先輩は悪びれる様子もなく、いつもの調子でさらりと受け流した。
もうっ、この先輩はっ……!
ヒトミ先輩は、いつもこんな感じだ。
事あるごとにホシノ先輩と言い争っている姿からは、ちょっと想像しにくいかもしれない。
けれど、少なくとも私から見たヒトミ先輩は、どこかつかみどころのない人だった。
まるで、蜃気楼みたいな人。
話しかけても、いつもゆったりとした調子で、適当なのか真面目なのかよく分からない返事をする。
なのに、後になってみると、こちらが何気なく話したことまでしっかり覚えていたりするのだ。
普段はのんびりしているというか、落ち着いているというか……はっきり言って、ちょっとだらけている。
それなのに、いざというとき――特に、戦闘となれば話は別だ。
ヒトミ先輩は、まるで別人のように冷静なスナイパーになる。
どんな状況でも慌てず、余計な感情に振り回されることなく、狙った標的を確実に撃ち抜く。
誰が見ても、理想的な狙撃手。
……私とは、違って。
ぎゅっ。
無意識のうちに、また鞄を握る手に力がこもった。
……もう、やめよう。
せっかく仕事が終わったんだし、今日はもう疲れた。
さっさと帰って、お風呂に入って、ベッドで寝よう。
「それじゃあ、ヒトミ先輩。私は帰るから。また学校でね」
私はそう告げると、ヒトミ先輩に背を向けて歩き出した。
「まあ、待ちなって」
ぐいっ。
「うわあっ!?」
……と思ったら、突然、首の後ろをつかまれて引き止められた。
「ちょ、ちょっと! ヒトミ先輩、いきなり何するのよ! 苦しいじゃない!!」
「そんなことはいいからさ。せっかく会ったんだし、ちょっと私の散歩に付き合ってよ」
「さ、散歩……? こんな時間に? 私、帰って寝たいんだけど……」
「いいから、いいから。夜のアビドスの街並みも、なかなか乙なものだよ?」
ヒトミ先輩は私を解放すると、何でもないことのように言いながら、道の先を指さした。
「……さ、行こっか。ジュースくらいならおごるからさ」
そう言うなり、さっさと歩き始めてしまう。
……うん。
どうやら、私に拒否権というものは存在しないらしい。
「はあ……。もう、何なのよ……」
私は重たい足を引きずるようにして、ヒトミ先輩の後を追った。
◇
それから、少し時間が経った頃。
私たちは、とある公園のベンチに腰かけていた。
広すぎず、狭すぎず。遊具もそこそこ揃っていて、昼間なら近所の子供たちが遊んでいる姿を見かけるような、ごくごく普通の公園だ。
……いや、何でよ!?
私は思わず頭を抱えた。
散歩に付き合えと言われたから、てっきり街をぶらぶら歩くものだと思っていたのに。
気づけば公園に連れてこられて、ベンチに座らされている。
そもそも、散歩って何よ!?
「ん? セリカ、どうした?」
そんな私の様子を不思議に思ったのか、自販機から戻ってきたヒトミ先輩が首を傾げた。
その手には、二本の缶が握られている。
「セリカはコーヒーとココア、どっちがいい?」
「……ココア」
原因は先輩なんですけど。
……まあ、言ったところで、どうせ適当に流されるだけか。
私は喉まで出かかった文句を飲み込み、代わりに「ありがとう」と小さくお礼を言って、ココアの缶を受け取った。
ひんやりとした夜風にさらされていた手に、缶の温かな感触が伝わってくる。
……あったかい。
私は缶を両手で包み込むように持ち、ぷしゅっ、と小気味よい音を立てて蓋を開けた。
ふわりと、甘い香りが鼻をくすぐる。
一口飲むと、ココアの優しい甘さが口いっぱいに広がった。
じんわりとした温かさが喉を通り、冷えていた体の奥へゆっくり染み込んでいく。
「うにゃ~~……」
思わず、気の抜けた声が漏れた。
今日一日、ずっと張り詰めていた気持ちが、少しずつほどけていくような気がする。
はあ……。
おいしい……。
私は大きく息を吐き、ココアをもう一口飲んだ。
すると、隣からクスクスと、押し殺したような笑い声が聞こえてきた。
「……ん?」
はっとして顔を上げる。
案の定、ヒトミ先輩が口元に手を添えながら、こちらを見て笑っていた。
「……何よ」
じわじわと、別の熱が顔に集まってくる。
そんな私の様子などお構いなしに、ヒトミ先輩は楽しそうに言った。
「いやぁ、セリカって本当においしそうに飲むよね。おごりがいがあるわ」
「~~~~っ! う、うっさい! 見ないでよ!!」
思わず、先輩相手だということも忘れて声を荒らげてしまった。
うう……恥ずかしい……!
何で私、こんなところで恥をさらさなきゃいけないのよ……!
私はココアの缶を握ったまま、顔を見られないように俯いた。
そんな私の反応を見ても、ヒトミ先輩は特に気にする様子もなく、自分のコーヒーを口にしている。
……この人、本当に自由だなぁ。
私が恥ずかしさをやり過ごそうと黙っていると、ひゅう、と冷たい夜風が二人の間を吹き抜けた。
ヒトミ先輩は、飲みかけのコーヒーを口元から離す。
そして、ふと、こちらに顔を向けた。
「……それで、一体どうしたの?」
「……え?」
その声は、先ほどまでの気の抜けた調子とは明らかに違っていた。
落ち着いていて、真剣で。
ヒトミ先輩から、こんな口調で話しかけられることは滅多にない。
私は驚いて、思わず隣を見た。
ヒトミ先輩は相変わらず、どこかつかみどころのない笑みを浮かべていた。
けれど、その目だけは、まっすぐに私を見つめている。
「……どうしたって、何がですか?」
私は、質問の意味が分からないふりをして答えた。
……本当は、心当たりなんていくらでもあった。
むしろ、分かっているからこそ、答えたくなかった。
「んー……」
ヒトミ先輩は、私の返事を聞いても追及することなく、コーヒーを一口飲んだ。
「無理に聞き出そうとは思わないよ。たださ、昨日あたりから、なんだか様子がおかしいみたいだから。ちょっと気になっただけ」
「……」
「話したくないなら、それでもいいしね」
その言葉に、私は何も返せなかった。
ヒトミ先輩は、普段から飄々としていて、何を考えているのか分からないところがある。
だから、こうして真面目に気遣われると、どう反応すればいいのか分からなくなってしまう。
……いや。
もしかしたら、普段からちゃんと見ているからこそ、あんなふうに適当な態度でいられるのかもしれない。
何気ない会話も、私たちのちょっとした変化も。
この人は、思っている以上にちゃんと見ている。
「ただ……」
ヒトミ先輩は、私から視線を逸らさなかった。
その眼差しには、からかうような色も、無理に聞き出そうとする気配もない。
ただ、私のことを気にかけてくれている。
「……今、ここにはあたしたちしかいないんだからさ。少しくらい、吐き出しちゃってもいいんじゃない?」
そう言うと、ヒトミ先輩はようやく私から目を離し、夜空を見上げた。
「ため込んでたって、ろくなことにならないんだしさ」
つられるように、私も空を見上げる。
街の明かりに照らされた夜空には、雲の切れ間から月が顔を覗かせていた。
……綺麗だな。
しばらくの間、私たちは何も話さなかった。
ただ、夜風が頬を撫で、遠くから車の走る音が聞こえてくる。
私はずっと俯いたまま、ヒトミ先輩の言葉を頭の中で繰り返していた。
顔に集まっていた熱は、いつの間にか夜風に冷まされていた。
それでも、私はなかなか先輩の方を向けなかった。
手の中には、まだ温かいココアの缶がある。
私はその缶を見つめながら、ゆっくりと口を開いた。
「……ねえ、ヒトミ先輩」
「ん?」
「……私って、みんなの役に立ててるのかな……」
「……」
ヒトミ先輩は、何も言わなかった。
ただ、静かに私の言葉を待ってくれている。
……うん。
今は、その方が話しやすい。
「私、ヒトミ先輩みたいに強くない。スナイパーとしての腕だって、まだまだだし……」
言葉にするたび、胸の奥に押し込めていたものが、少しずつ形になっていく。
「昨日だって、結局、先輩たちに守られてばっかりで……私、何もできなかった」
ひゅう、と風が吹き抜け、体温を奪っていく。
なのに、不思議と目元だけが熱かった。
「ヨルハ先輩も、ホシノ先輩も、本当に強くて……。いつだって、私たちのことを考えて、大切にしてくれる」
言葉が、ぽつりぽつりとこぼれていく。
「シロコ先輩は、いざというときにはみんなを引っ張ってくれるし、ノノミ先輩は、毎日みんなを元気づけようとして、いつも笑顔でいてくれる」
頭の中に、みんなの顔が浮かんだ。
「アヤネちゃんだって、後ろからみんなを支えてくれてる。戦闘のときだけじゃなくて、普段の学校生活だって……。あの子がいてくれるから、みんな安心していられるんだと思う」
みんな、それぞれ自分にできることを見つけて、頑張っている。
誰かのために。
アビドスのために。
それなのに。
「……それなのに、私は……」
声が震えた。
「私は、何にもできてない……!」
目元に溜まっていたものが、とうとう堪えきれなくなって、ぽろりと頬を伝った。
一度こぼれてしまえば、もう止められなかった。
「戦闘でも! サポートでも! 全然、役に立てない!!」
視界が滲む。
隣にいるヒトミ先輩の顔さえ、はっきりと見えなくなっていく。
それでも、私は胸の奥に押し込めていた気持ちを、吐き出すように叫んだ。
「いつもみんなに助けてもらってばっかりで……! なのに、私は……助けてくれたみんなに、何も返せてない!! そんなの……そんなの、私……っ!」
もう、我慢できなかった。
嗚咽が喉につかえ、言葉が続かなくなる。
本当は、こんな情けない姿なんて見せたくなかった。
アヤネちゃんにも。
ヨルハ先輩にも、ホシノ先輩にも。
ましてや、こんなふうに泣くなんて……。
けれど、一度あふれ出した涙は、どうしても止められなかった。
そのとき。
ぽん、と。
いつの間にか、私の頭にヒトミ先輩の手が添えられていた。
大きな手が、ゆっくりと動く。
まるで壊れ物を扱うみたいに、優しく、丁寧に、私の頭を撫でてくれた。
……いつもなら、子供扱いしないでよ! って怒るところだ。
でも、今は。
そんなことを言う余裕なんて、どこにもなかった。
私は頭に伝わってくる温もりを感じながら、声を殺して泣き続けた。
今だけは。
今だけは、少しくらい甘えたっていいよね……。
◇
どれくらい、そうしていただろう。
ひとしきり涙を流し、ようやく嗚咽が収まってきた頃。
ヒトミ先輩は、私の頭を撫でていた手をそっと離した。
「……セリカの気持ちは、なんとなくだけど分かったよ」
私は袖で目元を拭いながら、ゆっくりと顔を上げた。
ヒトミ先輩は、私の方を見ていなかった。
その視線は、どこか遠くを見つめるように、夜空へと向けられている。
「……だけどさ。ここであたしが『そんなことないよ』とか、『セリカはちゃんとみんなの役に立ってるよ』とか言ったところで……きっと、意味がないんだよね」
「……っ」
「だって、今のセリカは、そんなこと言われても納得できないでしょ?」
私は、何も答えられなかった。
……その通りだったから。
誰かに慰めてほしかったわけじゃない。
大丈夫だって、言ってほしかったわけでもない。
ただ、自分が何もできていないという気持ちを、どうしても消せなかった。
みんなが頑張っているのに。
みんなが前に進もうとしているのに。
自分だけが、取り残されているような気がして。
そんな私の気持ちを、ヒトミ先輩は分かってくれているのかもしれない。
「だからさ……」
ヒトミ先輩は、静かに言った。
「少し、昔話でもしよっか」
そう言って、こちらを振り向く。
そこにあったのは、いつもの飄々とした笑みではなかった。
どこか懐かしいものを思い出すような。
少しだけ寂しそうで、それでいて、どうしようもなく優しい笑顔だった。
私は、その表情から目を離せなかった。
……ヒトミ先輩。
あなたは、昔――何があったの?
そんな疑問が胸をよぎったけれど、私は何も聞かなかった。
ただ、先輩の言葉を待つことにした。
ヨルハ「あれっ!?今回、私の出番は!!」
作者「ないよ。」
ヨルハ「私!一様この作品の主人公だよね!!」
作者「ないよ。」
ヨルハ「ふえええん……。そんな~~!」