「気になりませんか?」
「......何が?」
主語が抜かれた疑問文を投げかけられたら、そうとしか答えられない。
「熊に遭遇した時の対策の一つとして、ベルトを投げたり振り回したりして、蛇に見立てるという方法があるらしいです。」
言葉足らずを謝罪することなく、目の前の友人は熊への遭遇という、アウトドア時にのみ発生するであろう限定的なトラブルの対処法に疑問を抱いているようである。
「それが何か変なの?」
「どうして熊は蛇を怖がるのですか?」
「そりゃ......噛まれたら痛いし、毒を持ってたりもするから......」
「どうして噛まれたら痛かったり、毒を持ってたりしてるのが分かるんですか?」
どうして、どうして、どうしてばかりである。
「過去に噛まれた経験があるんでしょ、多分」
「じゃあ何故、過去に噛まれた経験を今の熊が持ち合わせているんですか?」
「は?」
「だってそうでしょう?我々人間は言葉や本、ネットなどのあらゆる伝達手段で情報を共有できます。
しかし熊は言葉を話せず、ペンで字を書くことなんて出来やしない、今を生きる熊がどうして蛇を怖がるんですか?」
「蛇を怖がるのは過去に噛まれた熊だけで、噛まれた経験の無い熊は怖がらないんじゃない?」
「対策法の一つとして知れ渡るくらいには熊は蛇に噛まれていると?」
「そりゃワタシ達みたいなコンクリートジャングルならまだしも、あっちは本当の森に住んでるんだもん、蛇なんて一回くらい噛まれるでしょ」
「......確かに、返す言葉が出てきませんね......」
どうやらこの舌戦はワタシの論破で決着がついたらしい、戦ってるつもりは微塵もなかったが。
「というか、何?急にどうしたわけ?」
「あぁ、すみません。本当に急に気になったんですよね」
「熊と蛇との関係が?」
「蛇というより遺伝の方ですかね」
「遺伝?」
「さっき私は熊は人間と違って会話も出来なければ、文字も書けないのにどうして過去の体験に恐怖を覚えるのかと言ったと思います。」
そんなことを言っていたような気がする。
「もし一度も噛まれていない熊が蛇に恐怖したら、それは親が噛まれた際に抱いた苦痛の感覚や体験を、子が遺伝したことになりませんか?」
「............」
「中学生の時にメンデルの法則を習いましたよね?優性遺伝とか劣性遺伝とか」
ワタシの沈黙を突っ切り会話を続けていく。
「それで遺伝というのは、形や性質といった有形的な要素を継承していくものなんだと思ったわけですが、熊と蛇の関係が不意に浮かんだので聞いた次第なんです。」
「二人でお茶してる、今この時に?」
「はい」
休日なのでお互いに遊びに出かけ、二人で頼んだアイスコーヒーには傘増し目的なんじゃないかと、疑うくらい入っているグラスいっぱいの氷は、半分近く溶けかかっており、表面張力は決壊しまいと必死に抵抗していた。
ストローやマドラーは勿論、グラスそのものも下手に動かせば溢れてしまいそうなので、ワタシ達は手を使わず、顔だけを突き出してストローを咥える。
そんな滑稽な飲み方を向かいあってしているものだから、何だかついつい可笑しくなってしまいお互いに吹き出して、表面張力の頑張りを無に帰させてしまった。
「あーあ、アンタが変な話するもんだからせっかく頼んだコーヒー無駄になっちゃったじゃん」
「......すみません」
お互いにコーヒーを吹き出して笑っていたら、向こうの照れ笑いにつられて、こちらも何だか気恥ずかしくなり、その後は飛び散ったコーヒーを無言で拭いていた。
「まぁ、アンタが変な話するのは今に始まった話じゃないからいいけどさ」
「............」
今の発言が不服だったのか、目の前の友人が少しむくれる。
その膨れっ面をもう少し見たかったが、あまり揶揄うのも可哀想なので先程の話題を振ってやる。
「あぁ〜......何だっけ?感覚の遺伝?だっけ?」
「はい、感覚や感情、経験など身体的特徴以外の性質は遺伝するのかということです」
ワタシの思惑通りに食いついてきた。こちらから話題を振られた嬉しさからか、顔が少しニヤついている。
しかし遺伝がどうのこうの言われても遺伝子学者でもないワタシには、何が何だかまるで分からない。
「遺伝かどうかは分からないけど胎教ってあるよね?クラシックや英語を聞かせるって聞いたことあるよ」
「胎教ですか、今はそういった学習的胎教よりも母親がストレス無く過ごすことにより、胎児に負担をかけまいとする環境的な胎教がメジャーだと聞いたことがあります。」
「へぇ〜......」
二人して子供は勿論、妊娠したこともない人間が赤子の話題をするのも何だか奇妙である。
「......やはり胎教のような胎児の状態を向上させるような試みがある以上、非身体的特徴の遺伝も有り得るんでしょうか」
「その遺伝にさ、やたらに拘るけど何で?」
目の前の友人は非身体的な遺伝に執拗に拘りを見せている。
「いや、さっきも言った通り、急に気になっただけですよ、もしそれらが遺伝したらどうなるか」
「遺伝したら?」
「母親は通常何を思っているか?愛する相手と自分を分け合った愛の結晶を宿す幸福、まあ大体はそうだと思います。そして産まれた子供は朗らかにスクスクと育つ、しかし全てがそうとは限りません。もし望まれない子だったら............」
望まれない子............。
「例えば相手が非道な男性で妊娠を切っ掛けに姿を眩ましてしまったら?それでいてもう堕胎出来ない段階まで胎児が成長していたら?出産まで母親が抱く感情は未来への焦り、恐怖、絶望......そして捨てた相手への怒りです。」
「ちょ......ちょっと待って!?」
急に悲惨な例や黒い感情を列挙してくる友人に戸惑ってしまう。
「いきなり飛躍しすぎじゃない!?そんな......」
「あ............すみません。悪趣味でしたね......」
友人が私の制止にハッとした表情を見せバツが悪そうに謝罪する。
「本当にそんなこと考えてたの......?」
「いえ、今のは可能性の一つとし思いついたことを、つい......」
「可能性って?」
「もし仮に父親を恨んだ母親から産まれた子は顔も見たことない父への恨みを遺伝してるのかと......」
「そりゃ自分は生まれながらにしてシングルマザーの子供で、他の家族とは違うんでしょ?そんな母親から父親の恨み節も家の中で散々聞かされるだろうし、遺伝以前に環境で父親への恨みが形成されるんじゃない?」
「......確かに、返す言葉が出てきませんね......」
先程と同じ敗北宣言を受け、舌戦二回戦もワタシの勝利に終わった。重ねて言うがワタシに戦いの意思はない。
「でも父が失踪かつ、出産の影響で母親が亡くなった境遇の子が父親に恨みを抱いていたら......」
「父親に逃げられた恨みを残して、自分を産んだ母親が出産の影響で死んじゃって、天涯孤独になった子供なんてレアケースすぎない?」
敗北から奮起し、なおも食い下がる友人に二撃目を与えてやる。
「た、確かに非現実的なレアケースでしたね......」
「大体アンタ、遺伝がどうとか学者じゃないんだから、そんな難しいこと考えないで、もっと楽しいこと考えなよ、せっかくの休日なんだしさ」
「た、楽しいこと......?」
「例えば職場にイイ人とかいないの?」
「いい人......ですか?」
「善人って意味じゃないからね、魅力的な人ってこと!」
「職場恋愛なんて、その......職場は私よりも一回りや二回り年上の人ばかりですし......」
「誰も職場恋愛なんて言ってないでしょ......アンタ本当に飛躍しすぎ」
顔を真っ赤にして羽虫を追うように目をギョロギョロと動かしている友人を見て、自然と含み笑いが溢れる。
一回目に論破してやった時の膨れっ面といい、どうにも揶揄い甲斐があって困ったものだ。
目の前の友人は気になったことに囚われがちな癖があるが、彼女には悪いがそんな生真面目な話は似合わない、少なくとも私はそう思う。
(もうちょっと色気づいたら......それも似合わないか。)
とうとう目だけでなく、腕もブンブン振り回しながら、要領を得ない発言を繰り返している友人を見てワタシはそう思った。
(よく分からんなぁ......。)
還暦であろう喫茶店店主は、奥の席に座る二人の女性客が、何やら神妙な雰囲気で話していると思ったら、二人同時にコーヒーを溢して笑い合い、今度は少し不穏な雰囲気になったと思ったら、またはしゃぎ合う一連の流れを眺めて、改めて女性の感覚は分からないと思った。
自分の父は生前、かなりのプレイボーイらしくガールフレンドなんて取っ替え引っ替えだと父の友人から聞かされたが、自分にはそんな父の色男ぶりは遺伝されていないようだ。
「すみません、お会計いいですか?」
「かしこまりました。アイスコーヒー2杯でちょうど千円になります」
先程の静かだったり、姦しかったりした二人の女性達が退店する。
店には彼女達一組だったので、店ががらんと静かになる。
客が入るまで暇を潰そうと、いつもより早めに届いた夕刊に目を通した。
◯月◯◯日付◇◇新聞夕刊
『殺人容疑で看護師逮捕──昨日、市立◯◯病院看護師、◇◇ ◇◇(28)を入院患者△△ △さん(53)殺害の容疑で逮捕した。動機については容疑者は、「生まれる前から、強い恨みを抱いていたと一部、不明瞭な供述をしており......』
(よく分からんなぁ......。)
今日二度目の疑問だ。生まれる前からという供述が言葉通りの意味ならば.........。
「それじゃ顔も分からん相手に、生前から殺意を抱いていたみたいじゃないか。」
最後までお読みいただきありがとうございます。