病街録   作:とうぶん

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読んでいただいている皆様、ありがとうございます。
皆様はどんな病みがお好きですか?


ユメ叶いしこれからのミライ

「「おおきくなったら、わたしたちとけっこんして!」」

 

まだ年端も言ってない頃の記憶。

これは僕と幼馴染の双子との記憶。

一人は自信満々で。

一人は自信無さそうに絞り出して。

幼かった僕は結婚の意味も深く理解していなかった。

 

「うん!やくそく!」

 

僕は露店で売っていそうなおもちゃの指輪を家から見繕ろって、二人にはめてあげた。

一人はツンとしながらもどこか嬉しそうで。

一人はさながら天使のような微笑みを浮かべていた。

その姿を見て、僕は幼心にきっとこれからもずっと三人でいられるんだと信じて疑わず、この幸せの形はいつまでも続くものだと思っていた。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

僕は閉ざされた無機質なドアの前に立っている。

それは何故か。

幼馴染の双子の一人が、いわゆる引きこもりだからだ。

 

「ソウジ君…いつもごめんね」

 

おばさんが申し訳なさそうに頭を下げてくる。

この光景も、慣れてしまった。

実の母でさえも入ることが出来なくなってしまった扉を見て、物悲しくなる。

 

「大丈夫ですよ、夢もいつかは学校に戻れる日が絶対に来ます」

 

我ながら確実性に乏しい言葉だなと、自嘲する。

僕はカウンセラーでも何でもないから、気休めしか言えないのだ。

おばさんはやるせなさそうな表情を浮かべると、階段を降りていく。

その背中は、疲労を隠せなくなっていることが見てとれた。

意を決して、扉をノックをする。

一般的にはノックは3回だとか言われているけど、5回柔らかく叩く。

これは僕が来たという合図だ。

しばらくすると、鍵が回る金属音がする。

 

「……入っていいよ」

 

少しの物音でもかき消されそうな繊細な声が僕を部屋の中へと誘う。

 

「入るよ」

 

今は朝だけれど、カーテンに仕切られ豆電球ほどの灯りしかついていない部屋内は薄暗く感じる。

化粧品や服が散乱し、よろしくない生活感が漂う中でベットにぼんやりとした表情で腰掛けている彼女。

 

その目は虚ろで、とても生者のものとは思えない。

僕は声をかける。

 

「…おはよう。夢」

 

すると夢はこちらに向かって足取りを確かめながら歩いてくる。

 

「ソウジ君。会いたかった」

 

 

触れたら折れてしまうような細い体躯が僕の体と密着する。

ドキドキするよりも早く、あばら骨が当たる感覚に栄養失調に陥っていないか心配になる。

食事自体は、おばさんがドアの前に置いといてくれているはずだけれど。

 

「…今日はなにする?」

 

渇いていた瞳は幾分か生気を取り戻し、少し安堵する。

しかし、僕らは学生だ。

平日の朝なのだから、学校に行かなければならない。

 

「夢…そろそろ、学校に行ってみないか?」

 

夢が不登校となって二か月。

彼女の心の傷を癒すには時間が足りないのかもしれないのは承知で僕は尋ねる。

 

「クラスにいるのが辛いなら、保健室登校っていう手もあるから…どうかな?」

 

夢が立ち上がる助けになりたいのだけれど、この行為自体が彼女を苦しめることになっているのかと思うと胸が締め付けられた。

 

「もうあそこには行きたくない…嫌なこと思い出しそうで」

 

抱きついていた力が緩むと、夢の大きな瞳からボロボロと涙が溢れ始める。

 

「だから…ソウジ君。学校の話はしないでほしいなぁ…」

 

まだ早かったのだろうか。

憔悴している夢を見ると自罰の念に駆られて、僕はもう何も言えなくなる。

夢に苦しんでほしくない。

その思いが先に来てしまうのだ。

 

「ごめん…わかった。だけど、それは止めてくれないか?」

 

袖の隙間からチラチラと見える赤黒い傷痕は、刃物で傷つけたであろうものだ。

治りかけのものもあるが、新しくつけたものは特に見ていて痛々しい。

 

「だって…寂しいから。ソウジ君が学校に行っている時とか、もしかしたら他の女の子と仲良くしてたりしてるって考えてると、いてもたってもいられなくて…」

 

「だからって…」

 

「ソウジ君を想って血を流す時とソウジ君が会いに来てくれる時だけが、今の私の全てなの…」

 

 

夢は自らを傷つけることに躊躇いがない。

それを止めることができない自分の無力さに、拳を握り込む力が強くなる。

 

「ねぇ、ソウジ君。…膝枕してくれないかな。わたしを温めてくれないかな…」

 

「わかった…」

 

僕はベットに座ると、夢の頭を膝の上に優しく乗せる。

…男の膝なんて特にゴツゴツしていて気持ちの良いものではないだろうに、穏やかな表情を浮かべている。

瞳の下には濃いクマが縁取られていて、不健康さが一層滲み出ていた。

…きっと全然眠れていないんだろうな。

 

「すごく、気持ちいいよ…ありがとう、ソウジ君」

 

「ゆっくり休んでいいんだ。夢が元気になってくれるのを、僕はいつまでも待つよ…」

 

「…ソウジ…くん…」

 

次第に夢は、瞼を閉じて寝息をたて始めた。

僕は彼女を起こさないように頭を撫でる。

一つ年下のその寝顔は、とても愛らしいものだった。

しんとした静寂の中で、壁時計の秒針の音だけが微かに響いている。

…あぁ、今日も学校に遅刻することになるみたいだ。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

盛夏の日射しは眩しすぎる。

あの後、寝付いた夢を置いて家から出た。

結局一時間くらい遅刻することになったけれど、先生は特に何も言わなかった。

僕は遅刻の常連だから、今さら何を言ってもしょうがないと判断したのだろう。

高校三年生としては特にやってはいけないことをしている気がする。

何気なく窓の外を見ると、グラウンドにいる下級生の女子たちが楽しそうに球技をしていた。

…もしかしたら夢もあの中にいたのかもしれない。

ぼんやりとした空想を浮かべながら微睡んでいると、携帯が振動する。

机の下でこっそりSNSを開くと、見慣れたアイコンからのメッセージだった。

 

『昼休み、テニスコートに来て』

 

 

簡素な一文が素っ気なさを感じさせるが、いつものことだと思い了解と返す。

携帯をしまうと僕はモヤモヤとした思いを抱えながら中々解けない問題に取り組んだ。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

昼休みになり夏の陽気はいよいよ真っ盛りになる。

僕は購買で買ったパンを持って直射日光が降り注ぐテニスコートへ足を運ぶ。

 

近くまで寄るとコートの庇の下に人影が見える。

 

「…遅かったじゃない」

 

「購買が混んでてな…」

 

「そう」

 

首筋や太腿からとめどなく伝う汗のきらめきから、僕が来るまで自主練習に精を出していたのだろう。

昼休みであっても研鑽を積むことを信条とする。

それが夢の妹…未来だった。

 

「ほら、熱中症になるぞ」

 

僕は購買に寄った時に買ったスポーツドリンクを投げ渡す。

 

「…ありがと」

 

上気した顔を見せる未来は一気にスポーツドリンクを飲み干していく。

その姿はまるで清涼飲料水のCMのような爽快感に満ちていた。

 

「一人で練習してたのか?」

 

「さっきまで他の部員に少し付き合ってもらって二人で打ち合ってた」

 

「この暑い中よくやるよ…」

 

普通、昼休みなんだから友達とだべったり、やるとしても遊び程度の運動だろうに。

この練習の鬼め。

…まぁそれが実を結んでいるのが未来の凄いところなんだけど。

 

「今年の総体はいけそうか?」

 

「いけそうっていうのがどこまでの基準かわからないけど、それなりのところまでは勝ち上がるつもりよ」

 

「結構な自信だな…」

 

フンと鼻を鳴らしながら制汗剤をかけはじめる未来。

去年は入学してすぐ部内戦で先輩達を打ちのめし、レギュラーに定着すると、新人戦の個人戦では2位を掴み取る活躍を見せ、学校に垂れ幕が掛けられるほどになった。

昔から色々なことで表彰を受けていた未来だから、それほど驚きもしなかったけれど。

 

「…あのさ、ソウジ」

 

「うん?どうした?」

 

「総体で、私が良い結果だしたら…そのぅ…」

 

未来は勢いよく言葉を吐き出したと思えば、どんどん言葉尻がしぼんでいく。

その頬は猛暑の影響もあるのか、真っ赤に染まっている。

やはり熱中症にかかり始めているのかもしれない。

 

「おいおい、吐いたりしたら大変だから校舎の中戻ろうぜ?ほら、立てるか?」

 

僕は立ち上がり、手を差し伸べる。

 

「…大丈夫だから、ここにいようよ」

 

「いや、でもさぁ」

 

「だって、アンタ放課後姉さんのところに行くんでしょ?」

 

「…え?」

 

暑いはずなのになぜか一瞬、ひんやりとした空気が僕を包んだ気がした。

 

「その反応、図星だよね…。頑張る私を放っておいて、あの怠惰な姉さんのところに行くんだよね?知ってるよ…でも、いいよ、それでも。今は」

 

未来の目が徐々に蕩けはじめ、それが暑さのせいか、はたまたそれ以外の理由なのか判別できない。

 

「だから、昼休みの時間くらい私にくれてもいいよね?それくらい、別にいいよね?」

 

「お、おう?どうしたんだよ…」

 

未来は僕の胸に飛び込んでくると、顔を埋めてくる。

爽やかなミントの制汗剤の匂いが、胸の中で弾けだした。

密着するお互いの熱で、そろそろ僕たちもどろどろと溶けはじめるんじゃないかと錯覚する。

…まぁ、口では強がってたけど、なんだかんだ総体のことがプレッシャーなんだろう。

昔から自分の気持ちを伝えるのが下手くそで、寂しがり屋なんだ、未来は。

 

僕より一回りほど小さいその体躯の背中に、柔らかく手を回す。

結局昼休み終わりの予鈴までそれは終わらなかった。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

時間は巡って放課後へ。

学生たちはそれぞれ檻から解き放たれたように校舎から出ていく。

僕はその様子を見ると、なぜか羨ましく感じる節があった。

 

「ソウジ、帰んねぇの?」

 

ぼんやりとしていた僕に声を掛けてきたのは友人の明石だった。

肩につくぐらいまで伸ばしている長髪から形作られるその風貌は、いつ見てもバンドマンを思わせる。

 

「…いや、もう帰るよ」

 

「嘘つけ、何か悩んでるから考え事したいって顔に書いてあるぞ」

 

歯切れの悪い僕の様子を見て察したのか、目の前の席にどかりと座る。

いつの間にか教室には僕たちしかいなかった。

 

「さ、明石先生のお悩み相談室を臨時開催しますよっと。今日の迷える子羊は何を悩んでるんだ?」

 

おどけた様子で手をひらひらと振る明石に僕は苦笑しつつも、その気遣いが嬉しかった。

 

「…もし、さ。好きな人が二人いる場合って、皆どうやって選んでるんだろうなって」

 

「贅沢な悩みだな、それって。告白でもされたのか?」

 

「知りたくなってさ。どう思う?」

 

「…まぁ、人それぞれ価値観は違うだろうけど、まずスペックじゃねえの?」

 

「スペック」

 

人が人を選別する時に、それはきっと大事になるんだろう。運動部のレギュラー選考だってそうだ。

けれど、付き合うという観点からはいささか人間味に欠ける気がした。

 

「勉強ができるとか、スタイルがいいとか、表面的かもしれないけどな」

 

「別に否定する訳じゃないけど、都合の良い人形を探している感覚になるよな、それって」

 

「それよ。だから俺は最後は感情だと思うんだよねぇ」

 

明石は長髪をふわりとかきあげてから、指を鳴らす。

その仕草は様になっていて、練習していたんじゃないかと思ってしまった。

 

「感情」

 

「そう。いつも隣に居たい、支えてあげたくなる…そんな感情が引き出される相手と付き合うべきなんじゃないかって、思うのよ」

 

「…なるほど」

 

「まぁ、何となく想像はついてるけどな…。来栖姉妹のことだろ?」

 

「えっ」

 

そう言った明石は懐から棒飴を取り出し、咥えだす。

その目は細められていて、若干呆れが入っているように見えた。

 

「いや、そりゃあなぁ、あんだけ今年の5月ぐらいまでウチのクラスに出入りしてたら関係してそうなのはわかるっつうの。特に姉の方はお前にべっとりだったし…なにより、有名人だろ?」

 

そうなのだ。

夢がまだ学校に来ていた頃、よく僕のクラスに顔を出していた。

そう遠くない記憶なのだが、なぜか懐かしく思える。

 

「それで、今姉の方は不登校なんだろ?軽音部の後輩から聞いたぜ?」

 

明石はそれなりに顔が広い。

面倒見が良いからか、色々なタイプの人と話しているのを見かける。

下級生からの情報も入ってくるのだろう。

 

「まぁ、うん。そうだな…」

 

「………何にしても、俺はお前の出した答えを尊重してやるさ。たださぁ」

 

 

「中途半端なことだけは、しないほうがいいぞ?」

 

何故か同年代である明石の顔が、自分より幾分か大人びて見えた。

 

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「おかえり!ソウジくん!」

 

 

明石と別れた後、夢の家に向かい、部屋に入るとハイテンションな夢に迎えられる。

辺りを見回すと、錠剤の包装が転がっていた。

…あぁ、なるほど。

 

「ただいま…」

 

僕は極めてにこやかな笑顔を返す。

どうやら気分が高揚しているらしい。

 

「ねっ!こっち来て!」

 

ベッドをポンポンと叩く夢は、爛々とした瞳をこちらに向けている。

朝のダウナーな雰囲気は微塵も感じない。

言われるがままに隣に座る。

 

「嬉しいなぁ、嬉しいなぁ。ソウジくんがいるだけで幸せだなぁ」

 

すりすりと僕の腕に寄り付くその様は、子犬のような可愛らしい仕草だった。

 

「だけど、もう少しメールとか返信してくれたらもっと嬉しいなぁ」

 

「ぜ、善処します…」

 

夢のメールは授業中だろうがお構い無しで、僕の携帯はよく点滅しっぱなしになっている。

深い深い依存。

僕はそれを一手に受けている形になる。

 

「むー。わたしはソウジくんと親以外の連絡先全部消したよ?本当はソウジくんにもそうしてほしいけど、それは大変かなって…」

 

「え?」

 

「見てみる?」

 

夢から携帯を受け取り、連絡先を開く。

たしかに僕と夢の親以外の登録はなく、ほぼまっさらな状態になっている。

…なんで、妹の連絡先まで消してしまったんだ。

 

「ね!ね!偉いでしょ?頭撫でて!」

 

僕は褒めてもらえると思っている夢を見て、一種の虚脱感に襲われた。

 

「…あのさ、夢」

 

「ん?なになに?」

 

「何も、未来の連絡先まで消す必要なかったと思うんだが…」

 

「……」

 

一瞬で楽しげな雰囲気は鳴りを潜め、空気が固まった。

あえて、地雷を踏んだのだ。

こうなることは予測できている。

 

「ねぇ、ソウジくん。わたしって最低だよね?」

 

「…」

 

「未来はなにも悪くないの。結局わたしが勝手に意識して、勝手に傷ついて、勝手に…妬んでるだけ。そうでしょ?」

 

「…」

 

「でもね、怖いの。未来の名前を見るだけで、聞くだけで、何もできないわたしってなんなんだろうって考えちゃう」

 

「…」

 

「毎日夢を見るの。いろんな人がわたしに話しかけてくるの。でもその人たちはわたしという人間じゃなくて、未来のことを知りたがっているの…」

 

被害妄想だ。

と言えればどれだけ良かったことか。

事実、学校ではそんな節があったのだ。

夢に話しかけてきた彼ら彼女らは、未来と近づきたいという考えで近づいてきたり、ひどいものでは夢と未来を比較し、貶すような言動をする人間もいた。

…結果として、夢はそれに対応することができず、今に至っている。

 

 

「だから、わたしは未来へ繋がるための踏み台なんだっていつも思わされる。苦しい…誰かに必要とされたいって、心の中で叫んでる」

 

「だけど、その誰かは…ソウジくんだけなんだ。ソウジくんだけが、わたし自身を受け入れて…守ってくれるんだって…思うの」

 

夢の爛々とした瞳は徐々に湿り気を帯びてきていて、お互いの顔の距離は吐息がかかりそうなぐらい近い。

やつれていても損なわれない美しい顔立ちは、儚さを感じてしまう。

まるで、いつかは溶けて消えてしまう細雪のような…

 

「夢…」

 

 

「ソウジくん…わたしと付き合ってほしい。そうしたら、きっと大好きなソウジくんのために頑張れるから…ずるいよね、わたし」

 

 

自嘲を浮かべたその顔に、罪悪感が薄く透けて見えた気がした。

 

 

僕は夢も未来のことも好きだ。

だけどそれは明石が言った「中途半端」なんだろう。

なら、どう決断すればいいのか。

至極簡単だ。

目の前の助けを求める夢に、手を差し伸べること。

そうしたら、多くの事が上手くいく。

僕は好きな人と付き合えることができるし、夢は学校にまた通えるようになったら、夢の両親だって喜ぶだろう。

けれど…これでいいのだろうか。

脳裏に浮かぶもう一人が顔を覆っている気がした。

 

「ソウジくん…?」

 

けれど…不安げな瞳でこちらを見上げる夢を、見捨てるわけにはいかない。

夢が自分自身を肯定してくれるなら。

だから…これでいい。

 

「いいよ…付き合おう」

 

「ソウジくん…」

 

僕は不安げにしている夢の顎を支えながら、唇を重ねた。

夢の病的なほど青白い肌に朱が灯る。

それが、確かな希望の明かりに見えた。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

今日も練習は厳しかった。

総体近くになると練習量を落とすはずが、余計に練習量が増えている気がする。

私はそれなりに重量があるテニスバックを背負いながら、

自宅の玄関扉を開けると、リビングの方から楽しそうに談笑する声が聞こえる。

……?笑い声?

なぜかわからないけど、嫌な胸騒ぎがする。

靴を脱いでリビングに入ると、母さんと父さんが穏やかな表情をしながら話していた。

 

「未来、おかえりなさい!」

 

「母さん…ただいま」

 

これは、どういうことなんだろう。

この2ヶ月間、部屋に引きこもっている姉さんのことで、沈んだ表情をしていた母さんが笑顔を浮かべている。

それはきっと喜ばしいことなんだけど、なぜか私はえも言われぬ怖気を感じた。

 

「ソウジくんのおかげよ…あの子には感謝しかないわ。笑顔の夢を見させてくれるなんて」

 

ソウジ?

なんでソウジが出てくるの。

それに、姉さん?

母さんは、事の経緯を知っているのだろうか。

 

「そうだな…あの子には昔から世話になってるというのに…何度頭を下げても足りないぐらいだ」

 

父さんまでなんなのだろうか?

まるで憑き物が落ちたかのように相好を崩している二人を見ていると、手のひらからじっとりとした汗が流れ出した。

 

 

「…なにかあったの?」

 

「いや、ね?さっき、夢にまた学校に行くって言われて、お母さん嬉しくて…」

 

「え?」

 

「それでね、その理由っていうのが…」

 

 

…そこから先の記憶はひどく曖昧。

だけど、感情だけは胸の奥底から間断なく湧いてきて。

大切なものを失くした虚無感と、それを上回る大きな怒りが私を焼き尽くした。

いつの間にか私の部屋の中は台風が上陸した後のような荒れ模様になっていて、朝を迎えていた。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

今日は生憎の雨だった。

湿度も高く、じめっとしていてむず痒い。

珍しく始業前に教室に着くと、携帯が震え出す。

着信。

僕は画面に映った名前を数秒見つめ、携帯を取る。

電話をかけてくるのは珍しい。

 

「おはよう。どうした?」

 

「……」

 

「もしもし。…大丈夫か?」

 

「…………」

 

微かな息遣いは聞こえるけど、まるで言葉を発さない。

こうも無言だと不安になる。

 

「用がないなら切るけど?」

 

「……今、どこにいる?」

 

囁き声が耳にギリギリ届く。

その感情が消え失せた声音に、違和感を覚えた。

少なくとも、いつも通りではない。

 

「学校にいるけど」

 

「………今から屋上に繋がる踊り場に来て」

 

そう言い残すと、無慈悲に通話終了の音が鳴る。

 

「なんなんだ、一体」

 

 

 

屋上に繋がる踊り場付近は、人が寄り付かないため静寂に包まれている。

 

「………」

 

未来は壁にもたれて、佇んでいた。

その雰囲気は剣呑さを纏っていて、声をかけるのもはばかられる気がした。

 

「未来、どうしたんだよ。急にこんなところに呼びつけて…」

 

運動部でもない僕は急いで階段を上がってきたため息も絶え絶えで、文句をぶつけてしまう。

 

「………」

 

すると僕の存在に気づいた未来が何も言わずに歩み寄ってくる。

…無言なのに視線だけは僕の目をしっかり捉えているのはなぜだか恐ろしい。

未来は僕の目の前に立つと、いつもより低い声で「屈んで」と言った。

なぜそんなことをしなければならないのかと思いつつも、要望通りにする。

 

「アンタが悪いんだから」

 

次の瞬間、口腔内に柔らかいものが入り込むと、荒々しく蹂躙される。

僕は呆然とし、一瞬何をされているのか認識できずにいると、未来が舌を引き抜いた。

 

「…何で私じゃないの?何で夢なの…同情したの?」

 

「えっ」

 

「私、ずっと考えてた。総体が終わったらアンタに告白して、付き合えるはずだったのに!」

 

怒涛の感情の吐露を受け止めきれない。

いや、受け止めないといけない。

 

「それは…ごめん。だけど、僕は夢と付き合うことにしたんだ」

 

「…理由を教えてよ。私を納得させるだけの理由を!」

 

修羅の形相を浮かべる未来は僕の首筋に爪を立てはじめる。

この鋭い痛みも未来が受けている痛みなら、甘んじて受け入れるしかない。

 

「…夢に立ち上がって欲しかったんだ。その動機付けになるのなら、僕の心だって喜んで差し出そうと思った。…たしかに、僕は夢も未来のこともどっちも好きだ。だけど今の夢には僕がいないと、隣にいてあげないと、取り返しがつかないことになる気がしたんだ…」

 

「へぇ…私は放っておいて大丈夫だと思ったんだ」

 

「そういうことじゃないけど…未来はしっかりしていて、僕がいなくたって…」

 

「は?」

 

爪がどんどんと中へ食い込んできて、僕はたまらず呻き声を漏らしてしまう。

 

「その言葉…アンタの口からは聞きたくなかったわ…!でもいいわ。アンタは姉さんに絆されたってことにしてあげる。だけど、これから私の頑張りはどこに向ければいいの…?ねぇ!何とか言ってよ!」

 

ダムが決壊したかのように大粒の涙を溢しはじめた未来の姿に、胸の奥がじくじくと炙られている感覚に陥った。

僕はなんと弱いのだろうか。

片方を選べば片方が悲しむ。

その事を認識していたのに…

 

「私はアンタだけに見てほしくて、夢中になってほしくて、テニスも勉強も努力してきたのに…皮肉よね。頑張れば頑張るほど、アンタの心の比重は姉さんに傾いていく!」

 

「……」

 

「図星みたいね。…何かばからしくなってきちゃった。頑張らずとも姉さんは欲しいものが手に入って、私は欲しくもない称賛だけを得るなんて」

 

「本当に…ごめん」

 

僕は頭を深々と下げた。

頭の中はぐちゃぐちゃで、整理もなにもない。

だけど、たしかに未来を傷つけた。

…どちらかを選ぶのならばいずれかは通らなければいけない道だった。

 

「…もういいわ。そもそもアンタに話をしたのが間違いだったのかもしれない」

 

そう言い残すと、未来は階段を静かに降りていく。

僕は後を追おうとしたけれど、足が鉛のように重くて動き出せない。

だって、未来を喜ばす言葉を僕は持ち合わせていないのだから…

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

わたしの足取りは、思ったよりも明るい。

久しぶりの廊下に、生徒が談笑する声。

本当はソウジくんと登校したかったけれど、これまでソウジくんに甘えっぱなしだったから、ひとりで登校できるぐらいにはならなくちゃ。

わたしはこそこそと誰にも気づかれないように教室に入る。

すでに教室内には何人か生徒がいて、わたしを見ると珍しいものを見るような表情を浮かべる子もいたけれど、ほとんどが無関心だった。

なんだ。

わたし、考えすぎてたんだ。

およそ二ヶ月ぶりに対面した自席に座って、ほっと一息。

ミルクティーのやさしい味わいが、あるべき日常に帰ってこれたんだと知らせてくれた気がした。

手持ちぶさたになったわたしはスマホを取り出して、ソウジくんとの会話の履歴を見返す。

いまだに実感が湧かないけど、ソウジくんが彼氏になってくれたという事実に顔がほころんだ。

どこに遊びに行こうかな?

夜景が綺麗なスポットとかいいなぁ。

映えるし、きっと良い雰囲気になるよね。

わたしが期待に胸を膨らませていると、上履きの音が早足でこちらに向かってくる。

 

「姉さん」

 

つめたくて、凜とした声。

その声にわたしは嫌というほど聞き馴染みがある。

 

「話があるの」

 

わたしは反射的に俯いた。

理由はわからないけど、とっさに出てしまった行動だった。

 

「ねぇ…顔を上げて」

 

声に苛立ちが滲み出てきて、わたしの肌が粟立つのがわかる。 

…恐ろしくて、目を合わせられる気がしない。

 

「…いや、いや」

 

少ない声量で拒否すると、間髪入れずに腕を掴まれる。

 

「来て…早く!!」

 

ぎちりぎちりと私の腕を掴む力は強くなっていく。

鍛えられている未来ちゃんの腕力には到底敵わないから、振り払うこともできない。

 

「いや!放して…」

 

わたしの抵抗も空しく、強い力で引っ張られていく。

周りのクラスメイトは呆然とした表情で、目を丸くしていて立ち尽くしている。

ああ、そうだった。

わたしを助けてくれるのは、ソウジくんだけ…

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

「ここでいいわ」

 

連れてこられたのは、およそ人が寄り付かないような空き教室。

乱雑に積まれた椅子の山が、屍のように見えて思わず身震いする。

 

「未来ちゃん、とりあえず落ち着いて、ね?お願いだから…」

 

 

「落ち着け?…よくそんなこと言えるわね。弱者のふりをして良いところだけ持っていく卑怯者の癖に…」

 

 

「うっ…」

 

ぐさりと、心にアイスピックで貫かれたような鋭い痛みが走った。

 

 

「全部聞いたの。母さんから…ソウジから!姉さんが学校に行く代わりにソウジと付き合うってことを!!」

 

「そ、れは…」

 

「姉さんは昔からずるい人間だよね。勉強だってすぐに投げ出して、その度にソウジに教えてもらって!

…同級生から告白を受けたのに自分から断るのが怖いって言って、彼氏のふりをしたソウジに代わりに断ってもらったり!」

 

「……」

 

返す言葉がない。

たしかにわたしはいつもソウジくんに頼りきりだったから、なにもできない。

頭だって悪くて、運動神経だってないし。

人から想いを伝えられた時でさえ、ソウジくんを頼った。

あらためて自分を客観視すると、愚図で能無しで卑怯だ…

 

 

「私は違う!勉強だって自分で努力した!姉さんがすぐに手放したテニスだって続けて結果を出した!告白された時だって自分の口から断った!」

 

「それなのに、こんなに頑張ってるのに…姉さんは私からソウジを奪うの!?姉ならたまには姉らしくしてよ!!」

 

 

正論が胸に突き立てられていく。

未来ちゃんの顔は紅潮していて、充血している目も相まってその姿は荒れ狂う獅子のよう。

…きっとわたしは謝るべきなんだろう。

鼻水を垂らしながら、涙をこぼしながら、惨めに頭を下げるべきなんだろう。

だけど、なにもないわたしにとってソウジくんはかけがえのない大切な人だから、失うわけにはいかない。

それが例え血を分けた妹であっても、絶対に。

 

「…持ってるじゃない」

 

「えっ!?」

 

「未来ちゃんはわたしにないもの、いっぱい持ってるじゃない…だから、ソウジくんだけは絶対に渡さない」

 

自分でもこんなに低い声が出ると思わなかった。

わたしの不退転の覚悟を伝えるため、未来ちゃんを睨み付ける。

 

「ッ!ふざけんじゃないわよ…言うに事欠いて今度は逆ギレ?冗談じゃないわ!」

 

「もう遅いの!ソウジくんはわたしを選んだ…もう諦めてよ!!」

 

自分でも予想以上の大声が出た。

昔から未来ちゃんと喧嘩になっても私が必ず折れてきた。

それがお姉ちゃんだから。

妹を泣かしてはいけないと、親には数えきれないくらい言われた。

…それも謎だった。

双子なのに、たかが少し早く産まれただけなのに。

理不尽。

才能も、胆力も全て妹に奪われた惨めな姉に対してこれ以上の不幸を望むのか。

 

 

すると、目の前に火花が散った感覚がした。

遅れて左頬にジンジンとした痛みが広がり始める。

…たたかれた?

痛みに驚き目を白黒とさせていると、首元に向かってするりと手が伸びてくる。

 

「姉さん…知っているだろうけど、私はあんまり気が長い方じゃないのよ…姉さんが手を引いてくれないのなら、私が姉さんに成り代わる方法を取るしかないわ…」

 

「うぅあ…み、みらいちゃん…」

 

気道が圧迫され、絞り出した声は呻きとなる。

相対する妹の瞳が雄弁に語りかけてくる。

姉を壊してでも好きな人に愛されたいと。

あぁ…これが狂気なんだ。

わたしもそれなりに狂っていた気がしたけど、本物じゃなかったみたいだね…

 

「努力なんて…意味がないのかな。なら、姉さんに、姉さんになれば私を愛してくれる…!待ってて、ソウジ。アンタが一番好きな人間になれば、私を…」

 

「か…は…」

 

うわ言のような妄言を喋り続ける妹。

段々と意識が朦朧とするなかで、思い浮かべるのはもちろん君。

困ったように浮かべる笑顔がとても愛らしかった。

わたしという存在を肯定してくれて、救ってくれた。

走馬灯のようなものが頭を駆け巡り始めると、戸が大きな音を立てて開かれる。

 

ああ…やっぱり、君は大事な時に駆けつけてくれるんだね。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

僕は扉を勢いよく開けると、明らかな異常事態が目に飛び込んできた。

 

「なにやってるんだよ!早く手を離せ!」

 

顔色が土気色になりかけている夢を見て、思わず強く怒鳴ると、ゆるゆるとこちらを振り返る未来。

思わずその顔を見てごくりと唾を飲んだ。

感情が抜け落ち、まっさらな白紙のような顔色。

俺はこんな未来を知らない。

言うなれば空虚を体現するかのようだった。

 

「あ、ソウジ。待ってて、すぐにアンタが好きになってくれる私になるから…」

 

「ちょ…何言って…」

 

「だってそうでしょ?私は間違えてたんだってはっきり突きつけられたんだよ?アンタに好きになってもらうには勉強やスポーツで良い成績を取ることじゃない。姉さんみたいになることなんでしょ?ストイックな女よりも弱くて人に寄りかかれる女が好きなんでしょ?ねぇ?違うの?間違ってるの?あはは…わからなくなってきた…」

 

色のない表情で捲し立てる様子はまるで壊れた人形のようで、思わず僕は尻もちをついてしまう。

間違いなく錯乱している未来は、痛苦に耐えるかのように暴れまわっている。

すると夢の首から手を放した未来が僕に覆い被さるように体を寄せてくる。

 

「ソウジ、ソウジ、ソウジ…私を見てよ…私を感じてよ…お願い…このままだと、私…」

 

「や、やめてくれ!」

 

恐怖に駆られて伸ばされてきた手を強く払ってしまう。

 

「あっ…」

 

瞬間、とてつもない罪悪感が僕を襲う。

未来の表情が明確な悲痛へと変わり、影を落とした。

 

「ご、ごめ…」

 

「君たち!何やっているんだ!!」

 

僕がすぐさま謝ろうとする矢先に、先生たちが慌ただしくなだれ込んでくる。

きっと、僕と同じく騒ぎを聞きつけてきたのだろう。

苦しげにえずいている夢に、まるで魂が抜かれたように呆然とした後、その場に崩れ落ちた未来。

騒然としている教室内で、現実が喪われていく音がし始める。

それと同時に、僕が描いた理想はもう元に戻ることはないのだろうということも、わかってしまった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

あれから数週間が経った後、僕は近隣の浜辺に来ていた。

 

「心地いいなぁ、浜辺ってのは」

 

隣にはライダースジャケットを羽織った明石がコーラの缶を片手に背伸びしている。

その姿に明石は悩みなんか無さそうでいいよなと羨みそうになった。

…心配してくれている友人に対して、最低な考えだと自己嫌悪する。

 

「せっかくこんなところまで来たんだ。この雄大な大海原にすべて吐き出して、ついでに俺にも聞かせてくれや」

 

カシュッと缶が開く音が小気味良く鳴ると同時に、僕は口火を切る。

 

「……そうだな。簡単に言えば、未来は病院に連れていかれたよ」

 

あの後倒れた未来は救急車で搬送されていき、

目が覚めると今回の件はまるで覚えていないということだった。

そして、なにより…僕のことも忘れてしまったと聞いた。

しばらく体調の変化を観察するために、入院し続けるとのことだ。

 

 

「…辛いな」

 

「うん…だけど、これは僕への罰だと思ってる」

 

「罰?」

 

「未来を拒絶してしまったことへの、かな…」

 

あの時、未来は雁字搦めになってしまったのだと思う。

その助けを求める手を、自らの手で振り払ってしまったのだ。

だから、これは相応の報いなんだと…

 

「ふぅん。ま、仕方ねぇわな…」

 

いつの間にか座り込んでいた明石は、考え込むように顎に手を添えていた。

 

「…見舞いには行かねぇのか?」

 

「それも考えたんだけど…行かないほうがいいかなって」

 

あんなことが起こったのは、僕の責任だ。

なら、もう未来に関係すること自体が問題で。

いや…恐いだけなのかもしれないな。

 

「ま、姉の方は随分元気になったよな…あんだけのことがあったのによ」

 

「……」

 

夢と僕は付き合い続けている。けれども、以前のような過剰な接触や連絡はなくなった。

…きっと、夢にも思うことがあったのだ。

 

「いまだに、これが正しかったのかわからないんだ」

 

「…正しさなんて、考えんなよ。こういう結果になったけれども、お前は中途半端なことはしなかったんだろ?ならこれが最良なんだ」

 

「…そうかな」

 

波打ち際で小さな子どもたちが戯れている。

男の子が一人、女の子が二人。

邪気のない清廉な笑みを浮かべながら波を掛け合う子どもたちを見て、頭の中で自らの過去を重ね合わせるとじわりと目頭が熱くなった。

誰もが綺麗なままではいられない。

いつかは壊れるものが出てくる。

僕はどうにもならないこの思いを、いつか昇華することは出来るのだろうか。 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

私はベッドに横たわりながら、規則的に時を刻み続ける壁時計を見つめていた。

そろそろ、主治医の回診が来る頃だ。

 

「来栖さん。どうですか、お身体の具合は?」

 

のそのそと病室に入ってきた初老の主治医は、温かい声で私を労ってきた。

 

「…はい。問題ありません」

 

「そうですか。それはよかった…この様子であれば、数日以内には退院できると思いますよ」

 

そう言うと主治医は傍らにいた看護師に何やら指示した後、病室を出ていった。

…私は記憶を失ったようだ。

気がついたらこの病室にいて、しばらくすると今の主治医から説明を受けた。

いわく、私は学校で姉さんと喧嘩になり、その際に頭に衝撃を受けたとのこと。

けれど、その喧嘩に至った原因がわからない。

見舞いに来た両親にも聞いたけれど、不自然にはぐらかすような回答をされるばかりだ。

まるでパズルの最後のピースがはまらないようなもどかしさに、私は頭を悩ませていた。

 

「このまま、日常に戻っていくのかな…」

 

そう私が独りごちていると、不意にドアがノックされる。

誰かがお見舞いに来てくれたのだろうと思い、返事をするとその人物は姿を現した。

 

「未来ちゃん…」

 

「……」

 

訪問客は、病室に入るなり所在無さそうにしている姉さんだった。

理由はわからないけれど、壮大な喧嘩をしてしまった手前、気まずい静寂がその場を包む。

 

「とりあえず、座ったら?」

 

ベッドの側にある丸椅子に座るよう姉さんに勧める。

 

「…うん」

 

姉さんは静かに丸椅子に座ると、見舞い品として持ってきてくれたのだろうリンゴを剥き始めた。

 

「未来ちゃん、本当にごめんね…」

 

「あ、ああ…うん。私も、悪かったよ」

 

神妙な顔をして謝る姉さんに、私もつられて謝る。

本当は何が起こって、何が悪かったのかもわからないんだけれど。

 

「パパとママに未来ちゃんの今の病状を聞いて、とんでもないことをしちゃったと思ったんだ…」

 

そういえば、以前両親が見舞いに来た時は姉さんは来ていなかった。

おそらく喧嘩してしまった手前、しばらくは顔を合わせない方がいいと思ったのだろう。

 

「ああ、うん。まぁでも、何を忘れたのかよくわからないんだけれどね。親のことも、姉さんのことも、学校のことも覚えてるし…」

 

「………そうなんだ。もう少しで退院できたりするの…?」

 

「うん。さっき先生もそう言ってたよ」

 

「良かった…はい、リンゴあげる」

 

安堵した表情の姉さんからリンゴを受け取ろうとすると、不意にある場所に目が奪われる。

姉さんの右手の薬指。

明らかに純正のモノではないくすんだ指輪もどき。

私はそれに見覚えがあった…。私も持っていたような…。

それは誰から貰ったんだろう?

遠き日の記憶を引っ張り出すと、私と姉さんが嬉しそうにしている前で、顔のない子どもが立っている。

いや、顔の部分だけがノイズがかかっていると言ったほうが正しい。不気味だけれど、どこか懐かしくて、暖かい雰囲気を纏っている。

 

 

「だ、大丈夫?さっきから黙ったままだけど、看護師さん呼んだ方がいいかな…?」

 

「い、いや…大丈夫だから!」

 

今にもナースコールに手を掛けそうになっていた姉さんを制止する。

 

 

「そ、そう?…じゃあ、あんまり長居するのも悪いし、今日はそろそろ帰ろうかな…」

 

そう言って、丸椅子から立ち上がる姉さん。

その時、私はこのまま姉さんを帰してはいけないと、直感的に感じた。

頼りない記憶の糸が、つながるチャンスがなくなりそうで…

 

「ま、待って、一つ聞きたいんだけど。…その右手の指輪って、昔からつけてた?」

 

「………」

 

「それっておもちゃだよね?私も持ってた気がするんだよ…誰から貰ったのか、教えてくれない?」

 

「…………」

 

姉さんは、恐れを抱いたような表情を浮かべているだけで、何も答えない。

 

「その指輪を貰ったことは覚えてる。けれどその送り手の人の顔がわからないのよ…。姉さんなら、わかるんじゃない?」

 

 

「…………想いの強さって、恐ろしいね。未来ちゃん。きっと今は心の奥底で蓋をしているんだろうけど…」

 

ボソボソと、掠れた声で呟く姉さんは何かを探るような視線で私を見つめている。

 

「姉さん…?」

 

「あげるよ」

 

姉さんは右手の薬指に着けている指輪を外すと、私の目の前に置いた。

鈍色のリング部分が磨耗していて、淡い光を放っている。

 

「もうわたしには、必要ないから…。本物が手に入る日はそう遠くないから…」

 

「これは、わたしからの憐憫の証だよ…」

 

姉さんの瞳から涙が一筋、流れた。

綺麗な涙だった。

何かを隠していると思えないほどには。

 

「じゃあもう行くね。退院したら、家で待ってるから…」

 

「……」

 

 

そう言い残して、姉さんは病室を出ていった。

広い個室の中に静寂が戻ると、私は姉さんが残していった指輪をつまんだ。

 

「なんなの…これ、ッツ!」

 

瞬間、脳が大きく揺さぶられる感覚に陥った。

それと同時に、霞の中に秘められていた大切なモノが戻ってくる。

ああ…。

 

「………ソウジ」

 

私の恋した人の名前が意図せず口から吐き出た。

 

「会いたい…」

 

けれど、あの時の錯乱した自分も、そして拒絶された記憶も鮮明に思い出してしまった。

時間が経った今でも胸の内側で苦しみがのたうちまわっている。

だけど、それは些細なことだ。

やっぱりどれだけ拒まれたとしても、私は挑戦し続ける。

私の取り柄はそれしかない。

 

「私、努力なら誰にも負けないから…」

 

「だから、憐みなんていらない…!」

 

軽く指に力を込めると錆びていた指輪は無残にも砕け、バラバラになった。

姉さんが憐憫をくれるのなら、私からは決意をあげる。

ソウジのこと、諦めないから。

痛みが、私の糧になっていつか必ず実を結ぶ。

私は傍らにあったリンゴを勢いよく齧る。

 

「やっぱり甘いね、姉さん…」

 

骨肉の争いという単語が頭に浮かんで思わず苦笑する。

 

「勝利宣言なんて、私が姉さんの立場なら絶対にしなかった」

 

エゴスティックな心をさらけ出した私は、もう何も恐れるものはない。

それを象徴するかのように、窓ガラスにうっすら映る私は酷薄な笑みを浮かべていた。

 

「だって、血を分けた姉よりも大切に想う人なのだから…情けをかけるなんて、ありえないでしょう?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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