私には人間としての希望がない。
容姿もそこまで良くないし、空気を読むのが苦手で。
運動神経は神経が通っているのかどうかも怪しいレベルです。
多くの学生が打ち込んでいる部活動にも縁がありません。
そんな私ですから、昔から扱いは良くて透明人間、悪ければ小突かれ。
…最悪の場合は虐められる次第でした。
でも、突然希望が降ってきたのです。
…いや、たまたま転がってきたという形でしょうか。
ある日、私は学校の図書室にて本を読んでいました。
小難しい昔の文豪が書き記した小説は気取っていると思われるのが嫌なので、ジュブナイル小説を読んでいるのです。
ふと、前に知っている人物が椅子を引きハードカバーを机にやさしく置きました。
…知っているとは言っても、私が一方的に認識しているだけなので、知己でもなんでもないのですが。
目の前にいる彼女…越ヶ谷さんはこの学園の誇る才女ですので、孤立しがちな私でも彼女の話題が耳に入ってくるのです。
なんでも所属している演劇部では主演をよく務めているとか。
なによりその伏し目がちに本を読む光景は、ドラマのワンシーンを切り取ったようなものであり。
この神々しい美しさは、一介の高校生には出しがたいものだと思うのです。
「………?」
ふと、目線を上げた彼女の視線と私の視線が交錯しました。
長い睫毛に透き通った鼻。控えめながらも主張している唇は健康的な桜色を模しており、その姿は精巧に造られた彫刻のようで。
知らず知らずの内に、読んでいた小説よりも彼女の読書姿に目を奪われていました。
「いえ、その…失礼しました」
バツが悪い。大切な読書の時間を私ごときに邪魔されるなど、気分が悪いものだったのでしょう。
私は直ぐに目線を本に向け、彼女に視線を合わせないようにしました。
「…気になったの?」
場所に合わせた小さな問いかけは、私に向けられたものだと認識するのに数コンマ必要でした。
改めて彼女の目を見やると、そこに嫌悪の念は無く、ただただ優しいもので。
「ええ…まぁ、越ヶ谷さんがどんな本を読んでいるのかと」
私はズレかけた眼鏡を直し、問いかけに答えます。
「ふふ。これだよ。演劇をモチーフにしてる小説」
彼女は薄い笑みを浮かべながらさらに私の問いかけに答えました。
「そう、だったんですか…てっきり、海外文学か何かを読んでいるのかと」
「私にそんなイメージあったんだ。ちょっと意外かも」
彼女との会話は望外の心地良さであり、私という乾いた大地に潤いをもたらしていきました。
「ええ、いや、演劇をされていると聞いたことがあるので、原書でも読まれているのかと…」
「…演劇、興味あるの?」
「え、いやそういうわけでは…」
越ヶ谷さんの目がキュッと鋭くなったのが如実にわかり、私は知らずの内に地雷を踏んでしまったのかと思い、わたわたとしていると、ちょうど予鈴が校内に響き渡り始めました。
「時間だね」
「そうですね…」
日頃から閑静な図書室は、数少ない利用者の席を立つ音でも耳に障ります。
私たちの会話も周りにとっては少なくとも愉快なものではないでしょう。
越ヶ谷さんは閉じた本を持ち、音を立てないように椅子を引いて立ち上がりました。
所作の一つ一つに気品を漂わせるそれは、彼女を形作るキャラクターに合っているなと思いました。
「ねぇ、もしよかったら…今度私が主演を務める公演、見に来てくれない?」
「…はい?」
「公演のチラシは校内に貼ってあるから、良かったら。…カミダイラくん」
越ヶ谷さんは一方的にそう言い残すと、図書室から出ていきました。
突然のお誘いと名前を呼ばれたからか、私は碌な反応も返せず、その場に立ち尽くしていました。
…いえ、それよりも。私を認識してくれていたというただそれだけで、喜びの想念が湧いてきたのです。
ああ、そういえば。
私たちは知己という間柄ではないのですが、クラスメイトという間柄ではありましたね。
月日は流れ、私は文化ホールに足を運んでいました。
越ヶ谷さんに言われた通り、私はチラシを確認し、この場に辿り着いたという次第です。
…あの日から越ヶ谷さんとは会話という会話を交わした記憶はありません。
稀に図書室に来て前に座ることはあっても、私から話しかけるということはしなかった、否、できなかったのです。
なぜあの日の彼女は私なんぞに声を掛けてくれたのでしょう?
頭に疑惑の渦として残っているソレは、私の矮小な脳味噌の容量を圧迫するには充分でした。
公演に関しては無料ということだったので、客席には物見遊山気分のお客がそれなりに入っていることがわかりました。
私は空いている端の席に座り、定刻になると緞帳が上がりました。
…それからは私の想像以上のものが演出されたのです。
とある古典を下地にしたであろう台本に基づく演者の緻密な動きや台詞の中で、高校生らしい瑞々しい演技もあり。
その中でも、演劇部のエースと呼ばれている越ヶ谷さんの演技は圧巻のもので、私のみならず周りのお客も感嘆の声を漏らしていました。
…公演が終わり、私の心は満たされていました。
せめて、いつかこの溢れ出しそうな感謝を越ヶ谷さんに伝えたい。
私は文化ホールの近くにある珈琲店にて、窓際の席でゆるりと過ごしていると、向かいの公園に明らかに意気消沈した様子の女性がブランコに座るのが目に入りました。
「……?」
そしてその方は、よくよく見ると先ほどの主演女優。
私は飲みかけの珈琲もお構いなしに支払いを済ませ、公園に向かいます。
顔を伏せている越ヶ谷さんに近づいていくと微かに聞こえる嗚咽によって、何らかの悪いことがあったのだと推測できました。
「…どうか、されたのですか?」
私は探るように言葉を発します。
「……あ、カミダイラ、君」
面を上げた越ヶ谷さんには涙の跡がくっきりと残っていて、それは演技の涙でないことがありありと伝わってきました。
「えへへ…ごめんね」
ゴシゴシと瞼を拭うと同時にしゃくり上げている越ヶ谷さんを見て、私は思わず先ほどの珈琲店に駆け出したのです。
「どうぞ」
「…ありがとう…」
珈琲店から戻ると、ひとしきり涙を流し終えた越ヶ谷さんは普段の様子に戻りはじめ、ブランコを軽く漕いでいました。
「勝手に買ってきてなんですが、珈琲…お好きですか?」
私は越ヶ谷さんの好みなどは知らなかったため、愛飲するブレンド珈琲を買ってきて、渡したのでした。
…今更になって余計なお世話だったかもしれないと、どこかくすぐったい気持ちが渦巻きます。
「…私、あんまり苦い飲み物飲まないの…。だけど、折角のカミダイラ君の厚意だから…。頂きます」
「…どうぞ」
「…苦いね」
「左様ですか…申し訳ありません」
「でも、嫌じゃない味だし、心境にあってるよ…」
越ヶ谷さんは一息つくと訥々と語り始めました。
今日の公演で、私のような素人では分かり得ないほどの小さなミスをしてしまったこと。
そのせいで顧問に重箱の隅をつつくような指摘をされたこと。
公演を完璧に成功させるためにひたすら努力した結果、演劇部の一部の仲間との仲が拗れてしまったこと。
…どれもこれもが、私のような卑小な人間には関係のない悩みでした。
「思い上がってたんだと思う。今回も頑張ればなんとかなる。そう思ってたんだ…」
自虐的に浮かべる笑みは、彼女らしい自信に満ち溢れているものではなく、陰りを感じるものでした。
「私が気に食わないって子が結構居てさ。陰湿なんだよ。仲間外れはもちろん、道具にもイタズラされてたりさ」
「それは…なんというか」
私は彼女のことをなにも知らなかったのです。
彼女の正の側面だけを切り取って、ラベリングしていたのです。
こんなに良い評判しか聞かない人なら、悩みなどないのだろうと。
私は急に恥ずかしくなり、彼女の顔から視線を外しました。
「私さ、本当は人前で話すのが得意じゃないんだ」
「その割には、堂々とされてますよね」
「ひたすら練習したからね。嫌でも身に付いたよ。
弱々しい喋り方をする人間は、喰われると思ったから」
「…確かにそうですね。世の中は、声の大きい人間の意見に流される節がある。私はそう思っています」
「そうね。…だけど突き抜けようとすると、今度は下から私の足を絡めとろうとするの」
越ヶ谷さんはふっと諦感の色を浮かべた表情を見せたと思うと、次の瞬間には僅かに顔をしかめていました。
飛び抜けた人間が気に食わないというのは、いくらでもあり得ることなのでしょう。
それは醜くも人間の心理として確かにあり、嫉妬と呼ばれるものなのです。
「それはお辛いでしょうね…と言いたいところですが、生憎越ヶ谷さんほどの出来が私には備わってないのでどうにも共感できそうにありません。でも…」
「演劇に関する知識は持ち合わせていませんが、少なくとも今日の公演で一番光り輝いていたのは越ヶ谷さんだったと思います」
私は率直な意見を放ちました。
すると越ヶ谷さんは数秒呆けた後、控えめな笑顔を浮かべました。
「…ありがとう。それだけで充分救われるよ」
「こちらこそ。率直な意見ですので。…それにまたこうして会わなければ、伝えることもなかったと思います。…それでは」
私と越ヶ谷さんを繋ぐものは、今回の観劇のみ。
これからはクラスメイトとして、交わらない世界をそれぞれ歩いて行くのでしょう。
私はブランコから立ち上がり、その場から去ろうとすると制服の裾を掴まれました。
「寂しいこと言わないでほしいな。君といるのは心地がいいから。だから図書室にもたまに顔を出しているんだ」
「…公演にお誘い頂いて以来、会話は交わしていなかったと記憶していますが?」
「言葉だけが全てじゃないよ。カミダイラ君。空間を共有することも話すことぐらい重要なことだと思ってほしいな」
そう言った越ヶ谷さんの物寂しそうな表情にボロボロの野良犬を想起してしまいました。
そして美しい双眸から流れた涙の跡がいやに私の庇護欲を掻き立てるのです。
「…であれば、また図書室で空間の共有をしましょうか」
「…うん。…うん!」
私のような卑しい人間に相応しくないこの気持ちを、抑えることはできませんでした。
それからというものの、私と越ヶ谷さんは示し合わせたかのように図書室で顔を合わせていました。
そして全く言葉を交わさないときもあれば、越ヶ谷さんが読んでいる本について感想を述べ、私が辿々しい相槌を打ったり、時たま本を読んでいる私をじっとり見つめている日もありました。
…気がかりなのは、最近その回数が異様に多くなっているということです。
彼女には軋轢が生じているはずの演劇部の同僚はともかく、仲の良いクラスメイトが多分にいるはずのため、その付き合いの時間を削っているのではないかという考えが私の頭に滞留していて。
…加えて越ヶ谷さんと過ごす時間は才能ある彼女を停滞させている気がして、私は手放しでは喜べなくなってきていました。
そんなことを考えながら帰り支度をしていると、後ろから声を掛けられたのです。
「…アンタ、カミダイラね。ちょっと付き合ってくれるかしら?」
「わ、私に何か用でしょうか」
見覚えの無い声の主は不機嫌さを隠そうともしておらず、少なくとも私に友好的な感情を持っているとは思えませんでした。
「場所を変えるわ。着いてきて」
「…どのようなご用件なんですか?」
私は問いかけましたが、完全に黙殺され。
早足の彼女を仕方なく追いかけて行きました。
「ここは…」
「そこに座って構わないわ」
目的地は部室棟の端にある演劇部の部室でした。
小道具などが雑多に置いてあったり、演劇に関する本やDVDが棚に揃えられていました。
私は物珍しさにキョロキョロと辺りを見回していましたが、目の前の彼女が大きく咳払いをしたのを見て、用件を聞かねばと思うに至りました。
「それで、改めてご用件と…恥ずかしながら貴女のことを存じ上げていないのでお名前を伺ってもよろしいですか」
目の前にいる彼女は苦虫を噛み潰したような表情で口を開きました。
「…芹澤よ。私の名前なんてどうでもいいわ。それより朝日のことよ。越ヶ谷朝日。あんた、最近図書室でよく朝日と一緒にいるみたいじゃない?」
「ええ…まぁ。成り行きで」
「そう。なら約束して。今後一切朝日との付き合いを辞めてくれないかしら」
「…えっ?」
彼女はスカートから伸びる長い足を組み替えながら、錐のような鋭い眼光を私に向けてきました。
私はその様子に、驚きと萎縮を隠すことができませんでした。
「理由は大体分かるんじゃないかしら。最近朝日は演劇部に顔を出す頻度が減っているの」
「それは、存じ上げていますが…」
「今までの欠席は朝日の実力で大目に見られてきた部分があるけど、主演がここまで活動に参加しないなんて無責任にもほどがある…という意見が出たのよ」
「それも、存じ上げています…」
事実、越ヶ谷さんは活動時間である放課後でさえも、図書室に来ている時がありました。
私は演劇部に行かなくて良いのかと尋ねた事もありましたが、決まって曖昧な表情を浮かべるだけで。
「とにかく、朝日を解放して。ただでさえ対立している連中がいるのに、これ以上厄介事を抱えるわけにはいかないのよ…」
「あの…その、厄介事って言うのは、越ヶ谷さんに嫌がらせしている部員がいるということですか?」
「…なんでそれを」
彼女の瞳に驚愕の色が浮かびました。
私は慌てて記憶の糸を辿ります。
「いや、以前、関係に苦しんでいる知己がいると、お話しされていた事があったので…」
「なんでアンタなんかに…。そうよ。朝日を良く思わない連中がいるの。部内は真っ二つに割れている状況なの」
「小さな解れはいずれ大きな綻びが起こる…。切っ掛けは朝日が以前、主演に選ばれたことだったわ」
彼女は陰鬱な雰囲気を醸しながら事のあらましを話し始めました。
越ヶ谷さんが主演に選ばれることで、主演を務めることを有望視されていた部員が、越ヶ谷さんへの愚痴を溢し始めたのが始まりで。
そこからは根も葉もない憶測や中傷が部内を飛び回り、
その空気に耐えかねて、辞めた部員もいるということ。
目の前の彼女は話を聞くと越ヶ谷さん側ではありますが、部活にまともに顔を出さなくなったことに対する苛立ちと焦りがありありと出ていました。
「そんな状況なのに、当の本人は無断欠席し出すし、連中は鬼の首を取ったように騒ぎ始めた!やってられないわ!」
そう言って彼女は髪を振り乱し始めると、涙声を漏らし始めました。
…ああ。
私が幸せを享受している間、不幸を感じていた人がいたのです。
やはり、私はどこまでも卑小でなければならない。
「…わかりました。お約束します。今後、越ヶ谷さんとは関わらないと」
「…ホントに?」
「…ええ。私は越ヶ谷さんの才能に魅せられましたから。ここで潰れていい訳がないと。そう思っています」
「…ありがとう」
彼女は涙を拭いながら、今にも消え入りそうな声で御礼を伝えてきました。
きっと彼女も越ヶ谷さんに魅せられているのでしょう。
…私は悲しみと同時に、安堵感が心を包んでいくのを感じました。
「こんにちは」
「…」
件の日から数日後の放課後。
当番の図書委員は何故かおらず利用者が私だけの図書室に、澄んだ声を発しながら入ってくる彼女。
瞬時に本を読むことに集中しているフリをすると目の前の椅子を荒っぽく引く音がしました。
どうにも彼女に似つかわない所作に思わず顔を上げると、情けないことに小さく悲鳴を上げてしまいました。
「ねぇ、私に何か言うことあるんじゃないかな?」
瞳。越ヶ谷さんの瞳はまるで墨汁を注いだような漆黒に染まっていて、明らかに平常とはかけ離れていました。
「…いえ。特には」
私は下手くそなシラを切ることにしました。
なぜなら正直に事を話したら取り返しがつかない気がしたのです。
「へぇ…嘘ついちゃうんだ~」
「…嘘なんかついていないですよ」
「嘘だね。カミダイラ君は緊張すると僅かに左の頬がひきつるから」
「…あっ!」
緊張やら罪悪感で心臓が早鐘のように打っており、口がカラカラに乾きはじめました。
そもそも演技勝負で越ヶ谷さんに敵う訳がありません。
「ほらね。ただ私が言ったのは単なるブラフや誘導じゃないの」
「貴方をいつもずっと見てたから、わかったの」
瞳孔が切れるのではないかというほど開いていて、それが抜き身の刃のような危うさを発しており、発言するのも憚られるような気分になりました。
「そして何よりムカついているのが、私の問題を取り上げてカミダイラくんに近寄った女」
ギリッと力強く歯噛みし、獲物を全て喰らってやると言わんばかりの表情は、これまで私が見た彼女の表情の種類にはありませんでした。
このままでは迫力に飲まれてしまうと思い、思わず話を切り出しました。
「芹澤さんは貴女のことを思って話を持ってきたんです!私が貴女と関わることを辞めれば演劇に力を注げると私自身も納得したんです!」
「…だから…私にはもう関わらないでください…お願いします…」
断腸の思いでした。
少なくとも彼女自身に落ち度はありません。
ただ私という枷によって、大成できないのは彼女のためにならないと思うのです。
「わかった…とでも言うと思った?」
そう言った越ヶ谷さんは側に寄ってきていて、私の顔を覗き込んできました。
酷く不安げなその眼差しは、前言撤回してしまおうかと思うほどに哀しみを含んでいて。
「演劇なんて辞めたって構わない。貴方と一緒にいられるなら。今の私はそれだけカミダイラ君のことを想っているの…」
あぁ…とても不味い。
演劇で培ったであろういじらしい声音で心が絡め取られていく。
越ヶ谷さんは私の手を取り自身の手と絡めはじめました。
その手からじんわりと伝わる体温が心地よくて。
私は芹澤さんと交わした約束もおぼろげになっていました。
「…なに、してるの…」
不意に震えた声が放たれた場所を見ると、図書室の入口には唖然とした様子の芹澤さんが立っていました。
…やってしまいました。
越ヶ谷さんがいる可能性がある場所なんて、芹澤さんには簡単に見当がつくだろうに。
私は慌てて繋がれた手を振りほどこうとしましたが、越ヶ谷さんが芹澤さんを見据えたまま手を握る力を強めたため、貧弱な私はされるがままになりました。
…なんと情けない男なんでしょうか。
「貴方、約束したじゃない!それなのに…恋人繋ぎなんかして…どういうつもりなのよ!!」
そして芹澤さんは呪縛が解けたように目を吊り上げ私に詰め寄ってきました。
体全体から怒気が発されていて、触れただけで火傷しそうな勢いでした。
「それは…」
私は断りましたという言葉が喉の奥まで出かかっているのですが、言えません。
なぜなら、芹澤さんから見れば約束破りの蛆虫人間なのですから。
「もういいよ。カミダイラ君。なんだかもう疲れちゃった」
「朝日!そもそもの原因もアンタにあるんだからね!もう油売るのやめて…えっ」
鈍い音が耳に入り込み。
…私は情けなくその場にへたりこんでしまいました。
越ヶ谷さんが椅子を掴んで芹澤さんに向かって薙いだのです。
「いい加減ウザいんだよ!私たちの前から消えてよぉ!」
「朝日…やめ、やめて…」
倒れこんだ芹澤さんに越ヶ谷さんは声にならない咆哮を上げながら椅子を振り下ろしていました。
まさかこんなことになるなんて…
「ぁああ、なんてことを…」
嵐のような殴打が終わると頭を抱えこんでぐったりとしている芹澤さんを足蹴にしながら越ヶ谷さんは顔をこちらに向けました。
その顔は罪悪感など微塵も感じさせない笑顔で、さながらこうなることは必然だったと思っているように見えました。
「ね?これで煩くなくなったよ。私とカミダイラ君だけの空間だね」
…何故なのでしょう。
私の体は怯えすくんでいるはずなのに、心が昂るのは。
暴力という倫理的に禁じ手を使用しているにも関わらず、心を掴まれているのは。
「これで私たちずっと一緒になれるよね?…安心して?これからも障害は私が排除してあげるから」
ああ、解ってしまいました。
越ヶ谷さんは禁忌を犯してでも私と共に歩んでくれる人なのだろうと。
…私と同じ場所まで堕ちてくれるのだと。
だから彼女に目を奪われているのです。
私という卑小な存在を、受け入れてくれる人なのかもしれないから。
「…越ヶ谷さんは、私でいいのですか?」
「君だからいいの」
「…私は貴女に何も与えることができません…」
「優しさと安らぎだけで充分だよ」
「…ありがとうございます」
私は越ヶ谷さんに手を差しのべられ、立ち上がると痛いぐらいの抱擁をされました。
温かくて幸福な気持ちが流れ込んでくる中、側で横たわる芹澤さんに対して一握りの申し訳なさを感じると同時に、それを上回る爽快感が心の奥底から這い出てきました。
…やはり私は人間として最低で下劣のはずなのに、
生きていて良かった、とその時感じたのです。
その後の話をしましょう。
事件は発覚し、越ヶ谷さんは停学処分を下されました。
越ヶ谷さんからSNSにて話を聞くと、芹澤さんの親御さんが烈火の如く怒り狂って家に押し掛けてきたとのことでしたが、文面からどこか他人事のように捉えていることは流石に恐れを抱きました。
そして演劇部は部内の生徒同士の暴力事件と処理され、当面の活動停止を余儀なくされたのです。
…ただそれだけでは終わりませんでした。
今回の事件の発端は越ヶ谷さんが部内でイジメを受けていたため、その鬱憤が溜まりにたまった結果…という噂が何処からともなく流れ始めたのです。
その結果同情的な論調が出始め、越ヶ谷さんに対して深い悪感情を抱く人は少なかったようです。
…私としては、ボロ切れのようになるまで精神を叩かれてなぶられた越ヶ谷さんと二人寄り添い合うのも吝かではない…という次第でしたが。
…孤独というのは人を狂わせてしまうのかもしれません。
正しい友情、正しい愛し方。
どれもこれもが、幼少時から育まれたモノで形作られる。
越ヶ谷さんも人に囲まれながらもその実、孤独であったのだと、そう考えざるを得ません。
才媛ゆえに孤独を知る。
劣等ならば言うに及ばず。
私たちは、奇妙な巡り合わせで結ばれたのです。
今日は越ヶ谷さんの謹慎が解ける日。
鬱屈とした面持ちで玄関を開ける毎日は終わりを告げ、私は舞い込んできた希望に縋り付くために日々を歩み始めるのです。
…玄関を開けると麗しい瞳の奥に潜んでいる狂気がニコリと微笑みかけてきました。
具現化された希望はただただ眩しく、きっと私に退廃的な幸せをもたらすのだろうと、そう思ったのです。
感想等いただけたら嬉しいです。