あなたとなら、必ず超えられる   作:渚 龍騎

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ちょっと前に投稿してた物の書き直し版
※出来得る限りの配慮はしていきますが、ゲームやアニメを見た程度なので、ウマ娘の細かい設定や競馬などはからっきしとなります。不備があってもそこら辺は気にしないって方は気軽に楽しんでいただければと思います。


一話 これまでのこと

 

 

 

「──がんばれー!」

 

 

 歓声、というにはほど遠い応援の声。レースというには小規模だが、それはれっきとした勝負(レース)だった。

 子供が駆ける為だけに作られた小さなコースで、少女たちは矮躯に似合わぬ大きな希望(ユメ)を抱いて駆け抜けていた。

 

 歓声には満たない。だが少女たちにとって、応援(それ)はなによりも糧になる。ただの遊びごと──否である。少女たちにとって、遊び(レース)はなによりも真剣に取り込む勝負だ。

 

 そこに大小の大きさは関係ない。

 少女たちにとっては、本気で取り組むべきレースであることに変わりはない。

 

 

「──みんな負けるなー!」

 

 

 夢を掲げ、愚直ながらに駆ける。誰よりも純粋で無垢な心を翳して、少女たちは一心不乱に駆けた。

 出走している小さなウマ娘たちを応援する観客──といっても、重賞と比べれば遥かに少ないのだが、それでも見ている側はそのレースを重賞と同じように全力で声を出していた。

 

 

『──間もなく直線に入ります! ここから抜け出すウマ娘はいるのか!』

 

 

 もちろん簡略的だが解説や実況もいる。プロではない。この幼いウマ娘たちのクラブを仕切っている先生だ。

 応援している観客もファンというより、この『ちびっこクラブ』の友達や幼いウマ娘たちの両親が殆どで、それを見に来ている一般の無関係な者は殆どいないだろう。

 

 

 だが、この日は例外が一人いた。

 

 

 空になった紙パックのトマトジュースをストローでぶら下げながら、一人の青年は眼鏡がズレても必死になってメモ帳を書き続けていた。

 メモ帳に連ねている文字は、どれも小さなコースを走っているウマ娘のことばかりだ。

 

 

「あの2番の娘は良い末脚を持ってる。あ、3番の娘は持久力がありそう」

 

 

 ぶつぶつと呟きながら一心不乱にメモ帳を書き続ける青年の姿は、周りから見れば明らかな不審者だ。そんな周りから向けられる珍奇な視線などお構いなしに、青年は「良いね!」と笑った。

 最後の直線で実況役を務める先生が声を上げた。

 

 

『──ナリタトップロード上がってきた!』

 

 

 マイクによって辺りに轟いたその名前を聞き、青年は顔を上げる。最後の直線を諦めずに駆けるのは誰か、ただ単純にそれが気になったからだ。

 

 

「──トップロードちゃんがんばれー!!」

 

 

 応援が響く。その瞬間、青年は目を見開いた。

 観客の歓声に呼応して、ナリタトップロードと呼ばれた少女が加速。同世代の幼いウマ娘たちを一気に抜き去って、誰よりも早くゴールを駆け抜けた。

 

 

『──ナリタトップロードゴール!!』

 

 

 ゴールを駆け抜けた少女──ナリタトップロードは満面の笑顔で、応援してくれた観客に向けて大きく手を振る。その光景から、青年は目が離せなかった。

 

 

「良いじゃん良いじゃん、凄いじゃん!」

 

 

 必死に書いていたメモ帳をポケットに入れ、青年は押していた自転車をその辺りに投げ捨てるように倒す。既に飲み干していた紙パックをゴミ箱に目掛けて投擲──瞬間、圧迫された紙パックのストローから僅かに残っていたトマトジュースが放出され、青年のワイシャツに赤い染みを広げた。

 

 

「うわっ! マジかよ最悪……!」

 

 

 慌ててハンカチを当てるが、トマトジュースの染みを抜き取るのはそう簡単な話ではない。そうこうしている内にレースを終えたナリタトップロードの姿は、幼いウマ娘たちの中に埋もれてしまった。

 

 そして、辺りが黄昏色に染まる頃──クラブのウマ娘たちは一通りのレースと練習を終えて先生に別れの挨拶をしている。母親か父親か、どちらでもいいが迎えに来た親と手を繋ぎ、今日の出来事を自慢げに語って帰路についている少女がほとんどだ。

 染み抜きを諦めた青年は、その仲睦まじい様子をぼんやりと眺める。そこで視線を逸らし、真っ赤に染まるコースをたった一人で駆ける少女を見つけた。

 

 

「よっしゃ」

 

 

 手を叩き、青年はまたもや駆け出す。親子にぶつからないように避け、仕切りを潜ってなにやら会話をしている二人の男性の前を抜けた。

 片方のハンチングを被った男が「おい!」と声を上げて手を伸ばすが、青年はそれを振り切って柵から身を乗り出した。

 

 

「──ナリタトップロード!!」

 

 

 知らない青年から突然名前を呼ばれ、ナリタトップロードはビクッと身体を震わせる。さっきまで悠長に話し込んでいた二人の男が慌てて駆け出し、青年の叫びに周りにいた者たちが珍奇な視線を向けた。

 恐る恐る青年を見たナリタトップロードは困惑した様子でいるが、青年は期待に満ちた羨望の眼差しを少女に向けていた。

 

 

「え、わ、わたし……?」

「そう! 君だよ君!!」

 

 

 柵を乗り越えようとする青年を、慌てて駆け寄って来た二人の男が捕まえる。ナリタトップロードが「お父さん!」と呼んでいるのを聞く限り、ハンチングを被った男かもう一人の紅い眼鏡を掛けた男性のどちらかがナリタトップロードの父親らしい。しかし青年にとってそこは重要ではない。

 

 

「ちょっと、離してくれって! 僕はあの子に用があるんだ!」

「なにを言っているんだ! お前を俺もトップロードも知らん!」

 

 

 必死にもがく青年だが大人の男に羽交い絞めにされて身動きができていない。その間にハンチングを被った男がナリタトップロードの手を取ってこの場から逃げ出そうとしていた。

 遠ざかっていく小さな背中に、青年は「ナリタトップロード!!」とその名を呼ぶ。だが、見ず知らずの青年の言うことなど聞くはずもない。少女はそれでも足を止め、僅かに振り返った。

 

 

「ちょっと待ってくれ! 話だけでも聞いてくれ!」

 

 

 なにかを訴える青年の叫びを聞いて、ナリタトップロードは不思議なものを感じた。

 羨望の眼差しは、今日行われたレースでみんなから向けられる期待よりも遥かに輝いているように見えた。

 

 

「いい加減にしろ! 沖田! はやく連れてけ!」

 

 

 沖田、と呼ばれた男はナリタトップロードの手を握ってまた歩み出す。遠退いていく二人の背中を見つめ、青年は身体が震え始めていた。

 乗り越えたはずの情景が脳裏に過る。眼鏡の男は抵抗をしなくなった青年を不思議に思い、腕の力を僅かに緩めた。

 青年は唇を噛み締め、顔を上げる。そして大きく吸い込んだ息をすべて吐き出すように叫んだ。

 

 

 

「──僕と一緒に頂点を目指さないか!!!!」

 

 

 

 その咆哮とも取れる懇願に、その場にいた者たち全員が困惑を示した。

 誰よりも驚愕していたのはそれを叫ばれたナリタトップロードだった。振り返って、肩を大きく上下させながら呼吸を荒くする青年を見つめた。

 

 

「頂点……」

「トゥインクル・シリーズの頂点、僕がガキの頃から掲げた夢を、君となら叶えられる──そんな気がしたんだ!」

 

 

 今日初めて出会ったにも関わらず、青年はそんな大言壮語を語る。周りから珍奇な目を向けられてもなお、青年はその思いを語るのを止めなかった。

 

 

「君の走りを見て感じたんだ。君となら、きっと超えられるって!」

 

 

 なぜそう思ったのかは青年本人にも分からない。だが、ナリタトップロードの走りを見て漠然とだがそう感じた。周りのウマ娘たちが解散して帰宅しているにも関わらず、少女はたった独りで努力を重ねていた。

 恐らく、毎日だ。

 

 

「なにを言ってるのか分からないかもしれない……けど、君の走りを見て確信した!」

 

 

 青年は顔を上げ、一気に男の腕を振り払うと柵から身を乗り出す。慌てて男が腕を伸ばすが、青年はバランスを崩して顔から地面へと真っ逆さまに落ちた。

 痛みによる逡巡すらも押し切って、青年は土に塗れた顔を上げた。

 

 

「誰かの期待に答えたい、皆の笑う顔がみたい──君は自分の為じゃなく、()()()()()()()()()()()()!!」

 

 

 誰かの期待に答えたい。そんな気持ちで誰よりも努力をしたからこそ、あの交流大会で一人抜きん出て勝利を収めることかできたのだ。

 青年は必死に訴える。まだ幼い少女に懇願する。その有様はあまりにも無様だ。それでも愚直ながらに真っ直ぐ見据えて、青年の瞳はあまりにも美しかった。

 

 

「──僕も、周りの皆を喜ばせられるようなレースを駆けたい。だから一緒に駆け抜けてくれないか?」

 

 

 頼む、と青年は頭を深々と下げる。ゆっくりと足音が遠退いて行くのが聞こえ、力なく地面に額をつける。大きく息を吐き、地面に付いた手で拳を強く握り締めた。

 

 

 ────この時、青年は賭けに負けた。

 

 

 痛いほどの沈黙が、心を締め付ける。ようやく見つけた光が、一気に暗黒へと呑み込まれていくような後悔。過去に思い知った誰かに捨てられる悔しさが、青年を蝕んで行った。

 唇を噛み締めた瞬間、そっと優しく肩に手を置かれた。

 

 顔を上げる。そこにはまだ幼い一人のウマ娘が青年を笑顔で見つめていた。

 黄昏色に染まった髪は、まるで小さな宝石群が付いているかのようにキラキラと煌めいて、宝石のような瞳が青年に柔らかく微笑みかけた。

 

 

「あのわたし、まだよく分かりませんけど、お兄さんの気持ちはすごく、すっごく分かりました」

 

 

 ナリタトップロードは柔らかく微笑んで、小さな手を青年に差し伸べる。青年は向けられたこともなかった少女の優しい表情に困惑した。

 彼女は「だから」と、咲き誇る花のような笑顔を浮かべた。

 

 

「──まずはお兄さんのこと、教えてください」

 

 

 それは、初めて向けられた笑顔だった。

 同情や、情け、偽善の微笑みなんかではない。正真正銘の優しさから来る温かい笑みだ。

 青年は大きく目を見開いて、思わず笑ってしまう。そして土の付いた手を払って、ナリタトップロードの小さく柔らかい手を取った。

 

 

 

 

 

 

 ◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 澄み渡った広い蒼のさらにその先で、眩い日差しが大地に降り注ぐ。生徒の喧騒が風に流れ、カーテンの隙間から吹き抜ける。小鳥の囀りが雑踏の喧騒に彩りを加え、質素なトレーナー室に席巻していた静謐を攫った。

 

 これと言って目立った物が置かれていないトレーナー室で、神妙な面持ちをした二人が対面して座っている。お互いにその表情を伺いながら、二人はどちらかが口を開くのを待った。

 だが、一人の少女が沈黙に耐え切れなかった。

 

 

「あ、あの……」

 

 

 換気していた窓の隙間から吹き抜けた風が、少女の髪を揺らした。

 僅かに乱れた髪を整える。触れた指の間に梳ける髪はさらさらで、きめ細やかな金砂のようだった。そこから覗く肌には荒れの一つとしてなく、彼女がいかに健康に気を付けているのかが理解できた。

 困惑の滲む眼差しを放つ紫黄水晶(アメトリン)の如き瞳は、対面に座っているトレーナーを映していた。

 

 

「と、トレーナーさん?」

 

 

 重苦しい空気に耐え切れなかった少女──ナリタトップロードは、腕を組むトレーナーの表情を見て記憶を巡らせる。知らぬ間になにかトレーナーを困らせていたのではないかと行動を振り返る。だが、数秒の思考の果てに導き出せた答えはなにもなかった。

 ナリタトップロードは瞳を閉じて「うーん」と唸った。

 彼を呼んでも反応はない。吹き抜けた風が二人の髪を揺らし、ナリタトップロードが目に掛かった前髪を抑えた直後──トレーナーはようやく口を開いた。

 

 

「トップロードさ」

「は、はい!」

 

 

 突然として発せられた自分の名前に、ナリタトップロードは思わず身体をビクッと強張らせる。反射的に返事をしたその声は、驚きで裏返ってしまっていた。それに対して、トレーナーの声色は僅かに怒りを滲ませているようだった。

 ナリタトップロードは固唾を飲んで彼の言葉を待つ。滅多に怒りを露わにしないトレーナーが、憤りを見せる理由(わけ)がまるで分らなかった。

 

 

「今日は朝からトレーナー室に来てもらった訳だけど、なんでか分かる?」

 

 

 昨日トレーナーからトレーニングの終わりに「明日の朝はどこにも寄らず真っ直ぐトレーナー室に来てほしい」とだけ告げられ、ナリタトップロードは朝練を始める前に取り敢えずトレーナー室を訪れた。

 同室のジャングルポケットからは、部屋を出る直前におかしな笑みで「楽しめよ」と言われたがその意味はまるで理解できなかった。

 

 

「えっと……皐月賞のことですか?」

 

 

 目一杯思考を巡らせて答えを絞り出した。

 それもあるね、とトレーナーは答える。そして脇に置かれた紙袋の中へと手を伸ばし、その奥を漁る。腕を動かす度に紙袋から音が鳴り、重苦しい程の空気が席巻する静寂には、その音すらも大きく響いていた。

 トレーナーは落ち着いた様子で溜め息を吐いた。

 

 

「今日はなんの日だと思う?」

「きょ、今日ですか……?」

 

 

 思考をフル回転で過去を巡るが、なにも思い当たらない。なにかトレーナーにとって大事な日であることを忘れているのか、いくら考えても記憶からそれを引き出すことはできなかった。

 肩を窄めて、ナリタトップロードは顔を伏せる。背中を丸めて小さくなりながら、声を震わせて「すいません……」と謝罪の言葉を漏らした。

 瞬間、トレーナーの動きが止まる。それに合わせてナリタトップロードも動きを硬直させた。

 

 

「まったく……」

 

 

 呆れを含んだ溜め息が、ナリタトップロードの心を強く締め付ける。膝に置いた拳に力が込められていき、大事なこと忘れてしまった自分を「バカ!」と罵りたくて仕方がなかった。

 トレーナーが紙袋からなにかを取り出す。怒られること覚悟したナリタトップロードが瞳を強く閉じた直後──トレーナーは囁いた。

 

 

「俺はちゃんと覚えてたのになぁ……」

「…………え?」

 

 

 疑問に思って顔を上げた瞬間──パンッ、と空気が弾けるような音が瞬いた。

 突然のことに「きゃっ」という可愛らしい悲鳴だ短く響き、ナリタトップロードは反射的に身を縮める。僅かな火薬の臭いに気が付き、ゆっくりと瞳を開くと、視界には色鮮やかな紙吹雪がゆらゆらと舞っていた。

 ナリタトップロードは眼前の景色に呆気に取られ、困惑の声を漏らしながらまばたきを数回繰り返した。

 

 きょとん、と音が鳴ったようだった。

 思考が完全に沈黙。重苦しかったはずの雰囲気を紙吹雪が彩り、たった一瞬の音が静謐を吹き飛ばしてしまっていた。

 目の前に状況を理解できずに口を開けたまま固まっているナリタトップロードは、説明を求めてトレーナーを見上げる。彼は満面の笑顔を浮かべて声を上げた。

 

 

 

 

「──誕生日、おめでとー!!」

 

 

 

 

 唐突に告げられた祝いの言葉に、ナリタトップロードは「へ……?」と間の抜けた声を漏らす。するとトレーナーは揶揄うようにナリタトップロードの表情を真似た。

 

 

「へ、じゃないよ」

「誕生、日……私の……?」

「そ、今日は君の誕生日だよ。気付いてなかったのー?」

 

 

 改めて告げられ、カレンダーに目を向けた。

 四月四日。邂逅と別離の季節。春風に乗った桜が舞い踊って、世界を恋色に染め上げる。そんな過去への別れと、未来への希望を抱く季節での小さなお祝い事。トレーナーはこの時を待ち望んでいた。

 アドマイヤベガやライスシャワー、カレンチャンなどのウマ娘たちに誕生日プレゼントの候補を聞いて周り、自分で試行錯誤を重ねながら迎えたのが今日であった。

 

 

「そっか……私の誕生日……」

「そ、俺が一番最初に祝いたかったんだ」

 

 

 笑って、トレーナーは紙袋から取り出したものをナリタトップロードに向けて差し出す。彼女は未だ呆気に取られている様子でそれを受け取った。

 柔らかな布の感触。渡されたものは、綺麗に編み込まれた一つのマフラーだった。

 

 

「あ、ありがとう、ございます……」

「あれ、嬉しくなかった?」

 

 

 思っていた反応と違い、トレーナーは悲し気な表情を滲ませながら首を傾げる。だがナリタトップロードは直ぐに慌てて首を振って否定した。

 手に持ったマフラーで表情を覆い隠しながら、篭った声で答えた。

 

 

「そ、その、いきなりのことだったので……」

「あー、そういうことね」

 

 

 顔をマフラーで隠すナリタトップロードを見つめて、トレーナーは苦笑しながら「どうして顔を隠してるの?」と疑問を向ける。彼女は顔を埋めたまま笑いを溢す──その声は、微かに震えていた。

 

 

「えへへ……すごく嬉しくて、思わず……」

「えー? 泣いてるのー?」

 

 

 揶揄いの混じった笑いに、ナリタトップロードは「だってぇ……」と子供のような言い訳を呟く。喜色のあまりに溢れた想いが、徐々にマフラーに染み込んでいき、溶けたその雫の跡がとても温かかった。

 

 

「大袈裟だよ」

「うぅ……本当に、嬉しくて……」

「ほら、ちょっと貸して?」

 

 

 トレーナーが手を差し出してマフラーを渡すよう促すが、ナリタトップロードはふるふると首を振って拒否。「イヤです……」と口にも出したが、彼は苦笑を浮かべながら腰に手を当てた。

 

 

「どうして?」

「だ、だって、泣いてるところ、見られたくないので……」

 

 

 今更なにを言っているのやら──トレーナーはそんなことを思ったが、敢えて口には出さなかった。

 再度「はい、貸して」と手を伸ばすが、ナリタトップロードは首を振る。これでは埒が明かないことを察して、彼女の手から問答無用でマフラーを取り上げた。

 

 顔を隠すものが失われ、ナリタトップロードから「あっ」と声を漏れる。慌てて手を伸ばすが、それは虚しく空を切ってマフラーはトレーナーの手に渡ってしまった。

 

 

「ぷっ」

 

 

 ナリタトップロードの顔が露わとなり、トレーナーは彼女をみるや思わず吹き出した。

 

 

「そんなに泣いてたの!?」

 

 

 目尻から頬にかけて流れるはずの涙が、マフラーで隠していた所為なのか顔全体に広がっていて、表情はぐしゃぐしゃに乱れている。鼻は赤く、目尻にはまだ大粒の雫が溜まっていた。

 

 

「うぅ、酷いですトレーナーさん!」

「ごめんごめん、ほら可愛い顔が台無しだよ」

「可愛くなんて……」

「はいはい、じっとして」

 

 

 頬を膨らませるナリタトップロードを宥めながら、トレーナーは絆創膏の貼られた親指で彼女の目尻に溜まった大粒の涙を拭う。そして手に持ったマフラーを広げ、ゆっくりと彼女の首に巻き始めた。

 僅かに憤慨するナリタトップロードだったが、トレーナーに言われた通りにマフラーが巻き終わるまで大人しくじっと待っていた。

 

 

「よしできた。少し季節外れだけど」

 

 

 トレーナーは一歩下がって「うん、いいね!」と何度も頷く。ナリタトップロードはトレーナーからの絶賛を受けて、喜びの感情と同時にさっきの泣き顔を見られたことによる羞恥心を抱いていた。

 

 

「我ながら最高のチョイスだね」

 

 

 自画自賛するトレーナー。ナリタトップロードは首に巻かれたマフラーに触れて、口元を隠しながら微笑む。柔らかな感触と暖かな温もりが蝟集して首を包み込み、その温かさがマフラー特有のものなのか、トレーナーが持っていたからなのかは分からない。

 だが、この季節には些か温かさ過ぎる気がした。

 

 

「いやあ、色んな娘に聞いて周ったけど、やっぱり自分で決めたものを渡したくてさ。結構不安だったんだよね」

「そう、だったんですか……?」

 

 

 トレーナーは照れ臭そうに「うん」と笑う。窓際までゆっくりと歩み寄っていき、縁に腰を下ろした。

 生徒たちの喧騒を横目に世界をくり抜いた小さな青空を見上げ、トレーナーは語った。

 

 

「女の子にプレゼントなんて渡したことなかったから。もし喜んでくれなかったらどうしよって。まあ、君に限って喜んでくれないなんてことはないと思ってたけど、やっぱり頭の片隅に不安は残っちゃってさ」

 

 

 自分の弱さを空笑いで誤魔化しながら、トレーナーは頬を掻く。そんなこと杞憂でしかないのに、不安を抱いてしまう──そんな彼を愛おしく想って、ナリタトップロードは微笑みをマフラーで隠した。

 

 

「えへへ……」

 

 

 首に巻かれたマフラーへ視線を落とし、ナリタトップロードはトレーナーにも聞こえない声で喜色を漏らす。窓の外をぼんやりと眺めるトレーナーを一瞥して「よし」と拳を握り締めた。

 

 

「これで皐月賞も頑張れます」

「そっか、それなら良かった」

 

 

 ナリタトップロードの言葉に、トレーナーは首を傾けて微笑んだ。

 目指すはトゥインクル・シリーズの頂点。その一冠が二週間後に行われる皐月賞だ。

 小さい頃からトレーナーと掲げて来た夢を叶える為に、ナリタトップロードはより一層気合を入れて強く頷いた。

 

 まだまだ未熟な自分を大切にしてくれる人がここにいる──それを実感して、この人をトレーナーにして良かったと心から思った。

 

 

「私には、勿体無いくらい……」

 

 

 マフラーで笑みを隠しながら、熱くなった身体から息を吐く。そして誕生日プレゼントと日頃の感謝を告げる為に、一旦この火照る心を落ち着かせてからゆっくりと口を開いた。

 

 

 

「ありがとうございます、トレーナーさ──」

 

 

 

 ────ん。

 残り一秒にも満たない音。最後の一文字を声にして繋ぐ瞬間、窓から風が吹き抜ける。顔を上げたナリタトップロードの視界を前髪が邪魔して、それを抑えた刹那──トレーナーの身体が()()()と揺れてバランスを失った。

 

 ナリタトップロードの瞳が大きく見開かれる。時を攫う春疾風によって桜が室内に舞い込み、それがスローモーションで視界に映じた。

 力なく倒れていくトレーナーの姿は舞った桜の花びらに誘われるかのようで、手前に設置された作業机の奥に消える──直後に、()()()と土嚢を叩きつけたかのような鈍い音が、狭い一室に戦慄いた。

 その音の正体を理解するのは簡単だった。

 

 

「────っ!?」

 

 

 声を荒げながら慌てて駆け寄る。作業机の陰に隠れて受け身も取れず、無造作に倒れてしまったトレーナーの顔は真っ青だった。

 肩で荒く息をする彼は胸──心臓の辺りを強く抑えている。そのあまりに信じ難い現実を理解できず、ナリタトップロードは数秒後に声を荒げた。

 

 

「──トレーナーさんっ!?」

 

 

 ナリタトップロードの叫びが、空を彩る桜に混じって雑踏の喧騒と共に消えていく。それは倒れ伏した彼に届くことはなく、ただただ独り残された少女の慟哭が空しく響いていた。

 

 

 

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