日影は鈴木陽が通う高校の同じクラスに在籍するクラスメートだ。座学は良くも悪くもないが、運動神経は抜群。スタイルも良く、無表情と鋭い眼差しが無ければ人気は爆発的に伸びるだろうと思っている。陽が日影について知っている"事実"はこの程度だ。しかし、彼女には悪い噂がついて回っている。1つは路地裏で不良達が言っていた噂だ。他の噂も似たり寄ったり。どこから湧いた噂なのか見当も付かない。
あの日以来、帰り道で日影を見かけることがある。話かけようにも何と話かけようか迷っている間に同じ駅に着き、同じ電車に乗り、陽が降りる二つ手前の駅で降りていく。住んでいる場所の最寄り駅なのか、あるいは全く違う駅なのか、後ろ姿を見ながらそんなことを考える帰り道。
梅雨が終わろうとした6月下旬。ちょうど下校の時間帯に梅雨が悪あがきするように大雨を降らせた。予報では晴れのはずが、崩れた天気にずぶ濡れになりながら帰る男子生徒もいれば、親を迎えに呼ぶ女子生徒もいる。陽に関しては昨日学校に置き忘れたいた傘があったため、それを使って帰ることができた。
陽はあの日の場所に通りかかる時は、いつも中を覗きこむのが癖になっていた。それは今日も同じだ。また日影が不良達に絡まれていないだろうか、あるいはもっと単純にあの日の不良達が待ち伏せていないだろうかと不安になる。
今日も待ち伏せはされていないが、路地裏に人影が見えた。
「あれ、日影さん?」
「ん?ああ、陽さんか」
路地裏は表より雨の勢いが弱い。どうやら雨宿りしているようだ。
「傘、忘れたんですね」
「せやね」
「あ、良ければ入りますか?今日は駅に行く日なんですよね?」
しかし、日影からの反応は無い。陽は苦笑いしながら自分の発言にマズイ部分が無かったか振り返った。そして、マズイ発言を見つけてしまい、内心後悔していた。傘に一緒に入るように誘うなんて、女子が警戒するには充分過ぎる発言だった。しかし、撤回しようにも関わった以上、置いていく訳にもいかない。
「あんた、変わりもんやね」
「へ?」
「なんでもあらへん。それより、助かるわ。今日、用事があるんや」
「そうだったんですね。じゃあ、急ぎましょ」
「せやね」
日影は陽の傘に入った。陽は日影が濡れないように傘をできるだけ日影の方に寄せた。そのため必然的に陽が傘に入っている面積は狭くなり、体の半分くらいが濡れてしまった。
「あ、あの、今さらですけど、ありがとうございました」
「何がや?」
「いや、あの日僕のことを助けてくれたじゃないですか。そのお礼です」
「ちゃうで。あれはあんたがワシを助けたんや」
「いや、でも、もう少しでどうなってたかわからない状態から助けてくれたのは日影さんですよ。それにわざわざ学校にまで連れて行ってくれて、本当に助かりました」
「そうか?んなら、これでちゃらってことにしよか」
「え、ええ、もちろん」
「それとな、あんた、ワシにあんま関わらんほうがええで。あんたまで変な目で見られてまう」
終始感情が籠っていない口調だが、今の言葉にはほんの少し雰囲気が違うような気がした。
「どうしてですか?」
「ワシには有ること無いこと噂が出回ってるやろ?それであんたまで変な目で見られて、迷惑かける訳にもいかんさかい……」
「噂なんて気にしませんよ」
陽はけろっとしていた。
「噂が本当かどうかなんて、僕には関係ありません。噂なんかで他人を評価するなんて、くだらない」
「くだらないんか?」
「ええ、くだらないです」
「…………せやね。くだらないっちゅうんも、ようわからんけど」
「日影さんが自分の噂に対して感じているのと同じですよ」
「ワシには感情っちゅうもんがあらへんからな……噂に関して何も感じんよ」
「僕もです。日影さんにどんな噂があろうと関係無いんですよ」
陽は笑ってみせた。強がりでもなんでもない。それは陽の純粋な価値観だった。
二人は同じ電車に乗り、日影はいつもの駅で降りた。いつもと違うのは振り向いて車内の陽に視線を向けたことだ。陽はそれに会釈で返していた。ホームから電車が走り去り、降車した人波に乗って、日影は改札口に向かった。日影が駅に着く頃には雨も止み、濡れたコンクリートの匂いと湿った空気が肌にまとわりついた。
駅から出た日影はバスに乗り込み、ある場所に向かった。向かった先は蛇(クチナワ)総合病院。数年前に設立された大型の病院で、各種手術はもちろん、リハビリテーション、デイケアサービス、新薬開発まで行っている。外見は高級ホテルのようで全室個室で、日影はその一室に用事があった。
「日向(ヒナタ)……来たで」
「おお、日影!!よく来たね!!」
ベッドに横たわりながら満面の笑みを見せる女性がいた。美人には違いないのだが、病気のせいで病的な痩せ方をしている。彼女は日向。日影の母、あるいは姉のような存在だ。
日影はもともと孤児院の出身で、ある日孤児院から脱走したのだ。何日も飲まず食わずで、行き倒れた日影を保護し、数年前まで育ててきた。しかし、三年前に病気を患い、一時は生死の淵をさ迷った。そこに現れたのが、この病院の医院長だった。
「一昨日来たばっかりやで」
「せやな。こないな場所に閉じこもっとると退屈でしゃあないわ。せやから、今は日影が学校で楽しそう過ごしとる話を聞くんが楽しみなんや」
「楽しいて……ワシには感情っちゅうもんが……」
「あるで。それを上手く表現出来んだけやて」
そう言って日向は笑う。病的な痩せ方をしていても眩しい笑顔は昔のままだった。
日向は現代に生きる"忍"だった。昼は服屋でアルバイト。夜は不定期で忍の仕事、忍務がある。そこで得た報酬で二人は生活していた。
ある日を境に日向は日影に忍の特訓を始めた。日影に忍の才能を見出だしたと共に、自分に万が一のことがあっても日影が生きていけるようにする必要があった。その万が一の時に間に合ったのは良かったのだが、出来ればこの道には進んでほしくなかったという気持ちも日向にあった。当の日影は気にしていないようだが。
「さっきまで雨が降っとったようやけど、傘は持っとったんか?」
「借りた……いや、入れてもろた」
「入れ……!?相合い傘やないか!?相手は!?」
「クラスの男子や。ほら、こないだ話したボコボコにされた奴や」
「ついに日影ちゃんにも春が来たわけやな!!」
「いや、もうすぐ夏やて」
病室を後にした日影は看護師とすれ違った。
「医院長がお呼びです」
この病院の医院長は日向の治療と日影の学費を支払ってもらっている。単なる善意ではない。日向はともかく日影には忍としての利用価値があった。この病院がここまで大型になった裏には日影の功績もある。そのため一部の病院関係者には日影のような忍や裏工作を生業とする人間が溶け込んでいる。
日影は出口には向かわず、病院の最上階に向かった。最上階には医院長室が一部屋あるだけだが、異様な空気が漂っている。
「失礼するで」
日影はノックもせず医院長室に入る。医院長室は無闇に広く、ほぼワンフロア分を無駄遣いしている。
「相変わらず遠慮が無いな」
医院長室の奥の机に座る男が口を開いた。年齢の割には鍛えた筋肉質の体に若干小さめの白衣に袖を通している。彼はこの蛇総合病院の医院長、道元だ。
「遠慮する必要なんてあらへんからな。利用してるんは、お互い様やから、ワシはあんたに遠慮せんし、感謝もせん」
「ふん。日向の受け売りか。まあ、いい」
「それで、忍務か?」
「いや、忍務じゃない。来ていたようだから、少し様子を見たくてな」
医院長には日向の治療の他に日影の学費も払ってもらっている。学校での様子が気になるのは当然かも知れない。日影は勉強は真面目にやっている。利用出来るものは全部利用するのが、日向からの教えだ。この関係を維持するには弱みを見せてはいけないということが重要だ。日向の存在が弱みになり得るが、日向を人質に取られたとしても日影がどんな行動に出るか全くわからない現状では、医院長も日向を無下に扱うことは出来ない。
「真面目に勉強しているようで安心したぞ。でなければ、採算が合わないからな」
「忍務が無いなら帰るで」
「近々大きい商談がある。その時は働いてもらうぞ?」
医療で患者を助けるというよりは、金のために医療を行っているような男だ。商談というのも日影が裏工作する忍務のことだ。
「ほうか。用事が済んだんなら帰らせてもらうわ」
日影は医院長室を出た。
医院長に対して、恐怖や不安という感情は抱かない。それは日影が感情を持っていないからではない。日向を助けるという自分に課した忍務を実行しているからであって、その際に起きた状況に即断即応出来るように鍛えられている。
日影はエレベーターに乗らずに、そのまま屋上に出た。外は既に夜。眼下に広がる町は光に溢れている。だが、どんなに光に溢れていようと誰も日影の姿を見つけることは出来ない。光あるところには影があり、光が強ければ影は濃くなる。
「日向はワシが助ける」
日影は病院の屋上から夜の闇に飛び込んだ。