可愛い銀髪美少女天使カードとして転生した私、マスターを導く   作:にゃっとう

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63.あなたの願いを成就させる手助けができるかもしれません

 うへへ、うへへへへへへ……。

 

 やぁやぁやぁやぁ!

 立てば美少女! 座れば天使! 歩く姿は美少女天使!

 皆大好きホロエルだぞ!

 

 突然だが諸君。私は今、最高の気分である!

 なぜだか聞きたいか? 聞きたいようだな! よかろう聞かせてやろう!

 

 なんとですね……マスターたちとノゾミたちが仲直りしたのだ!

 

 自分で言うのもなんだが、私はマスターに大事に想われてると思っている。

 私のことをバカにしたり、その存在を邪険に扱ったりすることは、マスターの地雷であり逆鱗に触れる行為だ。

 だから私……もとい『虚構天使ホロエル』の奪取を目的に据え、襲撃を仕掛けたりデュエルを挑んできたりと、さまざまな問題を起こしたノゾミたちに対してはマスターが一番怒ってると思っていた。

 

 いやまあ、思っていたというか、実際のところ相当怒ってはいたはずだ。

 マスターは初見だとクールで口数が少なく見えるが、挨拶されればちゃんと返すし、自分を頼ってくれるクラスメイトの相談には真剣に答える。

 ちょっと人付き合いが不慣れなだけの、不器用で愛情深い女の子。それがマスターの本質だ。

 だがそんな彼女が、ノゾミたちに対しては常に不信感をむき出しにしていた。

 マスターは理由もなしに他人に冷たくするような子じゃない。

 相手からの関わりを拒絶するその態度こそが、彼女がノゾミたちに怒っている内心の裏返しだった。

 

 だけどそんなマスターも、最後には自分から二人のことを許そうと歩み寄ってくれた。

 ノゾミたちの境遇に理解を示し、二人が私へと正式に謝罪するための場を設けてくれたのである。

 それはきっと、私自身はほとんど気にしていないとは言え、もっともひどい言葉を浴びせられた私のために。

 そしてもしかすれば、今もなお罪悪感に囚われ続けるノゾミたち二人のためでもあったのかもしれない。

 

 ……私たちとノゾミたちの関係性には、きっとより多くの結末の形があったはずだ。

 拒絶。嫌悪。敵対。破滅。不干渉。

 マスターはどんな結末でも選ぶことができた。

 そしてその無数の選択肢の中から、マスターは選んだんだ。

 涙の雨を乗り越えて、皆で笑い合える明日を迎える結末を。

 

 最初はあんな争い合っていたのに。ギスギスしていたのに。

 今では皆が皆、本音で語り合うことができるようになった。

 こんな結末を迎えることができたのはきっと……マスターが誰よりも痛みを知るからこそ。

 他人の痛みに共感し、同情することができる――そんな優しさを持っていたからに違いない。

 

 うぅ……こんなにも心優しい子に育って、お姉ちゃん感無量すぎる……!

 見なよ……私のマスターを……!

 お姉ちゃんの自慢の妹です!

 

「では……私たちのことで少々手間を取らせてしまいましたが、そろそろ本題に話を戻しましょう」

 

 ノゾミとイサネの謝罪を受け入れたことで、どこか和やかな雰囲気が広がりつつあった保健室。

 そんな折、仕切り直すようにノゾミが真面目な顔つきで話を切り出したことで、場の空気がピリッと引き締まった。

 おっとっと、と私も私なりに気を引き締める。

 常日頃はともかく、こういう真面目な話の時くらいはお姉ちゃんらしくしゃんとしておかねば。

 

「本題……というと、ノゾミ先輩が仰っていた"教団に潜む強大な敵"についてですか?」

「ええ、その通りです」

 

 エミリアの問いかけにノゾミは首肯する。

 そのノゾミの声には少し前までの弱々しい揺らぎはなく、すでに凜とした響きを取り戻していた。

 

「話を聞いていただいた皆さんであれば、すでにお察しのこととは思いますが――司教シーラ。彼女こそが私が語った"教団に潜む強大な敵"の正体であり、黒死と呼ばれる凶悪なソウルハート・サーヴァントを従えた黒い死神……対教団において、私がもっとも警戒している人物です」

 

 顔を曇らせるノゾミ。その表情には隠し切れない畏怖と憎悪が滲み出ていた。

 それもそのはずだ。

 彼女はかつてそのシーラ本人と戦って敗北を喫し、親友を失ってしまうという深いトラウマを刻み込まれたのだから。

 

「シーラ……その名前には、私も聞き覚えがある」

 

 マスターがポツリと呟く。

 

「ずっと昔……私が両親と初めて教団の本拠地に訪れた時に私たちを出迎えてくれたのも彼女だった。それだけじゃない。教団の中での祈りを始めとする活動も、そのほとんどを主導していたのはシーラだった」

「なるほど……そうなるとやはり彼女こそが、教団の実質的なNo.2と見て間違いなさそうですね」

「あの! ノゾミ先輩から見て、シーラって人はそんなにも危険なデュエリストだったの……んですか? ノゾミ先輩はシーラと直接戦った経験があるん……ですよね?」

「ホムラさん。話しづらいのでしたら、無理して敬語を使わなくても大丈夫ですよ。私自身、あなたがたにそのように畏まられるに足る人間とは思っていませんから」

「そ、そこまで自分を卑下することはないと思うけど……でも、うん。わかった。こっちの方が話しやすいし、そうさせてもらうね! これから一緒に戦ってく仲間なんだし、堅苦しいのはナシってことで!」

 

 ホムラがニパッと太陽みたいな明るい笑顔を向けると、ノゾミは瞠目してわずかに目尻を下げる。

 その表情は以前までは想像もつかなかったくらい柔和で、彼女が確かに新たな第一歩を踏み出していることを如実に物語っていた。

 それからホムラが口にした疑問に、ノゾミは眉間に皺を寄せて重々しく頷きを返す。

 

「デュエリストとしてのシーラは……今思い出しても恐ろしいの一言に尽きます。彼女が纏う気配は、果てしない闇……底知れない深淵のようでした。私が仕掛けた戦術の数々は、彼女の前ではそのことごとくが赤子の手を捻るかのごとく容易くあしらわれたのです」

「……ノゾミ。少し癪だけど、私はあなたの実力は評価してるつもり。皆が託してくれたカードがなかったら、私はあなたに勝てなかった。そんな今のあなたでも、シーラには勝てないの?」

「正直なところを言えば……わかりません。当時の私は幼く、シーラの力の底を正確に推し量ることすらできないほどに実力がかけ離れていましたから」

「……そっか」

「私が持つ『審判の天使イヴリエル』も、元はと言えばシーラとの決戦を見据えて温存していた対黒死用の切り札でした。当時と比べ、今の私には磨いた牙がある。以前の私とは違うという自信もあります。しかし……それでもなお、彼女に勝てる確証はありません」

 

 マスターの問いかけに対し、ノゾミは素直にそう答える。

 もしかすればノゾミが味わったトラウマが、実物以上にシーラという存在を大きく思わせている部分もあるかもしれない。

 だけどそんなことは誰よりもノゾミ自身が自覚していることのはずだ。

 その上でなお勝てる確信がないと言うからには、本当に油断ならない相手なんだろう。

 

「私はあなたと違って、シーラがデュエルする姿を目にしたことはなかったけど……でも、得体の知れない悪寒のようなものは、心のどこかでずっと感じてた。デュエルをすれば誰が相手でも、彼女が勝つんじゃないかっていう予感があった……」

「それはおそらく、デュエリストとしての無空さんの本能でしょう。天性のデュエリストとして、あなたも無自覚のうちに彼女の底知れない実力を肌で感じ取っていたのです」

 

 マスターは唇を噛みしめ、厳しい表情で考え込むように黙り込んだ。

 シーラがノゾミの言う通りの実力者だとしたら……仮にマスターだとしても、シーラを相手に勝利を収めることができるのかどうかは微妙なところだ。

 マスターは無敗だ。いついかなる時、どんな相手にも勝利を収めてきた。

 生への飢え。執着。ただ一度の敗北すらも許容しない断固たる覚悟がマスターにはある。

 けれど……それはマスターが最強であることを意味しない。

 ほんの油断一つ、ほんの運命の悪戯一つで崩れてしまう、砂上の楼閣のような強さ。

 決して無敵なんかではない。

 

「ホロエルさんは、アリエルやシーラについてなにかご存知ありませんか?」

 

 ノゾミがそう口にすると同時に、彼女をはじめとした皆の視線が私に向く。

 

「無空さんとともに生きることを選び、私たちの罪さえ慈愛の心で包み込み許しを与えてくれたホロエルさんの善性に、もはや疑う余地はありません。それでも……あなたは教団の御神体とも言える1対の天使の片割れであった者。教団の内部の情報には明るいのではないかと思いまして」

 

 うーむ……アリエルとシーラについてかぁ……。

 

「どんな些細なことでも構いません。眉唾程度の情報でも、警戒しておくに越したことはありませんから」

 

 そうは言われても……や、話したい気持ちはやまやまなんだけどね。

 片割れのアリエルのことすらよく知らんのに、シーラのことなんぞ知る由もなく……。

 ぶっちゃけ私って、なんか気がついたら祭壇で崇められてただけのなんも知らない系美少女天使だから、教団が具体的になにを目指してるかとか全然知らんのよ。

 冗談ではなくガチで。

 

 片割れらしいアリエルとは一度も話したことないし。

 シーラとも、偶にそれとなく話しかけられることはあったけど、胡散臭くて無視してたから意思疎通したことはない。

 役に立てなくて申しわけないが、こればっかりはどうしようもないのだ。

 

「……ホロエルも、アリエルとシーラのことはなにも知らないみたい。アリエルともまともに話したことはないって」

「そうなのですね……少々残念ですが、致し方のないことです」

「……信じるの? 私はホロエルの言うことなら信じるけど、虚構天使の片割れが教団のことをなにも知らないなんて、正直ちょっと信じがたい話だと思うけど」

「信じます」

 

 ノゾミは間髪入れずに言い切ると、私を見つめて穏やかに微笑んだ。

 全幅の信頼。そんな言葉がぴったりくる、一切の疑いも感じられない眼差しだ。

 

「ホロエルさんは、むやみに嘘をつくようなかたではありません。仮に嘘だとしても、それはきっと誰かを想うがゆえのものでしょう。私は彼女の優しさを、温かな心の強さをもう知りましたから。彼女の言を信じる行為に躊躇う理由など微塵もありません」

 

 お、おおう……。

 え、待って……なんか知らんうちにすごい信用されてないか? 私。

 確かに私はいつだって裏表のないスーパーイノセントな美少女天使ではあるけども。

 ここまで無条件に信頼されちゃうと、嬉しさよりむしろ心配の方が勝るんだが……。

 もうちょっと疑った方がいいと思うぞ? 世の中には悪い人もたくさんいるんだぞ?

 詐欺とかにも簡単に引っかかってしまいそうで、お母さん心配だわ……!

 

「1対の天使が互いに関わりがない……その不可解な謎の仔細も、教団を追ううちに明らかになっていくでしょう。そちらに関しては一旦保留とし、ひとまずは司教シーラへの対策に焦点を合わせましょう」

 

 ノゾミが本筋へと話を戻す。

 彼女は自らのデュエルガントレットを操作すると、宙にディスプレイを投影させた。

 そこに表示されていたのは、風と闇の二つの属性を持つカードたちだ。

 

「こちらが私とのデュエルでシーラが使用したカード群になります。一部カードの効果が少々虫食いになっておりますが……」

「……見た感じだと、墓地にカードを捨てたり蘇生したりするカードがたくさん入ってるね。墓地リソースを積極的に活用するデッキかな?」

 

 背の低いセンカが一番乗りで下からひょっこりと覗き込み、ホムラとエミリア、それからマスターがそれに続く。

 

「皆さん。恐縮ですが、この機会に連絡先を交換しましょう。こちらのカード情報を皆さんのデュエルガントレットに送信しておきます。イサネ、あなたも」

「はい、お嬢様」

 

 ノゾミの促しによって、ソウルハートである私を除く6人がそれぞれデュエルガントレットを操作し、各々の連絡先を交換する。

 しかたのないことだとはわかってるけど、こういうの見てると私もデュエルガントレットが欲しくなるなぁ……。

 皆でワイワイする輪に入れないと、お姉ちゃんちょっと寂しい……。

 

「残念ながら、当時私が使用したデュエルガントレットは黒死によるトドメの一撃の余波で破壊されてしまいました。こちらはあくまで私の記憶を頼りに再現した情報になりますので、このデータを取り込んだからと言って、同じカードと対面した際にすぐにすべての効果が参照できるわけではないことはご留意ください」

 

 デュエルガントレットの仕様として、一度も対面したことのないカードはその効果をすぐには確認できないようになっている。

 単純にガントレット内にデータがないから効果を参照できないのだ。

 2度目以降の対戦であれば、以前に蓄積した情報を元に再分析し、カードの情報を正常に閲覧できるようになるけど……。

 今回の場合は直接的にカード情報を得たわけではないから、これだけでは以前に蓄積した情報としては認識されないということか。

 

「司教シーラ。彼女はすべての教団員の中で、アリエルともっとも近しい立場にいる者。おそらくはアリエルの右腕のような存在……どうか用心を怠らないよう、肝に銘じておいてください」

「……わかった。心に留めておく」

 

 マスターが神妙な面持ちで頷く。

 それから場の空気が若干緩やかなものに落ちついたところで、エミリアがパンと手を打った。

 

「それじゃあ、今日はこの辺でお開きにしましょうか。体調の優れないノゾミ先輩に、これ以上無理させるわけにもいかないもの」

「そうだね。私もエミリアに賛成!」

 

 ホムラの賛同の声に合わせるように、皆が次々と頷きを返す。

 その様子にノゾミはふっと柔らかい微笑を湛えた。

 

「……無空さん。ホロエルさん。最後に一つ、少しよろしいでしょうか」

 

 皆が次々に保健室から出ていく中、私やマスターも皆の後に続いて退出しようとすると、不意に背後からノゾミに呼び止められた。

 マスターが怪訝な顔をして視線だけで振り返り、私もこてんと小首を傾げてノゾミの方へと向き直る。

 

「二日前のデュエルの最中で、無空さん。あなたは言っておりましたね。依り代なんてものがなくとも、ホロエルさんが自分だけの身体を持って自由に生きていける世界が欲しい、と」

「……それがどうかしたの?」

「一人――あなたのその望みと似た夢を抱く者が、私の知人にいます。彼女であれば……もしかすれば、あなたの願いを成就させる手助けができるかもしれません」

 

 マスターが目を見開く。

 いや、マスターだけじゃない。私もまたその予期せぬ言葉に心底驚いていた。

 

「私から彼女にあなたを紹介しましょう。明日の放課後、生徒会室へ足を運んでくださいますか? 彼女のもとへご案内いたしますので」

「……わかった」

 

 マスターは短く答えると、今度こそ踵を返して保健室を後にした。

 

「あ、メイちゃん。ノゾミ先輩となに話してたの?」

「……なんでもない。ただの雑談。帰ろう、皆」

 

 廊下に出ると、ちょうど皆が集まって待ってくれていた。

 真っ先に声をかけてきたホムラへと、マスターはどことなくソワソワした様子で応じる。

 皆は不思議そうに顔を見合せていたが、どちらかと言えば上機嫌にスタスタと歩き始めたマスターの背中を見て、悪い話ではなかったのだろうと察したようだった。

 特にそれ以上の追求をすることもなく、その後は仲良く談笑しつつ全員で校舎を後にする。

 

 ……もしかしたら、明日はちょっといいことがあるかもしれない。

 

 

 


 

 

 

 そこは、現と非現の狭間に位置する聖域。

 存在するものすべてが作られた虚構でありながら、信仰の力により確かな実体を持つ。

 矛盾に満ちたこの架空の世界で、一人の少女が夜空を見上げていた。

 凍てついた静寂が少女を包み込み、月光を浴びた銀糸のような髪が風に靡いて幻想的な輝きを放つ。

 彼女の双眸には、果てしなく広がる暗黒の星海が映り込んでいた。

 

「――アリエル。やっぱりここにいたのね」

 

 宮殿のバルコニーに佇む少女の背中に、妖しげな声がかかる。

 少女――アリエルは一瞬だけ顔をそちらに向け、すぐにそれを夜空へと戻した。

 

「またあの子に思いを馳せていたのかしら? あなたとは違う道を選んだ、あなたと対を成す片割れに」

 

 月光の届かぬ闇の中から現れたのは、似合わない白い法衣に身を包んだ一人の女性だ。

 漆黒の夜と腐海のような深緑が絡み合う艶やかな髪が、闇の中で奇妙な輝きを放つ。

 細く妖しい瞳は常に笑みを湛えているようでいて、その底には人を凍りつかせる冷たさが潜んでいた。

 薄暗がりに浮かぶ白い肌は美しく整っているが、どこか生気を欠いた蠱惑的な雰囲気を放ち、見る者に本能的な畏怖を抱かせる。

 

『……シーラ』

 

 アリエルの冷えた声が夜気に融ける。

 シーラは微笑むが、それは慈悲でも嘲りでもない。

 見透かされていると錯覚させられるような、温度のない笑みだった。

 

「なんだかまるで振られた後の女の子みたいね。まあでも、あながち間違ってはいないのかしら? あなたの大好きな片割れは、あなたを置いて別の子を選び、外で楽しくやっているんだものね」

『……よく喋りますね。あいかわらず』

 

 揶揄(からか)うようなシーラの言葉に、アリエルは小さくため息を吐く。

 

『あなたはもう少し、風情(ふぜい)というものを勉強するべきです』

「あら。ひどい言われよう」

『乙女心を茶化すようなデリカシーに欠けた人間には相応しい評価でしょう』

「あなた、乙女って年齢だったかしら?」

『そういうところですよ。はあ……』

 

 暖簾に腕押し。糠に釘。アリエルは呆れたように嘆息を吐く。

 そして少し間を置くと、独り言のようにポツリと呟いた。

 

『ホロエルの所在がわかりました』

「……へえ?」

 

 シーラの笑みが深くなる。

 

『どうやら堕天の効果を使ったようです。おかげで力の波動を頼りに私と彼女の縁をたどり、力の出どころを特定することができました。場所は――日本。国立クロワッサン学園』

「……学園? まさか巫女を学校に通わせているの? それはまあ、なんとも目立つことをするのね」

 

 どこか興味深そうにシーラはアリエルの報告に耳を傾ける。

 

「それでどうするの? 見つかったのだから、すぐにでも捕まえに行くのかしら?」

『いいえ』

 

 アリエルは静かに首を横に振り、その瞳を星海に浮かぶ三日月へと注いだ。

 

『今はまだ、時期尚早というものです』

「泳がせておくってこと? その慎重さが仇とならなければいいのだけどね」

『あなたもわかっているでしょう。今の段階でホロエルとその巫女を手中に収めたところで、計画を先に進めることはできません。また脱走されて行方を眩まされてはたまりませんから。そう事を急ぐ必要もないでしょう』

「ふぅん……それは、()()()がまだじゅうぶんに育ち切っていないから?」

 

 シーラの視線がバルコニーの内側へと向く。

 ガラス戸越しに広がる闇の中に、ベッドの上で何者かが寝そべっているような小さな影がぼんやりと浮かんでいた。

 

『……その通りです。彼女という器の完成にはもう少し、時間が必要です』

「まぁ、あなたの決定に異を唱えるつもりはないわ。私はあなたに仕える司教だもの」

 

 くすくすと喉を鳴らして笑うシーラ。

 そんな彼女に、アリエルは胡散臭いものを見るような冷ややかな眼差しを向けた。

 

『シーラ。九年前、ホロエルが巫女を連れて脱走した日のことを覚えていますか?』

「ええ、もちろんよ。まさか巫女と天使が結託して逃げ出すなんて、誰も予想していなかった。あの時は本当に驚かされたわ」

『――あの日、あなたはあの二人の逃走に気がついていながら、わざと手を出さず傍観していましたね?』

 

 アリエルは冷淡な瞳でシーラを見据え、淡々とした声で問う。

 シーラは笑みを崩さぬまま、白々しく首を傾げた。

 

「なんの話かしら?」

『あの日だけではありません。八年前、あの異常な強さを持つ金髪の天使が私とあなたの前に立ちはだかった時も……あなたはその気になれば、いつでもあの天使を倒すことができた。なのにあなたはそれをせず、あの才能に溢れた金髪の少女と記憶を失った虚無の適性を持った子を、敢えて見逃した』

 

 シーラは口角を吊り上げ、愉しげに微笑む。

 その反応はアリエルの指摘が図星であることを物語っていた。

 

『嫌なことを後回しにしたがるのは私の悪い癖だと、そのせいで巫女を逃がすことになってしまったのだと、あなたは以前私にそう言いました』

「そうだったかしら。そんな昔のこと覚えてないわね」

『果たしてあなたにそのように私を糾弾する権利があったのか、私は(はなは)だ疑問です。計画の手助けをするどころか、その過程を滞らせるような真似ばかりするあなたに』

「冤罪よ。しくしく」

『わざとらしい芝居は結構です』

 

 アリエルはピシャリと言い切ると、その瞳を氷のように鋭くする。

 

『私とあなたはあくまで互いに互いの目的を果たすための協力関係であり、()()()()()()()()()()()……ですが袂が別たれる時までは、我々の利害は一致している。かつて私にそう言ったのはあなたです。私の邪魔をするような真似を繰り返すのはやめてもらいたいものですね』

「ふふっ……」

『……なにがおかしいのですか?』

「いいえ。ただ、あなたがちょっと可愛らしく思えただけよ。本当は最初から気づいてたくせに、今更そんなこと蒸し返すなんて。なんてことないように振舞ってるように見えて、実はずいぶん根に持ってたのね?」

『……口を慎みなさい』

「おお、怖い怖い。まあ、安心しなさいなアリエル。私だってわかってるわ。私の望みを叶えるためには、あなたの計画が必要不可欠。あなたが私の力を必要とするようにね。だからこれからは、少しはあなたの期待に添えるように動いてあげる」

『信用なりませんね』

「必要? 私たちの間にそんなもの」

 

 シーラはどこまでも軽薄で掴みどころのない様子で言葉を紡ぐと、くるりと踵を返した。

 

「さて、それじゃあ私はそろそろお暇させてもらうわね。あぁ、そうそう。直接手を出す必要はなくても、来るべき時に備えて巫女やその周囲の戦力を把握しておくことは必要でしょう? 私の教え子たちをその学園に送り込んで情報収集させておくけど、構わないわよね?」

『好きにしなさい』

 

 アリエルの許可を得たシーラは、手を振りながらバルコニーから立ち去った。

 その背中を見送ると、アリエルは再び静かに星空を眺め始める。

 

『ホロエル』

 

 彼女の唇がその名をそっと紡ぐ。

 

『怒りや憎しみが、この世界に必要だと思いますか? 悲しみや痛みが、この世界にあるべきものだと思いますか? 涙の雨が降り止むことはなく、争いの嵐が吹き止むこともない。救われた者は、ただ幸運だっただけ。その幸福は偶然の産物に過ぎない』

 

 夜空に浮かぶ月は三日月のまま、欠けた輪郭が彼女の眼差しの中で輝いている。

 

『……いつかあなたの答えを聞かせてください。救いを求める祈りを受け続けた中で、私と違う道を選んだあなたの答えを』

 

 少女の眼差しは、星海に浮かぶ月へと向けられている。

 だがその視線が見据えるものは、今ここにはない。

 月は欠けている。満ちるにはまだ時間がかかる。

 

 だが確実に、時は近づいている。

 運命が動き出す瞬間を待ちわびるように、欠けた月が静かに輝きを放っていた。

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