今回はなだらかなイメージです。
草木も眠る丑三つ時と人はよく言う午前2時。
そんな時間帯に俺は外に出る。
「…寒っ」
口に出してしまうぐらいには外は寒々しくて、行き交う人すらも見かけない。
喧騒がない街中はこんなにも落ち着くものかと、安堵した。
「こんばんは、松くん」
「…よぉ」
しばらく歩くと目的地に着いた。
まばらな灯りの中で、先にその場にいた彼女は俺に気付いたようで声をかけてくる。
それに対して俺は手にしていたビニール袋を掲げ、応じた。
「…寒くないのか?その格好」
「んー。寒いよ、すごく寒い!」
まず目に入ったのはその服装。
特にこの寒風が直撃するであろうショートパンツを履いていること事態が気が知れない。
決して変態的な意味合いではなく、純粋に心配でしかない。
「体冷やすなんてもってのほかじゃないか」
「えー、松くんのその返しやだ…みんなこんな感じだよ?」
ぷっくりと頬を餅のように膨らます彼女。
男と女では考え方が違うから、彼女の気に召す回答ではなかったようだ。
「心配だ、と言っている」
「そう思うなら最初からそう言ってってば。ほーんと松くんって遠回しな言い方ばっかり!」
「少しばかり冗長な方がいいのさ」
「それって何に影響されたのぉ…」
困惑した顔をこちらに向けてくる彼女…名前は杏子と言う。
「松くんは今の生活どう?」
「まぁまぁだな。想像してたより悪くない」
「なんか含みあるなぁ~?…あぁ、かわいい女の子とか知り合ったんでしょ?」
「んなことないさ。結局毎日バイトしてるぐらいなもんだ」
俺はビニール袋から馴染みのある缶を取り出して、呷る。
じゅわりと、喉が一瞬焼き付いて胃に落ちていく感覚。
その隣で杏子は両の手のひらで自らの顔を挟みながら俺を見ていた。
「飲みたいのか?」
「んーん、いらない。だって
「…そうだったな」
飲み終わると、変わらず真っ黒に塗りつぶされた水辺が静かな音を立てている。
停泊する船舶のライトが水面に反射して、不規則に揺れていた。
周囲の不気味なほどの静けさが、俺と杏子の存在を引き立たせているのだ。
「ねぇ、今日はデートしてくれるんでしょ?エスコート、期待してるよ」
「始まりの場所がこんな場所でも期待してるのか?」
「えー、私ここ好きだけどな。だって私たち以外、誰もいないし。例えるなら疑似的な世界に二人きり…みたいな」
「息苦しくなければいい」
杏子はこちらを流し目で伺いつつ、軽やかなステップを踏む。
くるくるくると、まるでバレリーナのように。
「だって素敵じゃない?世界に二人きりだけって。密かに憧れている人いると思う」
「夢想的だな。けれどその考えを否定するほどの熱量もない」
「本当は?」
「嫌ではない、と言っている」
呆れのニュアンスを含む視線をこちらに投げ掛けてくる杏子。
ふと腕時計を見ると数十分ほどしか経っていなかった。
杏子はまだひらひらと、腕と足を舞わせている。
その様子に、俺は白蝶を想起させる。
周囲の闇夜の中、身一つで舞い踊る。
ただそれだけで杏子の美しさは証明されていた。
ちゃぷちゃぷと揺れる小波を背景音楽に、時間にすれば数分ほど経った。
杏子は息一つ乱れることもなく、幕を引いた。
「どう?感想は」
「…昔見た蝶のようだった」
「それって綺麗ってこと?」
「そうだ…」
「…そっか」
なんか嬉しいなと杏子の声はより優しくなった。
「あー、あれもこれも!…見覚えあるなぁ」
「久々に見た景色はどうだ?」
港から街中に向けて二人で静けさが漂う道を歩いていく。
その中で信号だけが規則的に明滅していく。
日中嫌というほど密集している車も、今ではその概念がなくなったかのように存在していなかった。
「えっへっへ~」
「楽しそうだな」
「そりゃあ、もうね?こんな時間に出歩くなんて普通なかったもの」
杏子の足取りは軽く、機嫌は上々のようだ。
…おいおい、赤信号なのに横断歩道渡るなよ。
「ねー、松くん!」
「なんだ」
「松くんは、今幸せ?」
横断歩道を渡った杏子が車道を挟んだ場所から手をメガホンのようにしてこちらに話しかけてくる。
その様子があまりにも瑞々しくて、俺は思わず微笑を浮かべた。
「そうだな…寒さを忘れるぐらいにはな」
「また出た!幸せなら幸せって言葉にした方が絶対良いよ!」
「あぁ、そうだな…」
思わず目頭を摘み、空を見上げると星の瞬きがそこにはあった。
星の下の地上には今、俺たち二人だけと錯覚するほどの静寂。
…杏子には言わないが、俺は「幸せ」を口に出すと壊れた時に辛いと感じてしまうのだ。
けれど、杏子のように考えられることが羨ましくもある。
「あ。この公園…遊具なくなっちゃったんだ」
「あぁ。危険だからだと。公園のはずなのにな」
「もうただの広場じゃない?…あ、ベンチはあるんだ。ねぇ、ちょっと座っていこうよ」
「…したいようにしよう。まだ時間はあるから」
いつからか遊具が撤去された広場となりつつある公園の中に入り、ベンチにかける。
当然深夜のため、子どもたちもおらず鳥の囀ずりすらもない。
日中とは違う妖しい夜景色は、俺たちを外界から覆い隠す。
「本当に変わっていくね、この街も」
「そうだな。人の流れだってある。最近はファミリー層が多く移住してきているって話だ」
「子どもかぁ…」
顎に手を当てて考え込む姿勢をとる杏子。
それから数分、熟考を重ねたであろう杏子が口を開く。
「松くんとの子どもだったらきっとかわいいよね」
「まぁ俺の遺伝子が薄ければな」
「そんなに自分のこと卑下しないでよ~!…絶対かわいいよ!
お休みの日は子どもとボール遊びとかしたりしてさ」
未明を少し過ぎた空の下、杏子の微笑みを受けて想像を膨らます。
柔らかな陽射しの中、杏子の面影を見せる我が子がこちらに駆け寄ってくる。
それを俺は割れ物を扱うように大切に迎え入れ、すぐ傍には苦楽を共にして我が子を育て上げた妻である杏子が日傘を差しながら微笑んでいて。
誰もが想像しやすく、分かりやすい「幸せの形」。
…今はそれが、どれだけ難しくあれふれたものではないかを痛感する。
「想像した?」
「…あぁ。夢見心地だった。」
俺の様子を見て、杏子は満足げににんまりとしていた。
そんなところも愛おしい。
「こうやって二人でベンチに座ってると、昔のことを思いだしちゃうなぁ~」
「…そうだな。…色々あったな」
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私はきっと幸せだった。
愛情を注いでくれる両親がいて、仲良くしてくれる友達がいて。
…何より私を想ってくれている幼馴染みがいて。
私自身が祝福された存在だと、疑わなかった。
…そんなことを考えていた時もあった。
虚無と恐れが滲み出た病室で、磔のようにされて臥す私は、生き存えることに必死だった。
「…苦しい」
薬の副作用で幾度とない嘔吐を繰り返し、絶え間ない気分の変調は、私の身体と精神を容易く蝕んだ。
日々痩せ細った身体はまるで私でない誰かに置き換わっていくような感覚。
「辛いよ」
…毎日、夜が怖い。
ひっそり、誰にも看取られず死んでしまう幻想。
暗黒に一人立ち竦む私がそこにいて、誰もそこには入ることはできない。
「なんで私なのかなぁ…」
弱れば弱るほど他者への羨望が強くなる。
私を対象にしなければいけない理由がなんだったのか。
悪いことしてる人なんてこの世の中にごまんといるのに…
でも、今日は松くんが来るんだから。
少しでも元気な姿を見せたい。
優しい松くんはきっと心配しちゃうから。
松くんが褒めてくれた髪も、治療で失ってしまった。
残酷なものだと思う。正直ウィッグを被るまでは見てほしくなかった。
好きな人に弱いところ、見られたくなかったから。
そんなことを考えていると、事前に知らされていた面会時間近くになる。
ドキドキして、心拍数が跳ね上がってきている。
「…よぉ」
「松くん。来てくれたんだ」
思わず顔が綻んでいるのがわかる。
最近、私の病状が安定してなくて久しぶりに顔を合わせることができたから。
「…学校はどうかな?ちゃんと勉強してる?」
「してるさ。…杏子に教えることができるぐらいには真面目に復習もしてる」
「…そうなんだ。今度一緒に勉強、してね?」
「…おう」
どことなく伏し目がちな松くんだけれど、その言葉の一つ一つは力強かった。
ありきたりだけれど、このまま時間が止まってしまえば良いと思った。
…けれど、刻一刻とわずかな面会時間は消費されていく。
だから温もりが欲しかった。
好きな人の温かさが、私に希望を持たせてくれる。
「…ねぇ、手、握ってもいいかな」
「…あぁ」
松くんがおずおずと差し出す手の上に弱々しい私の手を重ねる。
…まじまじと見ると本当に差があって、違いがよくわかってしまう。
きっと、松くんのこの手は私じゃなくて、これから先私の知らない誰かを幸せにするための手なんだって。
言うとしたら、丘の上に育った逞しい幹に今にも落ちそうな葉が垂れ下がっているだけなのだと。
それは近い内に風で吹き飛び、幹とは離れてしまう。
そんなことを想像していると、目頭が熱くなって涙がこぼれてくる。
泣いたって松くんが困るだけなのに。
私はなにも松くんに返すことができないのに。
無力感とやるせなさに、松くんの手の温もりがより一層現実を強く感じさせる。
「…ごめんね、ありがとう。もういいよ」
私の身体は相当悪いものに巣くわれたらしい。
松くんと一緒に歩いていけないんだ。
だから、私に縛られないでね。
「…まだ、時間はある。ギリギリまでこうしていたい。…ダメか?」
ダメだよ。ダメ…
そんなに優しくしないで。
諦められなくなる。生きるのを、松くんとの未来を…
こちらに向けられる視線は真剣そのもので、憐れみとかそういったものを感じない。
どこまでも真っ直ぐだった。
「ダメだけど…ダメ、じゃない…」
否定のようで肯定のような。
曖昧な言葉で伝える私の意地の悪い回答に、松くんは頷いて握っていた手をより強くした。
それと同時に、私の眼から涙が伝っていく。
嬉しいも悲しいも、色々ありすぎて感情の制御が効かない。
「ねぇ、松くん」
「…どうした」
「私、もっともっと思い出が欲しい。夜の水辺を二人で歩いたりとか、公園でアイスを分けっこしたりとか。…まだ、生きたいよ…」
「…絶対、行こう。大丈夫…俺はいつまでも待ってる。杏子が笑顔を見せる日を、ずっと」
松くん。
言葉は力強いのに、こんなにも哀しい顔をしている。
私の手を力強く握っているのに、その手は震えている。
私はとっても残酷なことをしているんだね。
きっと本当に善い人なら、私を忘れてって突き放せると思う。
だけど、私は違った。
汚くて穢れた未練を、未来がある松くんに背負わした。
私という十字架はただの重荷でしかない。
許してとはもう言えないけれど、できるなら笑っていたかった。
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杏子は数ヶ月後、命を全うした。
その話を聞いた時は、当たり前だが呆然とした。
高校では集会が開かれ、耳障りのいい校長の話が耳に入ってくる。
法要も行われた。
高校の同級生たちも会場に詰めかける中で、柩の小窓から杏子の顔を見る。
一目見た限りでは安らかな顔だった。
けれども、俺はこれまでに至る杏子の苦痛や寂しさを理解することも、代わることもできなかった。
この安らかな顔の裏にどれだけの懊悩があったのか。
俺に知る術はもうなかった。
いまだに杏子との病室での会話や温もりを思い出す。
人生がこんな理不尽でできていることなんて、知るには早すぎるのだろうと思う。
あぁ、俺は杏子のことが好きだった。
昔からそうだった。
内に籠る俺を、杏子は明るく手を引いてくれた。
誰にも取られたくなくて、ずっと近くにいた。
見ようによっては、好きというよりも執着が勝っていたのかもしれない。
それだけ魅力的だったから、多くの人々の記憶に残っている。
俺の知らない人々が、杏子との別れに涙を流し、言葉をかけている。
横たわる杏子の傍に白ユリが捧げられていく。
美しい純白が包み込んでいくなかで、いまだに杏子の死を諦めきれない俺がいた。
そして、決して持つことを許されないであろう考えが、俺の中に芽生えた。
それは、杏子が誰にも奪われず美しいまま旅立つということ。
だから俺は許されざる安堵を覚えている。
杏子の記憶は多くの人々に刻まれていても、日々が経つにつれ悪気なく薄れていく。
それは当然のことだが、俺は誓う。
俺がこの命を全うするまで、杏子に操を捧げることを。
もう、俺が恋することはないのだから。
だから、杏子。
顔が見たいよ。名前を呼んでくれよ。
俺、どうやって生きていけばいい?
わからないんだ。教えてくれよ。
…あと一度でもいいから、松くんって呼んでくれ…
頼むよ、俺の寿命…いくらでも持っていっていいからさ…
「…神様…」
まろびでた言葉に、ふと自嘲を浮かべる。
ここで救われるぐらい都合が良ければ、杏子だって生き長らえただろうから。
そんなことを胸に抱きながら、やがて杏子の肉体は煙となり、空へ還っていった。
それを虚ろに眺めるぐらいにしか、俺にできることはなかった。
そうして月日は閃光のように流れていく。
多くの人が黄金のように輝く日々を過ごす高校生活は、俺にとっては単調で起伏のない平坦な道にしか感じなかった。
俺の想像どおり、杏子の存在は皆の記憶から泡のように弾けていき、それぞれの人生を歩みだしている。
そんな中で最近、当て所なく夜の街をふらついていると、
人影のようなものを見かけるようになった。
最奥の路地裏、静まり返った無人の喫煙所。
実在する人がいるわけでもないのに、気配がするようになった。
もともとそういったものを感じ取る体質でもなかったのに、急激にそうなっていった。
未練なのか怨恨なのか。
現世に魂が残っているというのは、とどのつまり成仏することはできていないのだろう。
慣れとは恐ろしく、最初は戸惑いが強かったものの、今では生活の一部のようなものになった。
あぁ、いるなとしか。
別に危害を加えてくるようなものに出会ったこともないから。
ただ、その背景について考えてしまう。
道半ばで果てて、けれどそれに納得しきれなくて。
肉体が無くなっても彷徨い続ける哀しき心魂。
加えてこの体質になった意味も考える。
意地の悪い神様が、俺という存在で悪ふざけをしているのか。
…それとも、何かを為せという意思表示なのか。
答えのない自問自答をしている内に、足踏みを許さないと言わんばかりに時は進む。
気がつけば空虚に過ごした高校を卒業するまでに至った。
当日、新たな門出を祝い涙を流す卒業生たち。
親交があったであろう在校生たちがそれを取り巻いている。
それに対して、俺はなんの感情も抱くことができなかった。
ただ一つ、思うことがあるとすれば。
杏子が生きていれば、隣で卒業を祝えたのかということ。
一緒に写真を撮って、思い出の一ページとして刻めたのかということ。
校門に立て掛けられた看板の隣で、代わる代わる卒業生が写真を撮っていく。
相手は親、友人、そして恋人。
それが尊くて、美しいからこそ…この時が永遠であることを錯覚させるのだろう。
幸せの渦の中で、場違いにも俺の心の中は冷めきっていた。
永続する幸福などない。
いつかは別れが来て、それがどんなに劇的なものであっても喪失感となって終わる。
この感傷を少しでも紛らわしたくて、校内を彷徨う。
日常となっていた通路や教室でさえも、明日からは訪れることはなくなる。
高校そのものはどうでもよいが、杏子との輝かしい日々を夢想することだけは惨めたらしくしてしまう。
あまりにも見慣れてしまった階段を下りてゆくと、
「松くん」
後ろから愛らしい声がしたような気がして、勢いよく振り向く。
…誰もいない。
幻聴なのかもしれないが、もし…杏子がいるのであれば。
気がつけば階段を駆け上がっていた。
杏子。いるのか。
教えてくれ。俺の名前を呼んだんじゃないのか。
次第に息が荒くなり、自分がどこに向かってるのさえわからなくなる。
すれ違う他の生徒には怪訝な顔を向けられ、けれども足を止めることはできない。
そうやって生きてきたから。
俺にとって杏子が全てなのだから。
周りは卒業というステップを踏み、涙と笑顔で巣だっていくのに、俺は杏子という存在から卒業することはできない。
「はぁ…はぁ…はぁ…」
力尽きるまで走り回ったが、杏子を見つけることはできない。
幻聴、幻覚。
そんな言葉が頭の中を駆け巡る。
…最近霊的なものが見えるからか、本当に頭が狂ってしまったのかとも思う。
声が聞きたい。
…叶わない。
姿が見たい。
…より叶わない。
結ばれたい。
…絶対叶わない!!
生きてんだか死んでんだか、わからない。
最近考えていた。俺は、いつの間にか現実と夢の境目に落ちていると。
限界まで走ったからか酸っぱいものが込み上げて、やがて嗚咽する。
「えぐっ…オエッッ」
汚くて穢らわしいものを床に吐き出し、その場に崩れ落ちる。
皮肉なことに、このどうしようもない状況が現実であることを突きつけてくる。
もうすぐ卒業式が始まるだろう。
だけど、もうどうでもいい。
杏子がいない世界で、これ以上もがき苦しみたくない…
ただそれだけだった。
そうして俺は一人暮らしを始めた。
様子のおかしい俺を、親はどう扱えばいいのかもわからない様子だったが、幸いにも大学進学を機に一人暮らしを提案されたのだ。
俺自身もそれを望んでいたから、都合が良かった。
一人でいれば、どれだけ自分を痛めつけようと、蔑もうと、誰にもなにも言われない。
大学には行かず、最低限の日雇いアルバイトだけをして安値のアパートの中で堕落した生活をしていた。
ここ数日、腹になにも入れていないし、風呂にも入っていないからすえた匂いが部屋内に充満している。
トイレも面倒臭くて、ペットボトルやオムツを使ってすます。
こんなもの、死んでいると同義だと思う。
なのに、自分で命を絶つことだけはできなかった。
…それだけは、できなかった。
だって、杏子は生きたかっただろうから。
大多数の人間が送る普通の日々を、幸福な日々として夢見ていたのだから。
だから俺は自らの命だけは手放さない。
俺が自死することは、杏子への冒涜でしかないから。
だけど、それだけなんだ。
その思いだけがかろうじて生きていく糧なんだ…。
どうすればいいのかもわからない。
何をすればいいのかもわからない。
答えの見つからない自問自答が俺の首をじわじわと絞めていき、やがて意識の外に誘われる。
「松くん、元気にしてる?」
俺はまぶたを擦りながら、そして次第に飛び退く。
そこには以前の、いやより綺麗な杏子がいた。
声を出そうとしたけれど、ぱくぱくと口が動くだけで声帯が空回りしている。
「すっごい驚き方してるね?…まぁ、もういないはずの幼馴染が目の前にいればね」
苦笑いを浮かべる杏子の前で、自分の頬をつねる。
…
となると現実ではない。
でも夢でもなんでも構わない!
また会えたならなんだって!
俺は杏子の方へよろよろと歩み寄っていくが、ゆっくりと手で制されてしまう。
「残念だけど今はダメ。…まだ不安定だからね。もし、もしだけど松くんがまだ私と会いたいと思ってくれるなら、明日、深夜2時の港で待ってるね」
「ごめんね、面倒くさくて。…私は、松くんと会いたいと思ってるよ」
手を伸ばそうとすると、そこにいたはずの杏子は消え去ってしまった。
まるで、最初から存在していなかったように跡形もなく。
「いかないでくれ…お願いだ…ハッ」
目が覚めるとカーテンのわずかな隙間から差す陽の光で、夜が明けたことがわかる。
望んでいた夢からどん底の現実への切り替わりに、幾分か正気に戻ってしまう。
「オエッ…臭っせぇ」
今にも吐き散らかしそうな体調の中で、夢の中の杏子が言っていた「明日、深夜2時に港」が頭にしっかりと残されていた。
「明日って、今日のことか…?」
どちらにせよこんな醜い格好を杏子に見せるわけには行かない。
色々汚い物を片して、風呂でこびりついた垢を落として、コンビニでメシ買って…
…急に体が軽くなっていく。
実に突拍子もなくて、非現実的な話でしかないのに胸が躍っている。
これが神様の気まぐれなのかはわからないが、この機会を逃したらもう二度とこんなチャンスはない気がして。
腹を膨らますためだけに買ったカップ麺がやけに美味く感じて、生を感じる。
ここ数年は、生きるためだけに食べていたから味なんてなにも感じなかったのに。
人間というのは、かくもこんな単純なものなんだろうか。
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「まぁ、こんな感じだった。流石に引くだろ?」
気がつけば杏子が死んだ後のことを滔々と語りつくした。
横を向くと、杏子はなんとも言えない顔をしながらこちらを向いていた。
「んー、何て言えばいいんだろ…まずは本当にごめんなさいかな。…辛かったよね。苦しかったよね。全部全部、私のせいで、松くんの人生を変えてしまったんだから」
杏子が近くに寄ってくる。
…傍にいるのに、実体が無いので俺の体に触れることができない。
なんともどかしいことか。
自ら選択したとはいえ、あまりにも残酷すぎると思う。
俺達は、神様のマリオネットに過ぎないとでもいうのだろうか。
「だけどね…嬉しかったんだ。もう無いはずの心臓が沸騰しそうなぐらい落ち着かなくて、でも本当に来てくれるのかとも思ったり。…あはは、死んじゃっても松くんのことばかり考えてて、恋してる」
杏子の素直な心情の吐露は、確かな熱を帯びていた。
その言葉の重みは、生者と何ら変わりない。
「…重たくて、ごめんね。…なんか謝ってばかりで、それもごめん。でも伝えたかったんだ」
「何を?」
「私を苦しむぐらいに想ってくれたこと。約束、守ってくれたこと。…嬉しかったんだぁ…流石に実体がないからアイスは食べれなかったけどね。それでも私が望んだデートができたんだからさ」
「…杏子」
気がつけば空がふんわりと白み始めている。
反して俺達を覆い隠していた真っ黒な帳が薄まっていく。
「だから、最期はハッピーエンドで終われるの。…私、もう永くはいられないみたい」
「…え?」
空が白み始めているのと同時に、俺の視界に映る杏子は薄く透け始めているように見える。
待ってくれ。
また会えたばかりじゃないか。
行かないでくれ!!
「こういうのって、なんて言えばいいんだろうね。やっぱりわからないなぁ…」
涙が頬を伝って、乾ききった土に落ちていく。
数年の別離に耐えきれなかった俺なのに、より長い年月を杏子なしで過ごすなんて、無理だ。
まごつく俺の心境を他所に、杏子はみるみる薄くなってゆく。
「松くん。私は松くんから大きな幸せをもらってばかりだった。…だから、私はもう大丈夫。だから、松くんが生きている間は
「…杏子」
「自分が消えていくのが…わかるんだ。次はないだろうなって。それでも、奇跡を信じている。今日という最高の日に出会えたんだから…」
杏子の下半身は粒子のようなものとなって風に流されていく。
新たな離別の瞬間が、刻一刻と近づいていた。
「待ってくれ…頼む!待ってくれ…!!」
必死に粒子となってゆく杏子の姿を逃すまいとするが、その手は空を切り触れることすらできない。
遂には上半身すら薄くなってゆく杏子は、俺を包み込むような表情を浮かべていた。
その顔を見て、決意が固まった。
「これだけは言わせてくれ!精一杯生き抜いて、杏子に胸を張って会ってみせるから…」
「…私…も、大好き…待っ…てる…ね」
杏子は遂には事切れるように風に吹かれ溶け込んでいった。
夢のような時間だった。
…夢だったのかもしれない。
ただそれにしては、夜明けの昇日が美しすぎたのと、両の眼から流れ出る涙が現実であることを示していた。
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意識は朦朧とし、乳白色の天井も見飽きた。
目はひどく霞み、管を通された体は動かすことすら満足にできない。
(…もう、長くはない)
自らの死期を悟るのはそう難しくなかった。
あの日から精一杯生きてきた。
懸命に働き、迷惑をかけた両親に対して罪滅ぼしをして。
気の合う仲間が出来て、安穏とした日々を送った。
だけど、やはり最期まで俺の心には杏子がいた。
ひとえに杏子との約束を守るために。
命の間際で、もう一度…奇跡を呼び起こすために。
あの時から随分と体は萎れ、みすぼらしくなった。
だから、魂だけ傍で寄り添わせてくれ。
「…長い人生、お疲れ様。松くん。随分大人になったんだね」
(ああ…)
「…私たち、本当に遠回りしたんだね。これからは、ずうっと一緒になれるよ」
(よかった…)
気がつけば安堵の涙を流していた。
生涯をかけた奇跡を呼び起こすことができたから。
これで、俺個人の物語は最期を迎えることができる。
どこまでも一途な気持ちを燃やして走った結果は、この上ない形で幕を閉じれるのだ。
永続的ハッピーエンド!