ジギスヴァルト・ブレヒトの朝は早……くはない。睡眠はとれるときにとれるだけとる、をモットーとする故か、その日の予定をこなすのに支障が無いギリギリの時間まで寝ている。
そういうわけで、普段なら朝六時になど絶対に目覚めないのだが。この日は違った。どうにも寝苦しい。というか、右腕が痺れている。
目を開けると知らない天井。寝ぼけた頭で“そういえば昨日からIS学園に居るのだった”と思い出し、ようやく痺れた右腕を見る。
――ルームメイトの布仏本音が巻きついていた。
いや、巻きついていたというと少し大袈裟だが……かと言って抱きついていたというほど生ぬるいひっつき方でもないので、やはり巻きついていたというのが適切だろう。
……ところで、彼は寝起きがあまり良くない。起き抜けは不機嫌で判断力も鈍る。彼の脳内では現在、“本音のせいで睡眠時間が削られた”という――まあ間違ってはいないが――認識が出来上がっていた。
「ふんっ」
無造作に右腕を振るう。本音の身体は宙に舞い、重力に引かれある程度の勢いを以て隣の、本来彼女が眠っているべきベッドに落下した。
「へぶぅっ!?」
カエルが潰れたような声をあげる本音を無視して洗面所へ。顔を洗い意識をはっきりさせると、先程の状況が正確に認識できた。
結論から言うと――柔らかかった。どこって、全部が。特に胸が。
クールに振る舞ってはいるがジギスヴァルトとて年頃の男である。加えて、束以外の女性とは戦場でしかまともに会話したことがない。早い話、“接触”に耐性が無いのだ。
「ひどいよれっひー!」
戻ると案の定というか、本音はお冠だった。着ぐるみにしか見えないパジャマに包まれた小さな身体を目いっぱい広げて威嚇している。
自然、胸部に視線が行った。制服も今着ているパジャマもゆったりしているせいでわかりにくかったが、くっつかれて否応なくわかった。あれは非常に、とても、半端じゃなく、大きい。
「……君が勝手に巻きついていたからだろう。私は寝起きが悪いと昨日言っておいたはずだ」
「でもでもー、れっひー抱き心地よくってー。それになんだか安心して眠れたしー?」
……それはそれで、どうなのだろう。恋人でもない女性から布団に潜り込んで安心するなどと言われると男として悲しいような気も――いや、もはや何も言わぬ。相手は本音、一筋縄ではいかない。
「……巻きつくのは勘弁してくれ」
「布団に入るのはー?」
「…………」
男、ジギスヴァルト・ブレヒト。なんだかよくわからないが何かを失ったかわりに何かを得た。そんな気がした。
★
「どうしてそこまで弱くなっている! 中学では何部に所属していた!」
「帰宅部! 三年連続皆勤賞だ!」
二日目の放課後、ジギスヴァルトは一夏を追って剣道場に居た。一夏が箒にISについて教えてくれと頼んだ結果――何故か剣道。
どこから嗅ぎつけたものかギャラリーは多いが、その目の前で一夏はものの見事に箒に圧倒されている。
箒と一夏が試合をしている間、ジギスヴァルトは束の“お願い”を思い返していた。
あの人のことだ。どうせ一夏のためだとか箒のためだとか千冬のためだとかで余計なちょっかいをかけてくるに決まっている。それがどのタイミングでどんなものになるかはわからないが、彼女の“お願い”を全うするには時にそれらを退けなければならない。
本当に、あの人は敵なのか味方なのかはっきりしてほしい。いや、本人の心情的には味方なのだろうが、手段が突拍子もなさ過ぎるのだ、あの人は。
「れっひー? 顔怖いよー? どーかしたかなー?」
うんざりしたのが顔に出たのか、隣で観戦していた本音が心配そうな顔を向けてくる。ジギスヴァルトが剣道場に行くと聞いてついてきていたのだ。
「……問題ない。三月ウサギは手強いなと思っただけだ」
「うさぎー?」
首を傾げる本音。その姿は非常にかわいらしく――思わず見とれてしまった。
「そ、そうだ! ジグ、お前は何もしなくていいのかよ! お前だってアイツと戦うんだぞ!」
不意に飛んできた一夏の声で現実に引き戻された。どうやら試合までの一週間、箒にひたすら剣道を指導されることになりかけているようだ。だが訓練用ISの貸し出しが完全予約制である以上、試合までに借りるのは難しい。箒の指導が剣道一本になるのも必然といえば必然である。
知識面での指導をしないのなら、だが。
「私か? 私は専用機があるからアリーナさえ借りられればなんとでもなる。それに、何度も言うが私は元傭兵だ。武術も多少は心得がある」
「ほう? ブレヒトは武道を嗜んでいると? ならぜひ手合わせしようじゃないか」
……“武道”ではなく“武術”なのだが。しかし言ったところでどうしようもなかろう。箒の顔にはでかでかと「鬱憤を晴らさせろ」と書いてある。一夏が弱かったのがそんなに気に入らないのか。さらにおそらく昨日彼が名前で呼んでしまったことを根に持ってもいるのだろう。
――この場で逃げると後が面倒くさい。
そう結論づけた彼は、実に嫌そうな表情を作って箒の前へ進んだ。ちょっとした当てつけだ。
「ずいぶん嫌そうだな」
「八つ当たりに付き合わされて喜ぶなぞ余程の物好きだけだろう。一夏、竹刀を貸してくれ」
「いいけど、どうせ防具取りに行くだろ? 俺がつけた直後のなんてつけたくないだろうし。そのついでに竹刀も持って来いよ」
「防具は要らん。竹刀だけでいい」
にわかにざわつく場内。それはそうだろう。箒が中学時代に剣道全国一位だったことを知る者はそこそこ居るし、そうでなくても一夏が箒に手も足も出なかったのをたった今間近で見ていたのだから。
「舐めているのか?」
「別に。私のは戦場で身につけた我流もいいところの実戦剣術だ。あんなものをつけていたらいつもの動きが出来んというだけのこと」
一夏から竹刀を受け取り、軽く振ってみる。
――案外軽い。ある程度重さがあった方が振りやすいのだが、まあ仕方がないかと諦めた。
「それと断っておくが、私は剣道の作法は知らんぞ」
言ってジギスヴァルトが構える。左脚を前に出して半身になり、両腕は体側に垂らしたまま。左手に握った竹刀の先を相手の足下に向ける。
対する箒も防具を着け直し、晴眼に構えた。
「あれ、構えてるの?」
「ただ立ってるだけにも見えるけど」
「ていうか隙だらけじゃない?」
「あれなら篠ノ之さん楽勝ね」
「ブレヒト君、もしかして口ばっかりなのかなあ」
勝手なことを言ってくれる、と箒は思う。最初はなんて隙だらけな構えだと思ったが、いざ相対してみると打ち込む隙が見つからない。彼は力を抜いて立っているだけだというのに、どこに打ち込んでも防がれる気がしてしまう。
「れっひーがんばれー!」
不意に聞こえた本音の声援。別に特別大きな声という訳でもハリのある声という訳でもないのに、彼女の声は何故かよく通る。
そしてあろうことかジギスヴァルトはそれに反応した。箒から本音に視線を移し、さらにはそちらに向けて右手を振った。心なしか微笑んでいるように見えなくもない。
(舐めた真似を!)
先の防具不要宣言と合わせて完全に頭に血が上った箒は目一杯踏み込み、容赦なく竹刀を振り下ろした。
とった、と思った。
ジギスヴァルトは視線を戻さなかった。右手も振り続けていた。
――左腕は、箒の打ち込みに合わせて跳ね上がった。
(……え?)
竹刀が床に落ちる。ジギスヴァルトの面に打ち込んだはずの、箒の竹刀が。
「……終わりか篠ノ之?」
箒が。ギャラリーが。そしてブンブンと両腕を振って応援していた本音でさえ。何が起こったかわからず固まっていた。
「……今、ブレヒト君何したの?」
「竹刀を弾いた……んだよね、多分」
「……見えた?」
「……全然」
呆然とするギャラリー。その視線を全く気にせず、ジギスヴァルトは一夏に竹刀を返し本音のもとへ戻っていく。
「……何をした」
箒の言葉で足を止め、振り返る。彼女の顔には困惑と悔しさがありありと滲んでいた。
「なんだ見えなかったのか? 可能な限り速く腕を振り上げただけだ。一番楽で決着が早くつく方法を取らせてもらった。打ち込んでくるタイミングも場所もわかりやすくて助かったぞ」
「隙を見せたのはわざとか」
「当たり前だ。戦闘中にあんなわかりやす過ぎる隙をうっかり作る傭兵がどこに居る」
話は終わりだとばかりに、ジギスヴァルトは再び歩を進め――なかった。
本音が女子生徒たちに取り囲まれているのを見たからだ。どうも先程手を振り返したのがいけなかったらしい。どういうことだだのいつの間に仲良くなっただのと質問攻めにあっている。
「……済まない、本音」
君子危うきに近寄らず。本音を見捨てて逃げることにした。
夜、彼は寮に戻ってきた本音にめちゃくちゃ怒られた。いつの間にか一週間食堂のデザートを奢ることになっていたが、必要経費だと思い込むことにした。
★
「れっひー、はやく行かないとおりむーたちが待ってるよー」
「そう思うのなら自分で歩いたらどうだ」
「やーだー」
セシリアとの試合当日の昼休み。食堂へ向かうジギスヴァルトの背に本音がぶら下がっていた。
長身のジギスヴァルトにぶら下がることで完全に床から浮いているが、彼は重さなど感じていないかのようにずんずんと歩を進めていく。本音の顔が満面の笑みなのに対してジギスヴァルトの顔はほぼ無表情で、それがある種異様な雰囲気を作り出していた。
「ほら、着いたぞ本音。いい加減自分で歩け」
話題の男子生徒が背中に女の子をくっつけて歩いていればそれはもう目立つ。周囲の視線をホイホイしながら食堂に辿りつくも、本音は離れようとしない。
「席までこのままー」
「……君は私を何だと思っているんだ」
「れっひータクシー?」
「……はあ」
ため息を吐きながら辺りを見回す。教室を出る前、先に行って席を取っておくと言っていた一夏と箒がどこかに――居た。居たが、一夏たちの周囲の席はものの見事に埋まっている。大方、女子に押しかけられて勢いで押し切られたというところだろう。
一夏もこちらに気づいたのか、手を合わせるジェスチャーをしてきた。軽く手を振って気にするなと返し、改めて辺りを見回す。
一夏の方に人が集中しているからか、それとは反対側の席はわりと空いているようだ。ともあれ、まずは食券を買って食べ物を確保しなくては始まらない。
本音をぶら下げたまま二人分の食券を買い、本音をぶら下げたまま二人分の料理を受け取り、本音をぶら下げたまま両手にトレイを持って再び席を探す。なかなかにシュールな光景。調理のお姉様方(平均年齢推定四十歳)にも笑われた。
「んー? あー、ゆーこだー」
不意に本音が声をあげた。どこかへ手を振る彼女の視線を追うと、こちらに手を振るおさげの女の子が見えた。続いて隣の黒髪の女の子が手招きしている。
「れっひー、ごーごー!」
「わかったから揺らすな。歩きづらいし料理がこぼれてしまうだろう」
相変わらず降りない本音を連れて二人の所へ行くと、丁度二人分の席が空いていた。
「いらっしゃいジグ君」
「よかったら一緒にどう?」
「助かる。席を探すのに難儀していたところだ」
二人の厚意に甘えることにした。二人は並んで座っているから、向かいの席にジギスヴァルトと本音が座ることになる。
腰をおろして一息つき、改めて目の前の二人を見る。見覚えがある……どうやらクラスメイトのようだ。たしかおさげの方が谷本癒子。黒髪の方は鏡ナギだったか。
「同じクラスの谷本と鏡、だな?」
「あ、覚えててくれたんだ」
「話す機会があんまり無かったから、こうして一緒に食事できて嬉しいよ」
「鏡は隣の席なのだから、機会はいくらでもあるはずだがな」
これもやはり、普段から近寄りがたいと思われているという証左だろうか。自分では友好的なつもりだし、特に誰かを拒絶した記憶も無いというのに。さしものジギスヴァルトもなんだか泣きそうになってきた。
「名前だけじゃなくてそこまで覚えててくれたんだ。嬉しいなあ」
「じゃあ、今後はもっとお話しましょ」
「歓迎する。私としてもクラスメイトと親交を深めるのは有意義な――ストップだ本音。そのままではシロップが垂れる」
本音が食べているサンドイッチ――昼食にもかかわらずクリームやハチミツなどがたっぷり挟んである激甘サンド――が彼女の手の中で崩れるのを見て横から形を整え直し、溢れた中身をスプーンで皿に纏めていく。
「だーいじょーぶだよー、垂れたらスプーンで掬って舐めるからー」
「万一制服に垂れたらそうもいかんだろう。少なくとも今日一日は替えが無い。いいから少し大人しくしろ、聞いているのか本音」
「きーこえーませーん」
「君という奴は……」
ため息を吐き心底呆れた顔をしながらも、手は止めない。本音は本音で嬉しそうな様子でされるがままになっている。
そんな二人を見たナギと癒子は、驚いているような呆れているような興味津々なような、微妙な顔でジギスヴァルトに声をかける。
「あの、ジグ君?」
「なんだ?」
「その、ジグ君と本音は入学早々付き合ってるんじゃないかって噂があるんだけど、あれってホントなの?」
「……は?」
その噂は初耳だった。加えて、そんな噂があるなどということを想像したことすら無かった。――あくまでもジギスヴァルトは、だが。
「付き合う、というのはつまり恋愛関係にある状態のことだな?」
「うん」
「ならば答えは否だ。私と本音はそんな関係ではない」
照れることさえせずハッキリキッパリ否定されて一瞬本音の表情が揺らいだ。ジギスヴァルトはそれに気づかなかったが、癒子とナギは気付いた。気付いて、悟った。
これは近々面白いことが起きるに違いない――と。
「でも、本音のこと名前で呼んでるし、今だってそんなに甲斐甲斐しく世話焼いてるし」
「あまり家名――日本では名字と言うのだったか? で呼ぶ習慣が無い。世話に関してはルームメイトだからな。ここ数日で染みついてしまった」
「習慣の問題かぁー。あれ? でも私たちは名字だったよね?」
「日本では親しくもないのに名前で呼ぶのは失礼に当たると後から知ってな。気をつけようと努力しているところだ」
忘れもしない入学初日。箒の態度が頭から離れなかった彼は寮に帰った後、日本の文化について猛烈に調べた。いくら育ての親が日本人とは言え、生活していた場所はドイツだったのだ。彼の日本についての知識には相当なムラがある。
「だったら、私のことも癒子でいいよ」
「私もナギでいいよ」
「良いのか?」
「ええ、その方が特別感があるもの」
「そうか、ならこれからはそうさせてもらおう。改めてよろしく頼む、癒子、ナギ」
――本音の持っていたサンドイッチが、潰れた。
「何をしている本音。服に飛び散ったらどうす……どうした、何故そんなに不機嫌なのだ。私が何かしたか?」
再び本音の世話を焼き始めたジギスヴァルトを見て、癒子とナギはニヤニヤと笑うのだった。
「……ところでれっひー、今日はせっしーと試合だねぇ。勝てそー?」
ある程度皆が食べ終わる頃、機嫌が直ったのか本音が口を開いた。
「せっしー?」
「セシリアだから、せっしー」
「ああ、なるほど」
もはや本音のつけるあだ名に動じなくなったジギスヴァルトはセシリアを思い浮かべた。
事前に調べた情報では第三世代ISブルー・ティアーズを駆り、主に中遠距離における射撃を得意としているらしい。試験で教官を倒したと豪語していたが、どうやら試験官の使っていた打鉄――第二世代の日本製量産機――との機体性能の差に頼る部分が大きかったようだ。
「そうだな、問題ない」
「おー、自信ありなんだー?」
「でも相手は専用機持ちの代表候補生だよ?」
確かに、専用機相手に学園所有の訓練機で戦うとなれば勝負は厳しいだろう。だがそうはならない。
「専用機は私も持っているからな。条件はイーブン――いや、私の専用機は奴のブルー・ティアーズと違って情報が全く出回っていないから、私が有利とさえ言える」
「あ、そういえば言ってたね。専用機があるって」
「どんなISなの?」
「ふむ……規則に抵触するので展開するわけにはいかんが、待機状態なら見せても問題無かろう。これだ」
言って彼が制服の襟元から取り出したのは緋色のドッグタグだった。
「……赤いドッグタグってなんか違和感すごいね」
「あ、名前じゃなくて何か文章が彫ってあるんだね。……ごめんこれなんて読むの?」
「Wer kaempft, kann verlieren. Wer nicht kaempft, hat schon verloren.
戦う者は負けるかも知れないが、戦わぬ者は既に負けている――という意味だ。私の……あー……座右の銘? というやつか」
「へぇー。ちなみに、ISの名前は何ていうの?」
「名前? シャルラッハロート・アリーセだが――む、いかん。午後の授業まで時間が無い」
時計を見るとあと十分を切っていた。次の授業は――千冬である。何がなんでも遅れるわけにはいかない。
「やっば、急がないと!」
「ほら本音、早く!」
バタバタと立ち上がる三人だが、本音は動こうとしない。
「どうした本音。遅刻するぞ」
「……私ちょっと用事があるから、先行っててー」
「何? しかし今からでは……」
「いいからいいからー」
「……
有無を言わさぬ笑顔に押されて三人は食堂を出た。残された本音は一転して泣きそうな顔でポケットから何かを取り出す。
「……ごめんね、れっひー」
本音は取り出したそれ――ICレコーダーのスイッチを切って、食堂を出て……そして教室には向かわなかった。
午後の授業は欠席だった。
ベルトルト・ブレヒトって没後50年経ってましたよね?